2015年3月19日木曜日

ゾンビアプリとゾンビEC(イーコマース)で考える、ネット経済のゾンビ化について

 DIMEさんの記事で、日本語のスマホアプリのうちゾンビ化しているものが2倍に増えた、という記事があり、面白いので考察してみることにしました。


 ゾンビ化した日本語アプリの数、2倍に増加
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150317-00010005-dime-sci



 さて、そもそもゾンビアプリ zombie apps って何?ということですが、簡単に言えば、



 アンドロイドやアップルのアプリストアで販売されているアプリのうち、ランキングやお勧めなどに登場せず、ダイレクトに検索しない限り発見されないもの



ということになります。



 アプリ分析の会社の解析によると、日本語のアプリのうち、ゾンビ化してランキングなどに挙がってこないもの


77%


もあり、逆に言えば、それらのアプリは、ユーザーに見つけてもらうことすらできていないということになるわけです。


 実数で言えば、17万件ものアプリが日本語で提供されていて、そのうち13万件のアプリがゾンビ、だそうです。


 これはすっごいことですね!13万件のアプリ開発に、いちおう製作者のコストや手間がかかっているわけですが、それらは全部無駄で、


そもそも、そんなアプリがあることすら知られていない


という状況にあるということです。



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 このゾンビアプリの世界的状況になると、さらに面白いです。



Appleのアプリストアでは83%110万あまりのアプリが“ゾンビ(生ける屍)”化している
http://jp.techcrunch.com/2015/01/31/20150130zombie-apps-on-the-rise-83-of-apps-not-on-top-lists-up-from-74-last-year/



 今年1月の記事ですが、世界規模では、83%のアプリがゾンビ化しており、実数で110万件のアプリが死んでいるそうです(苦笑)



 実は、ワタシもゾンビアプリにちらりと関係しており、小説大賞のごほうびとして作っていただいた、


「営業刑事は眠らない」


というAppleのiphone/ipadアプリ(電子書籍)は、きっとゾンビになってます。



 実際のゾンビを生で見てみたい人は、ご参考までに生き返らせてみてください(笑)




itunesにあります。「営業刑事は眠らない −− 第1回 誠 ビジネスショート・ショート大賞作品」
https://itunes.apple.com/jp/app/ying-ye-xing-shiha-mianranai/id570139408?mt=8





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 さて、アプリだけでなく、『ネット上のサービス』「ネット上の商取引』そのものが、実は多かれ少なかれゾンビ化しているだろうという実態が浮かび上がってきました。


 吉家的には、これらを含めて「ゾンビEC(Eコマース)」と呼ぼうと思っていますが、ネット上で行われている商取引やサービスそのものが、おそらく


「80%くらい、お前はもう死んでいる」


状態にあるのではないかと推測するわけです。


 簡単な例を出してみると、たとえばネットでCDを買いたい時、ほとんどの人は


「アマゾンか楽天か、せいぜいヨドバシカメラのCD通販」ぐらい


を使うわけで、ほにゃらら電器のネット販売とか、ネットCDストアなんちゃらのサイトを利用することはまずありません。

 とすれば、これらの通販サイトは、年に数回は機能しているかもしれませんが、大半は


「あらやだ、死んでる」


ということになるわけです。



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 これらとまーったくおんなじことを体験できるのが、最近ちょっと話題になっている「ネット上のフリマ」こと


ココナラ
http://coconala.com/home


です。


 このサイトでは、500円でちょっとしたことを提供し、またサービスを受けることができるのですが、現在


2万9千件


ものサービスが提供されています。


 内容は、千差万別!



イラスト描きます 文章書きます

占いします SEO対策します

フォロアー増やします 画像・映像加工します

声優みたいにしゃべります 悩み相談します



などなど、これらが約3万件も提供されているわけです。



 しかし、3万件もとなると、占いだけで何百件、イラストだけで何百件もの提供者がいることになり、


もう、最初の段階から、どれがよくてどれがダメなのか全く不明!


