2014年12月27日土曜日

勝手に参戦(笑)”父と娘のマジトーク” 世の中の仕事の9割はつまらない、か?!

 BusinessMedia誠さんの連載に「父と娘のマジトーク」なるものがあります。


 面白いですね。中山順司さんという方が書かれているのですが、中学生の娘とお父さんが、いろんなテーマについて”マジで”話すというもので、いろんな意味で着眼点が面白いです。


 これが父と息子のトークになると、全体にトヨタのBOXYのCMみたいな「男の夢とロマンとガキっぽさ」が詰まった話になるので、あえての娘さんというところがいいかんじです。



 さて、その連載に今回こんな話がテーマとして登場していました。




父と娘のマジトーク・クリスマス特別企画:
世の中の仕事の9割はつまらない?――中2の娘と4時間半激論してみた 

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1412/25/news049.html




 おお!なんだか私が先日まで書いていた「高校生のための人生の教科書」みたいだな、とまっ先に思いました。


 ヨシイエ的に考える「人生と仕事」観と、ナカヤマ家的に考える「人生と仕事」観。そこに共通点はあるのでしょうか?あるいは何か違いがあるのでしょうか?


 というわけで、今回はもういちど、「仕事」について考えてみたいと思います。


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1) 働くことはしんどいことか?!・・・「世の中の仕事の9割はつまらない?!」

 
 今回の中山親子の話における第一のテーマは、「大人が働いている姿はしんどそうだ」「仕事は基本つまらないものなのではないか」ということでした。


 中学生の娘さんから社会を見たときに、「仕事」を持つ大人の誰もが、どちらかというと「しんどそうに」仕事をしているように見えてしまいます。


 しかし、仕事をする人がすべて「つらそう」なのかといえばそうではありません。中にはいきいきと仕事を楽しんでいる人もいるし、「好きなこと」を仕事にできている幸せな人もいます。


 そうしたことを捉えなおした時に、中山親子は


「同じ仕事でも、その人の心次第で楽しいか辛いかは変わる」

「単純に『仕事とはしんどそうなものだ』とイメージしないほうがいい」


ということをひとつの結論としました。


 ・・・・・・さて、ヨシイエ的にはこのことをどう考えているのでしょうか?答えは簡単です。私の考え方は、「仕事」とはエサをゲットすることが本質であり、それが形を変えたものです。


 ということは、仕事の影には「飢えの苦しみと不安」が常につきまとっています。ですから、お腹がすいた状態でも、仕事を遂行しなければエサがゲットできないという意味での「辛さ」が本質的に内在しているわけで、その部分は認めなくてはいけません。

 仕事において「楽しい部分、いきいきとできる部分」のみで、それを遂行することは難しく、もちろん、そうではない「苦しい部分」は抱えているのが当然だと考えるわけです。


 では、仕事における「いきいきできる部分」とはなんでしょう。それは元々はエサをゲットする行為ですから、エサを入手して飢えの不安を払拭できる喜びや、仲間と協同してエサをゲットできたという達成の喜びなどがあります。個人的にであれ、共同体的にであれ、仕事は完遂できれば即喜びに変化します。それは生の喜びそのものなのです。


 仕事が面白い!と思えるということは、この「生のサイクルの確立」に他なりません。いくら仕事をしても、それが成果に繋がらなければ、どんなに好きな仕事でもそれを好きなままでいられることはありません。逆に、どんなに嫌だった仕事でも、達成の喜びで人は大きく受け止め方を変えることができのです。


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2) 新しい仕事が生まれ続ける、そんな未来がやってくること


 中山親子の会話で、もうひとつポイントになるのは、父の時代と娘の時代の「仕事」のあり方が変化するだろう、という予想予測についてです。

 これまでの人たちが知らないような仕事が生まれ、また無くなってゆく仕事もあります。

 また、クラウドファンディングのように、「やりたいこと」を掲げてそれに対してお金を集めることができるようなシステムも生まれていることを例示します。



 ・・・・・・ヨシイエの見解は、前半についてはまったくもって同意です。同じ話を「高校生のための人生の教科書」にも書いている通りです。

 ただし、まっ正面から反対意見を述べたいのは「クラウドファンディング」の部分です。

 ☆別にクラウドファンディングそのものを否定するのではありません。


 どこの部分にヨシイエがハテナを感じているかといえば、


「これこれこういうことをしたい!」と思い、それに対してお金が集まり、それを仕事にして遂行できる


という一連の流れは、これまでの「仕事観」に対しての新しい仕事観として提示しないほうがいいのではないか?ということです。


 なぜか?それは、「一部の能力がある人が、イノベーティブなアイデアを提案して、コミュニケーションを使って実現の方向へ努力する」ということは、特殊な形態であって、それを「一般の人が仕事として遂行できる」というような夢をみさせてはいけない、と考えるからです。


 ユーチューバーという新しい形態で稼いでいる人がいますが、それを一般の仕事として捉えるのは非常にマズイと思いませんか?


 デイトレードもそうです。パチプロなんかも広義にはそれに入るかもしれません。


 プロ野球選手という仕事があるぞ!と提案するのはいいけれど、「それはかなり一部の人たちの話だ」ということも理解しておく必要があるのと同じです。


 上記のような、有能な一部の人たちは革新的な仕事を生み出しますが、そこには「強烈な淘汰と競争」が待っています。その陰には何万もの屍があることも忘れてはいけません。

 「バンドマンやミュージシャンっていう生き方がこれからはあるんだぜ」なんてことを30年前なら自慢げに話せたかもしれませんが、今では「アホなことを考えるな」ですよね。それに似たところがあります。


 クラウドファンディングは、みかけは今風ですが、本質は「株式会社」による資本主義そのものです。ユーチューバーとて、本質は放送作家とタレントそのものなのです。単純に、新しい仕事観としてみるには、問題があると感じます。

 
 私は、個人的には「日々食べるための仕事」と「自分のやりたいこと」を両方追求する姿勢が好きです。具現化するには、一般の人にとっては「副業」や「趣味」という形になることが多いと思いますが、ある程度ルーチン化された「不安が少なく食べてゆけるシステム」に乗っかることは大事だと思っているのです。

 それを薦めているわけではなく、「能力があると誤解しているけれど、実はしょーもない人」でも、なんとか食べてゆくことが出来るシステムは、社会全体として幸せだと考えるからです。

 もし、そうでなければ、「夢見る夢子ちゃんたちが挫折した、踏まれたあとの屍たち」が食べられないことは社会的リスクになってしまうではありませんか。それはけして良い社会ではありません。



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3) 仕事をすれば、仕事をさせてもらえるようになる


 この部分は、もちろん同意です。とくに議論すべきことはないので軽くスルーしておきましょう。


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4) 学校で学ぶべきものは何か、=問題解決能力


 直接仕事の役に立たないことを、なぜ学校では勉強しなくてはいけないのかという大問題について、中山親子は


 問題解決能力


だと結論付けました。いわゆる教養主義のスタンスですが、もちろんヨシイエも同意します。


 ・・・・・・ただ、ひとつだけ補足しておくならば、



「学校で身につけるべき素養は問題解決能力だが、学校で学習することができるのは問題解決能力ではない」



というところが真のポイントです。


 意味わかりますか?簡単に言い換えましょう。


「問題解決能力を身に着けて学校を卒業することは大賛成だが、残念ながら学校で勉強しても問題解決能力は自動的には身に付かない」


というのが今の学校教育の究極の問題点だということです。


 従って、「高校生のための人生の教科書」では、学校で得られる知識を「これまでに誰かが発見してくれたことをパクらせてもらうための最小限リスト」と表現しました。


 これも実は「教養主義」そのものです。


 でもしかし、じゃあ、どうやったら「知識・教養」をベースにしてそこから「問題を解決する力」へと発展させることができるのか、という難問が残るわけですが、これについてはヨシイエは、


「それは、コミュニケーション能力を養うこと」


しかない!と力説します。最終的には、知識や技術は「人と人の世界」で扱われます。そして「人類の問題・課題の100%」は、結局は「人と人との問題・課題」に帰着してしまうのです。


 だから「コミュニケーション」(人と人がともに生きること)が重要になるわけです。



 くしくも、東日本大震災で明らかになったのは、原子力という科学技術そのものが問題なのではなく、それを人がどのように解釈し、運用したかが問題だったということでした。

(安全とは、人が勝手に想定しないことでした)


 ロケットとして科学を使うのも人であり、ミサイルとして科学を使うのも人なのです。

 
 銃は守るために撃つものですか?それとも、最初から争おうとしているのは銃ではなく人同士なのではないですか?


 そして逆に、人はコミュニケーションの手段(主に力関係の構築)のために科学技術を使うこともあります。(冷戦など)


 最後は、人と人とのコミュニケーションを問い直すこと以外には、この世界を救う方法はないのです。



 


資本主義の行き着く先は、「漠然と不安で、かつ、つまんねえ社会」である

大前研一さんが、日本経済の根本的な問題は、「低欲望社会にある」ということをおっしゃったそうで、


 http://www.news-postseven.com/archives/20141225_294042.html



ちょっと興味深かったので、一言書いてみる気になりました。

 大前さんの言うところの「低欲望」とは、まとめるとこういうことです。


① 個人は1600兆円の金融資産、企業は320兆円の内部留保を持っているのに、それを全く使おうとしない

② 貸出金利が1%を下回っても借りる人がいない。史上最低の1.56%の35年固定金利でも住宅ローンを申請する人が増えていない


 これは、今までに世界に例がなく、未だかつて経験したことのない「世界観」である、というわけです。


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 これとはまったく別の話で、今朝の関西では6チャンネルABCでちょこっと話に出ていたのですが、

 若者は選挙にいかず、かつ現状にあまり不満を持っていない。満足感が高い。


ということが取り上げられていました。


 この話は、すでに少し前から議論になっていて、橘玲さんのブログなんかがわかりやすいのですが、


http://www.tachibana-akira.com/2011/11/3431


 元ネタは社会学者・古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』あたりにあります。


 まとめると、橘さんと古市さんの視点では、


「現代の若者は、もうこれ以上幸せになれそうにないので、『まあ、こんなもんだ』と幸福度が上がっているのだ」


ということになります。


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 ところが、実際に現在の日本の若者がおかれている状況は、給料が低かったり、高い年金や社会保障が望めなかったり、家族を持つ希望がもてなかったり、と実は老人たちが生きた時代と比べても散々な状況です。それでいて満足感があるというのは、ちょっと不思議な気もするわけで。


 しかしながら、この二つの話は、たしかに「欲望がない」日本人の実態を明に暗に示しているようで、興味深いことは確かです。


 ということで、このことを今日は私なりに考えてみたいと思います。


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<1> 実は限界に達している『モノ』のイノベーション ~物欲の終焉~

 もうずいぶんと前から、私は現代社会の「モノ」のイノベーションは終わった、と感じています。産業革命以来、どんどんと新しい革新的なデバイスが登場しました。蒸気機関からモーター、エンジンの時代。馬車から自動車の時代、薪から石炭を経て、石油、太陽光などなど。

 モノは現代に向かって、驚きの進化を遂げてきたのに、ではこれから先、どこまで進化するのかと言われればかなりハテナが付くのです。

 極端な話、1970年代に、科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図と、2000年代に科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図を比較してみたら、きっとまったくそこは進歩進化していないということに気付くでしょう。

 つまり、私たちはきっと未来永劫、「空飛ぶ自家用車」を持つことはなさそうだし、ドラえもんは、いつまでたってもできそうにないし、宇宙への旅は、いまだに月で止まったまま予算不足を迎えそうだし、・・・といった、「モノの進化の限界点」が近づいていることに気付きはじめているわけです。


 もう少し、身近なもので考えれば、音楽プレーヤは、カセットからCDになりMDを経てipodになったものの、「音楽を楽しむ」という体験はほとんど全く進歩しておらず、ただ器が今風になっただけで、できることが革新されているわけではありません。

 テレビなんかも良い例で、モノクロからカラーになり、せいぜいハイビジョンになれば、もうその後は、スーパーハイビジョンでもウルトラハイビジョンでも、4Kでも8Kでも16Kでも、「映像を楽しむ」という体験をそれ以上超えさせてくれないことに気付いてしまったのです。


 iphoneやipadが凄い!と思うのは一瞬です。ザウルスとpalmを知っている人からみれば、革新の速度が止まりつつあることは明白なのです。それが眼鏡になろうが、時計になろうが同じです。

 PC-9801を触り、ダイナブックを触り、リブレットを持っていた者からすれば、コンピュータのイノベーションなんて、先が見えていると言わざるを得ません。


 ・・・とすれば、いつの時代にどんなデバイスが登場しようが、「できること」というのがそれほど増えるわけではないということが真実だということになります。

 スマートフォンで時間をパズドラをして時間をつぶすのが今風だとしても、ゲームボーイを持ち歩いていた古代人と何が本質的に違うのか、と言われれば、はいその通り、何も変わっちゃいないのです。



<2> 経済大国の行く末、お金があるというのはどういうことだったのか。

 幸いなことに、日本は経済大国を体験し、総中流社会なるものを経験することができました。これは言い換えれば、「世界の中でお金持ちになる経験をした」ということです。


 初任給月収3万円だった私の父は、最後には40万とか50万になったという時代を経験したのです。


 高度経済成長と、バブルは、日本経済は上り調子でした。そしてその後、バブル崩壊と長期デフレがやってくるのですが、実はこの2つは正反対のように見えて、私たちにある一つの同じ体験をもたらしました。


 それは、「モノは、いつでもどこにでもあり、かつそれは買える」ということです。

 経済成長により、日本人はいろんなものを買えるようになりました。三種の神器と呼ばれた、冷蔵庫・洗濯機・テレビをはじめ、エアコンも車も買えるようになったのです。

 マイホームを手にした人もいれば賃貸の人もいるでしょうが、快適で風呂のついた住まいに住めるようになりました。


 これは、実は金額的な成長が止まったバブル崩壊~リーマンショック後も、実体験としてはそのまま続いたのです。


 質のよいユニクロの衣服が安く買えるということは、お金をたくさん保有しているのと実は同じです。PBブランドのコーラが30円で買えたりするのも同じです。120円のコーラが3本買えるお金を持っているのと「体験」の上ではまったく同じだからです。


 というわけで、派遣社員でもiphoneやスマホは持てるし、使うか使わないかは別にしても、アパートにエアコンくらいはついていたり、テレビはみんな持っていたりする、そういう「モノはすでにそこらへんにある」という状態が生み出されるようになりました。


 なので、レクサスを望むと高いけれど、ダイハツでよければ買えるじゃんという体験を日本人は重ねてゆくことになります。高かろうが安かろうが、タイヤは4つどちらもついていて、どちらでも移動できる、という意味で、体験はすべての人に平等に降り注ぐようになったわけです。


 だから「金の糸で織った服と綿の糸で織った服のどちらが欲しいですか?」と尋ねられたら、「どっちでもええわ。ていうか、綿でいいよ綿で」という時代が来たのです。レクサスは、別にいらないし、ダイハツでいいじゃん、ということです。(もっといえば、ソニーじゃなくても、中華TVでいいやとか、喫茶店へ行かなくてもローソン珈琲で十分とか、すべてがそうなっています)


 そして、ついでに言えば、”高価なものと安価なものがあり、そこにこだわらなければ「同じ体験ができる」社会”というのは、面白いことに先進国の特権ではなくなりつつあります。

 
 たとえば、スマートフォンでも、先進国向けと途上国向けにランクは変えているものの、「スマートフォントを使う体験」は同じように提供されつつあるのです。


 アフリカで未開社会のように見えるのに携帯は持ってるとか、貧しいけれど中古のランクルはそこらじゅうを走り回っているとか、そういうことは世界中で起きています。




<3> 資本主義の最後の姿、「つまんねえ」社会がやってくる。


 こうして、「新しい体験を得るような革新的デバイス」は限界に近づき、かつ「高い安いは別にして、同じような体験ができるモノ」が溢れている社会が資本主義経済の最終形態だとすれば、この世界はどうなるのか。それは簡単で単純明快です。


 ・・・つまんねえ社会


しかありません。ワクワクするようなデバイスはどんどん減り、どんな家電やハイテク機器をみても驚かなくなり、むしろそれが当たり前になり、逆に経済がピークから下降することで、少しずつ不便になってゆくことも多い社会は、つまんねえ以外に何があるでしょうか。


 電車の本数が減り、バスが無くなり、公共サービスは低下します。そういう意味では、「漠然とした不安」はさらに進行し、「未来はきっと、良くならないだろうなあ」という気持ちをベースにしながら、「ワクワクを失う」のは、ある意味悲しい社会の末路です。


 3丁目の夕日ではないですが「何もなかったけれど、未来に希望がありそうだった」日々は、すでに折り返してしまった、ということです。



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 この「つまんねえ」社会を実感することで、その先何が起こるのかはわかりません。ネットではウヨク的な言説も増えているようですが、

「やれー!いけー!そりゃー!」

といった帝国主義的戦争へも、行かなさそうな気もします。だって、めんどくせえから。


「オラも列強のように強くなりてえ」

というモチベーションで日本は富国強兵にいそしんだのですが、経済大国を経験してしまえばなんてことはありません。


(ちなみに、今猛烈に強くなりてえオーラを放っている国が近くにありますね。かつてのどこかのようです。)



 個人的には、アメリカの自動車メーカーのGMがなぜ潰れたのかにヒントがありそうです。GMは資本主義の権化のような会社ですが、そうして富を手に入れてゆくと、従業員の福利厚生にエネルギーを投入するようになり、まるで「社会主義」のような構図で社員が守られるようになっていったといいます。


 社会主義(共産主義)は、ごらんのように資本主義化し、資本主義は社会主義化するというのは、けっこう笑えます。


 日本は物が溢れ、誰でも通話が定額になったりする平等社会主義国家です(笑)


 その先は、滅亡くらいしかないのかもしれませんね。



 







2014年12月20日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書31】 あとがきにかえて ~人生を見つめなおす方法~

 全5章、31節に渡る比較的長めの連載「高校生のための”人生”の教科書」を取り急ぎ書き終えて、ちょっと肩の荷が下りたような気持ちになっています。


(もしかしたら、随時多少の手直しを加えるかもしれません。ご了承ください)


 この教科書は、一見高校生向けという体裁を取りながら、実はすべての青年と壮年、あるいは老人に向けて書いている一種の寓話のようなものになっています。

 情報化社会と言いながら、あるいは成熟したはずの先進国だと思いながら、その実惑わされ、迷わされることの多い現代の日本社会を、私なりに一度きちんと見つめ直したい、ということを実験的にまとめてみたのがこのシリーズだったわけです。



 私はまだ40代ですが、ちょうど人生折り返し地点を迎えた中で、「自分の父親の人生はどうだったのだろう」とか、あるいは「自分は残された人生をどう生きるべきだろう」といった気持ちを抱くようになりました。

 そこで、そこから逆算して「高校生」のとき、人生のいろいろな要素を知っていたらどうしていただろうかという妄想も交えながら、このお話を書こうと考えたわけです。



 日本という国は、世界の中ではかなり稀有で恵まれた国であることは、みなさんもよくご存知のことと思います。しかし同時に、この国に対しての溢れんばかりの不安も渦巻いているわけで、そのギャップの中でも私たちは右往左往しているように思えます。

 
 その答え、この国のありようの答えと、ひいてはそこに生きる私たちの「生きることそのもの」のベースをどこに求めればよいのか、というのはずっと個人的にも謎でした。


 最終章で触れたように、宗教的感覚からそれを紐解くこともできるでしょうし、実際欧米の社会はそうなっており、また近年はイスラム教の存在感とともに、それが再度問い直されている実態もあると思います。


