2014年12月27日土曜日

勝手に参戦(笑)”父と娘のマジトーク” 世の中の仕事の9割はつまらない、か?!

 BusinessMedia誠さんの連載に「父と娘のマジトーク」なるものがあります。


 面白いですね。中山順司さんという方が書かれているのですが、中学生の娘とお父さんが、いろんなテーマについて”マジで”話すというもので、いろんな意味で着眼点が面白いです。


 これが父と息子のトークになると、全体にトヨタのBOXYのCMみたいな「男の夢とロマンとガキっぽさ」が詰まった話になるので、あえての娘さんというところがいいかんじです。



 さて、その連載に今回こんな話がテーマとして登場していました。




父と娘のマジトーク・クリスマス特別企画:
世の中の仕事の9割はつまらない?――中2の娘と4時間半激論してみた 

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1412/25/news049.html




 おお!なんだか私が先日まで書いていた「高校生のための人生の教科書」みたいだな、とまっ先に思いました。


 ヨシイエ的に考える「人生と仕事」観と、ナカヤマ家的に考える「人生と仕事」観。そこに共通点はあるのでしょうか?あるいは何か違いがあるのでしょうか?


 というわけで、今回はもういちど、「仕事」について考えてみたいと思います。


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1) 働くことはしんどいことか?!・・・「世の中の仕事の9割はつまらない?!」

 
 今回の中山親子の話における第一のテーマは、「大人が働いている姿はしんどそうだ」「仕事は基本つまらないものなのではないか」ということでした。


 中学生の娘さんから社会を見たときに、「仕事」を持つ大人の誰もが、どちらかというと「しんどそうに」仕事をしているように見えてしまいます。


 しかし、仕事をする人がすべて「つらそう」なのかといえばそうではありません。中にはいきいきと仕事を楽しんでいる人もいるし、「好きなこと」を仕事にできている幸せな人もいます。


 そうしたことを捉えなおした時に、中山親子は


「同じ仕事でも、その人の心次第で楽しいか辛いかは変わる」

「単純に『仕事とはしんどそうなものだ』とイメージしないほうがいい」


ということをひとつの結論としました。


 ・・・・・・さて、ヨシイエ的にはこのことをどう考えているのでしょうか?答えは簡単です。私の考え方は、「仕事」とはエサをゲットすることが本質であり、それが形を変えたものです。


 ということは、仕事の影には「飢えの苦しみと不安」が常につきまとっています。ですから、お腹がすいた状態でも、仕事を遂行しなければエサがゲットできないという意味での「辛さ」が本質的に内在しているわけで、その部分は認めなくてはいけません。

 仕事において「楽しい部分、いきいきとできる部分」のみで、それを遂行することは難しく、もちろん、そうではない「苦しい部分」は抱えているのが当然だと考えるわけです。


 では、仕事における「いきいきできる部分」とはなんでしょう。それは元々はエサをゲットする行為ですから、エサを入手して飢えの不安を払拭できる喜びや、仲間と協同してエサをゲットできたという達成の喜びなどがあります。個人的にであれ、共同体的にであれ、仕事は完遂できれば即喜びに変化します。それは生の喜びそのものなのです。


 仕事が面白い!と思えるということは、この「生のサイクルの確立」に他なりません。いくら仕事をしても、それが成果に繋がらなければ、どんなに好きな仕事でもそれを好きなままでいられることはありません。逆に、どんなに嫌だった仕事でも、達成の喜びで人は大きく受け止め方を変えることができのです。


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2) 新しい仕事が生まれ続ける、そんな未来がやってくること


 中山親子の会話で、もうひとつポイントになるのは、父の時代と娘の時代の「仕事」のあり方が変化するだろう、という予想予測についてです。

 これまでの人たちが知らないような仕事が生まれ、また無くなってゆく仕事もあります。

 また、クラウドファンディングのように、「やりたいこと」を掲げてそれに対してお金を集めることができるようなシステムも生まれていることを例示します。



 ・・・・・・ヨシイエの見解は、前半についてはまったくもって同意です。同じ話を「高校生のための人生の教科書」にも書いている通りです。

 ただし、まっ正面から反対意見を述べたいのは「クラウドファンディング」の部分です。

 ☆別にクラウドファンディングそのものを否定するのではありません。


 どこの部分にヨシイエがハテナを感じているかといえば、


「これこれこういうことをしたい!」と思い、それに対してお金が集まり、それを仕事にして遂行できる


という一連の流れは、これまでの「仕事観」に対しての新しい仕事観として提示しないほうがいいのではないか?ということです。


 なぜか?それは、「一部の能力がある人が、イノベーティブなアイデアを提案して、コミュニケーションを使って実現の方向へ努力する」ということは、特殊な形態であって、それを「一般の人が仕事として遂行できる」というような夢をみさせてはいけない、と考えるからです。


 ユーチューバーという新しい形態で稼いでいる人がいますが、それを一般の仕事として捉えるのは非常にマズイと思いませんか?


 デイトレードもそうです。パチプロなんかも広義にはそれに入るかもしれません。


 プロ野球選手という仕事があるぞ!と提案するのはいいけれど、「それはかなり一部の人たちの話だ」ということも理解しておく必要があるのと同じです。


 上記のような、有能な一部の人たちは革新的な仕事を生み出しますが、そこには「強烈な淘汰と競争」が待っています。その陰には何万もの屍があることも忘れてはいけません。

 「バンドマンやミュージシャンっていう生き方がこれからはあるんだぜ」なんてことを30年前なら自慢げに話せたかもしれませんが、今では「アホなことを考えるな」ですよね。それに似たところがあります。


 クラウドファンディングは、みかけは今風ですが、本質は「株式会社」による資本主義そのものです。ユーチューバーとて、本質は放送作家とタレントそのものなのです。単純に、新しい仕事観としてみるには、問題があると感じます。

 
 私は、個人的には「日々食べるための仕事」と「自分のやりたいこと」を両方追求する姿勢が好きです。具現化するには、一般の人にとっては「副業」や「趣味」という形になることが多いと思いますが、ある程度ルーチン化された「不安が少なく食べてゆけるシステム」に乗っかることは大事だと思っているのです。

 それを薦めているわけではなく、「能力があると誤解しているけれど、実はしょーもない人」でも、なんとか食べてゆくことが出来るシステムは、社会全体として幸せだと考えるからです。

 もし、そうでなければ、「夢見る夢子ちゃんたちが挫折した、踏まれたあとの屍たち」が食べられないことは社会的リスクになってしまうではありませんか。それはけして良い社会ではありません。