ということになります。



 そこで、「売れ筋ランキング」「販売数ランキング」「人気ランキング」などでセレクトされるのですが、ここで


ゾンビ化


がさらに進むわけですね。


 つまり、ランキングに現れたサービスにばかり注文が殺到し、それ以外はゾンビ化。それがさらにランク上位のサービスと、大多数のゾンビとの違いをいっそう際立たせるということが起こるのです。


 こうなると、多数のゾンビは、ランク上位者を引き立たせるために存在しているどころか、そもそも誰も注目してくれない、という大変な目に合うわけで。


 これを、ネットビジネス全体に置き換えると、ありゃまあ、大多数のネットビジネスは、そもそも利益を上げることができない、という実態が想像できそうなもんですね。


 なんということでしょう!



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 では、あなたがゾンビにならないためには、どうしたらいいのでしょうか?

その解決策を、いくつか考えてみます。





<ゾンビにならない方法 1>

 先手必勝、ネットビジネスでは、とにかく一番のりを目指せ!


 ココナラでのサービス増加状況を考えてみてください。3万件もサービスが登場した今では、新規参入者はまずゾンビコースからスタートですが、


 最初の50件くらいまでに参入した人


にとっては、たとえ、1回、2回、3回くらいの小さな販売実績でも、最初から有利に立てるということがわかると思います。


 後からやってくる有象無象に対して、最初からサービスを提供している人は、すでに「オンリーワン」の地位が与えられているわけです。そこで小さな実績を積んでおけば、後々まで財産になります。(だって、最初の時点でランキングに乗れるから)


 ネットの世界では、「とにかく最初に新しいことをしたヤツが、後々まで有利」だということです。





<ゾンビにならない方法 2>

 誰も考え付かないことをするのねパタリロ!

 ・・・ちょっと古いアニメの主題歌でごめんなさい。いやいや、まだ漫画は連載続いてますよ。

 冗談はさておき、「誰もやっていないことを提供する」というのは必須です。


 最初にスタートダッシュが切れないのであれば、「ライバルがいないこと」をやるしかありません。
最初からオンリーワンが難しいので、「後からでもオンリーワン」を目指すのです。


 では、ココナラを実際に覗いて、3万件のうち、「このネタは他に提供者がいない」という実例を探してみようと思います。

 ”イラスト”なんかで検索するとすでに1000件も提供者がいるので、900件はゾンビ確定です。

 ”占い”ではもう2200件も提供されています。完全にバイオハザード状態です。



 そんな中、たった1例の「世界にひとつだけの花」を探してみましょう。



 ① 苗字・名字の由来と先祖探し・ルーツ探しのアドバイスをします
 https://coconala.com/services/41874


 ・・・苗字からルーツを探るというサービス。3万件のうち、類似のサービスは他にありません。



  ウソ、つくります。
 https://coconala.com/services/1200


 ・・・類似サービスの提供者はいますが、ごく少なく、この方以外は玉砕してます(^^;;
 この方は初期からサービスを提供なさっているのでしょうね。


  あなたの名前を古代マヤ文明の『マヤ文字』で描いちゃいます
 https://coconala.com/services/1570


 ・・・もう、最初からマネできなさそうなサービスですね。実際の売上げもしっかりあります。




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 もう、ぶっちゃけネット界隈で何かを成し遂げるには、この2つしかないかもしれません。そういう意味ではクリエイティビティのアンテナをびんびん立てておかないと、生き残れないということでもあります。

 はあ、、がんばらないとだめね。











2015年3月18日水曜日

「八紘一宇」という言葉で考える、世界の未来と日本の明日

 まあ、昨日あたりから三原じゅん子さんの発言で


 八紘一宇(はっこういちう)


という言葉が、かなり注目を集めています。

 お年を召した方にはご存知の通り、この言葉は戦中に「日本が大陸へ出て行くときのスローガン」としてよく使われました。

 ぶっちゃけ、日本軍の戦時遂行体制を押しすすめる言葉として使われたので、「侵略戦争」をしたことの大義名分にもなり、


 それを今使う三原じゅん子の国会議員としての見識はどうやねん!