 しかし、日本人はさすがに宗教観からものごとを把握することは苦手なようです。地縁・血縁は薄れ、お葬式も挙げず、結婚もせず、子供も作らず何がしかの物質的幸せを求めて、それも手に入れないまま滅びてゆく、それがこれからの日本人だとすれば、これはたいへんなことに相違ありません。



 そうした「漠然とした不安感ともやもや」の中で、この話を書くヒントになったのは、実は「戦国時代を調べること」でした。


 私たちの苗字というのは、一般的には明治時代から名乗ることを許されましたが、実は戦国時代にその大半が成立しています。戦国時代は、それまでの朝廷の権威が崩壊し、おのおのが実力で下克上を成し遂げようとする大きなうねりでした。

 そこで、自ら他と区別する苗字を名乗って、武将たちは活動するようになったわけです。

 重要なポイントは苗字だけではありませんでした。戦国時代に、武将たちは「土地」を手に入れます。


 これまで朝廷のものだった「土地」あるいは、寺社の荘園のものだった「土地」が、戦国時代に「誰かが実力で手に入れ、そこを支配するようになる」ことが大きなポイントでした。


 江戸時代に、それらのすべての土地はまるで徳川家のものになったかのように思われていますが、実際には、戦国時代に土地を手に入れた武将は、その地に根ざして「帰農(農民に戻る)」し、庄屋や長百姓として明治維新まで支配します。


 その頃武士は、領地として土地を支配しているように見えましたが、実際には5公5民でも4公6民でもいいですが、「土地は土地持ち百姓のもので、そこから上がる米のうち一定比率が上納された」のが実態だったわけです。


 つまり、戦国時代に土地をゲットし、食料をゲットした一団は、明治維新までその土地を維持しつづけたわけで、もっと言えば、その土地は現代でも「農家」のもの、「実家のおじいちゃんのもの」といった形で存在していることに気付かされたわけです。


 そうです。私たちの「生き方」は実は戦国時代からずっと変わっていなかったり、その影響下にあることに気付いた時、ここ数十年の「戦後日本」の姿や「先進国日本」の姿をその根底から問い直せるのではないか、と考えるに至ったわけです。


 その一連の物語を、生活における「環境」「仕事」「結婚」「よりどころ」などのいくつかの側面から組み立て直したのがこの教科書なのでした。


 究極的には、私個人も戦国時代を生き延びた先祖のおかげで今ここにいると気付いた時、かなり人生観が変わったように思います。

 ちなみに、調査の結果、私の苗字は(もちろん本名の苗字ですが)、最も古い記録で延元元年(1336)ごろ、南北朝時代から始まっているということがわかり、自分の一族がそんな遥か昔から生き延びることを続けてきたのだと思うと愕然としたわけです。


 そうした観点から書いたこの教科書は、ある意味では「真の保守」主義にまみれているようにも感じます。しかし、私自身は、こうした考え方を「右傾化」しているとは全く思っていません。


 むしろ、日本人の中に漠然と漂う「農村的保守主義」のイメージの源泉がどこかを明らかにすることで、その影響からなかなか逃れられない中で「では、どう未来に対して生き延びてゆくのか」を問い直して欲しいと考えています。


 最初の章で「土地があるかないかで人生は大きく変わる」ということを示したのは、まさにそのあたりを考えてほしいからでした。


 最終章でも、ふたたび日本的感覚の源泉に触れましたが、逃れられない呪縛であるのなら、それを軸足にしてでも両足でしっかり立って欲しいという気持ちもあります。


 日本は島国ですから、究極的な意味での国境無きグローバル化に耐えうる一団かどうかは、まだまだ未知数です。そこで悶々として悩み苦しみ滅亡するくらいなら、あえて軸足をそこに置くのもまたよかろう、とも考えています。


 全体のテイストとして、「生きることはエサを食べることだ」という定義づけをしています。しかし、エサがこれからどこにあるのかについては、全く触れないようにしています。


 国内にエサが無くなってしまうかもしれません。では、どこへ行くのか?は、それこそ未来を生きる者たちが自力で考えなくてはいけないことです。


 そこではじめて、また「土地の呪縛」から卒業することが生じるかもしれません。


 教科書として、伝達すべきことはただ一点でした。それは「生きろ」ということに尽きます。そのための方法や正解は、世界中どこの教科書にも書いていないのです。


 どう生きるか、いかに生きるかは、最終的には人類の究極の課題なのですから。


2014年12月19日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書30】 人生とは何か

 この教科書の第一章では、あなたがこの世界に生まれてきたことは、とても稀有なことで、あなたに関わるすべてのご先祖様が、なぜか「全員、生き延びることに成功した」からあなたが今ここに生きているのだ、ということをお伝えしたと思います。


 その意味では、人の人生というものは「その人のスパン」で考えると幸せであったとか、充実していたとか、あるいは逆に苦労の連続だったとか不幸だったといった波はありますが、先祖とあなたと子孫という大きな連続の中で考えると、結局は


 「生き延びたか、どこかで滅亡したか」


の2つしかないことにだんだん気付いてゆくことになるわけです。


 もちろん、滅亡したらその時点でジ・エンドです。しかし、長男なのか次男なのか、あるいは女の子の側で継いでゆくのかはわかりませんが、家系とDNAは「子孫」という形で次世代へと受け継いでゆくのが


「人類の大きな生き方」


だと言わずにはいられないのです。



 結果として、今あなたにどんな苦しみがあったり、どんな試練があったとしても、実はあなたは「ご先祖様から生き延びてきた貴重な子孫の1人であって、滅亡から逃れて繋いできた命のリレーの末裔なのだ、ということを知っておいてほしいと思います。


 そしてまた、あなたの使命がもしあるとするならば、あなたが伝えられた命のリレーを次の世代に繋ぐことだと言えるかもしれません。


 「自分は子供なんてどうでもいい、自分が幸せであればそれでいい」


と今は思うかもしれません。しかし、そういった考えの持ち主は、神様の目線から見れば、


「残念だが、その考え方だと最終的には君の一族は滅亡させるしかないなあ」


ということになるわけです。


 一族の滅亡!生きてきた証が途絶えること!後には何も残らない!それはちょっと恐ろしいことでもありますね。




 もし、あなたが大工さんであれば、法隆寺のような後世に残る建築物を遺して死んでゆくことができるかもしれません。また、あなたが何か新しい発見や発明をするのであれば、それは次の世代へと受け継がれるかもしれません。


 エジソンとか、本田宗一郎とか、リンカーンとか西郷隆盛とか、「何か大きなことをして、名前を残そう」と考える人もいるでしょう。


 しかし、建築物などの作られたものはいずれ消えてなくなる運命にあります。何千年持つかもしれませんが、何万年は持ちません。


 偉人としての名前も、数百年は持ちこたえますが、数千年は厳しいでしょう。ヤマトタケルなんて人がいたとされていますが、ほとんどみなさんにとっては「いたかいないかわからない神話レベルの人」ということになります。名前を残しても、いつかは忘れ去られます。


 つまり、何かを残すということは、究極的には難しいことなのです。



 ところが、あなたには何千年前の先祖が確実に存在しています。何万年前の先祖も確実に存在しています。何億年前でもそうです。さすがに、それくらい前になると人の姿をしていたかどうかは怪しくなってきますが。




 そうなのです。子孫を残すということは、ほとんどすべての人に公平に与えられた「何かを未来に残す」ためのそれほど難しくない方法だということになります。


 少なくとも、偉人伝に載るような人物になるよりかは、父親や母親になるほうがはるかに簡単なことだと思います。


 もちろん、こどもに恵まれない人もいるので、それが人生のすべてだとは言いません。しかし、人生のうちの大きなウエイトを占めている大切なことだ、ということも忘れてはいけません。


 悲しいことですが、こどもに恵まれない人は、「子孫滅亡の運命の下にある」ということも、ある意味では事実ですから、その分しっかりと自分の人生を生きてほしいと私は思います。

 

 
 さて、これまでの歴史を振り返ってください。飢饉もありました。戦争もありました。苦しみや悲しみはたくさんあったけれど、あなたの先祖たちはなんとか頑張って生き延びてきました。

 あなたはその子孫ですから、極めて少ない生存のチャンスをかいくぐってきた「運と実力を兼ね備えた」者であるはずです。

 あなたの先祖たちは、あなたを応援し、生かすために生き延びてきたわけです。あなたが生きていることそのものが、あなたに力強い味方が存在したことの証です。


 あなたの先祖がどこかで諦めていたり、放り出したり、逃げ出したりしたなら、あなたは生まれていません。

 あなたは数百年前に飢え死にして命のリレーを終えていたことでしょう。

 あなたは数十年前に戦争で命を奪われていたことでしょう。

 あなたは数千年前の災害で、滅亡していたことでしょう。


 しかし、実際にはそうではなく、あなたは生き延びてきたからこそここに存在しているのです。


 だから、あなたは「諦めたり、逃げ出したりしてはいけない」のです。もちろん、常に戦うことを薦めているのではありません。あえて言いますが、どんな手を使ってでも



「生き延びて」



ほしいのです。


 そして、あなた自身とあなたの未来の「滅亡」を防ぎましょう。


 あなたの名前を子孫は忘れてしまうかもしれません。でも、DNAにはちゃんと刻まれて永遠に残ってゆくのです。

 先祖の名前をあなたは知らないと思います。でも、あなたの中にDNAとしてちゃんと刻まれていることも事実です。


 こうした事実をあなたの心の軸足として、こころのベースとして生きてほしいなあ、と私は思います。


 これだけは、どんな宗教や神様や、どんな思想や政治にも惑わされない事実だからです。




2014年12月18日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書29】 何を信じて生きてゆくのか

 前回の続きですが、日本人はおおむね「どこかで神様やご先祖様が見ている」といった漠然とした宗教観を持って生きていることが多い、というお話でした。


 ところが、それは「信仰」「宗教」と呼べるほどの強い感覚ではないので、困ったことや辛いことに遭遇した時に、そうした宗教観を持って「理屈で納得したり、自分を励ましたりできない」という問題点を持っていることもお話しました。


 では、私たちは「何を信じて生きてゆけばいいの」でしょう。


 日本人は古い時代には「神道」や「仏教」を心から信仰して生きてきた時代もあります。時には「キリシタン」の信仰を持った人もあります。

 ところが、今更現代人に「オオクニヌシ」を信じましょうとか「仏教に戻りましょう」とか言っても、それはナンセンスだと思います。

 もとの話ではないですが「だから僕たち私たちは無神論ですってば」と話は堂々巡りになってしまうに違いありません。




 そこで、この教科書では、全く新しい「心の軸足・こころのベース」を提案してみたいと思います。いやいや、何も新しい宗教をはじめるからそれを信じなさい!と言ったりするわけではありません。


 もう少し、みなさんの心に届くような、みなさんの元々もっている「神様のような何かを漠然と思う心」を大切にするような方法で考えてみることにします。




 日本人固有の信仰である「神道」というのは、本来「ご先祖さま」を信仰するものです。ですので、神道では「どうやってこの国が生まれたのか」とか、そういう話から始まります。


 興味がある人は日本神話に関する本を読んでもらえばいいので、ここでは割愛しますが、日本人は「先に亡くなった先祖を大事にする」気持ちを本来持っている民族だと言えるでしょう。


 現在、天皇という存在が日本で重要視されるのは、天皇の祖先が「アマテラスオオミカミ」であり、神様の子孫であるという理屈があるからです。


 ですが、日本において神様は何も「特殊な、一部の人だけがなれる」ものではありません。あなたが今想像する「天にいるっぽいご先祖さま」もすでに神様みたいな存在として認識されているように、平安時代で言えば菅原道真は「天満宮」として神様になっていますし、徳川家康も「東照宮」になっているように、



 誰でも神様



になれる民族だったりします。


 だから天皇の先祖が神様であることは特別なことではありません。あなたの先祖もたぶんどこか天の上のほうで神様になっているわけですから、あなただって神様の子孫なのです。


 つまり、日本人の「神」意識は、そういう「誰もが神性を持っている」というところにあるわけです。


 これを仏教っぽくいえば、亡くなった人は「ホトケさま」になるわけですね。基本はおなじ理屈です。


 そういう意味では、日本的な神様の概念は「先祖崇拝」とか「亡くなった人への思い」が基本になっていることがわかります。


 それはつまり



 わたしたちがこの世界に生まれてきたのは、お父さんお母さんのおかげ


 そして、そのまたおとうさんの、おかあさんの、そのまたおとうさんの、おかあさんの・・・・



という考え方の集合体である、ということなのです。


 これは、基本的にはすべての人類の「軸足・心の支え・ベース」になってもおかしくない事実ですね。


 ちなみに、実の父母と上手くいっていない家族に生まれた子供もいることでしょう。しかし、今のお父さん、お母さんとは問題があっても、そのまたおとうさんとか、その先のおじいちゃんや、ひいおじいちゃんまでが、あなたのことを悪く思っていると思いますか?


 きっとそんなことはありません。基本的にご先祖というものは子孫が生まれることを喜びとしている、と考えるのも私たちの民族的な感覚だと思います。


 そういう意味では、「憎まれながら生まれてきた子孫」なんてものは存在しないのです。五穀豊穣・子孫繁栄は、日本の社会においては、



 最も良いこと



とされてきたのです。


(つづく)





2014年12月17日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書28】 第六章 あなたという存在が輝くために

 長々と書いてきた「高校生のための人生の教科書」の最後の章として、これからの世界であなたが


 しっかり、生き生きと、輝きながら生きてゆく



ためのヒントをまとめてみようと思います。


 まず、そのために大事なことをお話しましょう。



「あなたは神を信じますか?」



・・・まるで宣教師に声を掛けられた時の「コント」みたいなセリフですが、実は大事なことなので、一度ゆっくり考えてみてください。


 あなたは、神様を信じているでしょうか?




 日本人はとても変わった宗教観を持っている人種です。


 年の初めには神社に初詣にいきます。日本の神道の神を信仰しているような気がしますね。

 結婚式は教会で挙げたいカップルが多いことでしょう。クリスマスも大好きです。きっとキリストのことを信じているのでしょうね。

 お葬式は仏教です。お経を上げてもらわないと、成仏できなさそうです。熱心な仏教徒なのでしょう。




 しかし、これらの行事を実際に体験しているみなさんは、「あなたは神様を信じていますか?」といえば、


「いえ、僕は私は神を信じていません」

とか

「無神論者です」

と多くの人が答えるのではないでしょうか。




 ところが、「あなたは落ちていた千円札をどうしますか?」と尋ねると、大半の人が「警察に届けます」と答えることでしょう。


 じゃあ、なぜ警察に届けるのですか?法律で決まっているから?つかまりたくないから?


 いいえ、ほとんどの人はそんな風には考えません。正しいことをしないと、


「何か、神様のような存在が見ているような気がするから」


と答えるのです。


 カンニングをしない理由も同じです。「カンニングがバレる確率と、実行して上がる正解率を分析した結果リスクが高いと判断する」人はたぶん皆無です。

 ほとんどの人は、


「そういうことをするのは良くない。そんなことをしたらバチが当たるかもしれない」


と考えるのです。バチを与えるのは、先生ではありませんよね?そう、


「何か神様のような存在が、私にバチを与えるかもしれない」


と思っているわけです。




 こうしたことから、日本人は極めて高い確率で「有神論者」であると言われることがあります。


 ただ、その信仰している”神様”というのがどこの誰なのかが「あまりにも漠然としている」わけです。


 エホバの神を信仰している。アラーの神を信仰している。アフラ・マズダ神を信仰している。アマテラスオオミカミを信仰している。釈迦を信仰している。


といった具体的な神ではなく、「どこか遠い天の上のほうにいるっぽい、なんかよくわからないけれど私たちを見ている神様」とか「どこか空の星のあたりで、私たちを見守っているご先祖さま(名前とかはよく知らないけれど)」が存在していて、その神のような存在に守られたり叱られたりしながら、生きているというわけです。



 さて、欧米の人たちは、キリスト教徒が多いので、生きていく時の基本的なルールや規範をキリスト教の教えに基づいて行動することが多いように思います。


 弱者には施しをしよう、とか家族や友だちを愛することを重視しよう、とかそういう行動原理が働いています。


 アラブの人たちはイスラム教徒が多く、イスラム教で決められた戒律に従って生きることを重視します。

 決められた時間には礼拝をしよう、とか、教えに反する食べ物は食べないようにしようなどですね。


 


 では、私たち日本人はどのように生きてゆくべきでしょうか?先ほど例を挙げて考えたような「天の上にいる神や、ご先祖様」が怒らないような行動規範を、実は常に心のどこかに置きながら行動していることがあります。


 嘘をつかない。困っている人は助ける。感謝の気持ちを表す。友だちと仲良くする。みんなで分け合う。などなど。


 こうした良い面をたくさんもっているので、概ね日本人は穏和で争いを好まない生活を営んでいるのですが、実際には生きているうちには様々な問題に突き当たるため、そのとき



「自分の心のよりどころや生きていくための指針」


に迷い、苦しむことになるわけです。


 

 では、諸外国の人は、困難に出会ったときはどのように考えるのでしょうか?


 たとえば、キリスト教の人は「ああ、あの人は最後の審判で地獄に落ちるんだ。かわいそうに」と思いながら自分を納得させたり、「これは神が私に試練を与えてるのだから、頑張って乗り越えよう」と考えて立ち向かったりします。


 イスラム教徒は、「異教の者たちは神によって滅ぼされるのだから、自分はそうならないようにもっと頑張ろう」と考えたり、「もっと神に信仰を誓って、よりよき成果を得たい」と考えることもあるかもしれません。


 仏教徒は、「悪人は輪廻転生して畜生に生まれ変わるので、残念だけれども仕方ない」とか、「これは自分にまつわる縁=因果なのだから、乗り越えなくては」とかそういう見方をするかもしれません。


 いずれにしても、明確な宗教観を持つということは、悩みや苦しみに対して「何か、理論づけられた解決法や受け止め方を身に着けている」ということでもあるわけです。


 これは「事実・真実がどうか」という問題ではありません。


 本当に地獄があるのか、とか、輪廻があるのかとか、異教だと滅ぼされるのかとか、どれが真実かが問題なのではなく、宗教があることによって、


「生きている上での問題に、立ち向かったり解決する軸足・ベースがある」


という良い面がうまれているということなのです。





 日本人は残念なことに、この意味での「軸足・ベース」がとても弱いため、現代を代表する病である「うつ病」や「自殺」などが蔓延することになってしまうのです。


 では、せっかく「日本人らしい宗教観(神の存在)」があるのに、問題や困難に立ち向かう軸足がないのはもったいないと思いませんか?