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3) 仕事をすれば、仕事をさせてもらえるようになる


 この部分は、もちろん同意です。とくに議論すべきことはないので軽くスルーしておきましょう。


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4) 学校で学ぶべきものは何か、=問題解決能力


 直接仕事の役に立たないことを、なぜ学校では勉強しなくてはいけないのかという大問題について、中山親子は


 問題解決能力


だと結論付けました。いわゆる教養主義のスタンスですが、もちろんヨシイエも同意します。


 ・・・・・・ただ、ひとつだけ補足しておくならば、



「学校で身につけるべき素養は問題解決能力だが、学校で学習することができるのは問題解決能力ではない」



というところが真のポイントです。


 意味わかりますか?簡単に言い換えましょう。


「問題解決能力を身に着けて学校を卒業することは大賛成だが、残念ながら学校で勉強しても問題解決能力は自動的には身に付かない」


というのが今の学校教育の究極の問題点だということです。


 従って、「高校生のための人生の教科書」では、学校で得られる知識を「これまでに誰かが発見してくれたことをパクらせてもらうための最小限リスト」と表現しました。


 これも実は「教養主義」そのものです。


 でもしかし、じゃあ、どうやったら「知識・教養」をベースにしてそこから「問題を解決する力」へと発展させることができるのか、という難問が残るわけですが、これについてはヨシイエは、


「それは、コミュニケーション能力を養うこと」


しかない!と力説します。最終的には、知識や技術は「人と人の世界」で扱われます。そして「人類の問題・課題の100%」は、結局は「人と人との問題・課題」に帰着してしまうのです。


 だから「コミュニケーション」(人と人がともに生きること)が重要になるわけです。



 くしくも、東日本大震災で明らかになったのは、原子力という科学技術そのものが問題なのではなく、それを人がどのように解釈し、運用したかが問題だったということでした。

(安全とは、人が勝手に想定しないことでした)


 ロケットとして科学を使うのも人であり、ミサイルとして科学を使うのも人なのです。

 
 銃は守るために撃つものですか?それとも、最初から争おうとしているのは銃ではなく人同士なのではないですか?


 そして逆に、人はコミュニケーションの手段(主に力関係の構築)のために科学技術を使うこともあります。(冷戦など)


 最後は、人と人とのコミュニケーションを問い直すこと以外には、この世界を救う方法はないのです。



 


資本主義の行き着く先は、「漠然と不安で、かつ、つまんねえ社会」である

大前研一さんが、日本経済の根本的な問題は、「低欲望社会にある」ということをおっしゃったそうで、


 http://www.news-postseven.com/archives/20141225_294042.html



ちょっと興味深かったので、一言書いてみる気になりました。

 大前さんの言うところの「低欲望」とは、まとめるとこういうことです。


① 個人は1600兆円の金融資産、企業は320兆円の内部留保を持っているのに、それを全く使おうとしない

② 貸出金利が1%を下回っても借りる人がいない。史上最低の1.56%の35年固定金利でも住宅ローンを申請する人が増えていない


 これは、今までに世界に例がなく、未だかつて経験したことのない「世界観」である、というわけです。


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 これとはまったく別の話で、今朝の関西では6チャンネルABCでちょこっと話に出ていたのですが、

 若者は選挙にいかず、かつ現状にあまり不満を持っていない。満足感が高い。


ということが取り上げられていました。


 この話は、すでに少し前から議論になっていて、橘玲さんのブログなんかがわかりやすいのですが、


http://www.tachibana-akira.com/2011/11/3431


 元ネタは社会学者・古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』あたりにあります。


 まとめると、橘さんと古市さんの視点では、


「現代の若者は、もうこれ以上幸せになれそうにないので、『まあ、こんなもんだ』と幸福度が上がっているのだ」


ということになります。


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 ところが、実際に現在の日本の若者がおかれている状況は、給料が低かったり、高い年金や社会保障が望めなかったり、家族を持つ希望がもてなかったり、と実は老人たちが生きた時代と比べても散々な状況です。それでいて満足感があるというのは、ちょっと不思議な気もするわけで。


 しかしながら、この二つの話は、たしかに「欲望がない」日本人の実態を明に暗に示しているようで、興味深いことは確かです。


 ということで、このことを今日は私なりに考えてみたいと思います。


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<1> 実は限界に達している『モノ』のイノベーション ~物欲の終焉~

 もうずいぶんと前から、私は現代社会の「モノ」のイノベーションは終わった、と感じています。産業革命以来、どんどんと新しい革新的なデバイスが登場しました。蒸気機関からモーター、エンジンの時代。馬車から自動車の時代、薪から石炭を経て、石油、太陽光などなど。

 モノは現代に向かって、驚きの進化を遂げてきたのに、ではこれから先、どこまで進化するのかと言われればかなりハテナが付くのです。

 極端な話、1970年代に、科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図と、2000年代に科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図を比較してみたら、きっとまったくそこは進歩進化していないということに気付くでしょう。

 つまり、私たちはきっと未来永劫、「空飛ぶ自家用車」を持つことはなさそうだし、ドラえもんは、いつまでたってもできそうにないし、宇宙への旅は、いまだに月で止まったまま予算不足を迎えそうだし、・・・といった、「モノの進化の限界点」が近づいていることに気付きはじめているわけです。


 もう少し、身近なもので考えれば、音楽プレーヤは、カセットからCDになりMDを経てipodになったものの、「音楽を楽しむ」という体験はほとんど全く進歩しておらず、ただ器が今風になっただけで、できることが革新されているわけではありません。

 テレビなんかも良い例で、モノクロからカラーになり、せいぜいハイビジョンになれば、もうその後は、スーパーハイビジョンでもウルトラハイビジョンでも、4Kでも8Kでも16Kでも、「映像を楽しむ」という体験をそれ以上超えさせてくれないことに気付いてしまったのです。


 iphoneやipadが凄い!と思うのは一瞬です。ザウルスとpalmを知っている人からみれば、革新の速度が止まりつつあることは明白なのです。それが眼鏡になろうが、時計になろうが同じです。

 PC-9801を触り、ダイナブックを触り、リブレットを持っていた者からすれば、コンピュータのイノベーションなんて、先が見えていると言わざるを得ません。


 ・・・とすれば、いつの時代にどんなデバイスが登場しようが、「できること」というのがそれほど増えるわけではないということが真実だということになります。

 スマートフォンで時間をパズドラをして時間をつぶすのが今風だとしても、ゲームボーイを持ち歩いていた古代人と何が本質的に違うのか、と言われれば、はいその通り、何も変わっちゃいないのです。



<2> 経済大国の行く末、お金があるというのはどういうことだったのか。

 幸いなことに、日本は経済大国を体験し、総中流社会なるものを経験することができました。これは言い換えれば、「世界の中でお金持ちになる経験をした」ということです。


 初任給月収3万円だった私の父は、最後には40万とか50万になったという時代を経験したのです。


 高度経済成長と、バブルは、日本経済は上り調子でした。そしてその後、バブル崩壊と長期デフレがやってくるのですが、実はこの2つは正反対のように見えて、私たちにある一つの同じ体験をもたらしました。