ということで紛糾しているわけです。



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 というわけで、せっかく最近「実国学」というスタンスでいろいろ試論を主張しているヨシイエとしては、
 

 あえて、この波に乗って考えてみよう(笑)


と思います。


 さて、「八紘一宇」という言葉は、本来は「四方八方ひとつの家」という意味です。


 これを、解釈するときに、いろんな齟齬が生まれるわけですが、たとえば


「世界はひとつ、人類みな兄弟」


と理解することももちろんできます。世界はひとつで、四方八方みなひとつの家族だ、というわけですね。


 なので、ここだけを取り上げると、「なんだ、いいこと言ってるじゃん」となりそうなもんなのですが、ここからがじっくり解釈の違いを理解しましょう。


 戦時中の日本は、この「八紘一宇」というスローガンのもと、


「世界、まずは近いアジアをひとつにしよう。そのために日本は自ら先陣を切って走るのだ」


と考えます。というわけで、まずは「大東亜共栄圏」というものを設定し、アジアはひとつで、みんなで栄えようぜ!ということを実現しようとします。


 そのためには、未開で遅れている発展途上国について、当時欧米にも対抗できるくらいの力をつけつつあった日本が、リーダーにならねば!と考えます。


 そもそも、経済力・軍事力・国力で当時の欧米列強と肩を並べる国は日本しかいなかったので、当然


「アジアの中心人物は、日本であるべきだ」


という考え方になります。まあ、この辺は心情としてはわかります。

 
 この具体例として、「日韓併合」で、朝鮮半島をもう日本にしちゃったり、台湾を日本にしちゃったりします。

 ついでに中国の一部に「満州国」を作り、「五族協和」の国を作りたかったりします。


 このあたりの日本の考え方は、とても単純明快です。


「だってさ、この間のアヘン戦争みたいに、欧米の言いなりだと好き放題されて、蹂躙されるわけじゃん!こんなんじゃ、ダメだからみんなで立ち上がって、欧米に対抗できる勢力になろうよ!まずは、うちが先頭を切ってアジアの力を結束させようと思うんだ!」


というのが、当時の日本の公式見解です。


 ・・・さて、ここで断っておきますが、わたしゃ別に戦前の日本の味方でもなんでもなく、けっこう冷静かつ客観的にこの話を書いてます。

 まあ、当時としては、こんなもんです。

 侵略することは、アジアの為に善であると考えていた人間がいても、全然おかしくありません。


 しかし、このお話を2015年現在に置き換えると面白いことが起こり始めるのです。




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 2015年現在、まーったく同じ事を考えている国があります。

 
 「その通り、欧米に対抗できる勢力にならねば!アジアは力を持たなくてはいけない。いやまじで、アジアがまるでひとつとなって、これから発展していかねばならんのだ!」


ということを言っている国があります。


 「だから周辺国を主導し、アジア中、アフリカ中の土地や企業を買い付け・投資し、周辺の発展途上の某北K国とか、南K国とか、あるいは落ち目のN国もグループに取り込みながら、わたしの国が真ん中となって頑張らねばならないのだ!」


と思っています。まさに、某国バージョンの「八紘一宇」です。


 ちなみに、それは「中華思想」といいます。(アジアの真ん中の華となるべき国である、ということですね)



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 ちなみに、世界規模でこれまたおんなじことを考えている国があります。


「やあ!僕は世界の警察だからね!正義のためには、うちがリーダーとなって、世界平和を推し進めないとだめなんだ!おーっと、そこの君。危ないから核を触っちゃだめだ。大人しか扱っちゃだめなんだからこっちへ預けなさい。おーっと、あっちのボク、そんな大量破壊兵器をもっちゃだめだよ、大人にちゃんと管理してもらわなきゃ!」


というアメリカです。



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 こうして考えると、人類みな兄弟は別に本質的には悪くないんだけれど、じゃあ、どうやってそれを実現するか、という点で、