 そこで、次はその点に注目しながらお話を進めたいと思います。



2014年12月16日火曜日

【高校生のための”人生”の教科書27】 お金の正体

 現代に生きる私たちが、何のために働き、何のために仕事をするのか、といえば、それは短絡的には


お金のため


と言う事ができます。お金を稼がなくては、生きてはいけません。お金がないと衣食住の手当てができません。お金がないと暮らしていけないからです。


 しかし、それをもういちど根本的に突き詰めてゆくと、お金というのは最終的にはやはり「エサ」というものに還元することができます。


 お金とは、究極的には、エサの変化した形である


ということでもあります。


 この章の最初に、仕事をするということはエサをゲットすることに他ならないという話をしましたが、「お金」もエサの変化形に過ぎないことを覚えておいて損はないと思います。


 その最も重要なポイントは、「エサもお金も、死んだらあの世へは持って行けない」ということではないでしょうか。


 エサとお金は、本来同じものですから、「生きているためには必要ですが、死んだら不必要」なものであるところが共通しています。

 そして、「できるだけ貯めておいたほうが、豊かに暮らすことができる」という面でも、エサとお金は共通しています。




 明治維新までの日本では、エサは本当にお金と同一のものでした。

 お米がどれだけ取れるか、ということを石高といいましたが、武士の給料の値段は「石高」で決められていました。加賀百万石なんてことばが残っていますが、加賀という地方・加賀という藩では1000万石の米が取れるので、それだけ食料と財政が豊かだったということを示しているわけです。


 江戸時代の武士は、領地から取れた米や領民から納められた米を商人に渡して「米からお金に両替」してもらってお金を使っていたくらいです。

 それほどまでに、米はすなわちお金だったのです。



 この「高校生のための人生の教科書」の一番はじめの章で、なぜ



 土地を持っているかいないかが人生を大きく左右する


なんて話を書いたのかと言えば、太古の昔、弥生時代からずっと日本人は「土地で米を作ってそれを食べて暮らしたり、それを貨幣として使ったり」してきたからです。


 土地を持っている=米を作ることができる=お金を生産できる


というサイクルが、延々と何千年も繰り返されてきたのです。私たちはその末裔なので、まだ「実家の土地がある」とか「おじいさんが米を作っている」とか、そういう



 土地と米とお金


の呪縛を受けて生活していることを理解すべきです。





 ところが、イギリスの産業革命以来、「食料を中心とした経済」から、いわゆる本物の「お金やサービスを中心とした経済」へと経済は変化してきました。


 現代人の大半は、「お米を作ることがお金になる」というということよりも「コンビニやファーストフードで働けばお金をもらえる」ということに関心が行くようになったわけです。


 しかし、それは日本の歴史でいえば、たったここ40年とか50年くらいのことで、戦後すぐの60年前にはまだまだ食料を作って食べることのほうが重要だったということも忘れてはなりません。


 では、これからの40年後とか50年後とか60年後には、世界はどうなっているのでしょう。


 あなたが今なりたいと思っている職業が残っているかどうかも、実はまったく定かではないのです。


 あなたはどんな仕事をして、どんな職業につきたいと思っていますか?


 昔はバスの車掌さんという職業がありましたが、もうありません。トラック運転手には助手という人が一緒に乗っていましたが、今はもうありません。(助手席という言葉だけが残っていますね)



 工場で働くイメージを持っている人がいるかもしれませんが、工場はほとんどすべてアジアやアフリカの別の地域に移動しているかもしれません。


 サラリーマンになると思っている人がたくさんいるでしょうが、サラリーマンはみな毎年更新の契約者になっているかもしれません。


 職人になろうと考えている人は、たいていの製造現場はロボットに置き換わっているか、外国人が担当しているかもしれません。


 セリーグは残っているけれどパリーグは無くなったとか、そういうことだってありえます。実際、私が小さい時には「阪急ブレーブス」や「南海ホークス」があったのですが、なくなりました。




 そろそろまとめに入りましょう。つまり、簡単に言えば「仕事をする」ということは、その時代、その時に必要な何かを人間の手で作り出すことではあるのですが、その形は一定ではないということです。

 なので、仕事の形やスタイル、職業名にこだわるのではなく、「エサをゲットして生きる。生き延びる」ということにきちんと軸足を置いて生き抜いてほしいのです。


 仕事をするということは、どうやってエサをゲットして生き延びるかということに他なりません。それは遥か昔から何も変わっていないのです。


 もうひとつ忘れてはいけないことがあります。


 それは、「何かをしたらお金が自動的にもらえる」ということは、実は当たり前ではないということを知っておきましょう。

 バイトをしたら給料が出るとか、就職したらお金が手に入るとか、そういうことは自動で起きているわけではありません。


 もともとエサですから「みんなでエサを取る行動に関わって、エサが取れたら解体してみんなで分ける」ということが給料の本来の仕組みです。


 ですから、あなたの仕事によって、どこかからエサをたくさんゲットできているかどうかを考えておかなくてはならないのです。


 あなたが言われたとおり「あんなものとかこんなものを作っていた」としても、それがどこかで誰かに売れていなければ、あなたはいつかクビを宣告されます。


 あなたがたとえ莫大な商品を売りさばいたとしても、どこかで誰かがそれを作っているので、その人たちとお金を分け合わなくてはいけないのです。


 お給料とは、エサの分け前のことだったのです。あなた1人の努力で得られるものではありません。


 

2014年12月13日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書26】 努力は報われない、しかし・・・。

 仕事をはじめる、社会人になるということと、「学生である」ということの一番大きな違いは、


「学生の間は、努力は必ず報われるが、社会人になると、努力の大半は報われない」


ということに尽きるでしょう。


 これは、理解できそうでなかなか理解できない難しいテーマでもあります。しかし、このことを理解していないとあなたの人生を大きく踏み誤ることが生じかねないので、心を鬼にしてお話しようと思います。


 学生時代において、それが小学校でも中学でも高校でも、あるいは大学でも、


「努力したことが報われない」


ということはあまり存在しません。


 勉強で言えば、自分で学習したことは時間をかけた分だけ成績となって返ってきます。部活動においても、必死で取り組んだことは、かならず「変化」として目に見えます。

(たとえレギュラーが取れなくても、たとえ試合で相手に負けても、あなたが以前よりもかならず上達し、あなたが向上していることだけはアホでも体感できるはずです)


 ところが、社会に出ると「あなたの責任とは無関係」なところで、あなたに関係のある問題や事件が生じる、ことが多々あります。


 平たく言えば「あなたが頑張っても、あなたと無関係なところで邪魔が入ったり、結果的に成果がダメになる」ことがたくさん起こるのです。




 たとえばどんなことが考えられるでしょう。あなたが一生懸命働いている店舗であっても、たまたま偶然付近にライバルが店を出せば、物理的に売上げは半分になります。取り戻そうと一生懸命戦っても、うまくいって「元の売上げに戻る」だけです。

 仮にあなたの給料が業績に連動していたら、あなたは何も悪くないのに給料が半分になり、あなたは頑張ってもやっともとの給料に戻るだけ、ということになります。



 あなたが必死にモノを売り、値下げしてたくさん買ってもらう努力をしても、円高やら円安やらに左右されてあなたの努力したくらいの価格はすぐにふっとんでしまいます。



 あなたがすごく頑張って技術を身に着けて、会社一の技能者として認められても、元請が中国に製品作りを依頼してしまったせいで、あなたの工場は閉鎖になったりします。




 かなり残酷な話ですが、そうしたことが日々平気で起きるのが社会人の生活だというわけです。あなたの技能が向上し、あなたの努力が積み重なっても、それが給料に反映されなかったり、業績として認められないことは多々起こりえます。よって、一般的には


「社会においては、努力は報われるとは限らず、報われないことも多々ある」


ということをベースに持っておく必要があるのです。



 これを理解していないと、あなたは「自分が不遇なのは会社が悪いからだ」とか「上司がわかってないからだ」とか、その真の原因を見誤って身近な誰かの責任だと誤解してしまい、「自分はもっと本来はできるはずだ」とあやまった過信をしてしまうことが起きます。


 結果、仕事をやめてしまったり、上司と対立したりして辞めさせられたりすることもあるでしょう。


 しかし、本当の原因はそこではないのです。あなたの努力とは無縁のところで、何かが起きていることもしょっちゅうあるのですから。




 ただ、こんな話をすると、若い人の間には「じゃあ、努力しても無駄じゃないか」という投げやりな気分が広がってしまうことでしょう。


 社会に出てもいいことなんてちっともない。むしろ、嫌なことだらけだ。と働く気持ちすら失せてしまうかもしれません。


 しかし、これまた社会と言うものの妙なところなのですが、


「努力しても報われない」


という言葉には続きがあるのです。


「・・・しかし、努力していない者の頭上にはチャンスは降ってこない」


とでいうべき、謎の現象が起こることも事実なのです。覚えておきたいですね。




 どういうことか説明します。たしかに努力していても無駄になることは多いです。しかし、どんなに直接の案件では無駄になったとしても、「あなたが努力できる人間である」ことは誰もが知っていることになります。「あなたには力がある」ということを誰もが知っているならば、もともとの案件ではすべてがおじゃんになったとしても、


「次のチャンスをあなたに与えよう」


と考える人は次々に出てくるのです。


 あなたが工場一の技能者であれば、その工場は閉まっても優先的に別の工場での仕事が与えられるはずです。あるいはその業務が取りやめになっても、「別の道で頑張ってみないか?」と声をかけてくれる人はかならず出てきます。

 それは、あなたが「頑張れる人」だと誰もが知っているからです。




 少し脱線した話をしますが、なぜ「いい学校を出た人はいい会社に入れる」と一般的に言うのでしょうか。

 偏差値の高い大学に入っている人は、なぜ優秀だと世間では思うのでしょうか。


 それは、「偏差値の高い大学に入れるくらい、あの人はきっと努力しただろうし、また素質が高いのだろう」と想像できるからです。


 だから彼は優先的に「うちの会社で頑張ってみない?」と声をかけてもらえるのです。まだその会社で一切働いたこともないのに!(本当の実力がまったくわからないのに!)


 同じように、日々努力を重ねていることは、RPGで言うところの経験値を上げておくということに他なりません。


 経験値を上げなくても日々の業務はとくに問題なく遂行できるでしょう。(雑魚はそれなりに倒せるでしょう)


 しかし、一定の経験値に到達していないとステージボスは倒せないのです。(たまに現れるチャンスをものにできないのです)



 ですから、私たちは「報われるために努力をしている」という勘違いをすぐに捨てるべきです。


 報われるかどうかではなく、いつか訪れるチャンスのために、準備をしておくべきなのです。

2014年12月12日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書25】 ブラック企業とは何か 

 この章では、「仕事=エサをゲットすること」という図式でものごとを説明してきました。というわけで、三回目の今回は「ブラック企業」についてこの観点で読み解いてみたいと思います。


 ブラック企業とは何なのか。


 一般的には、仕事がきついとか給料が少ないとか、そういうイメージがあると思いますが、ブラック企業の本質は、簡単です。


 エサをゲットすることに対して、かかるコストの割りに極端にリターンが少ない


ということに他なりません。


 もちろん、この章の最初からお話しているように、エサをゲットすることには「狩猟採集」の側面もありますから、「探したけれどエサが見つからない」「手に入れたエサが極端に少ない」ということは当初から想定の範囲内です。

 漁に出ても魚が獲れないとか、今年はキノコがあまり山で見つからないなんてことは、「狩猟採集」の側面ではよくあることです。

 また、農業においても「今年は不作」とか「米が冷害で育たない」なんてことは、現代においても起こりえることです。


 つまり、ただ単純な意味での「コスト対リターン」を比較して、それがマイナスであれば「ブラック企業である」と定義するのは、すこし気が早いような気もしてくるはずです。




 このエサについての「不確実性」や「非計画性」がはじめから存在するので、ブラック企業問題は一見わかりにくくなっているのですが、ここでもうひとつの「ブラック企業」の定義を示してみましょう。


「エサをゲットすることに対して、かかるコストの割りに極端にリターンが少ない」ことが、完全にシステムに組み込まれている


これが、より正確なブラック企業の実態だと言えるかもしれません。


 つまり、本来であれば、労働者がエサをゲットする労力に対して、一定のリターンがあるわけですが、それを企業や会社と最終的に分配するときに労働者が確実に損をするようにシステムが作られているのがブラック企業だと言えます。


(間違ってはいけませんが、労働者と企業の取り分比率の問題ではありません。労働者の取り分よりも、企業の取り分が多いことは問題ではありません。労働者の労働コストよりも、与えられる取り分が少ない時にブラック化するのです)


 ふつうの企業は、労働者がエサをゲットする労力以上の給与(エサ)が支払われています。そのため国民総生産GDPが増えるわけです。経済が「成長する」なんて言われるわけですね。


 ですが、ブラック企業では、どうもよく考えると労力よりもエサのほうが少ない。でも、実際獲れているエサの総量は多そうだ。あれ?残りの大半は企業が持っていってるのではないか?・・・なんてことが起きているわけです。


 
 こうしたことをまとめてみると、次のような考え方ができると思います。


① 労働時間が長いとか、労働内容がキツイということそのものはブラックではありません。長時間労働であっても、仕事がたいへんでもそれが法に則っており、給料がたくさん払われているのであれば、ブラックとは言えないことになります。


② 不確実性を持つ仕事(猟師であるとか、相場に絡む仕事や、歩合制で契約するものなど)については、たとえ一銭も稼げない月があっても、それだけでブラックだとは決められません。そうした仕事は入手できた業務内容や数に反比例して対価も高くなることが多いからです。


③ 雇用者の取り分と被雇用者の取り分を比較したときに、雇用者の取り分が大きいからといってブラックだと断定することはできません。雇用者には被雇用者からは見えないコストもたくさんかかっていますので、被雇用者への分配比率だけで判断することは問題があるからです。


④ 正当に報酬を計算したときに、本来被雇用者が得られるべき収入に対して、実際の収入が低い場合。その得られるべき収入から何がしかの「天引き」や「自爆購入」などのマイナスが生じることがシステムに組み込まれている場合、それはブラックの可能性があります。




 最後に少しだけ、一般的に公正だと言われている会社の経理において、1人の人材を雇う場合の経費を紹介しておきましょう。


 Aさんを年収400万円で正社員で雇う場合、会社にのしかかる経費は約倍の800万円近くかかっています。

 そこには、たとえば厚生年金の掛け金を半分会社で面倒を見たり、労働保険料をかけていたり、退職金の積み立てをしていたり、あるいは仕事上必要な研修を行ったりしているからです。それらのお金は基本的には会社が経費として負担しています。

 細かいことを言えば、他にもたくさんAさんのためにお金がかかっている内訳が存在しています。


 そうした全体の構造の中でAさんの給与が決まってくるわけですが、仮に、Aさんに支払われる給与の中から「厚生年金の会社負担分も天引きします」とか「労働保険などの保険料もぜんぶあなたから貰います」などの仕組みで運営されている会社があるとすれば、それは確実にブラック企業だと断定できることでしょう。

 結果的に本来400万円もらえるはずのAさんは、そこからいろんなものを不法に差し引かれて200万円しか残らないかもしれないわけです。そうした実態が、不当に安い給料として表面に現れてくるという仕組みです。


2014年11月13日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書24】 エサを探すのはなぜつらいのか

 前回は、すべての仕事は「狩猟採集的もしくは農業的」であるというお話をしました。


 そして、その原点になっているのは「エサをゲットする」ということに他ならない、ということも説明したと思います。


 人間をはじめ、すべての生物はエサをゲットしなくては生きてゆけません。そして、エサは、誰か神様のような存在が向こうから勝手に与えてくれるわけではなく、偶然の世界に飛びこんでいって探してくるか、小さな時からこつこつ育てるかしかないわけです。


 狩猟採集では、確率論に左右されます。採れるか、採れないかは常に2分の1の確率です。

 農業では、確率はアップしますが、時間がかかります。今日植えて明日収穫はできません。


 ですから、人が生きてゆく上では、この2つはやはり無くてはならない仕組みだと言えます。一方だけでは、現時点では飢える可能性が高いからです。




 したがって、人類をはじめたいていの生物のプログラムには、「飢えに対する備え」が組み込まれています。たとえば、人はたくさんの食べ物を食べた時に、余分なエネルギーがあればそれを「脂肪」として蓄えようとします。


 ラクダのこぶのようなもので、ああやって脂肪を蓄えておけば、エネルギーが減ってもなんとかそこから補填できるからですね。


 人間は飲まず食わずでも、1週間ぐらいは(ヘロヘロになりますが)生き残ることが可能です。それは、人間に「蓄える」機能が元から備わっているからです。


 さて、人間や生物に余計なエネルギーを捨てる機能ではなく、蓄える機能が備わっているのはなぜでしょうか?


 それは簡単で、エサをゲットするのは基本的には楽ではなく、確率的には低いものだからです。


 人が、もともとエサをらくらくゲットでき、いつでもそこらへんにエサが転がっている生活をしていたなら、人には脂肪を溜め込む力ではなく、余剰を吐き出す力が備わっていたことでしょう。


 しかし、現実はそうではありません。ですから、仕事というのは本来難しくて、楽ではないわけです。


 私たちは、食料にありつくことが昔に比べて格段に楽になっていますので、エサをゲットすることの大切さを忘れていますが、その変化形として「仕事のつらさ」を味わうようになっています。


 仕事は、基本的につらいものです。それはエサ探しが原点だからに違いありません。




 同様に、仕事で成果があったり、給料をもらったりすると嬉しいのは、「エサをゲットした」喜びと同じであるから、ということになります。


 基本的に私たちは飢えていますから、エサを手に入れるとそれだけで無上の喜びを感じます。ですから、仕事をやり遂げると嬉しいし、給料日はさらに嬉しいわけです。


 あるいは、就職活動を控えた学生を想像してみてください。内定をもらえないと大変ナーバスになってしまいます。エサが見つからない恐怖そのものです。


 リアルな食事くらいは、コンビニバイトで食いつなげるのですから、飢えを恐れることはありません。しかし、正規の仕事が見つからないことは恐怖です。それは、エサが安定的にゲットできないことを意味すると、誰もが本能的に知っているのです。


 

2014年11月12日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書23】 第五章 仕事をするとはどういうことか

 高校生のみなさんは、早い人では卒業してもう社会人になって仕事をするかもしれません。大学等へ進学する人でも、いずれは社会に出て「仕事」に就くことになるのが大半ですから、この章では


「仕事をする」


というのは、いったいどういうことなのかを考えてみたいと思います。


 ”なんのために仕事をするのか”


といった問いかけは、いつでもどこでも考えさせられるものです。お金を得て生活をするため、とか、社会貢献のため、とか、自己実現や成長のため、とかいろんな考え方ができるでしょう。


 しかし、ここでは最も原点に返ってみたいと思います。それは、人類に限らずあらゆる生物に共通である


「食物を外部から摂取して、生きてゆく」


という事実です。仕事とは、何よりもその根底に、「エサをゲットする」という究極の目的があることを覚えておくのは大事なことです。


 なぜ、こんなことをお話するのかといえば、この「人生の教科書」の第一章で確認したとおり、私たちは日本というかなり恵まれた国に生まれていますので、文明や社会が高度に発達してしまったせいで「エサをゲットする」という本来の目的が、いろんな考え方で上塗りされてしまっているから、もう一度原点に戻ろうと思うわけです。


 あなたが飢餓状態にある国に生まれたとしたら、「自己実現がどうのこうの」とか言っている暇はありません。とにかく食べられるものを食べて、生き残らなくてはならないわけです。


 あなたが戦争状態にある国に生まれたなら、「8時に会社に行かなくては」という以前に、町は砲撃で破壊され、明日会社が存在するかどうかもわからないわけです。


 あなたが独裁政権の国に生まれたなら、「社会奉仕」ではなく「独裁者に奉仕」することが生き延びる秘訣になるかもしれません。


 いずれにせよ、仕事をするということの本質はそうした甘っちょろい幻想ではなく、まずは


「おまんまを食べる」


ということに集約できることに、今気づいておくべきです。



 仕事をするということ。つまり、エサをゲットするということについて、人類は大きくわけて2種類の方法を生み出してきました。


 ひとつは、狩猟採集の方法です。野や山、海からエサを探してきて捕まえる、拾うという原始的ですが、今でも立派な仕事として成立している仕組みだと言えます。

 
 『まつたけ』というキノコは、ほぼ農作物として植えて育てる方法ではゲットできません。どこかマツタケ山に行って、生えているのを採集してくることで仕事が成立しています。