 それは、「モノは、いつでもどこにでもあり、かつそれは買える」ということです。

 経済成長により、日本人はいろんなものを買えるようになりました。三種の神器と呼ばれた、冷蔵庫・洗濯機・テレビをはじめ、エアコンも車も買えるようになったのです。

 マイホームを手にした人もいれば賃貸の人もいるでしょうが、快適で風呂のついた住まいに住めるようになりました。


 これは、実は金額的な成長が止まったバブル崩壊~リーマンショック後も、実体験としてはそのまま続いたのです。


 質のよいユニクロの衣服が安く買えるということは、お金をたくさん保有しているのと実は同じです。PBブランドのコーラが30円で買えたりするのも同じです。120円のコーラが3本買えるお金を持っているのと「体験」の上ではまったく同じだからです。


 というわけで、派遣社員でもiphoneやスマホは持てるし、使うか使わないかは別にしても、アパートにエアコンくらいはついていたり、テレビはみんな持っていたりする、そういう「モノはすでにそこらへんにある」という状態が生み出されるようになりました。


 なので、レクサスを望むと高いけれど、ダイハツでよければ買えるじゃんという体験を日本人は重ねてゆくことになります。高かろうが安かろうが、タイヤは4つどちらもついていて、どちらでも移動できる、という意味で、体験はすべての人に平等に降り注ぐようになったわけです。


 だから「金の糸で織った服と綿の糸で織った服のどちらが欲しいですか?」と尋ねられたら、「どっちでもええわ。ていうか、綿でいいよ綿で」という時代が来たのです。レクサスは、別にいらないし、ダイハツでいいじゃん、ということです。(もっといえば、ソニーじゃなくても、中華TVでいいやとか、喫茶店へ行かなくてもローソン珈琲で十分とか、すべてがそうなっています)


 そして、ついでに言えば、”高価なものと安価なものがあり、そこにこだわらなければ「同じ体験ができる」社会”というのは、面白いことに先進国の特権ではなくなりつつあります。

 
 たとえば、スマートフォンでも、先進国向けと途上国向けにランクは変えているものの、「スマートフォントを使う体験」は同じように提供されつつあるのです。


 アフリカで未開社会のように見えるのに携帯は持ってるとか、貧しいけれど中古のランクルはそこらじゅうを走り回っているとか、そういうことは世界中で起きています。




<3> 資本主義の最後の姿、「つまんねえ」社会がやってくる。


 こうして、「新しい体験を得るような革新的デバイス」は限界に近づき、かつ「高い安いは別にして、同じような体験ができるモノ」が溢れている社会が資本主義経済の最終形態だとすれば、この世界はどうなるのか。それは簡単で単純明快です。


 ・・・つまんねえ社会


しかありません。ワクワクするようなデバイスはどんどん減り、どんな家電やハイテク機器をみても驚かなくなり、むしろそれが当たり前になり、逆に経済がピークから下降することで、少しずつ不便になってゆくことも多い社会は、つまんねえ以外に何があるでしょうか。


 電車の本数が減り、バスが無くなり、公共サービスは低下します。そういう意味では、「漠然とした不安」はさらに進行し、「未来はきっと、良くならないだろうなあ」という気持ちをベースにしながら、「ワクワクを失う」のは、ある意味悲しい社会の末路です。


 3丁目の夕日ではないですが「何もなかったけれど、未来に希望がありそうだった」日々は、すでに折り返してしまった、ということです。



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 この「つまんねえ」社会を実感することで、その先何が起こるのかはわかりません。ネットではウヨク的な言説も増えているようですが、

「やれー!いけー!そりゃー!」

といった帝国主義的戦争へも、行かなさそうな気もします。だって、めんどくせえから。


「オラも列強のように強くなりてえ」

というモチベーションで日本は富国強兵にいそしんだのですが、経済大国を経験してしまえばなんてことはありません。


(ちなみに、今猛烈に強くなりてえオーラを放っている国が近くにありますね。かつてのどこかのようです。)



 個人的には、アメリカの自動車メーカーのGMがなぜ潰れたのかにヒントがありそうです。GMは資本主義の権化のような会社ですが、そうして富を手に入れてゆくと、従業員の福利厚生にエネルギーを投入するようになり、まるで「社会主義」のような構図で社員が守られるようになっていったといいます。


 社会主義(共産主義)は、ごらんのように資本主義化し、資本主義は社会主義化するというのは、けっこう笑えます。


 日本は物が溢れ、誰でも通話が定額になったりする平等社会主義国家です(笑)


 その先は、滅亡くらいしかないのかもしれませんね。



 







2014年12月20日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書31】 あとがきにかえて ~人生を見つめなおす方法~

 全5章、31節に渡る比較的長めの連載「高校生のための”人生”の教科書」を取り急ぎ書き終えて、ちょっと肩の荷が下りたような気持ちになっています。


(もしかしたら、随時多少の手直しを加えるかもしれません。ご了承ください)


 この教科書は、一見高校生向けという体裁を取りながら、実はすべての青年と壮年、あるいは老人に向けて書いている一種の寓話のようなものになっています。

 情報化社会と言いながら、あるいは成熟したはずの先進国だと思いながら、その実惑わされ、迷わされることの多い現代の日本社会を、私なりに一度きちんと見つめ直したい、ということを実験的にまとめてみたのがこのシリーズだったわけです。



 私はまだ40代ですが、ちょうど人生折り返し地点を迎えた中で、「自分の父親の人生はどうだったのだろう」とか、あるいは「自分は残された人生をどう生きるべきだろう」といった気持ちを抱くようになりました。

 そこで、そこから逆算して「高校生」のとき、人生のいろいろな要素を知っていたらどうしていただろうかという妄想も交えながら、このお話を書こうと考えたわけです。



 日本という国は、世界の中ではかなり稀有で恵まれた国であることは、みなさんもよくご存知のことと思います。しかし同時に、この国に対しての溢れんばかりの不安も渦巻いているわけで、そのギャップの中でも私たちは右往左往しているように思えます。

 
 その答え、この国のありようの答えと、ひいてはそこに生きる私たちの「生きることそのもの」のベースをどこに求めればよいのか、というのはずっと個人的にも謎でした。


 最終章で触れたように、宗教的感覚からそれを紐解くこともできるでしょうし、実際欧米の社会はそうなっており、また近年はイスラム教の存在感とともに、それが再度問い直されている実態もあると思います。


 しかし、日本人はさすがに宗教観からものごとを把握することは苦手なようです。地縁・血縁は薄れ、お葬式も挙げず、結婚もせず、子供も作らず何がしかの物質的幸せを求めて、それも手に入れないまま滅びてゆく、それがこれからの日本人だとすれば、これはたいへんなことに相違ありません。



 そうした「漠然とした不安感ともやもや」の中で、この話を書くヒントになったのは、実は「戦国時代を調べること」でした。


 私たちの苗字というのは、一般的には明治時代から名乗ることを許されましたが、実は戦国時代にその大半が成立しています。戦国時代は、それまでの朝廷の権威が崩壊し、おのおのが実力で下克上を成し遂げようとする大きなうねりでした。

 そこで、自ら他と区別する苗字を名乗って、武将たちは活動するようになったわけです。

 重要なポイントは苗字だけではありませんでした。戦国時代に、武将たちは「土地」を手に入れます。


 これまで朝廷のものだった「土地」あるいは、寺社の荘園のものだった「土地」が、戦国時代に「誰かが実力で手に入れ、そこを支配するようになる」ことが大きなポイントでした。


 江戸時代に、それらのすべての土地はまるで徳川家のものになったかのように思われていますが、実際には、戦国時代に土地を手に入れた武将は、その地に根ざして「帰農(農民に戻る)」し、庄屋や長百姓として明治維新まで支配します。


 その頃武士は、領地として土地を支配しているように見えましたが、実際には5公5民でも4公6民でもいいですが、「土地は土地持ち百姓のもので、そこから上がる米のうち一定比率が上納された」のが実態だったわけです。


 つまり、戦国時代に土地をゲットし、食料をゲットした一団は、明治維新までその土地を維持しつづけたわけで、もっと言えば、その土地は現代でも「農家」のもの、「実家のおじいちゃんのもの」といった形で存在していることに気付かされたわけです。


 そうです。私たちの「生き方」は実は戦国時代からずっと変わっていなかったり、その影響下にあることに気付いた時、ここ数十年の「戦後日本」の姿や「先進国日本」の姿をその根底から問い直せるのではないか、と考えるに至ったわけです。


 その一連の物語を、生活における「環境」「仕事」「結婚」「よりどころ」などのいくつかの側面から組み立て直したのがこの教科書なのでした。


 究極的には、私個人も戦国時代を生き延びた先祖のおかげで今ここにいると気付いた時、かなり人生観が変わったように思います。

 ちなみに、調査の結果、私の苗字は(もちろん本名の苗字ですが)、最も古い記録で延元元年(1336)ごろ、南北朝時代から始まっているということがわかり、自分の一族がそんな遥か昔から生き延びることを続けてきたのだと思うと愕然としたわけです。


 そうした観点から書いたこの教科書は、ある意味では「真の保守」主義にまみれているようにも感じます。しかし、私自身は、こうした考え方を「右傾化」しているとは全く思っていません。


 むしろ、日本人の中に漠然と漂う「農村的保守主義」のイメージの源泉がどこかを明らかにすることで、その影響からなかなか逃れられない中で「では、どう未来に対して生き延びてゆくのか」を問い直して欲しいと考えています。


 最初の章で「土地があるかないかで人生は大きく変わる」ということを示したのは、まさにそのあたりを考えてほしいからでした。


 最終章でも、ふたたび日本的感覚の源泉に触れましたが、逃れられない呪縛であるのなら、それを軸足にしてでも両足でしっかり立って欲しいという気持ちもあります。


 日本は島国ですから、究極的な意味での国境無きグローバル化に耐えうる一団かどうかは、まだまだ未知数です。そこで悶々として悩み苦しみ滅亡するくらいなら、あえて軸足をそこに置くのもまたよかろう、とも考えています。


 全体のテイストとして、「生きることはエサを食べることだ」という定義づけをしています。しかし、エサがこれからどこにあるのかについては、全く触れないようにしています。


 国内にエサが無くなってしまうかもしれません。では、どこへ行くのか?は、それこそ未来を生きる者たちが自力で考えなくてはいけないことです。


 そこではじめて、また「土地の呪縛」から卒業することが生じるかもしれません。


 教科書として、伝達すべきことはただ一点でした。それは「生きろ」ということに尽きます。そのための方法や正解は、世界中どこの教科書にも書いていないのです。


 どう生きるか、いかに生きるかは、最終的には人類の究極の課題なのですから。


2014年12月19日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書30】 人生とは何か

 この教科書の第一章では、あなたがこの世界に生まれてきたことは、とても稀有なことで、あなたに関わるすべてのご先祖様が、なぜか「全員、生き延びることに成功した」からあなたが今ここに生きているのだ、ということをお伝えしたと思います。


 その意味では、人の人生というものは「その人のスパン」で考えると幸せであったとか、充実していたとか、あるいは逆に苦労の連続だったとか不幸だったといった波はありますが、先祖とあなたと子孫という大きな連続の中で考えると、結局は


 「生き延びたか、どこかで滅亡したか」


の2つしかないことにだんだん気付いてゆくことになるわけです。


 もちろん、滅亡したらその時点でジ・エンドです。しかし、長男なのか次男なのか、あるいは女の子の側で継いでゆくのかはわかりませんが、家系とDNAは「子孫」という形で次世代へと受け継いでゆくのが


「人類の大きな生き方」


だと言わずにはいられないのです。



 結果として、今あなたにどんな苦しみがあったり、どんな試練があったとしても、実はあなたは「ご先祖様から生き延びてきた貴重な子孫の1人であって、滅亡から逃れて繋いできた命のリレーの末裔なのだ、ということを知っておいてほしいと思います。


 そしてまた、あなたの使命がもしあるとするならば、あなたが伝えられた命のリレーを次の世代に繋ぐことだと言えるかもしれません。


 「自分は子供なんてどうでもいい、自分が幸せであればそれでいい」


と今は思うかもしれません。しかし、そういった考えの持ち主は、神様の目線から見れば、


「残念だが、その考え方だと最終的には君の一族は滅亡させるしかないなあ」


ということになるわけです。


 一族の滅亡!生きてきた証が途絶えること!後には何も残らない!それはちょっと恐ろしいことでもありますね。




 もし、あなたが大工さんであれば、法隆寺のような後世に残る建築物を遺して死んでゆくことができるかもしれません。また、あなたが何か新しい発見や発明をするのであれば、それは次の世代へと受け継がれるかもしれません。


 エジソンとか、本田宗一郎とか、リンカーンとか西郷隆盛とか、「何か大きなことをして、名前を残そう」と考える人もいるでしょう。


 しかし、建築物などの作られたものはいずれ消えてなくなる運命にあります。何千年持つかもしれませんが、何万年は持ちません。


 偉人としての名前も、数百年は持ちこたえますが、数千年は厳しいでしょう。ヤマトタケルなんて人がいたとされていますが、ほとんどみなさんにとっては「いたかいないかわからない神話レベルの人」ということになります。名前を残しても、いつかは忘れ去られます。


 つまり、何かを残すということは、究極的には難しいことなのです。



 ところが、あなたには何千年前の先祖が確実に存在しています。何万年前の先祖も確実に存在しています。何億年前でもそうです。さすがに、それくらい前になると人の姿をしていたかどうかは怪しくなってきますが。