 漁業にも、養殖できる魚もありますが、うなぎなど「とにかく偶然に左右されながら漁で捕まえてくる」しかない海の幸もたくさんあります。


 狩猟採集は、原始人の仕事ではありません。現代でもこの方法は、さまざまな形で生き残っている重要な「エサをゲットするしくみ」なのです。


 もうひとつは、ご存知の通り「農業」という形で人為的に育てる方法です。たんぼやお米を見慣れている私たちは、「農業」によって「エサをゲットする」ということを長い歴史の間に大切にしてきました。


 農業によって、偶然によって収穫量が違ってしまう「漁・猟」から少し進歩して、安定的に「エサをゲットする」ことができるようになったので、私たちの暮らしはやや楽になりました。



 仕事というのは、繰り返しますが根っこの部分は「エサをゲットするしくみ」そのものですから、狩猟採集なのか、農業なのかの2パターンしかありません。


 ひらたく言い直せば「そこらへんに仕事が転がっているのを、偶然的に拾ってくる」仕事と、「定期的、安定的に何かを生産して、それで食べてゆく」仕事の2通りしかないわけです。


 あなたが将来就くであろう職業も、大きく分けるとこの2つに集約できます。


 メーカーに勤務して、サラリーマンになる人は、ざっくり言えば「農業的」です。計画的、安定的に何かを製造して、それを順次出荷することでお金を手に入れるという意味で、農業に似ています。


 太陽光発電のセールスマンは狩猟採集に似ています。どこの誰が「工事して」と頼んでくるかは決まっていません。偶然の顧客によりたくさん出会うために、家々を訪問したり、電話をかけたり、ショッピングモールでイベントをやったりして仕事を拾います。


 モノを書く職業でも、新聞や雑誌の編集に携わる人は、定期的にそれらのメディアを発行してお金にしますから農業的です。


 おなじモノ書きでも、フリーのライターは、いつでもどこでも飛んでいって「仕事を探し、もらってきて」記事を書きますから、狩猟採集民です。


 スポーツ選手の大半は、狩猟採集生活を送っています。すべては運と実力と成績が人生を左右します。


 水道局に勤めていれば、おそらく半永久的に人類は水道をつかうでしょうから、仕事が亡くなったり、変動したりはしないでしょう。


 おなじ公務員でも、消防局勤めは、給料は農業的にもらえますが、火災そのものは偶然で突発的に発生しますから、仕事そのものは狩猟採集的だと考えられます。



 というわけで、高校生のあなたが将来仕事をするときには、「その仕事の狩猟採集的要素、その仕事の農業的要素」について考えておくと、きっと良いことがあると思います。


 あなたが、バクチ打ちではないのに、狩猟採集的要素の高い仕事についてしまうと後悔するはめになることもあるでしょう。


 たとえば、安定していると思い込んで原子力発電に関わる仕事についてしまったとしたら、原子力の仕事は事故のせいで一気に激減してしまったりするわけです。


 逆に、狩猟採集的要素の高い仕事についたことで、高い給与を手にいれることだってあります。ITブームに乗っかるとか、不動産バブルに乗っかるとか、そういう仕事でウハウハな時代をすごした先輩もたくさんいるからです。


 しかし、重ねていいますが、仕事には「狩猟採集的要素、農業的要素」の2つが存在していることは、やっぱり大事なことなのです。

2014年11月8日土曜日

G型大学とL型大学をめぐって ~教育再編の裏話・密かに話されていたこと~

 ここのところ「高校生のための人生の教科書」を勝手に連載中ですが、興味深い話が飛び込んできたので、一時中断して書いておきます。


今週ぐらいから、各ネットニュースサイト等で話題になっていますが、


 G型大学 L型大学


なるキーワードが盛り上がっています。


 どういう話かといえば、これらの大学教育は、グローバル(G)・世界に通用する人材を育てるための大学と、ローカル(L)日本国内で仕事をする人材を育てるための大学にわけようじゃないか、という議論です。


THE PAGEさんのサイトより


現代ビジネスさんのサイトより



 詳しい話は、いろんなニュースサイトにあるので、そちらを見てもらえばいいのですが、私はあんまり表に出てこないネタをお話します(笑)


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 今回のG型大学とL型大学の話は、単純化すれば以下のようなことです。


①東大をはじめとした、一部の優秀な大学において「教養」をベースにしたアカデミックな「学問」を勉強させるべきであり、そこから世界で活躍できるような人材を輩出する。


②それ以外の中程度以下大半の大学については、「仕事の実務」に役立つような中身を授業で教えて、実務を担う人材を輩出する。


③その比率は、議論はあろうが、ざっと言えば、5%の優秀な人材と残り95%のその他大勢くらいのイメージ。


みたいな。


 まあ、こういうイメージに対して賛成派と反対派がやりあっていて面白いです。


賛成派>実際問題、アホみたいな大学ができすぎていて、彼らがまともに仕事の実務にさえつけないのであれば、職業訓練も視野に入れてしかるべきである。

反対派>大学は専門学校じゃない。大学で純粋学問を教えなくなったら終わりじゃないか。


みたいな。


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 この話、いきなり聞かされるとみなさんのように「ああでもない、こうでもない」と意見を言いたくなるのですが、私からすれば、


 こんな話は20年前から実はスタートしているのだ


という事実をぶっちゃけてしまいたくなります(ウフフ) おせーよ。


 どういうことかといえば、私は当時、某公立の高校で勤務していましたが、その頃から、まず


高校教育の段階で、数パーセントのトップ校と、それ以外の学校に分ける


ということを文部省が画策しているという話が出ていました。


 高校の序列化は、すでに完成しており、都会に住んでいる人であれば


「私立のトップ校」「公立の二番手」「公立のふつうレベル」「私立の底辺」


みたいな学校のランク分けが成立していることを知っていると思います。


ところが、これは大都会だけで、47都道府県のうち、東京や大阪といった大都市以外の県では、


「公立のトップ校(旧制中学・女学校の流れ」「公立の二番手」「公立のふつうレベル」「私立の底辺」


みたいな状態になっているわけです。


 というわけで文部省のイメージとしては、これをもう少し明確化して、上位層とそれ以外を切り分けて、提供する授業内容を変える、ということを実はスタートしているわけです。


「数パーセントの頭のいい子を作り、そいつらに国をひっぱってもらう」


という発想。それがこの問題の根幹部分なのですが、実は大学以前に高校でそれをやりはじめていたわけです。


 具体的には、「スーパーサイエンスハイスクール」とか「スーパーイングリッシュハイスクール」などの指定がそれに当たります。


 なぜ科学と英語なのか。それこそ「グローバルに活躍し、新しい研究イノベーションによって国力を維持できる人材」とピッタリ符合すると思いませんか?


 まかり間違っても「スーパー日本史ハイスクール」とか「スーパー国語ハイスクール」とか「スーパー体育ハイスクール」ではないのです。

 だって、そんなのでは国をひっぱっていけませんから!



 また、ふつうレベルの高校には、やたら選択授業を増やして、極端な話「職業訓練のまねごと」みたいなことをしたり、パソコン教室でエクセルを学ぶ的な授業は、すでにさんざんやりはじめているわけです。



==========

 こうして、既に20年前から実現に向けてじわじわやってきたことを、いよいよ本丸である大学教育に持ち込もうとしているのが今回の話であって、今頃それが「いいのか悪いのか」なんて議論しても遅いことは否めません。


 すでに、外堀は埋められているわけです。


 家康の大阪城作戦に匹敵する、文部省の思惑は以下のように進んできました。



① 高校レベルでの差別化。(中等教育において「横並び」をやめる)


② 専門学校・短大を4年生大学に移行するようにサポートする。(このせいで、専門学校や短大がごっそり減りました)


③ わけのわからん大学教育を認可。(観光学部とか、スポーツマネジメント学部とか、いわゆる純粋学問以外の学部開設を許可)



 すでに、「大学教育」という名前ではあるけれど、実際のレベルが大きくことなる状況が、お膳立てとして作られているわけです。


「東大法学部生」と「なんちゃら大学ビジネスサポート学科生」が、おなじ重みの「学士卒業証書」
を持っているのが今の状況ですが、これが


同等(の価値がある)


と思っている人はこの日本には誰1人としていません。そこがまたミソです。


 つまり、みんなが「大卒の重みが、実はレベル差・ランク差があるよね」と思っているところに、ぶち当ててきているのが


G型大学・L型大学の提案


なわけで、提案どころか、実態はすでにそのレールに乗せられているわけです。わたしたちは。




==========

 
 とはいえ、そんな日本の国家戦略は別にして、私が個人的に思うのは、情緒的ですが


「大学では教養を学びたい」

「大学では学問をやりたい」

よね、やっぱり。


 そういう意味では、実務のために「大学を出て、専門学校で学びなおす」とかある意味「まとも」だしカッコよかったような気もします。

 今は、そういう選択肢が減ってしまっているのが残念なのですが。







2014年11月7日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書22】 真の友人はたったひとりしかできないものである

 友だちについての最終章は、私からみなさんへ送る究極の名言でまとめてみたいと思います。


 それは、


 「真の友人とは、あなたの人生でたった一人いれば十分である」


ということです。


 また言い換えるならば、


「真の友人がたったひとり見つかれば、あなたの人生は最高に幸せだ」


とすることもできるでしょう。




 みなさんがイメージする「友だち」というのは、基本的にはこれから社会に出てゆくなかで「知り合い」レベルで無数に増えたり、「同僚」として近しい存在になったり、「取引業者」「おなじ業界人」といった形で触れることが増えます。


 そうした人たちと、ある程度仲良くやってゆくことは必要なことです。また、時には彼らのために何かあなたが無理を聞いてやる場面や、貸しを作っておいたほうがいい場面があったり、逆に、彼らによって何がしかの小さな問題を背負い込まざるをえなくなったりもします。



 しかし、そうしたいい面や悪い面をふくめて、彼らとの付き合いは「あっさりすっきり爽やかに」しておけばそれでいいことです。



 それに対して、あなたが本当にダメージを受けているときに心から親身になってくれたり、逆に彼や彼女が本当に落ちぶれているときにあなたが心から支えになれるような、そういう


「真の友人」


はめったに見つかるものではないし、もし1人そんな人と出会うことができたのであれば、あなたはとても幸福な人生を送ったことになるでしょう。



 いわゆる一般的な友だちとは、あなたが「笑顔を見せ合う相手」のことを言います。それは楽しい時間を共有できる人たちです。


 しかし、真の友人とは、互いが「涙を見せ合うことができる相手」のことを示すのです。それは苦しい時間を分かち合ったり、理解しあうことができる人たちのことを言うのです。




 多くの人は、中学から高校・高校から大学・大学から社会人へと進んでゆく中で、住む場所を大きく変えます。物理的に住む土地が変わると、「昔の友だち」とつきあったり、連絡を取り合う時間がこれまた物理的に減ります。


 そうした変移の中で、ふつうの友人たち・知り合いたちという人の顔ぶれはかならず変化します。ところが、真の友人の場合は、「物理的な場所や空間の距離」「時間の距離」と無関係につきあうことができます。



 どんなに離れていても、どんなに年月が経っていても、まったく気がねすることなく昔どおりに話すことができる相手が、真の友だちだと言えるでしょう。



 重ねて言っておきますが、友達の数はあなたの人生の何の評価にもなりません。友達が多い人生が「GOOD」で、友だちが少ない人生が「BAD」な訳では全くありません。


 それよりも、真の友だちが1人いる人生が「GOOD」で、真の友だちが全くいない人生のほうが、よっぽど「BAD」なのだと覚えておきましょう。




 また重ねて言っておきますが、真の友だちも、ふつうの友だちも、友情を育むべき相手は、神様のような存在があなたの目の前に並べてくれるわけではありません。誰もあなたに無条件に友達を与えてくれないので、要注意です。


 誰かと知り合いになることは、偶然です。その段階までは、まるで神様が与えてくれたかのように、そこに誰かが現れるかもしれません


 しかし、その人とコミュニケーションをうまくとることができ、その人と「ともだち」になれるかどうかは、あなた自身が努力する必要があります。


 ぜひ、頑張ってください。




2014年11月6日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書21】 一人ぼっちのあなたのために

 高校生のみなさんの中には、


 「自分には友だちが少ない」「あたしには友だちがいない」


とか


「僕は友だち付き合いが苦手だ」「あたしはうまく友だちに合わせられない」


といった悩みを抱えている人も多いことと思います。


 それなのに、今までの私のお話では「コミュニケーションの力がないと、この社会では大変だ」なんて話をさんざんされてているので、


「それじゃあ自分はどうしたらいいんだ!救いがない!」


とさらに困っていることかもしれません。




 基本的に、この社会である程度うまくやっていくためには、それでもやっぱりコミュニケーションの力は必須なのですが、それが多少弱くても、なんとかやっていけるジャンル、というのが存在しないわけではありません。


 ですので、今回は「その少ないチャンス」について話しておきたいと思います。


 極端な話、友だちがいなかったり、もういっそ「そもそも、学校に行ってない」ようなみなさんでも、ある特定のジャンルに限っていえば、社会人として立派に暮らしてゆける道があります。


 それは「芸術」に関わる分野です。


 あなたが、音楽でも絵画イラストでも、文芸でも、あるいは何かのパフォーマンスであっても、そうした「芸術」領域で優れた資質を持っていたり、それを開花させることができるならば、その場合に限っては


「人間づきあいが下手」


であっても、全然大丈夫です。


 普通の人は、何かの仕事を進めるに当たって、依頼者や周囲の人といろいろな打ち合わせ・話し合い・意思の疎通をしながら業務を遂行してゆきます。


 しかし、芸術作品は、「その作品自身に価値がある」ので、それについてコミュニケーションしないと作品が成立しないなんてことがありえません。


 極端に言えば、そこに素晴らしい絵があれば、それを美しいと思う人があり、それを買ってゆくわけで、描いた人がその場所にいなくても、経済活動が成立することになるのです。




 事実、芸術の分野からは、いわゆる現代のカテゴリーで言うところの


「欝っぽい人」

「偏屈な人」

「自傷する人」

「ひきこもり」

「人間嫌い」


と呼ばれても仕方ない性格の人たちがたくさん大きな仕事をしてきました。


 そして、その人たちの作品の価値が認められることで、彼らは社会で生きてゆくだけの収入を得ることができてきました。


 そうした人たちが「恵まれた資質を持つ、ごく一部の人たち」だと思い込むのは早合点です。たしかに、一部のトップの人たちは、大金を手にして、高い評価を得ています。しかし、そうではない普通レベルの芸術家もまた、腐るほどこの社会では活動しています。


 一例ですが、特にベストセラーを生んだこともない、どこにでもいそうな「作家」と呼ばれる人たちの文庫本原稿印税は、年にざっくり70万円くらいになるそうです。


 年70万円では、食べてゆけません。せめて70×3冊=210万くらいで、バイトで細々食いつなぐ人ぐらいのレベルになります。


 ですので、そうした人たちは、奥さんが普通の仕事をしていたり、雑誌の小さな記事をもっともっと掛け持ちしたりして年収を300万円、400万円と人並になるように努力しているわけですが、みなさんに気付いてほしいのは、


「引きこもりでも、作品製作で年70万円稼げる」


という事実です。


 他者とコミュニケーションして、給与を稼ぐことがしんどいのであれば、「だんまり引きこもりながらでも、何かを生み出す」ことは不可能ではないということも、覚えておいて損はありません。


 ですから、今現在、自分のコミュニケーション能力に自信がないみなさんは、



「では、自分は何で収入を得ることができるか」



について必死で考えてみてほしいと思います。どこに突破口があるのか、どこにあなたの才能が隠れているのか。それはまだ見つかっていないはずです。


 私も、高校時代は自分の才能に気付いていませんでした。あなただってそうなのです。

2014年10月30日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書20】 自分以外はみな”バカ”である

 すべての高校生といってもいいくらい、かなりの高確率で中高生が心の中で思っている事実というのがあります。


 それは「自分以外はみなバカである」という思想・信条・イメージです。


 なぜそんなことを考えてしまうのかと言えば、ぶっちゃけて言えば「それが普通、当たり前」だからに他なりません。


 中高生にとって、今のみなさんの人生は「まだ、何者にもなっていない過程」であり、「まだ何者にもなれていない」途中の段階で大変不安定です。


 職業も決まっていないし、生き方も決まっていません。すべてが曖昧であやふやな時期であり、また「成人」といった社会的な認知もされていない時期なので、本来であれば「吹けば飛ぶような小さな存在」であることは確かです。


 その存在自体が「あやうい」状態の自分自身を維持するには、「自分がここに存在している」ということを自意識の上で確認せねばなりません。


 そこで過剰なまでの「自己肯定」というものに頼るようになるのです。




 世界の歴史を見ていると、自国があやうい立場であったり、問題を抱えている国ほど「自分の国は素晴らしい!」と過剰に宣伝したり、「自国民は優秀である!」というナショナリズムに走るようになりますが、それに似ています。


 本当に先進的な国は、自国を褒めるような言動をするのではなく、むしろ「わが国の問題点はここだ」とか「こういう部分がダメだ」とまっすぐマイナスポイントを直視しているのが普通です。


 
 
 しかし、高校生にとって「自分以外はバカである」病は避けては通れない通過儀礼のようなものですので、ここでは正しい「自分以外はバカである」病との付き合い方をまとめておきたいと思います。


 まず、「バカ」という言葉でひとくくりにしていますが、これは知識知能に関するものだけではありません。


 勉強ができる生徒は、「自分以外はみんなアホだ」と考えます。

 女子で可愛い子は、「あたし以外はみんなブスだ」と考えます。中に1人くらい「あたしを超える可愛い子」がいることは認めますが、たいていのクラスの女子より「あたしはマシ」なはずです。

 スポーツができる生徒は「あいつらはトロい」と考えるし、イケテる生徒は「あいつらはダサい」と考えるでしょう。


 その要素や項目・ジャンルはいろいろとあるかもしれませんが、たいていの場合「自分はあいつらよりも■■の部分で上に立っている」と考えることが自然なことなのです。


 

 中高生の時点で、こうした「優越感・自己肯定感」を抱くのは正常なことですから、逆にいえば、みなさんのような高校生の時点で


「自分は何一つダメだ」

とか

「あたしは全然可愛くないし、イケてない」

とか

「自分は一生童貞だろう、処女だろう」

とか

「友だちは一生できそうもない。なぜなら自分はキモいからだ」

といった感情に支配されている人は、はっきり言いますが、現時点で「病気」です。



 何がしかの発達障害を発症している可能性が高いので、早めに手を打たないと、問題の多い、苦労する人生を送る可能性もなきにしもあらずです。




 つまり、まとめておきますが、中高生の時点では、「わけもわからず、俺は偉い」と感じるのは、普通であり、むしろ健全で、それが社会に出て揉まれてゆくなかで、「そうじゃなかったんだ!俺はまだまだダメだなあ!」と思うのが正常に近い、ということです。


 そして、中高生の時点の「俺はえらい」が、最後までそのままいくと「社会生活不適合」になり、仕事をコロコロ辞めざるを得なかったり、コミュニケーションがとれなかったり、一生童貞だったりすることになる、というわけです。