 そうなのです。子孫を残すということは、ほとんどすべての人に公平に与えられた「何かを未来に残す」ためのそれほど難しくない方法だということになります。


 少なくとも、偉人伝に載るような人物になるよりかは、父親や母親になるほうがはるかに簡単なことだと思います。


 もちろん、こどもに恵まれない人もいるので、それが人生のすべてだとは言いません。しかし、人生のうちの大きなウエイトを占めている大切なことだ、ということも忘れてはいけません。


 悲しいことですが、こどもに恵まれない人は、「子孫滅亡の運命の下にある」ということも、ある意味では事実ですから、その分しっかりと自分の人生を生きてほしいと私は思います。

 

 
 さて、これまでの歴史を振り返ってください。飢饉もありました。戦争もありました。苦しみや悲しみはたくさんあったけれど、あなたの先祖たちはなんとか頑張って生き延びてきました。

 あなたはその子孫ですから、極めて少ない生存のチャンスをかいくぐってきた「運と実力を兼ね備えた」者であるはずです。

 あなたの先祖たちは、あなたを応援し、生かすために生き延びてきたわけです。あなたが生きていることそのものが、あなたに力強い味方が存在したことの証です。


 あなたの先祖がどこかで諦めていたり、放り出したり、逃げ出したりしたなら、あなたは生まれていません。

 あなたは数百年前に飢え死にして命のリレーを終えていたことでしょう。

 あなたは数十年前に戦争で命を奪われていたことでしょう。

 あなたは数千年前の災害で、滅亡していたことでしょう。


 しかし、実際にはそうではなく、あなたは生き延びてきたからこそここに存在しているのです。


 だから、あなたは「諦めたり、逃げ出したりしてはいけない」のです。もちろん、常に戦うことを薦めているのではありません。あえて言いますが、どんな手を使ってでも



「生き延びて」



ほしいのです。


 そして、あなた自身とあなたの未来の「滅亡」を防ぎましょう。


 あなたの名前を子孫は忘れてしまうかもしれません。でも、DNAにはちゃんと刻まれて永遠に残ってゆくのです。

 先祖の名前をあなたは知らないと思います。でも、あなたの中にDNAとしてちゃんと刻まれていることも事実です。


 こうした事実をあなたの心の軸足として、こころのベースとして生きてほしいなあ、と私は思います。


 これだけは、どんな宗教や神様や、どんな思想や政治にも惑わされない事実だからです。




2014年12月18日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書29】 何を信じて生きてゆくのか

 前回の続きですが、日本人はおおむね「どこかで神様やご先祖様が見ている」といった漠然とした宗教観を持って生きていることが多い、というお話でした。


 ところが、それは「信仰」「宗教」と呼べるほどの強い感覚ではないので、困ったことや辛いことに遭遇した時に、そうした宗教観を持って「理屈で納得したり、自分を励ましたりできない」という問題点を持っていることもお話しました。


 では、私たちは「何を信じて生きてゆけばいいの」でしょう。


 日本人は古い時代には「神道」や「仏教」を心から信仰して生きてきた時代もあります。時には「キリシタン」の信仰を持った人もあります。

 ところが、今更現代人に「オオクニヌシ」を信じましょうとか「仏教に戻りましょう」とか言っても、それはナンセンスだと思います。

 もとの話ではないですが「だから僕たち私たちは無神論ですってば」と話は堂々巡りになってしまうに違いありません。




 そこで、この教科書では、全く新しい「心の軸足・こころのベース」を提案してみたいと思います。いやいや、何も新しい宗教をはじめるからそれを信じなさい!と言ったりするわけではありません。


 もう少し、みなさんの心に届くような、みなさんの元々もっている「神様のような何かを漠然と思う心」を大切にするような方法で考えてみることにします。




 日本人固有の信仰である「神道」というのは、本来「ご先祖さま」を信仰するものです。ですので、神道では「どうやってこの国が生まれたのか」とか、そういう話から始まります。


 興味がある人は日本神話に関する本を読んでもらえばいいので、ここでは割愛しますが、日本人は「先に亡くなった先祖を大事にする」気持ちを本来持っている民族だと言えるでしょう。


 現在、天皇という存在が日本で重要視されるのは、天皇の祖先が「アマテラスオオミカミ」であり、神様の子孫であるという理屈があるからです。


 ですが、日本において神様は何も「特殊な、一部の人だけがなれる」ものではありません。あなたが今想像する「天にいるっぽいご先祖さま」もすでに神様みたいな存在として認識されているように、平安時代で言えば菅原道真は「天満宮」として神様になっていますし、徳川家康も「東照宮」になっているように、



 誰でも神様



になれる民族だったりします。


 だから天皇の先祖が神様であることは特別なことではありません。あなたの先祖もたぶんどこか天の上のほうで神様になっているわけですから、あなただって神様の子孫なのです。


 つまり、日本人の「神」意識は、そういう「誰もが神性を持っている」というところにあるわけです。


 これを仏教っぽくいえば、亡くなった人は「ホトケさま」になるわけですね。基本はおなじ理屈です。


 そういう意味では、日本的な神様の概念は「先祖崇拝」とか「亡くなった人への思い」が基本になっていることがわかります。


 それはつまり



 わたしたちがこの世界に生まれてきたのは、お父さんお母さんのおかげ


 そして、そのまたおとうさんの、おかあさんの、そのまたおとうさんの、おかあさんの・・・・



という考え方の集合体である、ということなのです。


 これは、基本的にはすべての人類の「軸足・心の支え・ベース」になってもおかしくない事実ですね。


 ちなみに、実の父母と上手くいっていない家族に生まれた子供もいることでしょう。しかし、今のお父さん、お母さんとは問題があっても、そのまたおとうさんとか、その先のおじいちゃんや、ひいおじいちゃんまでが、あなたのことを悪く思っていると思いますか?


 きっとそんなことはありません。基本的にご先祖というものは子孫が生まれることを喜びとしている、と考えるのも私たちの民族的な感覚だと思います。


 そういう意味では、「憎まれながら生まれてきた子孫」なんてものは存在しないのです。五穀豊穣・子孫繁栄は、日本の社会においては、



 最も良いこと



とされてきたのです。


(つづく)





2014年12月17日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書28】 第六章 あなたという存在が輝くために

 長々と書いてきた「高校生のための人生の教科書」の最後の章として、これからの世界であなたが


 しっかり、生き生きと、輝きながら生きてゆく



ためのヒントをまとめてみようと思います。


 まず、そのために大事なことをお話しましょう。



「あなたは神を信じますか?」



・・・まるで宣教師に声を掛けられた時の「コント」みたいなセリフですが、実は大事なことなので、一度ゆっくり考えてみてください。


 あなたは、神様を信じているでしょうか?




 日本人はとても変わった宗教観を持っている人種です。


 年の初めには神社に初詣にいきます。日本の神道の神を信仰しているような気がしますね。

 結婚式は教会で挙げたいカップルが多いことでしょう。クリスマスも大好きです。きっとキリストのことを信じているのでしょうね。

 お葬式は仏教です。お経を上げてもらわないと、成仏できなさそうです。熱心な仏教徒なのでしょう。




 しかし、これらの行事を実際に体験しているみなさんは、「あなたは神様を信じていますか?」といえば、


「いえ、僕は私は神を信じていません」

とか

「無神論者です」

と多くの人が答えるのではないでしょうか。




 ところが、「あなたは落ちていた千円札をどうしますか?」と尋ねると、大半の人が「警察に届けます」と答えることでしょう。


 じゃあ、なぜ警察に届けるのですか?法律で決まっているから?つかまりたくないから?


 いいえ、ほとんどの人はそんな風には考えません。正しいことをしないと、


「何か、神様のような存在が見ているような気がするから」


と答えるのです。


 カンニングをしない理由も同じです。「カンニングがバレる確率と、実行して上がる正解率を分析した結果リスクが高いと判断する」人はたぶん皆無です。

 ほとんどの人は、


「そういうことをするのは良くない。そんなことをしたらバチが当たるかもしれない」


と考えるのです。バチを与えるのは、先生ではありませんよね?そう、


「何か神様のような存在が、私にバチを与えるかもしれない」


と思っているわけです。




 こうしたことから、日本人は極めて高い確率で「有神論者」であると言われることがあります。


 ただ、その信仰している”神様”というのがどこの誰なのかが「あまりにも漠然としている」わけです。


 エホバの神を信仰している。アラーの神を信仰している。アフラ・マズダ神を信仰している。アマテラスオオミカミを信仰している。釈迦を信仰している。


といった具体的な神ではなく、「どこか遠い天の上のほうにいるっぽい、なんかよくわからないけれど私たちを見ている神様」とか「どこか空の星のあたりで、私たちを見守っているご先祖さま(名前とかはよく知らないけれど)」が存在していて、その神のような存在に守られたり叱られたりしながら、生きているというわけです。



 さて、欧米の人たちは、キリスト教徒が多いので、生きていく時の基本的なルールや規範をキリスト教の教えに基づいて行動することが多いように思います。


 弱者には施しをしよう、とか家族や友だちを愛することを重視しよう、とかそういう行動原理が働いています。


 アラブの人たちはイスラム教徒が多く、イスラム教で決められた戒律に従って生きることを重視します。

 決められた時間には礼拝をしよう、とか、教えに反する食べ物は食べないようにしようなどですね。


 


 では、私たち日本人はどのように生きてゆくべきでしょうか?先ほど例を挙げて考えたような「天の上にいる神や、ご先祖様」が怒らないような行動規範を、実は常に心のどこかに置きながら行動していることがあります。


 嘘をつかない。困っている人は助ける。感謝の気持ちを表す。友だちと仲良くする。みんなで分け合う。などなど。


 こうした良い面をたくさんもっているので、概ね日本人は穏和で争いを好まない生活を営んでいるのですが、実際には生きているうちには様々な問題に突き当たるため、そのとき



「自分の心のよりどころや生きていくための指針」


に迷い、苦しむことになるわけです。


 

 では、諸外国の人は、困難に出会ったときはどのように考えるのでしょうか?


 たとえば、キリスト教の人は「ああ、あの人は最後の審判で地獄に落ちるんだ。かわいそうに」と思いながら自分を納得させたり、「これは神が私に試練を与えてるのだから、頑張って乗り越えよう」と考えて立ち向かったりします。


 イスラム教徒は、「異教の者たちは神によって滅ぼされるのだから、自分はそうならないようにもっと頑張ろう」と考えたり、「もっと神に信仰を誓って、よりよき成果を得たい」と考えることもあるかもしれません。


 仏教徒は、「悪人は輪廻転生して畜生に生まれ変わるので、残念だけれども仕方ない」とか、「これは自分にまつわる縁=因果なのだから、乗り越えなくては」とかそういう見方をするかもしれません。


 いずれにしても、明確な宗教観を持つということは、悩みや苦しみに対して「何か、理論づけられた解決法や受け止め方を身に着けている」ということでもあるわけです。


 これは「事実・真実がどうか」という問題ではありません。


 本当に地獄があるのか、とか、輪廻があるのかとか、異教だと滅ぼされるのかとか、どれが真実かが問題なのではなく、宗教があることによって、


「生きている上での問題に、立ち向かったり解決する軸足・ベースがある」


という良い面がうまれているということなのです。





 日本人は残念なことに、この意味での「軸足・ベース」がとても弱いため、現代を代表する病である「うつ病」や「自殺」などが蔓延することになってしまうのです。


 では、せっかく「日本人らしい宗教観(神の存在)」があるのに、問題や困難に立ち向かう軸足がないのはもったいないと思いませんか?


 そこで、次はその点に注目しながらお話を進めたいと思います。



2014年12月16日火曜日

【高校生のための”人生”の教科書27】 お金の正体

 現代に生きる私たちが、何のために働き、何のために仕事をするのか、といえば、それは短絡的には


お金のため


と言う事ができます。お金を稼がなくては、生きてはいけません。お金がないと衣食住の手当てができません。お金がないと暮らしていけないからです。


 しかし、それをもういちど根本的に突き詰めてゆくと、お金というのは最終的にはやはり「エサ」というものに還元することができます。


 お金とは、究極的には、エサの変化した形である


ということでもあります。


 この章の最初に、仕事をするということはエサをゲットすることに他ならないという話をしましたが、「お金」もエサの変化形に過ぎないことを覚えておいて損はないと思います。


 その最も重要なポイントは、「エサもお金も、死んだらあの世へは持って行けない」ということではないでしょうか。


 エサとお金は、本来同じものですから、「生きているためには必要ですが、死んだら不必要」なものであるところが共通しています。

 そして、「できるだけ貯めておいたほうが、豊かに暮らすことができる」という面でも、エサとお金は共通しています。




 明治維新までの日本では、エサは本当にお金と同一のものでした。

 お米がどれだけ取れるか、ということを石高といいましたが、武士の給料の値段は「石高」で決められていました。加賀百万石なんてことばが残っていますが、加賀という地方・加賀という藩では1000万石の米が取れるので、それだけ食料と財政が豊かだったということを示しているわけです。