 また、中高生の時点で「自分はどうしようもないキモさだ」と思っている人が、手を打たずにそのままいくと、やっぱり「社会不適合」になったり、重大な問題や事件を起こしてしまうこともある、というわけです。




 ということは、「ふつうに成長する」というこは、実はちょっと狭き門であり、道を誤ってしまう可能性は、誰にでもあるんだ、ということでもありますね。


 なまじっか勉強ができて、コミュニケーション不適合や社会不適合のまま大学や大学院まで行ってしまったりすると、もう手がつけられなくなったりするので要注意です。


 ですからここまでのお話でも、「明るく元気で爽やかにできない人」は社会においてはマズい、と口をすっぱくして言っているわけです。




 では、いったいどうすれば「普通の」「健康的な」「ヤバくない」成長を遂げることができるのでしょうか。


 一言でいえば、健全な成長とは「ものごとを捉えるモノサシ・基準が”主観”から”客観”に変わってゆく」ということに他なりません。


 こどもというのは、自分の世界観の中で「僕はなんでもできる、一人で歩けるし、おねしょもしないし、ごはんも食べられる」という万能感に支配されています。


 それから小学校・中学校・高校へと進む中で「できること」が積み重ねられてゆくので、基本的に「俺は賢くて、みんなはバカだ」という世界観が形成されるのです。


 ところが、大人になってゆくと、自己の限界に気付き始めます。いろいろなジャンルや要素で、「自分より賢いヤツ」「自分より明らかにカッコいいやつ」「自分よりできるやつ」に出会ったり、自分自身のスコアが伸びなくなったりして、


「あれ?これはなんか様子が変だぞ?おかしいぞ?」


と思い始めるのです。


 そこから、「他者の基準で自分を判定する」という客観性が備わりはじめ、社会全体の中での自分のポジショニングを考えるようになるわけです。


 そうした一連の「自分の視点からの脱却」が確率するのが、高校時代だと言ってもよいでしょう。


 特に、女子の場合は中学生まではすべての心身の発達が男子に先行していますので、高校で男女の能力差が逆転します。


 学力や体力面でも、いままで「できる子」とされていた女子が、急に「ふつうのレベル」になってしまい、「子供っぽかった」男子が、急に「大人びてくる」のが、高校3年間だと言うわけなのです。




 最後に、現時点で「自己肯定感」が得られていない人(自分はダメだと思い込んでいる人)へのアドバイスですが、たいていの場合、それは「何者かによってそう思い込まされるような事象に支配されている」ことが多いので、その解決を急がねばなりません。


 こじらせる前に、適切なサポーターに「助けてほしいこと」を意思表示しなくてはいけないと思います。自分ひとりで解決できることは、まずありません。


 なぜなら、あなたが今持っている「モノサシそのもの」の目盛りや基準がすでに正しいものではないからです。


 まちがったモノサシをなんど当てて測っても、正しい数字はけして出てきません。



 

2014年10月26日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書19】 友だち付き合いは、難しい

 さて、前回は「友だち・知り合い・人間関係」の根っこの部分についてお話しましたが、みなさんは日々学校生活を送っている中で、友だち付き合いについて心を悩ませていることと思います。


 どんな問題が起きているか、どんな悩みがあるのかは、私は知りません。はっきり言いますが、全ての人が多用な問題を抱えているので、それぞれ個別の出来事については、すべて解決するような方法はないからです。


 しかし、誰にでも通用する大きなヒントがいくつかあります。それはあなたの人生を・人生観を大きく変えるヒントになるはずです。




 ① 正義を捨てなさい。そうすれば、あなたは幸せになれます。


  正義を捨てる、という言い方をすると「じゃあ、悪になれというのか」と思ってしまいがちですが、そうではありません。「これが正しい」とか「これが良い」とか「こうすべきだ」という「正義・善」の感覚を、一旦


「保留」


するくせをつければ、あなたの人生や友だち付き合いは、かなり楽になると思います。



 ものすごくわかりやすい例をお話しましょう。あなたのクラスに、ある生徒がいて、彼か彼女かは、クラスの中で友だちのものを盗んだとしましょう。


 そう、クラスの中で窃盗事件を起こしたのです。


 あなたや、クラスの人たちはどのように彼・彼女に接するべきでしょうか。




 ・・・これも結論を先に言いますが、「わかりません」。正解はありません。彼・彼女に窃盗癖があるのであれば、あなたも彼がいる空間では持ち物に気をつけなくてはなりません。

 心から彼・彼女と笑いあうことはもうできないでしょう。

 
 彼や彼女をどういう形であれ、クラス全員が距離を置くことになりますが、それは「いじめ」とどこが違うのでしょうか?


 「悪いことを起こしたものは、多少いじめられても(排除・距離を置かれても)仕方ない」と考える人もいます。


 では、「掃除をサボったからあいつはいじめていい」「悪口を言ったらしいからあいつはいじめていい」ということですね?


 すべての「いじめ」はそのように「彼・彼女のささいな悪」をことさらに取り上げながら進行してゆきます。


 さあ、「窃盗したクラスメイトは、いじめていいのか、いけないのか」どっちなんだ!


 ・・・これはとても難しいことで、「いじめはいけない」という善悪と「窃盗はいけない」という善悪はこんな風にすぐに矛盾を起こすのです。




 学校現場では、こうした事例が起こると、多くの場合、彼や彼女を転校させることで解決を図ります。前回「土地を離れれば人間関係はリセットできる」という話をしましたが、その手を学校が使うわけです。


 あなたの学校という物理的空間から、彼や彼女を移動させることで、別の土地でやり直すことができる、というわけです。


 それはともかく、ここから学べる事柄は「善悪」という判断を一旦保留して、いろいろな角度で物事を見よう、ということです。


 「あいつが何々したから嫌いだ」とか、「誰それに何々された」という状況を、あなたの目線だけでなく、別の目線でも考えてみることが、大切だと思います。






② プライドをコントロールしなさい。そうすればあなたは幸せになれます。


 中学生・高校生にとって、もっと大きな壁・試練はこれだと思います。大人になると、自分の人生における「立ち位置とかレベル・ランク・身分」といったものはなんとなくわかるようになるので、しょーもないプライドからは自由になれることが多いのですが、中高生のうちは、まだまだ「わけのわからないプライド」に包まれています。


 面白いことに、これはヒトに生物学的に埋め込まれた「本能」のようなものらしく、これをコントロールするのは、とても難しいことではあるかもしれません。



 私が1歳の小さな赤ん坊を観察していると、面白いことに1歳児にも「なんだかわけのわからないプライド」があるらしく、


「親が1歳児に対して『ダメ』と制止すると、逆切れして怒る」

とか

「きょうだいが、1歳児の持っていたものを取ろうとすると、切れて怒る」

とか



そういう行動がしょっちゅう見られます。1歳児は


「ボクは、まだまだひよっこでダメ人間ですから、みなさんのおっしゃるとおりにいたします」


なんてことは全く考えず、いっちょまえに激怒するのです。(ちなみに激怒を通り越すと泣き出します)




 面白いですよね?赤ちゃんの時から、「自分の領域を否定されたり、非難されるとヒトは怒る」のです。


 そういうことが、あなたの「プライド」を形成してゆき、今の状態になっています。


 中高生のすごいところは、(赤ちゃんもそうなのですが)「今、自分がどのレベルにあって、どういう状況でそうなっているのか」について、考えないところです。ある意味、そうしたことを考えないがために、人生は豊かに生きることができるのですが、逆にそれがあなたを苦しめることになります。



 もし、プライドがなければ、高校生は


「ははーっ、いつもご飯をタダで提供いただき、家も服も与えていただいで誠にありがたき幸せ!この恩を一生忘れず、ご両親さまのために身を粉にして勉強する所存であります!どうか私を、このセケンの荒波に投げ出したりせず、せめてあと3年くらいは暖房も冷房も、部活のユニフォームも、マンガも提供いただきますよう、心からお願い申し上げます」


というキモチになるはずです。でも、そんなのはおかしいですよね?


 そう、「俺は親に無償で全てを提供されても当たり前なんじゃい!」という、わけのわからないプライドがあるからこそ、子供はこどもらしくのびのびと成長できるわけです。




 大人になると、上のセリフを毎日実行しなくてはいけません。


「会社に毎日遅刻せずに行くのは、ありがたい給料をいただくため」


「取引先に頭を下げて怒鳴られても耐えるのも、ありがたい給料をいただくため」


です。誰1人として、「会社はタダで俺に給料を提供すべきだ」と思っている人はいません。




 ということは、「プライド」をコントロールできるようになれば、人間関係もかなり良くなるはずだと思いませんか?


 「いじめられてても、親に言えない」のは、プライドのせいです。


「親方様!敵が、敵が攻めて参りました!当方はすでにズダボロでございます!援軍を!援軍を出してください!」


と叫んでいる戦国武将を想像してみてください。別に何もおかしくないですよね?やられているので、大名に助けを求めているだけです。


 でも、


「うーむ、すでに当軍は兵糧を奪い去られ(カツアゲ)、すでに兵の大半が戦死(殴られた)したか・・・。でも、親方様には言えない」


というのが「いじめられて黙っている人の心理」です。変ですね?どうして、やられていることを親方様に報告できないのか。


 そこが「わけのわからんプライド」というもののやっかいさ、なのです。「いじめられているなんて状況を認めたくない」という心理、自分が「負けているということを認めたくない」心理が邪魔をするのです。


  武将になってみましょう。


「うぬぬ、敵が優勢とは!しかし、しかしまだこのわしは戦えるんじゃ!半数が戦死?いやいや、残りの者すべてで最後まで撃って出るのじゃ!」


という状況が、いじめを黙っている人の心理と同じです。武将は意地(プライド)だけで戦おうとしているのです。討ち死にする確率が高いのに。


 

 まあ、ざっくりと説明しましたが、「プライド」はやっかいなものです。それを適切にコントロールして、「自信を持ちながら、かつ自意識過剰にならない」ということは、難問には違いありません。


 しかし、それを無事に成し遂げたときに、人生は豊かになるのかもしれません。








2014年10月25日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書18】第四章 友だちを巡る諸問題

 学校生活だけでなく、これからのあなたの人生において、いい意味でも悪い意味でも大きなウエイトを占めるに違いない、


「ともだち」


を巡るたくさんの事象について、この章ではお話をしておきたいと思います。


 一般論として、友だちや友人、仲間、知り合いと親しく仲良くすることは、大切なことだと信じられていますし、またそのように多くの人は行動しています。


 しかし、また一方で、友だちや友人、知り合いというもののせいで、大小のトラブルに巻き込まれたり、人間関係に色々な「こじれ」を生じさせることがあるのも事実です。


 では、高校生活・またその先の社会生活において、「他者との関わり」をどのように過ごしてゆけば、人生は豊かになるのでしょうか。




 いつものように、世代を見ながら話をしてゆこうと思いますが、あなたのお父さん・おじいさん・ひいおじいさんを含めた4世代に渡って、あなたの先輩たちはほぼ似たような「友だちづきあい」をしてきました。


 また、一番最初にお話した「土地を持っているか・いないか」が、人間関係にも大いに影響していることも、覚えておきたいと思います。



 あなたのお父さんや、おじいさんや、ひいおじいさんが「主に長男の家系で、土地を持っていて、ずっと地元に根ざして生活していた場合」には、人間関係は小学校・中学校・高校・大学・そして社会人のすべてにおいて


「地元で連続した友だち関係を維持する」


ことになります。わかりやすく言い換えれば、小学校のときの「友だち」が、大人になっても近くに住んでいるとか、同級生の知り合いが、そこらじゅうにいる、という状況が死ぬまで続くということです。


 あなたのお父さんやおじいさん、ひいおじいさんの生き方を思い出してください。今お話したように常に地元で生活している人は、多かれ少なかれ「難しい問題や、不条理なことがあっても、基本的に事を荒げずに、和睦しながら生活している」ことが多いはずです。


 たとえば、地域に問題があったりしたときに、あなたのお父さんだけが「猛烈に反対」とか「猛烈に主張」とかをしているならば、すでにあなたも気付いている通り、あなたの家族は地域で「浮いている」存在になっているはずです。


 しかし、こうした状況になっている人はごくごく一部で、おじいさんやひいおじいさんの代からその土地に住んでいる人は、「なんとなく平和主義で、なんとなく自己主張がなく、なんとなく頼りない」くらいの暮らしぶりにならざるを得ません。


 それは、そういう生き方をして、「ずっと同じ場所に長年生活している友達や知り合いの軋轢」が生まれないように調整しているからです。


 地元の企業に勤めている友達や知り合い、地元の市役所に勤めている友達や知り合い、地元で農家をしている友達や知り合い、といった


「その地域を中心とした、人間関係」


がある限り、それを維持するためには、全体的に和睦していなければいけないからです。




 それに対して、「土地がないので、別の地域に出て行った」人たちもたくさんいます。日本型社会では、先祖の土地は「長男が全部相続する」というスタイルが一般的ですので、次男以降は別の土地へでてゆかざるを得ない場合が大半で、また女性はどこかへお嫁に行ってしまい、これまた元の家には住んでいないことが多いわけです。


 そのため、「友だち」の話で言えば、これらの人生を送る人たちは「友だち・知り合い」が、実際には途切れ途切れで限られた期間だけであることが多いのです。


 小学校・中学校くらいまでは、みなが同じ地域で暮らしていますが、中には中学校から私立の学校にいく友だちがいたりして、変動があります。高校になるとその地域の領域が広くなり、大学では完全に別々の人生を歩むことになります。


 社会人になるころには、小学校時代の友達は、ほぼ大半がてんでバラバラの地域に住んでいることになります。


 こういう人生を送ると、学生時代の友達なんてものは「同窓会で10年ごとに会えるか会えないか」とか「そもそも、あいつどうなったか誰も知らない」という状況になりますので、あなたがこの高校3年間で付き合う友だち・知り合いも基本的には「3年間限定の付き合い」だということになるでしょう。


 人間関係に問題を抱えている人は、「3年過ぎればおさらばだぜ」と思って大丈夫だし、友だち付き合いを大切にしている人は「3年しか一緒にいられないのだから大事に過ごそう」と思って大丈夫です。


 繰り返しますが、あなたの友だち付き合いは、基本3年後にはリセットされるわけです。




 私も、親が土地を持っていなかったために、外の地域に出てゆく人生を選び・選ばされました。ですので、小学校の時の友だちで、現在でも交流があるのは


「たった一人」


です。

 中学・高校時代の友達・知り合いについては、「どこで何をしているのかさっぱりわからない」状態です。


 それは、私自身が、生まれ育った土地と異なる土地にいるからです。



 

 以前の章で、学校はRPGのようなものだとお話しましたが、高校生のあなたにとって、「友だちづきあい・人付き合い」は、もし万一うまく行かなくても、数年後にはリセットできることを覚えておきましょう。


 ただし、ずっとその土地で生活し続けなくてはいけない人は、その限りではありません。あなたがその土地で人生を過ごす限り、その周囲の人間関係もずっと継続します。ですから、嫌でも、周囲と「良好な人間関係を築く」努力を強いられることになります。


 はっきり言っておきます。それは「土地のせい」です。あなたがその生活を強いられるのは「土地のせい」なのです。


 ですから、裏ワザですが、あなたがその土地を離れれば、「あなたが受けている苦しみ」の多くは解決します。


 人間関係をリセットするには、その土地を離れることが一番の解決方法なのです。



2014年10月23日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書17】あなたの進路の選び方

 この章では、高校生にとっての「学校」に関するお話を集めながらまとめてきましたが、最後に「進路」について説明しておきたいと思います。


 戦前までの日本人の「学生から卒業しての進路」については、個人の意見よりも「親の意見」や「家の仕事」など、ある程度他の人から指針を示され、それに従ってゆく人生を選ぶ人が多かったのですが、現在はそうではありません。


 世代で言えば、あなたのおじいさんぐらいの世代から(つまり、戦後生まれの世代から)、「自由に仕事や進路を選んでもいいよ」と言われることが多くなり、またそのように人生を送ってきた人が増加しました。


 みなさんの世代では「自分が何になりたいか」を考えることは、当たり前のことであるかのような教育を受けてきたと思います。「何になれるか」は誰にもわからないのですが、とりあえず「何になりたいか、という希望くらいは、聞いてもらえる」ようになりました。




 高校生活の3年間で、人はみな「何になりたいか、そのためにどんな進路を選べばよいのか」というチョイスをさせられるようになります。早い人だと、商業高校や工業高校などに入学することで、すでにおおまかなチョイスを済ませている人もいるでしょう。


 そのとき、将来の「職業別」で進路を決定させることが、これまで多くの学校で行われてきました。「家を建てる建築家になりたいので、そういう大学や学校に行く」とか、「弁護士や検事を目指して、法学部に行く」とか、「音楽で食べてゆきたいので、芸術の学校に行く」とか、そういう選択方法です。


 それも一つのチョイスの方法ですが、みなさんに知っておいてほしいのは、上のような「職業」の希望で進路を選ぶ時代は、そろそろ破綻するということです。


 職業を選ぶことができるというのは、「どの職業に行っても、とりあえずお金をある程度稼ぐことができる」という前提に立っています。平たく言えば、まあ食っていける、ということです。


 ところが、既にそうなりつつありますが、「お金を稼ぐこと」と「職業選択」がいろいろな意味で合致しなくなってきているので、考え方を改めなくてはいけなくなっているのです。



「弁護士」でも食える人と食えない人が出てきている。「大学の先生」でも貧富の差が激しい。「音楽で食べて行ける」のは、ほんのほんの一握り。
 おなじ労働をしていても、正社員と派遣では、給与も待遇も違う。などなど。




 そのため、みなさんが大人になる頃には、「どんな仕事をしているか」ということと同時に、「今、そして未来に食えているか、食えるのか」ということが重要になっていると断言できます。


 つまり、発想を大きく変えて、「自分は食っていくために、どうするのか」ということを、早いうちから考える必要があるというわけです。


 食える音楽家になるにはどうしたらいいのか。

 食えるサラリーマンになるにはどうしたらいいのか。

 食えるためには、どの道へいけばいいのか。


 たとえば、音楽家で考えてみます。
 食える音楽家になるには、もしかしたら今ネットで何か曲を発表してみることがスタートになるかもしれません。
 日本中のオーケストラの団員が何人くらいで、あなたはせめて全国の楽器奏者のうち「何番」くらいになれば雇ってもらえそうか調べておくのも悪くないでしょう。
 音楽の先生になるか、あるいは音楽教室の先生になって食っていくのか。それにはどれくらいの「イス取りゲームのイスがあるのか」を知っておくとよいでしょう。
 

 もっともっと調べるべきことはありそうですね。つまり、こういうことです。「進路」とは大学を選ぶことではなく、大学卒業後の出口と、あなたが死ぬまでの食べていく方法を考えることでもあるのです。


 個人的な話をすれば、私が高校の時「なりたかった職業」は、現在では食べてゆける職業ではなくなっています。ですから、私はその仕事についていません。


 もちろん、ほんの一握りの人は、その職業で食べていっていますが、食べてゆける人数の順位に、私のレベルではなかなか入れないことも、気付いてしまいました(苦笑)


 なので、私は、まったく違う分野の仕事を本業にして、副業で「なりたかった仕事」をしています。

 お金を稼ぐ金額は、本業とは雲泥の差がありますが、副業のほうの「なりたかった仕事」は半分趣味と実益を兼ねてやっていますので「やりたかった仕事」ができてとても嬉しい気持ちです。