 江戸時代の武士は、領地から取れた米や領民から納められた米を商人に渡して「米からお金に両替」してもらってお金を使っていたくらいです。

 それほどまでに、米はすなわちお金だったのです。



 この「高校生のための人生の教科書」の一番はじめの章で、なぜ



 土地を持っているかいないかが人生を大きく左右する


なんて話を書いたのかと言えば、太古の昔、弥生時代からずっと日本人は「土地で米を作ってそれを食べて暮らしたり、それを貨幣として使ったり」してきたからです。


 土地を持っている=米を作ることができる=お金を生産できる


というサイクルが、延々と何千年も繰り返されてきたのです。私たちはその末裔なので、まだ「実家の土地がある」とか「おじいさんが米を作っている」とか、そういう



 土地と米とお金


の呪縛を受けて生活していることを理解すべきです。





 ところが、イギリスの産業革命以来、「食料を中心とした経済」から、いわゆる本物の「お金やサービスを中心とした経済」へと経済は変化してきました。


 現代人の大半は、「お米を作ることがお金になる」というということよりも「コンビニやファーストフードで働けばお金をもらえる」ということに関心が行くようになったわけです。


 しかし、それは日本の歴史でいえば、たったここ40年とか50年くらいのことで、戦後すぐの60年前にはまだまだ食料を作って食べることのほうが重要だったということも忘れてはなりません。


 では、これからの40年後とか50年後とか60年後には、世界はどうなっているのでしょう。


 あなたが今なりたいと思っている職業が残っているかどうかも、実はまったく定かではないのです。


 あなたはどんな仕事をして、どんな職業につきたいと思っていますか?


 昔はバスの車掌さんという職業がありましたが、もうありません。トラック運転手には助手という人が一緒に乗っていましたが、今はもうありません。(助手席という言葉だけが残っていますね)



 工場で働くイメージを持っている人がいるかもしれませんが、工場はほとんどすべてアジアやアフリカの別の地域に移動しているかもしれません。


 サラリーマンになると思っている人がたくさんいるでしょうが、サラリーマンはみな毎年更新の契約者になっているかもしれません。


 職人になろうと考えている人は、たいていの製造現場はロボットに置き換わっているか、外国人が担当しているかもしれません。


 セリーグは残っているけれどパリーグは無くなったとか、そういうことだってありえます。実際、私が小さい時には「阪急ブレーブス」や「南海ホークス」があったのですが、なくなりました。




 そろそろまとめに入りましょう。つまり、簡単に言えば「仕事をする」ということは、その時代、その時に必要な何かを人間の手で作り出すことではあるのですが、その形は一定ではないということです。

 なので、仕事の形やスタイル、職業名にこだわるのではなく、「エサをゲットして生きる。生き延びる」ということにきちんと軸足を置いて生き抜いてほしいのです。


 仕事をするということは、どうやってエサをゲットして生き延びるかということに他なりません。それは遥か昔から何も変わっていないのです。


 もうひとつ忘れてはいけないことがあります。


 それは、「何かをしたらお金が自動的にもらえる」ということは、実は当たり前ではないということを知っておきましょう。

 バイトをしたら給料が出るとか、就職したらお金が手に入るとか、そういうことは自動で起きているわけではありません。


 もともとエサですから「みんなでエサを取る行動に関わって、エサが取れたら解体してみんなで分ける」ということが給料の本来の仕組みです。


 ですから、あなたの仕事によって、どこかからエサをたくさんゲットできているかどうかを考えておかなくてはならないのです。


 あなたが言われたとおり「あんなものとかこんなものを作っていた」としても、それがどこかで誰かに売れていなければ、あなたはいつかクビを宣告されます。


 あなたがたとえ莫大な商品を売りさばいたとしても、どこかで誰かがそれを作っているので、その人たちとお金を分け合わなくてはいけないのです。


 お給料とは、エサの分け前のことだったのです。あなた1人の努力で得られるものではありません。


 

2014年12月13日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書26】 努力は報われない、しかし・・・。

 仕事をはじめる、社会人になるということと、「学生である」ということの一番大きな違いは、


「学生の間は、努力は必ず報われるが、社会人になると、努力の大半は報われない」


ということに尽きるでしょう。


 これは、理解できそうでなかなか理解できない難しいテーマでもあります。しかし、このことを理解していないとあなたの人生を大きく踏み誤ることが生じかねないので、心を鬼にしてお話しようと思います。


 学生時代において、それが小学校でも中学でも高校でも、あるいは大学でも、


「努力したことが報われない」


ということはあまり存在しません。


 勉強で言えば、自分で学習したことは時間をかけた分だけ成績となって返ってきます。部活動においても、必死で取り組んだことは、かならず「変化」として目に見えます。

(たとえレギュラーが取れなくても、たとえ試合で相手に負けても、あなたが以前よりもかならず上達し、あなたが向上していることだけはアホでも体感できるはずです)


 ところが、社会に出ると「あなたの責任とは無関係」なところで、あなたに関係のある問題や事件が生じる、ことが多々あります。


 平たく言えば「あなたが頑張っても、あなたと無関係なところで邪魔が入ったり、結果的に成果がダメになる」ことがたくさん起こるのです。




 たとえばどんなことが考えられるでしょう。あなたが一生懸命働いている店舗であっても、たまたま偶然付近にライバルが店を出せば、物理的に売上げは半分になります。取り戻そうと一生懸命戦っても、うまくいって「元の売上げに戻る」だけです。

 仮にあなたの給料が業績に連動していたら、あなたは何も悪くないのに給料が半分になり、あなたは頑張ってもやっともとの給料に戻るだけ、ということになります。



 あなたが必死にモノを売り、値下げしてたくさん買ってもらう努力をしても、円高やら円安やらに左右されてあなたの努力したくらいの価格はすぐにふっとんでしまいます。



 あなたがすごく頑張って技術を身に着けて、会社一の技能者として認められても、元請が中国に製品作りを依頼してしまったせいで、あなたの工場は閉鎖になったりします。




 かなり残酷な話ですが、そうしたことが日々平気で起きるのが社会人の生活だというわけです。あなたの技能が向上し、あなたの努力が積み重なっても、それが給料に反映されなかったり、業績として認められないことは多々起こりえます。よって、一般的には


「社会においては、努力は報われるとは限らず、報われないことも多々ある」


ということをベースに持っておく必要があるのです。



 これを理解していないと、あなたは「自分が不遇なのは会社が悪いからだ」とか「上司がわかってないからだ」とか、その真の原因を見誤って身近な誰かの責任だと誤解してしまい、「自分はもっと本来はできるはずだ」とあやまった過信をしてしまうことが起きます。


 結果、仕事をやめてしまったり、上司と対立したりして辞めさせられたりすることもあるでしょう。


 しかし、本当の原因はそこではないのです。あなたの努力とは無縁のところで、何かが起きていることもしょっちゅうあるのですから。




 ただ、こんな話をすると、若い人の間には「じゃあ、努力しても無駄じゃないか」という投げやりな気分が広がってしまうことでしょう。


 社会に出てもいいことなんてちっともない。むしろ、嫌なことだらけだ。と働く気持ちすら失せてしまうかもしれません。


 しかし、これまた社会と言うものの妙なところなのですが、


「努力しても報われない」


という言葉には続きがあるのです。


「・・・しかし、努力していない者の頭上にはチャンスは降ってこない」


とでいうべき、謎の現象が起こることも事実なのです。覚えておきたいですね。




 どういうことか説明します。たしかに努力していても無駄になることは多いです。しかし、どんなに直接の案件では無駄になったとしても、「あなたが努力できる人間である」ことは誰もが知っていることになります。「あなたには力がある」ということを誰もが知っているならば、もともとの案件ではすべてがおじゃんになったとしても、