 ただ、嬉しい気持ちだけでは、私もあなたも食べてゆけないのです。残念ながら。


 私は、いくつもの名前を使い分けて活動していますので、本業以外にそうした「副業」のようなものをたくさん同時にやっています。吉家孝太郎、という名前はそのうちのたった一つです。




 そういう意味では、みなさんの人生はちょっと明るい希望に満ちているかもしれません。「職業」と「食べてゆくこと」が切り離れている生活が当たり前になれば、あなたは「なりたかった仕事」「やりたかった仕事」を(本業ではなく)、自由にチョイスできるようになることでもあるからです。


 多岐に渡る仕事の内容を、それぞれの分野で時間を分けて関わることができるならば、それは幸せなことかもしれません。


 本業はサラリーマンで、趣味で絵を書いていてそれがネットでお金になったり、あるいは依頼されてイラストを書いて報酬をもらう、とかそういうことは既に当たり前になりつつあります。


 私の知っているある人は、ふだんは鬼瓦を作るメーカーで働いていて、別に個人としてアニメのフィギュアの原型を作って東京の会社に提供している人がいます。


 彼なんかは、いちおう同じジャンルで活動しているほうですが、別にジャンルが違っていても全然かまわないわけです。


 私は今このブログなど、文筆を中心にこの名前では活動していますが、別の名前では音楽家でもあります。




 3年間という長いようで短い期間に、ぜひあなたの進路のその先で「食べてゆく方法」を考えてみてください。時間はたっぷりありますが、あっという間にその日はやってきます。
 

 

 追伸:女性のみなさんへ


 女性の場合は、以前にもお話しましたが20代から30代の約10年~15年の間という短い期間に、妊娠と出産をどうするのか、ということが大きく関わります。


 ですので、あなたの進路のその先に、「結婚はしてもしなくてもいいけれど、妊娠と出産はどうスケジュールに組み込むか」をずっと頭の片隅に置いておくことが重要です。


 こどもの世話をするのは、男性にもできますが、妊娠と出産は女性にしかできません。ですから子育てのことはパートナーと協力するにしても、安全で健康的に妊娠できる期間については、忘れてはいけないことです。



 ですから重ねて言いますが、女性のみなさんにとっても「なりたい職業」も大切ですが、「自分がどう生きて、妊娠出産の期間の前にどんな仕事に就くのか、そして子育て後にどんな仕事をするのか」という長いスパンの目線が必要なのです。



 現代を生きている女性で、「どんな仕事に就くのか、どんな仕事をするのか」だけを見て職業選択をしてしまい、妊娠と出産の適齢期を逃して後悔している方がたくさんいます。


 彼女たちは、当時このブログを見られなかったし、誰もそんなアドバイスをしてくれなかったので、そうなってしまいました。


 みなさんには、事前に警告することができます。妊娠と出産をどうしたいか、はとても大切なテーマです。


 後で後悔するくらいなら、今のうちに考えておくと良いと思います。

2014年10月22日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書16】自由とは何か

 みなさんは、今の家庭や学校での生活を「息苦しい」と感じているでしょうか?それとも、「気楽でいい」と感じているでしょうか?


 古い話で恐縮ですが、私が中学生や高校生のころは、学校における制服の既定などがしっかり定められていて、いわゆる「校則」が厳しく運用されていました。

 もっと古い話をすれば、私が住んでいたとある地域では、「中学生男子は全員丸刈り」が強制されていて、私のひとつ年上の先輩までは、全員丸刈りでした。私の代から「長髪が解禁」された、なんてことがあったのです。


 他にも女の子であれば、スカートは膝頭から何センチの範囲に収まってなくてはいけない、とかそんなルールもありました。持ってよいカバンの種類まで決められていたように思います。


 そうした規則やルールを「厳しい・堅苦しい」と思うのは自然なことです。誰もが、そうしたがんじがらめのルールに対して「息苦しい」と思うことでしょう。



 自由とは何か。これは若者が人生で一度は考える悩みの一つです。学校だけでなく、家庭の中でや、親に対しても「自由が欲しい」と感じる場面がたくさんあることでしょう。




 というわけで、今回は「そもそも自由ってなんだ?」というお話です。


 歴史的な「自由の定義」はともかく、現代における自由とは、ひとことで言えば「自分の意思で何かを決定し、行動できること」とされています。


 ということは、あなたは自由ではありませんね(苦笑)。今日のお昼のお弁当は、お母さんの作ってくれたお弁当の中身に束縛されていますから、自由ではありません。今日の授業の時間割が決まっていますから自由ではありません。放課後には部活動が待っています。自由ではないのです。


 会社員である私は、会社にいかなくてはいけないので、自由ではないし、電気ガス水道代を払わなくてはいけないので、自由ではありません。


 現代社会に暮らしている以上、真の意味で自由な人がいるとしたら、「野山にあるものを勝手に食べたい時に採集して食べ、寝たいときに大地に寝て、誰がなんと言おうとそこらへんで用を足し、お金をまったく使用せずに暮らすことが出来る人」ということになります。


 もう、なんか、ホームレスとかそういうのを飛び越えて「野人」いや、もういっそ「野獣」な人だといわざるを得ません(笑)


 というわけで、私たちが普段考えている「自由」ということの大半は、ある部分だけを自分にとって都合よく考えた「自由」だということになります。


 人生を自由に生きたい、というのは、お金は支払わなくてはいけないけれど、できればたくさんお金を持っていることでそれを感じなくしたい、とか、今日のお昼ご飯は、自分で決めたい、とかそういうことです。


 お昼ごはんくらいは、かなり自由ですよ。お母さんが持たせてくれたお弁当を野山に投げ捨ててしまいましょう。「お弁当からの束縛から脱出」するのです。あなたの昼食のメニューは、なんと自由なことでしょう!


 盗んだバイクで走り出す必要もなく、「自由になれた気がした、15の昼」です。



 よく、一般的には「自由の権利を主張したい場合には義務を果たさなくてはならない」みたいな堅苦しいことを言う人がいますが、私はそんなしょーもないことは言いません。


 なんてったって自由なのですから、義務なんて果たしません。義務からも自由でありたいわけです。人は。


 だから、お弁当から自由になるために、もうお弁当は食べないのです。お金から自由なので、お金は持っていないのです。ただ、おなかをすかせた、自由な私がそこにたたずんでいます。お腹をすかせながら(笑)



 現実社会をよく見ると、「自由の権利と義務」がセットになっているというのは、ちょっとウソで、実は「自由と保護」が一体になっているということがわかってきます。


 お弁当が決まっているということは、お弁当が与えられているという保護があなたには与えられている、と考えてください。


 お弁当が自由だということは、お弁当をそもそも持たせてもらっていない、(ほっとかれている)ということだと、気付くのがポイントです。



 制服が決まっているということは、あなたには「制服が与えられている」ということです。着るものがまったくない貧しい状態ではない、ということがわかります。


 親によって進路が決められているということは、親がその道を選ぶことを保証してくれているということになります。「好きにすれば?どうでもいいし」と言われるより、よっぽど愛されています。


 自由ではない、ということの裏には「かならず保護」が隠れているのが、この世界です。


 
 もう少し、社会的な例を考えてみましょう。


 信号のルールが定まっておらず、自由に通行してよいとすれば、車にぶつかってはねられたら、「はねたヤツが悪い」か「はねられたヤツが悪い」かのどちらかに自然に決定されます。


 はねられたヤツがもし死んでしまったら、生きてる方がどう頑張っても勝ちですね。死に損です。


 これが自由な社会で、自由なゆえに誰もあなたを守ってくれません。


 ところが、信号というルールがあることで、(制限があることで)、信号無視したほうが悪いんだという決まりができ、それに従って結果が判定されるようになります。


 悪いほうが相手をしなせた場合は、刑罰という報いを受けることになります。自由だったら、刑罰もありません。だって自由なんだもの!イエイ!


 
 人は職業選択の自由も持っているし、居住の自由も持っています。なので、今日家に帰ったら、山田があなたの部屋に居座っていて、そこから動かない自由を発揮しているかもしれません。


 それはたいへん困ると思います。


 なので、国家は「住居侵入罪」という制限をわざわざ作って、山田がどこに住んでもいい自由をあえて制限しているのです。


 あなたは自由でないことの見返りに、安心して自分の部屋で過ごせるという保護を受けています。




 こうしたことから言えるのは、あなたが何か「保護して欲しい」「権利を守ってほしい」と思うことがあれば、多少「自由が制限される」ということと抱き合わせであることを納得しなければなりません。


 それを納得できない人は、この世界では排除されることになっています。だから、他人の部屋の真ん中で放尿する人は自由を制限されるし、他人の夕食を勝手に食べる人は自由を制限されるのです。




 もちろん、こういう例え話をしていると、「でも、他人に迷惑かけなきゃいいじゃん」と言う人がかならず出てきますね。


 「靴のかかとを踏んでいたり、シャツの裾が出ていたり、腰パンでもだれにも迷惑かけてないじゃん」


と主張する人がいるでしょう。なんてったって自由なんですから。


 というわけで、明日から、校長先生は黒塗りのベンツで学校に来て、毛皮のコートを身にまとったミニスカの保健の先生といちゃつきながら朝礼を行うことにします。自由だし。


 教科の先生は、東進ハイスクールの映像授業をテレビで流して、自分は静かに50分間黙っていることにします。


 生徒指導の先生は、タバコを販売してくれることになりました。


 音楽の先生は、XJapanのドラムを実演してくれます。毎時間。



 ・・・誰にも迷惑をかけていないかもしれませんが、どうもこれではマズイらしいことは想像がつきますね。


 そう、学校の先生がそれらをしないのは、みなさんの学力が一定程度になるように、国から指令を受けて「これこれ、こういう内容のことを授業でやりなさい」とか「こういうことは、してはいけない」と制限されることで、みなさんの学力を保護しているのです。


 皆さんを保護するという意味では、「シャツ出し腰パン禁止」も同じです。


「あそこの学校の子、やあねえ、あんな格好して」


と周囲の人たちから後ろゆびさされないように、保護されるためには必要なことのようです(笑)


 なので、どうしても腰パン・シャツ出し、茶髪にしたい人は、学校を辞めたら自由になれます。実際にそうして高校を中退する人は山ほどいます。仲間ですね。


 しかし、その時は自由になれたかもしれませんが、その後は自由であるかどうかはわかりません。なんといっても「高校生」という保護された環境からほったらかしにされるわけですから、もしかしたらかなり不自由な生活が待っているかもしれません。




 タバコを吸えるのは大人になってからですが、大人になったら犯罪時に名前を出されてしまいます。

 お酒を飲めるのは20歳になってからですが、20歳になったら少年法で守られません。


 ね?自由と保護は、ちょっと関係あるでしょう?




 この自由と保護のお話は、もっと本格的なことや重たい話がいろいろあるのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。より詳しいことが知りたい場合は「新自由主義」とか「規制緩和」といったことばをググってみてください。


 政治や経済の社会の中で「自由と保護」がどのように関わっているかの重たい事例がたくさん見つかると思います。


 


 
 



2014年10月21日火曜日

【高校生のための”人生”の教科書15】学校はRPGである

 今回は、いわゆる机に座ってするような「お勉強」とはちがう話をしたいと思います。


 みなさんは高校生で、これから大学まで進学するかもしれませんが、「学校」という枠組みの中で、一番身に着けておかなくてはいけないことは、知識のほかにたくさんあると思うので、その話をします。


 私は学校というのは「RPG(ロールプレイングゲーム)」のようなものだと思っています。


 特に、集団における人間関係やコミュニケーションにおいて、「学校生活」で、あなたは経験値を増やさなくてはいけません。学校はそれを身に着ける、よき修行の場です。



 現代の学校には、いろいろな問題が渦巻いています。「スクールカースト」という”立ち位置”の問題や、「いじめ」、「便所飯」のような1人ぼっち問題など、人間関係に関するありとあらゆる悩みが、そこに現れています。



 いいですか?大事なことなので書いておきますが、これらのあなたをとりまく問題を解決できなかったり、こじらせたりすると、それはあなたの人生を一生悪い方向に引きずることになります。


 いくら勉強ができても、スポーツができても、人間関係をマスターしなければ、就職してもダメです。何をしてもダメなんです。



 こんな恐ろしいことを話していると、すでにガクブルかもしれませんが、幸せなことにあなたにはチャンスがいくつかあります。


 小学校・中学校・高校・大学などの最低4回のストーリーをプレイすることができるので、あなたには3回分のリセットボタンが与えられていると思ってください。


 学校を変わるごとに、うまく行けば学校生活というRPGをやり直せるチャンスがあるのも事実です。ですから、失敗してもその回数まではなんとかなります。




 では、学校生活のRPGの中で、「何を」身に着ければいいのでしょう。学校生活における「経験値」とは、何が大切だというのでしょうか。


 まず、大切なのは「明るく他者とコミュニケーションがとれること」です。これは基本中の基本です。


 宝塚歌劇の「清く正しく美しく」ではありませんが「明るく元気でさわやか」であることは、人生における必須経験値です。


 これが学生生活の間に身に付いていないと、社会に出たときに苦労します。ほんとうに苦労します。繰り返しますが、死にそうです。


 アホでもいいし、ダメ人間でも「明るく元気でさわやか」であれば、許されることがたくさんあります。ちょっとずるい感じもしますが、それくらいに「明るく元気でさわやか」なことは、魔法のアイテムなのです。


 では「暗くてひ弱でいじけている」人は、どうしたらいいのでしょう。一刻も早く、その真逆になるよう努力すべきです。学力の勉強なんてしなくていいです。そんなのなくても、「明るく元気でさわやか」であればなんとかなるからです。


 正直にお話しますが、これまで「暗くてひ弱でいじけている人」は、もしかしたらあなたもそうかもしれませんが、それを修正するのが嫌で、

「楽な方に逃げている、つまり勉強をすればいい、勉強ができればそれでも許されるだろう」

と「明るく元気でさわやかになることから逃げていた」ことでしょう。




 それはいけません。それは逃げているだけです。勉強はたしかに、孤独でネガティブで一人ぼっちでもできます。そして、これまでの日本社会はそれでもなんとかなりましたが、もうそれもおしまいです。残念。



 「引きこもり」であるとか「ニート」であるとか、そうした人たちが社会問題になっていますが、彼らのうち多くの人は、学力も学歴もあり、そして保護者がお金を持っています。


 いろいろ「もってる」ものがたくさんあるのに、彼らは社会に適合できません。それは、人間関係・コミュニケーションの訓練をおろそかにしてきたからに他なりません。いや、おろそかにしてきたというよりも、その苦しい修行から「逃げてきた」からに他ならないのです。


 親がお金を持っているせいで、「逃げていてもなんとかなった」側面もあります。



 しかし、その親たちは、いよいよ本人たちが死んでしまったり、お金が尽きたりするような状況になってきました。大変です。引きこもりやニートは「自分でお金を稼ぐ力」がありません。



 ・・・とまあ、少し強い口調で書きましたが、私は「引きこもりやニート」を馬鹿にしているわけでも、敵視しているわけでもありません。とても可哀想だと思うし、「ああ、リセットボタンを使い果たしてしまったんだな」と悲しいキモチになることも事実です。


 だからこそ、これを読んでいるみなさんには、できればその生き方を避けてほしいと思っています。




 どうして人間関係・コミュニケーションが重要なのでしょうか?それは、人が生きていく上で、あなたが何かサービスを受ける上でも、とても避けては通れないものだからです。


 「美女と野獣」の物語のように、あなたが人を避ければ、人もあなたを避けます。あなたが笑わなければ、誰があなたに微笑んでくれるでしょうか?


 お金がある間は、あなたにサービスをしてくれる人がいるでしょう。しかし、お金がなくなっても、誰かがあなたを気にかけてくれるとすれば、それはあなたが気にかけてきた相手だけなのです。




 もうひとつ、あなたにとっては嫌な話をします。人間関係が苦手で、コミュニケーションが苦手な人は、一見「自分はネガティブでダメだ」と思っていますが、その心の奥底で「自尊心・プライド」がとても高く、「他人はアホで馬鹿だ」と思っていることがかなりの高確率で多いです。


 自分のプライドや自尊心が高いあまりに、「他人に対してへりくだったり、下に見られたり、道化を演じることができない」のです。



 もし、あなたがコミュニケーションができずに苦しい人生を送ることになるのならば、それは、あなたが捨てられなかった「自尊心やプライド」の仕返しだと思ってください。



 なぜ、これほどまでに私が強く言うのか。それは、すべての「明るく元気でさわやかな」大人たちは、苦しいこと、自尊心をつぶされる事、プライドを引き裂かれるようなことがあっても、それを隠したり乗り越えたりしながら


 「顔で笑って心で泣いて」


いるから「明るく元気でさわやか」に見えるというのが真実だからです。



 大人になる。社会で生きていくというのはそういう側面もあります。




 






 

2014年10月20日月曜日

【高校生のための”人生”の教科書14】高校で何を学ぶか、大学で何を学ぶか

 前回は、勉強=学ぶことの基本的な意味についてお話しました。

 それはまず、


 「勉強というのは、最終的に楽をするためのものだ」


ということが第一段階で、


 「勉強で得た知識を、どう生かすか」


ということが第二段階であることを確認したと思います。




 この、一見あたりまえなことが、意外とうまくいかないのが多くの人の人生です。


 勉強がよく出来て、知識がしっかりあって、偏差値の高い大学を出ても、社会において


「つかえねえな、こいつ」


と思われてしまう人材は山ほどいます。それは、第一段階だけで、第二段階を見過ごしているからですね。


 逆に、学生時代の勉強はいまいちでも、人生を過ごすうちに「どうこの世界を生き延びてゆくか」に力を発揮する人たちもいます。その人たちは、学歴は遡ることはできませんが、その時々に応じて「新しい知識を自ら学ぶこと」で乗り越えてゆきます。

 (結局、勉強は続けているというわけです)


 ちなみに、知識というのは単なる物量なので、いくらでも後から増やせます。しかし、それを使いこなす能力は技量(テクニック)なので、得意な人と不得意な人がいます。


 そこが、ちょっとしたポイントだったりします。




 さて、みなさんはこれから、高校3年間、大学4年間でいろいろな知識を学習しますが、それらは全て第一段階ですから、何を勉強しようと実は「生かせるかどうかは」わかりません。


 たとえ司法試験に合格しても同じです。弁護士になれる資格があっても、「仕事がこない」人は山ほどいます。


 ここがポイントですが、


「発展途上国の場合は、知識を持っている人の数が少ないので、知識を持っているだけで重宝される」





「先進国になると、知識を持っている人の数はたくさんいるので、知識だけでなくそれを使う力が試される」


というわけです。



 みなさんのおじいちゃんの時代、そしてお父さんの時代までは、まだ「大学卒業者」が重宝されましたが、今は違います。知識を持っている人は、いくらでもいるのです。





 さて、ここからは少し見方を変えて、違う視点でお話しようと思います。ではなぜ、今でも私たちの周りでは「偏差値がどうの」とか「いい学校が」とか「いい会社が」といった話がまだ残っているのでしょうか?


 それは、学校というシステムがもっている、ある機能に社会が期待しているからです。その秘密をお話しようと思います。



 まず、いい学校とは何か。みなさんが思い浮かべる「いい学校・お勉強ができる学校」の名前を想像してみてください。その学校は、おそらく中学校からすごく勉強ができる生徒が通う学校で、最終的には東京大学に進学する生徒がたくさんいるような高校ももっているかもしれません。


 その学校の名前を仮に「難高」としましょう。良く似た名前の学校がありますが、気のせいです。


 「難高」はいい高校とされています。「難高」からは、東大進学者がたくさん出るくらい、優秀だとされていると仮定してください。


 ここで、ちょっと考えます。「難高」は授業内容が高度で、しっかり教えてくれるから、生徒は東大へいけるのでしょうか?それとも「もともと東大へいけるような生徒が集まる」のでしょうか?