「次のチャンスをあなたに与えよう」


と考える人は次々に出てくるのです。


 あなたが工場一の技能者であれば、その工場は閉まっても優先的に別の工場での仕事が与えられるはずです。あるいはその業務が取りやめになっても、「別の道で頑張ってみないか?」と声をかけてくれる人はかならず出てきます。

 それは、あなたが「頑張れる人」だと誰もが知っているからです。




 少し脱線した話をしますが、なぜ「いい学校を出た人はいい会社に入れる」と一般的に言うのでしょうか。

 偏差値の高い大学に入っている人は、なぜ優秀だと世間では思うのでしょうか。


 それは、「偏差値の高い大学に入れるくらい、あの人はきっと努力しただろうし、また素質が高いのだろう」と想像できるからです。


 だから彼は優先的に「うちの会社で頑張ってみない?」と声をかけてもらえるのです。まだその会社で一切働いたこともないのに!(本当の実力がまったくわからないのに!)


 同じように、日々努力を重ねていることは、RPGで言うところの経験値を上げておくということに他なりません。


 経験値を上げなくても日々の業務はとくに問題なく遂行できるでしょう。(雑魚はそれなりに倒せるでしょう)


 しかし、一定の経験値に到達していないとステージボスは倒せないのです。(たまに現れるチャンスをものにできないのです)



 ですから、私たちは「報われるために努力をしている」という勘違いをすぐに捨てるべきです。


 報われるかどうかではなく、いつか訪れるチャンスのために、準備をしておくべきなのです。

2014年12月12日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書25】 ブラック企業とは何か 

 この章では、「仕事=エサをゲットすること」という図式でものごとを説明してきました。というわけで、三回目の今回は「ブラック企業」についてこの観点で読み解いてみたいと思います。


 ブラック企業とは何なのか。


 一般的には、仕事がきついとか給料が少ないとか、そういうイメージがあると思いますが、ブラック企業の本質は、簡単です。


 エサをゲットすることに対して、かかるコストの割りに極端にリターンが少ない


ということに他なりません。


 もちろん、この章の最初からお話しているように、エサをゲットすることには「狩猟採集」の側面もありますから、「探したけれどエサが見つからない」「手に入れたエサが極端に少ない」ということは当初から想定の範囲内です。

 漁に出ても魚が獲れないとか、今年はキノコがあまり山で見つからないなんてことは、「狩猟採集」の側面ではよくあることです。

 また、農業においても「今年は不作」とか「米が冷害で育たない」なんてことは、現代においても起こりえることです。


 つまり、ただ単純な意味での「コスト対リターン」を比較して、それがマイナスであれば「ブラック企業である」と定義するのは、すこし気が早いような気もしてくるはずです。




 このエサについての「不確実性」や「非計画性」がはじめから存在するので、ブラック企業問題は一見わかりにくくなっているのですが、ここでもうひとつの「ブラック企業」の定義を示してみましょう。


「エサをゲットすることに対して、かかるコストの割りに極端にリターンが少ない」ことが、完全にシステムに組み込まれている


これが、より正確なブラック企業の実態だと言えるかもしれません。


 つまり、本来であれば、労働者がエサをゲットする労力に対して、一定のリターンがあるわけですが、それを企業や会社と最終的に分配するときに労働者が確実に損をするようにシステムが作られているのがブラック企業だと言えます。


(間違ってはいけませんが、労働者と企業の取り分比率の問題ではありません。労働者の取り分よりも、企業の取り分が多いことは問題ではありません。労働者の労働コストよりも、与えられる取り分が少ない時にブラック化するのです)


 ふつうの企業は、労働者がエサをゲットする労力以上の給与(エサ)が支払われています。そのため国民総生産GDPが増えるわけです。経済が「成長する」なんて言われるわけですね。


 ですが、ブラック企業では、どうもよく考えると労力よりもエサのほうが少ない。でも、実際獲れているエサの総量は多そうだ。あれ?残りの大半は企業が持っていってるのではないか?・・・なんてことが起きているわけです。


 
 こうしたことをまとめてみると、次のような考え方ができると思います。


① 労働時間が長いとか、労働内容がキツイということそのものはブラックではありません。長時間労働であっても、仕事がたいへんでもそれが法に則っており、給料がたくさん払われているのであれば、ブラックとは言えないことになります。


② 不確実性を持つ仕事(猟師であるとか、相場に絡む仕事や、歩合制で契約するものなど)については、たとえ一銭も稼げない月があっても、それだけでブラックだとは決められません。そうした仕事は入手できた業務内容や数に反比例して対価も高くなることが多いからです。


③ 雇用者の取り分と被雇用者の取り分を比較したときに、雇用者の取り分が大きいからといってブラックだと断定することはできません。雇用者には被雇用者からは見えないコストもたくさんかかっていますので、被雇用者への分配比率だけで判断することは問題があるからです。


④ 正当に報酬を計算したときに、本来被雇用者が得られるべき収入に対して、実際の収入が低い場合。その得られるべき収入から何がしかの「天引き」や「自爆購入」などのマイナスが生じることがシステムに組み込まれている場合、それはブラックの可能性があります。




 最後に少しだけ、一般的に公正だと言われている会社の経理において、1人の人材を雇う場合の経費を紹介しておきましょう。


 Aさんを年収400万円で正社員で雇う場合、会社にのしかかる経費は約倍の800万円近くかかっています。

 そこには、たとえば厚生年金の掛け金を半分会社で面倒を見たり、労働保険料をかけていたり、退職金の積み立てをしていたり、あるいは仕事上必要な研修を行ったりしているからです。それらのお金は基本的には会社が経費として負担しています。

 細かいことを言えば、他にもたくさんAさんのためにお金がかかっている内訳が存在しています。


 そうした全体の構造の中でAさんの給与が決まってくるわけですが、仮に、Aさんに支払われる給与の中から「厚生年金の会社負担分も天引きします」とか「労働保険などの保険料もぜんぶあなたから貰います」などの仕組みで運営されている会社があるとすれば、それは確実にブラック企業だと断定できることでしょう。

 結果的に本来400万円もらえるはずのAさんは、そこからいろんなものを不法に差し引かれて200万円しか残らないかもしれないわけです。そうした実態が、不当に安い給料として表面に現れてくるという仕組みです。