 これは、実は誰も恐ろしくて実験したことがありませんが、答えは「後者」です。


 そう、「難高」から東大入学者がたくさん出るのは、「難高」が教える力がすごいのではなく、もともと入学する生徒の力がすごいからなのです。


 もし「難高」に大量のヤンキーが押し寄せてきたら、「難高」は大学どころか、高校卒業すらあやうい生徒の溜まり場となることでしょう。



(もちろん、能力の高い生徒が集まることで、より内容が高度な授業ができる、という面はあると思います。生徒の力と授業の力が掛け合わさって、より相乗効果を生んでいる面もありますが、ここではその点は考慮しません)




 さて、それでは「いい学校」というのは、そもそも「いい生徒が集まる」ことで「いい学校」になっているのだ、ということがわかりましたね。


 これは、学校には「選抜機能がある」と一般的に言われます。日本社会には、たくさんの「地域一番の学校、二番の学校、三番の学校」があり、中学や高校に進学する時点で、多くの生徒が振り分けられるようになっています。


 そして、次に大学入学時点で、さらに振り分けられるのです。



 この


「振り分け機能」


が、実は日本社会にとって、めっちゃ便利なのです。


 そう!とてもとても、ある人たちからすれば便利なので、やめられないのです。


 あなたが、どこかの会社の社長をしていて、優秀な社員を欲しいなあ、と思っているとき、5人の人間が現れたとしましょう。


 その5人の人間が、どれだけ知識を持っているか調べるには、5人に対して学力試験をしなくてはいけませんが、さてどれくらいの問題数とか、どれくらいの難易度で、誰が問題を作ればいいでしょうか?


 ・・・うーん、考えるだけでメンドくさい感じがしますね。実際に、その試験を作って、試験を実行するには、手間もかかります。採点もしなくてはいけません。


 しかし、Aくんは中卒、Bくんは高卒、Cくんは名もなき大学卒業、Dくんは東京大学、Eくんはハーバード大卒だとします。


 すると、別に学力試験をしなくても「ああ、Aくんは中学校レベルの知識、Bくんは高校レベルの知識、Cくんはふつうの大学レベルの知識・・・を持っているんだな」


とすぐに分別できます。


 こういう便利さを「ラベル」といいます。誰それが何々大学卒業であるということは、その人が、そこを卒業できるくらいの力があったんだな、とおでこに「ラベル」が貼られていて、すぐに分かるのと同じだというわけです。




 私たちの身の回りの商品には、「特上」とか「並」とか、「上選」とか「ピュアセレクト」とか「純生」とか、いろいろなラベルが貼られた商品があって、「どノーマルな普通の商品とは違いますよ~」ということをPRしています。


 学歴もそれとおなじで、「何か、普通より上っぽいラベル」が貼られていたほうが、より買ってもらいやすくなります。


 しかし、逆の言い方をすれば


「新米・農家が選んだ特選ほしのゆめ」




「ふつうのコシヒカリ」


とどちらがおいしいかは、食べる人の好みですよね?


 「やっぱりコシヒカリがいいわ~」という人もいるし「さすが新米」という人もいます。なので、どの大学を出た人物が、どれだけ「使えるか=おいしいか」は食べてみないとわからなかったりもするわけです。


 ただ、だからといって「なんのラベルも貼っていない、わけのわからないお米」を指名してくれる人は、あまりいません。なので、そういうお米は


「金額を安くしないと売れない」


わけです。


 だから、学歴がない人は実力があるかもしれないけれど、安い給料でスタートせざるを得ないのです。




 高校・大学で何を学ぶかは、あなたの好きにしたらいいことです。しかし、その結果、あなたのおでこにどんなラベルが貼られるのかを知っておくことは、悪いことではありません。






 

 




2014年10月19日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書13】勉強とは何か?

 前回は、どうやら勉強を続けないとダメそうだ、という状況についてお話しました。世界の国の中で、あなたがどちらかと言えば高い給料をもらって生きていこうと思えば、勉強することは避けられそうにありません。


 では、ここで基本に戻ってみましょう。そもそも「勉強」ってなんなのでしょうか?どうして人は勉強するのでしょう?




 では、いきなりですが例え話をします。



 あなたはテレビを作ったことがありますか?



 これを読んでいる99.9%の人がたぶん「無い」と答えると思います。いやいや、それより自分にはテレビなんて作れないよ!と思うことでしょう。


 私はテレビを作ったことがあります。3台くらい作りました。作り方は簡単です。アホでもできます。


 パチンコ台から外した液晶画面と、画面に映像を映し出す基盤と、音を出すスピーカーと、電波を拾ってくるチューナーの部品と、電源をくっつけるだけでできます。


 部材の数で言えば、5つですね。電源はそこらへんに転がっているACアダプターで大丈夫です。



 5つくらいの部品をくっつけるのは簡単です。出ている線も全部で10本くらいのもんですから。


 (もちろん、テレビがデジタルになってからは少しややこしくなりました。カードを差したりしないといけないとか、いろいろルールが変わったので)


 それなら簡単そうだ、とみなさんも思うことでしょう。その通り、ほんとうに簡単です。


 

 どうして私がテレビをつくることができたかと言えば、「既に誰かがテレビを発明していて、既に誰かが部品を作ってくれていたから」に他なりません。


 そうでなければ、一から液晶画面を製造したり、ほんの小さな部品ですら、自力で作ることなんてできるはずがありませんよね。


 これは、実はすべての人にとって同じことが言えます。今、ソニーの会社に勤めて、テレビを作っている人に「テレビを一から作ってください」とお願いしても、絶対に無理です。


「えー、そんなの言われても、俺がやっているのは、テレビを作る機械を動かしているだけで、部品をよそから仕入れてきたり、どこか別の部署で作っているのを集めて組み合わせているだけだもの」


と肩をすくめることでしょう。なんだ、それなら私とやっていることは同レベルじゃないか、というわけです。




 すでに誰かが作っているモノ、これは私たちが「勉強する内容」に似ています。私たちが学校で勉強するのは、「既に誰かが発見したり、調べたりしたことの結果」を横取りして利用させてもらっているに過ぎません。


 あなたが何もないところから独自の文字を生み出すのも大変なことだし、水を分解して水素と酸素に分けることだってできっこありません。


 この世界のことを、一から「知ろう、理解しよう」とするのは、恐ろしく大変な作業なのです。なので、それぞれの国や地域で、それらの中から最小限コンパクトにまとめた「これまでにわかっていることのリスト」をみなさんに伝達する、それが学校で教えられている内容だということになります。




 勉強というものは、自分で一から、最初から努力せずに済むためにあるものなんだ、ということがざっくりわかった時点で、では勉強しないとどうなるのかについてお話します。


 今の大人にその質問をしても「勉強しないといい会社に入れない」とか、そういう古めかしい話をされるのがオチですので、その手の話はとりあえず聞き流しておきましょう。




 実際に勉強しないとどうなるのか。その最も重要な部分は「何かを作ることができない」ということです。


 私たちは一般的に消費者と言われ、「何かを買ったり使ったりすることは大得意」です。しかし、それはお金を払うほうの立場であって、お金を使うためにはお金を稼がなくてはいけませんね。



 お金を稼ぐためには、何かモノを作って、それを売らなくてはいけません。あるいは、あなたの体を使って肉体で稼ぐしかありません。


 何かを作るためには、それがたとえ誰かの作ったもののパクりであっても、その作り方を知らなくてはいけません。また、その材料をもらってきたり買ってこなくては作る事ができないわけです。


 作り方を学ぶのはズバリ勉強そのものですね。材料を手に入れるのはさっきのテレビの話と同じで、誰かがやってくれたことを流用するわけですから、これも勉強に似ています。


 というわけで、「勉強すれば、何かが作れる」というところまではわかりました。




 逆に、もう一つの生き方である「体を使って肉体で稼ぐ」というのはどうでしょう?建設作業に従事する人は、人の手で穴を掘ったりします。


 人の手で穴を掘ったり、人の手で柱を建てたり、そういう仕事をしている人たちは、その意味では学校の勉強内容があまり直接役立たないかもしれませんね。


 しかし、普通の人であれば「いやー、いつまでもこんなことやってると疲れるだけなので、どうにかもっと効率を上げたり、楽に仕事ができる方法はないかなあ」と考えはじめます。


 ピラミッドをすべて人の手で作っている時代であれば、全部が人力ですが、それでも「ソリ」とか「コロ」とかを発明したり使ったりして、「なんとか楽にこの仕事をしたい」と人類は思ってきたわけです。


 そこでどうするか。工具を使ったり、機械を使って楽になりたいと考えます。賢い人ならば、「こんな道具を作ろう」と考え始めますし、ふつうの人でも「建設機械の免許を取って、楽に仕事をしたい」と思います。


 ほら、やっぱり免許を取るために勉強をしなければならなくなりそうですね。



 勉強をしなくてもOK、という人生を送るには、「食べ物を自給自足し、すべて自分の肉体で働く」という状況でないと無理なのです。


 つまり、めちゃくちゃしんどい!勉強をしたくない~、と言っているヤワな人には耐えられない生活が待っているということです。


 筋肉ムキムキで、野生でも生きられそうなワイルド君であれば、現金もいらず野草と野獣を食べて、体だけを使って生きていけそうですが、あなたには確実にムリだと思います。




 なんとなく、わかってきたでしょうか?そうです。勉強というのは、結局は「以前に誰かが既にやってくれたことをパクったり、利用したりして、楽に人生をすごす」ことなのです。


「こうすれば楽にできるよ」という知識が多いほうが、人生はさらに楽になります。


言い換えれば、「こうすれば効率がいいよ」とか「こうすれば生産力が上がるよ」とか「こうすればお金が稼げるよ」とか、そういうことです。


だから、勉強し、知識量が多い人ほど、「労働が楽」であったり「稼げる金額が多い」というしくみになっているわけですね。




 もちろん、勉強することの本来の意味合いが、現在では多少ずれてきてしまっていることもあるので、「たくさん知識を持っている人が、誰でもお金持ち」とは限りません。それは、この前のお話で説明したとおり、


 学力だけあっても、イノベーションできる人材じゃないとダメ


という話と関連してきます。


 そう!知識がいくらあっても、それを「使いこなすテクニック」を持っていないと本来の力が発揮できないからです。




 ちょっとずる賢い人なら、こんなことに気付くと思います。


「知識だけなら、グーグル先生に聞けばなんでも教えてくれるじゃん」


なんてことを言いそうですね。はい、もちろんその通り。グーグル先生の知識量は、半端ありません。パネエです。


 しかし、ここからがポイントです。グーグル先生は「知識・情報」を教えてくれますが、


「そこからそれをどうするのか」


までは代わりにやってくれません。


 ”おいしいパスタをゆでるために、ゆで時間は10分”とグーグル先生が教えてくれても、かわりにゆでてはくれないのです。


 そこがミソです。さっきの話と同じで「大事なのは知識だけじゃなくて、それを使いこなす力」だと言う訳です。




 それでも、幸せなことに、世界のほかの国々では、その「知識」の部分すら満足に伝達されていない国がたくさんあります。


 世界第二位のある国でも、「国家が隠していて教えてくれない情報・知識」がたくさんあったり、「真実とは異なる、意図的に改造された知識」を教えられたりしていることがあります。


 そんなキモチの悪いことが起きているのであれば、よりいっそう「何が正しいのか、自分でもっと勉強したい」と思うようになりませんか?


 きっと、その国でも「真実を知るために勉強しよう」と思っている若者がたくさんいるはずです。











 

2014年10月18日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書12】第三章 どうして勉強しないといけないのですか?

 どうして人は勉強しないといけないのでしょうか?


 これは、学生にとっての「永遠の悩み」のようなものです。おそらくあなた以外のすべての「かつて学生だった人・今学生である人」が皆


 ”どうして勉強しないといけないのだろう”


と思ったことがあるはずです。




 その理由は、後でお話しますが、少なくともこれまでは「いい学校に入って、いい会社に就職するため」ということが、多くの人の間で信じられてきました。


 勉強をする→いい成績を取る→いい学校(偏差値の高い学校)に進学する→いい会社(給与の高い会社)に就職する


という流れは、日本の社会の中で「よい人生」とされてきたからです。


 ところが、それは日本の経済全体が上昇する、という条件があってはじめて成立することでした。


 これも以前にお話しましたが、日本人は給料が安かったので、世界中からいろんな仕事がまいこんできました。そこからみなさんの先輩が一生懸命働いて、どんどん経済発展することができました。


 この期間は、「よりよい製品を作れる会社」「よりたくさん販売できる会社」など実力のある会社に就職することが重要だったのです。そして、その会社に入社するには「試験という選抜を突破」するために学力が必要でした。


 (厳密には、入社試験そのものよりも、学力の高い大学に入ることが重視されましたので、学力の高い大学を卒業すると、かなりの高確率でよい会社に入社することができた、ということです)


 

 ところが、日本人の給料が高くなってしまうと、世界中の仕事の多くは、より給料の安い外国へと流れていってしまいました。ということは、「高い給料といい会社」というこれまで「良い」とされてきたことが、「良いとは言えない、悪い」と逆転してしまったのです。



 まだ、ちょっとわかりにくいと思うので、たとえ話をします。



 10万円のテレビがあります。有名ないい会社が作った画質のいい製品です。40インチのテレビです。


 5万円のテレビがあります。アジアの国の名もなき会社が作ったふつう画質の製品です。40インチのテレビです。


 どちらがたくさん売れるテレビだと思いますか?そう、答えは簡単。いいテレビが欲しい人も一定数はいますが、ほぼ確実に5万円のテレビのほうが、圧倒的に売れることでしょう。


 ということは、「いい製品を作るいい会社は稼ぎが少ない」ということになります。「そこそこの製品を作るアジアの会社は稼ぎが多い」ということになるわけです。


 あれ?おかしなことが起こっています。「いい会社がちっとも良くない」ことに気付きませんか?だって、もらえるお金が少ないんだもの!変ですね。


 これが今の、そしてこれからの日本で起きていることなのです。




 こういう仕組みで、これまで「いい会社」とされてきた「技術力もあり、販売力もあった会社」がどんどんと弱ってきてしまいました。ソニーや松下電器がしんどくなったのもそのせいです。シャープがえらいことになったのもそうです。日本だけでなく、アメリカでもおなじで、IBMといったコンピュータの会社がパソコン部門を中国に売り払ったりしています。

 そんな事例は山ほどあります。いくらでも「これまでいいとされてきた会社」がダメになっているのです。



 そのため、これまでの「いい学校からいい会社」という道筋が通用しなくなってきたわけです。



 では、どうすれば先進国の高い給料の人たちが、お金をそれだけ稼ぐことができるようになるのでしょうか?ヒントは、あなたの手元にあります。


 現在、アップルという会社がiphoneという携帯電話・スマートフォンを売り出して世界中でお金を稼いでいます。(もちろん、アジアの国もそれに負けないように真似した製品をたくさん作っています)


 iphoneが凄い!と言われるのは、ざっくり言えば「誰も作ったことがないような新しいモノ」だったからです。(もちろん、どんな新しいモノもいつかは当たり前になりますが)



 新しい、誰も作ったことがないようなものは、他が真似して追いつくまでは「高い値段」で販売することができます。そこがミソです。高い値段で販売できるから、先進国で働く人たちの高い給料をまかなえるのです。




 ということは、先進国民は常に「新しい、誰も思いつかなかったようなモノ」を次々に作り続けないと高い給料を払い続けられない、ということになっているのが今の状態です。



 IPS細胞のような、新しい技術を開発したり、蛍光灯をLEDに変えたり、とにかく「今までより良い、新しいモノ」を作り続けなくてはいけません。


 一般的にはそういうことを「イノベーション」といったりします。革新ですね。イノベーションできる人材がいないと、高いお金は稼げないのです。



 さあ、これが難しい。これが勉強とどう関係してくるのでしょうか?




 まず、第一に「勉強ができることと、新しいモノを生み出すことができることは違う」ということが大切なので、そこをしっかり押さえておきましょう。


 新しいモノを生み出すことはアイデアを思いつくことなので、学力があることとは別の能力です。大学の偉い先生はみな発明ができるか?といえばそうではないですね。もちろん、学力も無関係ではないけれど、そこだけがポイントではありません。


 わかりやすい例を挙げましょう。


 「使い易いデザイン」「誰でもすんなり使えるデザイン」を生み出そうとした場合、どれだけ勉強すればそれを作れそうですか?


 うーん、なんとなくいくら勉強してもダメそう、だとみなさんでも直感的に気付くはずです。その通り、こういうモノは机の上のお勉強だけでは生み出せそうにありませんね。



 というわけで、勉強ができること、学力があることだけでは、高い給料に結びつけることが難しい時代に突入してきました。そうすると、大切なのは学力以外の「経験」であったり、「別の能力」だと言えそうです。



 ぶっちゃけ、じゃあどうすればそうした能力を育てることができるのか、についてはまだ誰もわかっていません。なので、日本中の大学では毎日のように、自分たちの学校をどうしたらいいのか模索を続けています。


 学力についてはみな自信があるけれど、これからの日本の経済を伸ばしてゆくための方策については誰もわかっていないので、賢い大学の先生でも困っているのです。



 第二のポイントです。では、学力が重要でないとすれば、勉強はしなくてもいいんじゃないか?と誰もが思うはずです。それについてはどうでしょうか。


 いえいえ、そうではありません。これもぶっちゃけ嫌な話をします。いいですか?実は大変なことが起きているのです。


「あなたが知らないところで、別のアジアの国々の高校生が、たくさん勉強をして、あなたに勝ってあなたから給料を奪い取ろうとがむしゃらになっている」


ことをあなたは知りません。あなたに追いつこうとしているヤツラがたくさん背後から狙っているのです。ああ、恐ろしい!


 韓国サムソンという会社が、iphoneの真似をしているといって訴訟になったりしていますね。アジアの国では10万円のテレビの真似をして、5万円のテレビを作っています。


 これは、つまり、電話を作れる・テレビを作れるという話において「他の国の学力も、そこまで追いついてきている」ということを示しています。


 もしあなたが勉強をしないと、あなたの未来はもっともっと貧しい国の人々と同レベルになってしまうということなのです。恐ろしすぎてチビりそうです。



 私が学生の頃は、そこまで考えなくてもなんとなく勉強していれば、なんとなく日本全体の経済力でなんとなくなんとかなりました。しかし、それは私たち世代でおしまいのようです。


 

2014年10月17日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書11】人は何のために生きているのか

 あなたが高校を卒業して、進学したり就職したりしたのち、もしかしたら誰かと出会って「結婚」することになるかもしれません。


 以前からこの話で書いているように、みなさんのうち「全ての人が」結婚するわけでもなく、また子供を授かるわけでもありません。


 生涯未婚率でお話すると、2010年の統計で、男性は20.1%、女性は10.61%の人が、50歳時に未婚であり、かつ、それらの人は恐らく大半が死ぬまで結婚しないと推測できます。


 つまり、あなたが男の子であれば、10人に2人は結婚しない・できないことになります。40人クラスだと8人が結婚しません。


 あなたが女の子であれば、10人に1人は結婚しない・できないことになります。40人クラスであれば4人が結婚しないということです。




 ということは、少なくともこれらの人は「家族・夫・妻のために人生を過ごす」ということがないわけです。この人たちの人生の意味は少なくとも「家族」ではありません。


 自分のため、会社のため、仕事のため、趣味のため・・・。


 いろんなもののために「人生を使う」ことはできますが、この人たちは残念ですが、子孫を残さず次の世代に何かを伝えることができません。


 ということはその人たちの世代で「人類誕生から続いてきた家系の歴史」はおしまいですから、しっかり残された人生を楽しんでもらえばいいと思います。




 もし、人類が一週間後に滅びるとしたら、どう過ごしますか?



 残された期間が、しっかり充実したものとなるように、生き生きと暮らしたいはずです。



 生涯未婚という選択・結果になってしまった人は、人類の規模で「残された期間を楽しんで」ほしいと思います。




 今度は、なんとか結婚することができた人の場合について考えてみましょう。以前に、少子化の話をしたときに、夫婦のこどもの数についてもお話しました。


 出生率といいますが、女性が生涯に産むこどもの数は1.3とか1.4くらいです。すでに2人を切っていますから、人口は減る一方なのです。


 ちなみにおさらいですが、男と女の2人で、こどもが1人作ることができます。お父さんとお母さんはいつか死にますが、こどもは残ります。なので、その夫婦にこどもが2人いれば、人口は同じまま維持されます。(事故や災害で減ることはあります)


 もし、こどもが3人いれば人口は増えてゆきます。1人になると減る一方です。




 しかし、ここで覚えておきたい大事なことがあります。それは「全ての人がこどもを授かるとは限らない」ということです。


 不妊の確率は、今や「7組のカップルのうち1組のカップルは不妊」といわれるようです。あなたが女子だとすれば、40人学級で20人が男子、20人が女子だとして、そのうち3人の女の子は赤ちゃんができないということになります。


 なぜ、そんなに高確率で不妊になるのか。その理由は実はけっこうハッキリしています。


 一番の原因は晩婚化、結婚する年齢が遅くなったことにあります。私たちの世代が若かりしころは



 クリスマスケーキ



という言葉がありました。女の子は、クリスマスケーキだったのです。


 クリスマスケーキは、12月24日に大量に売れます。クリスマスイブですから、買って帰る人が山ほどいるからです。ところが12月25日になると、夕食後にケーキを食べる人は、ほとんどいなくなります。つまり売れ残りです。


 女の子は24歳までなら、貰ってくれる男性が山ほどいるのですが、25歳になると売れ残り、だという例えなのです。ちょっと上手いことを言いすぎですね。



 ところが、そんな話はもうどこかへ行ってしまいました。25歳どころか、現在では始めての結婚が30歳を超えることが当たり前のようになってきたのです。そうすると、30歳から35歳ぐらいにかけて妊娠出産することになります。長男・長女はそれでいいですが、そこから数年あけてこどもを授かろうとするとどうなるでしょう?


 あっというまに40歳になったりします。女性の体は、既に老化しているわけです。


 

 最初の結婚が遅いために、妊娠の確率が下がり、一生のうちに授かる子供の数も減ってしまいました。江戸時代なら、男子は15歳で成人ですから、もう結婚できる年齢です。10代でこどもを産むことも多かったので、たくさんこどもを授かりました。


 現在の法律でも、女性は16歳で結婚できます。ということは、16歳で母になっても大丈夫、ということなのです。いちおうは。


 科学的な見方をすれば、女性が妊娠出産に適している年齢の幅というのは、早い意見で


「16歳から24歳くらい」


遅い意見で


「20代から遅くとも35歳まで」


とされています。


 早すぎても体が成熟していないし、遅すぎると体が老化してしまいます。




 さて、ここからが重要な話です。では、なぜそもそも結婚が遅くなり、妊娠・出産が遅くなってしまったのか。


 それは女性の社会進出と関係します。クリスマスケーキの話を思い出してください。24歳で結婚するということは、大学を22歳で卒業して2年後には結婚するということです。そこから妊娠出産に入るとすれば、23歳頃には、会社を退職しないまでも産休に入らないといけないということになります。


 もし、こどもを2人・3人ほしいと思えば、そこからほぼ連続して仕事ができません。産休・育休・産休・育休を繰り返していると、これはどうも仕事にならないなあ、ということになります。


 なので、大半の人は、24歳の時点で仕事を続けることを諦め「寿退社」したわけです。


(実際には、女性の学歴が低かったため、高卒18~24歳まで6年間、短大卒20歳~24歳まで4年間といった働き方をする人が多かったようです)



 ところが、女性の大卒者が増え、社会進出が進むと「こどもをもうちょっとだけ我慢して、その間仕事に励みたい」と考える女性が増えるようになりました。


 そのため、結婚も遅くなり、妊娠出産も遅くなったのです。



 ここからはかなり、「ぶっちゃけた」話をします。



 そうして仕事中心の女性の生活が当たり前になった今、女性にとって「2つの生き方」が浮かび上がってきました。


 一つは、こどもをあきらめて自分たちの人生を豊かにする道


 もう一つは、仕事をあきらめて家族の人生を豊かにする道


です。

 こどもを諦めたり、あるいはたった1人だけこどもを作り、その代わりに高い給料を夫婦で稼いで豊かな暮らしを楽しもう、という生き方もあります。


 逆に、仕事に追われるのではなく、やっぱり子育てと家族の人生を大事にしたいという生き方もあります。


 この2つが、それぞれ真逆のようですが、どちらも重要なこととして選ばれるようになってきたのです。残念なことに、ちょうど真ん中あたりとか、バランスのいい、都合のいい生き方をチョイスするのは難しいようです。
 みなさんが大人になる頃も、まだ「自分はどちらの人生にしたいか」という軸足を決めておかなくてはいけないかもしれませんよ。



 ちなみに、欧米のお金持ちの間では「やっぱり私は専業主婦になりたい」という希望が増え、共働きをやめる人たちが出てきているそうです。会社人間として生き、子孫も残さないなんて人間らしくないわ!と感じる女性は、(お金を持っている夫を見つけて)主婦に戻りたいようですね。




 私の個人的な意見を言わせてもらえるならば、この文章の上のほうで書いたとおり、


「こどもを生まない、生めないという人生は、人類的にそこで滅亡」


だということをどう受け止めるかがカギだと思います。


 夫婦でお金をしっかり稼ぎ、2人で残された人生を楽しく過ごす、というのもアリです。なんせその人たちの子孫おらず、そこで滅亡するのですから。その日まで幸せに過ごしてほしいものです。


 そうではなくて、こどもや子孫を繋いでゆくこと、あなたの遺伝子を残すことを大切だと思うのならば、少なくとも人類的に、あなたには未来があります。かならず未来がやってきて、滅亡はしません。それも、もちろんアリです。



 私自身は、こどもを残すことを選択しました。少なくとも、私の遺伝子には未来があるように、人類が未来に続くように考えながら生きることにしています。







 

 


 



2014年10月15日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書10】愛されたい症候群

 愛にも、いろんなジャンルの愛や、いろんな種類の愛があるのですが、みなさんが将来どんな異性と(ああ、申し訳ない、最近では同性同士ということもありますね)愛し合うのかは、まだあまりはっきりしていないかもしれません。


 高校生であるみなさんにとって身近なことを言えば、例えば高校3年間であなたに好きな人ができて、幸福にもお付き合いしていたとしましょう。ところが、高校3年生の時、いよいよ自分の進路を決める段になって、「あなたの彼氏彼女と同じ地域に進学・就職するかどうかはわからない」ということが必ず起きるでしょう。


 これは、高校生の時恋愛して卒業していった全ての人が体験しています。そう、「すべての人」がです。


 パターンは3つくらいしかありません。

 ①同じ学校(進路)へ進む。

 ②せめておなじ地域へ進む。

 ③バラバラにそれぞれの道へ進む。


 で、その結果愛が成就して結婚までゆくか、あるいはそれぞれ別れてしまうかのどちらかですから、あれ?実は高校生にとっての「愛の人生は」3×2通りで6パターンしかないということですね。


 そう考えると人生なんて、小さなものです(笑)




 さて、高校3年生という先のことは一旦置いておいて、みなさんに直近で関係のある「愛」の話をしましょう。


「愛されたい」


というキモチは誰もが持っている感情だと思います。それが具体的に「彼氏・彼女がいる」という話でなくても、クラスの中で、部活動の中で、あるいは何か集団の中で、親やきょうだいから


「自分がきちんと認知されていて、適切な立ち位置で認証されていたい」


と思うことは自然なことだと思います。


 学校生活において、「愛されたい症候群」は、いろんな形で表に出てきました。これはあなたの先輩たちもみな通ってきた道です。


 たとえば、現在高校生であるみなさんにとっては、LINEのグループに入っている、いないとか、SNSに入っている、いないといったハイテクな分野で、そうした「愛されたい」「仲間はずれになりたくない」「認められたい」といったことが表に出てきていることでしょう。


 スマートフォンが今のように広がっていない時代では、携帯のメールやらネットの掲示板が、それらの代わりをしていたこともありました。


 私が高校生の頃は、もっとストレートに「クラスの中で、あいつは・自分はどんなキャラか」といったことで互いを認知していました。ああ、女子の場合は、今も昔も「どのグループに入っているか」という問題が、人生の大半を占めていますね(苦笑)




 この「愛されたい」「認められたい」という衝動は、人生を大きく左右します。


 それは「どんな方法で?」ということにつながるからです。


 「認められたいから勉強で頑張る・部活で頑張る」というのは、ベタですが意外に多くの人の基本的なモチベーションになっています。


 「キャラを立たせたいので、変な言動をする」という人も、たまにいます。ここまで極端でなくても、「可愛くみせたい」がこじれて「濃すぎる化粧」になってしまっている女子は、そこそこいます。


 逆に、そうした「愛されたい症候群」が1周回ってしまうと、その先まで行ってしまって「自分はそもそも、愛されなくてもいい」と「1人にしておいてオーラ」全開になっている人もたまにいます。


 苦しいことですが、そもそも「基本的に誰からも相手にされない」人もいます。




 いずれにせよ、「愛されたい症候群」とどう付き合ってゆくのか、どう折り合いをつけて生きてゆくのかは、高校生の人生の「大半」を占める大きな問題なのです。


 昔から「いじめられていた」とか、「友達がいなかった」という人が、大人になっても人間関係をうまく構築できず人生で苦労する話はたくさんあります。


 あなたの周りにも引きこもりをしている人がいるかもしれません。彼らは学生時代に、何か問題の根っことなる出来事に出くわした可能性が高いのです。


 あるいは、見かけ上「誰とでも仲良く」していた人であっても、「本当の自分の性格とは合わず、ムリをしていた」ということは良くあります。



 さて、ここまではそんな高校時代の生活を「ざっくりまとめてみた」だけですが、人生を考える上で、いちおう大人である私からみなさんに伝えておきたいことがあります。


 それは、


「愛し、愛されない性格は、社会に出る前に直しておいたほうがいい」


ということです。


 「大人しい」とか「暗い」とか「からみづらい」とか、一般的に言ってネガティブな性格・言動というものがあると思いますが、そうしたことが原因で「愛されない」「認められない」生活を送っている人が少なからず存在しています。


 そうした性格や言動は、これまでは「個性」だと言われてきました。特に、私が学生の頃から、「人の多様性を認め合おう」とか「個性が大事だ」なんて考え方が広まったので、みなさんもその影響を多分に受けているはずです。


 しかし、それは結果的に間違いです。厳しいようですが、はっきり言っておきます。ネガティブな要素は、「個性」であることは認めますが、


 確実に人生で損をする


ことが判明してきました。


 なぜか?簡単です。


 あなたがどこかお店に入って、店員が無愛想だったりぶっきらぼうだったり、目を合わそうとしない人だったらどうでしょう。嫌な気持ちになったり、テンションが下がるはずです。そんな店員しかいない店と、明るく元気で爽やかな店員ばかりがいる店だったら、どちらが競争に勝てると思いますか?


 そうですね。とても簡単です。コミュニケーションがとれない人たちは、この世界では競争に負けます。


 残念ですが事実です。競争に負けるということは、コミュニケーションが取れない人の人生は、金銭的に貧しくなるということなのです。



 だから、早いうちから、努力で改善できるものはしたほうがいいのです。いくら苦しくても、これだけは身に着けておいたほうがいい。努力して変革したほうがいいのです。



 では「個性が大事」なんてことばがなぜ広まっていたのでしょうか?「明るく元気で爽やか」な価値観と反対でも「それでもいいよ、あなたらしくすればいい」なんてことが、どうして許されていたのでしょうか?


 それも簡単です。日本にお金があったからです。日本の景気がよく、経済成長が続いていたので、マイナスの側面であっても「余力でカバー」できたからです。


 ところが、日本は中国や韓国、アジアのほかの国々にどんどん経済的に追いつかれはじめています。国の借金も途方もない額になろうとしています。


 すると、マイナスの要素を持つ人たちをカバーしきれなくなってきました。それでなくても、自分たちの人生さえ危ういかもしれない。だからこれから、日本はもっともっと厳しい時代を迎えることになるわけです。



 「愛されたい」という思いを、こじらせる人は、これからどんどん大変になります。「愛されたい」だけを主張する人もそうです。現状として「愛されない」人も、厳しい境遇になることでしょう。


 これまではお父さんがお金を持っていたので、引きこもることができました。これからの引きこもりは、お父さんがお金を持っていないので、すぐに貧民へと転落してしまいます。



 「同情するなら金をくれ!」

は、某ドラマの名台詞ですが、これからは

 「引きこもるなら金稼げ!」

になるかもしれませんね。



 
 最後に、これからの人生を大きく変えるための「魔法の方策」を伝えておきます。


 あなたがもし「明るくない・元気じゃない・爽やかじゃない・かっこよくない・大人しい」などのいわゆるマイナス要素を持っていて、もともとコミュニケーションが得意ではない性格でも、これからの人生を豊かにすることができる魔法の裏ワザがひとつだけあります。


 それは「愛すること」です。


 まるでキリスト教の教えみたいですが、そんなにカタい話ではありません。


 愛する、つまり「誰かに対して、自ら何かを提供する」ことは、暗くても大人しくてもできます。モノを渡す必要も、お金を配る必要もありません。


 行動、労働力で示す。心配りで示す。そういうことは、「苦虫を噛み潰したような顔」のままでできるのです。


 たとえば、放課後1人でムスッとしながら、教室の掃除を毎日続けてみてください。黒板を翌朝までにピカピカに拭き上げてみてください。誰にも気付かれないように。


 それだけで、あなたの人生は確実に変わります。


 そんなことをするのは損だ、と思うのは早合点です。私は、今の会社で「誰よりも早く来て会社の鍵を開ける」ということをずっとやってきました。それだけで今、すべての人を差し置いて管理職になっています。


 私の場合は「鍵開け」でしたが、あなたはあなたができそうなことを一つだけ探せばいいのです。たった一つでもぜんぜん大丈夫です。


 「愛されること」はなかなか叶いませんが、「愛すること」は簡単にできます。そこがあなたの人生を良いものに変える最小で、最大のヒントです。

 

 

 

2014年10月13日月曜日

【高校生のための”人生”の教科書09】愛の歴史、愛のメモリー

 前回は、運命の愛なんて存在しないかもしれない、という少々キツイお話をしてしまいました。


 高校生のみなさんにとっては、「それじゃあ、ちっとも夢も希望もないわ」ということになってしまうかもしれません。ですが、それでは、これまでみなさんの先輩方はどうやって「愛」を見つけてきたのか、ということを振り返ってみると面白いかもしれませんね。


 というわけで、今回はみなさん以前の「愛の歴史」つまり「愛の記録、愛のメモリー」を遡ってみることにしましょう。


 第一章で、みなさんの先祖が、どのようにこの世界で生きてきたのかを簡単に振り返りました。お父さん、お母さんやおじいちゃん、おばあちゃんの暮らしぶりをなんとなく振り返ってみたのを思い出してみましょう。


 今回のお話は、それに多少連動しています。以前は苗字のつながりだけを追いかけましたが、今回は「家族のつながり」を追いかけることになります。


 
 現代の日本人の男女は、すでに「結婚できない、しない」とか「彼氏彼女ができない、いない、いらない」とか、そういった「愛と無縁」の生活を送る人たちの割合が増加しつつあるところです。


 今高校生であるあなたが、その人たちの仲間入りをするのか、そうでないのかはわかりませんが、一応どちらの可能性もあるので、全般的な話をしておきましょう。




 日本の愛の歴史を振り返ると、「自分が好きな人と自由に付き合ったり、結婚したりできた」という人生を送ることができたのは、ご先祖さま追跡では、


「あなた」と「おとうさん・おかあさん」と「おじいちゃん・おばあちゃん」


の3世代だけです。それ以外の男女は、ほとんどの場合「自分が好きな人と付き合ったり、結婚できなかった」世代ということになります。


 現在の私たちや、みなさんの感覚からすると「えーっ!何それ?!じゃあ、みんなどうしてたの?」と驚きの声を上げることになると思いますが、実際そうだったんだから仕方ありません。


 日本の愛の歴史では、概ね「日本が戦争に負ける」までは、あなたの先祖は「その親や家族が決めた相手と結婚していた可能性が高い」ということになります。


 「あたしの気持ちはどうなるの?」「僕だって好きな人がいるんだ!」という自由な考え方や、権利というものは日本がアメリカに戦争で負けて、『アメリカの自由な考え方がいいんだ!』とみんなが思い始めてから採用されたので、それまでは「家族の大黒柱の家長(おとうさん)が全部決めるんじゃ」ということがまかり通っていました。


 なので、あなたから見て、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんは、「家族同士の付き合い」とか「家柄」とか「村の人間関係」とかの影響を多く受けながら「結婚相手」が決まってゆきました。


 これでもまだマシなほうで、ひいひいおじいちゃん・ひいひいおばあちゃんの時代まで遡ると、江戸時代の「身分制度」の影響まで受けるため、身分が違うと結婚できない、ということになってゆくのです。


 「お見合い」という言葉は、今も生き残っていますね。好きになったり、恋もしていないのに、顔を合わせて話し合いだけで結婚するシステムが今もあるのは、こうした昔の仕組みの名残です。




 ということは、つまり、「好きな人と付き合えて、結婚してもいい」制度を満喫できるのは「戦後生まれのおじいちゃん・おばあちゃん」と「お父さん・お母さん」と「あなたたち」だけです。


 日本の歴史の中で、ずーっと昔の人たちはとても羨ましがっていると思いますよ。


 ところが、そんなにみなさんは恵まれているのに、どうも自分で「愛を見つける」のは下手くそな人たちもたくさん存在するようです。


 カップルのうち3分の1が離婚するということは、日本人の3分の1は「愛を見失った」わけですね。すごい確率です。


 結婚したくても、結婚できない人たちもたくさんいます。結婚相談所という企業・会社も存在しており、お金を払って誰かを紹介してもらう人たちもいます。


 これを歴史的に振り返ると、「家長や、周囲が結婚相手を見つけていた時代」から「自分で好きに選べる時代」になり「やっぱり誰かに結婚相手を見つけてもらう時代」に逆戻りしたかのようです。


 なんとなく笑ってしまうのは、「あなたのことや相手のことを知っている家族親族に結婚相手を見つけてもらう」よりも、「お金を払って知らない人に探してもらうよう」になるなんて、どちらがいいのか微妙だと思うのは私だけでしょうか?