「誰もが支配権を握りたがる」


という問題が起きていることがわかります。


 あの、究極の平等を謳う「共産主義」ですら、


「真の平等を実現するには、きちんと理解し行動できる賢い者が指導しなくてはいけない。なので、共産主義をひっぱってゆく層が必要なのであり、エヘン。それは共産党指導部なのであーる」


と言っているのですから、どんな理念があっても人間というものがやらかすことは一緒なのです。



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 世界がほんとうに一つになったとしたら、グローバル社会の中で、日本人がもらえる給料はまだまださらに下がります。

 仕事はさらに安い途上国へ行くかもしれません。それが中国ではなく、ベトナムやタイになるだけです。


 もっともっと、時代が経てば、世界の工場は「アフリカにある」ということも起こるでしょう。


 実は、グローバル資本主義というのは、アフリカ・アジア・南アメリカなどの隅々まで経済発展が行き渡るまでは機能し、そこですべてがストップする、というしくみになっています。


 現在の経済界トップの人たちは、自分が死ぬまでにその時が訪れないことを知っていますので、まだまだもうしばらくは、この資本主義を掲げていけると踏んでいます。



 残念なことですが、すべての経済活動が、すべての国家に行き渡ってしまった社会がどうなるか、誰にもわかっていません。


 一部の人たちは、「豊かさがすべての国家に行き渡り、経済発展がすべての国家に行き渡る」と想像しています。

 これは一見いいことのように見えますが、先進国の冨を途上国に再分配するわけですから、「今の日本人は、みな生活レベルがはるかに落ち、今の途上国民の生活がアップして、均衡が取れる」というだけです。


 つまり、現在生きているすべての日本人より、未来の日本人は貧しくなるということに相違ありません。



 逆に、「先進国の一部の人間が冨を独占し、ごく少数の豊かな人間と、その他の貧しい人たちが99%になる」という想像をする人もいます。


 この場合でも、日本人は全員ド貧民になるに違いありません。もちろん、数名くらいは大金持ちでいられるかもしれませんが(^^;;;



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 というわけで、どう転んでも今以上の幸せは訪れなさそうですので(爆)、実国学者としては、あえての



「鎖国」



を提唱します(笑)


 グローバルに踊らされる前に、あるいは江戸時代のように「完全内需循環型社会」に軸足をおいて、そこから「高度先進技術」の分野で世界に貢献する、というイメージが近いかもしれません。



 江戸時代は、海外とは限られた分野で交易していましたが、日々の日本人の生活は、内需のみで、食料も自給され、すべてのものがリサイクルされるという「完全循環社会」でした。


 もちろん、経済成長を遂げた今、まったくおなじことはできませんが、イメージとして


「八紘一宇なんてどうでもいいから、島国根性でひきこもれ」


ぐらいのほうが、まっとうになるのかもしれません。











 





2015年3月12日木曜日

<メモめも> 実国学に関する公開メモです。随時書き換えたり追加します。


□ 実国学という試論・試験的アプローチから現代日本を捉えなおすこころみ。

□ 実国学=現代国学 (旧「国学」→「民俗学(新国学)」→その先にあるもの)



□ 実国学では皇室をどのように捉えるのか。

 私の父方の本姓は藤原氏であり、母方の本姓は源氏です。ということは、いわゆる日本の歴史において、朝廷は本来の主君主家であり、また祖先でもある、そういう組織・システムだということになります。

 およそすべての国民は、旧来の先祖として天皇家と関わったり、旧来の主家として天皇家と関わってきた歴史の上にあります。

 その意味で、現代においては統治権や実権を失った朝廷皇室ではあるけれども、まさしく「象徴」として尊重し、ていねいに取り扱うべきものだということになります。

 象徴としての天皇制との整合はこれで取れています。また、血脈の上でも、現行の皇室の人たちもおなじ祖先から分かれ出ている子孫であり、現行の「源姓・平姓」を持つ人も、実はおなじ祖先から分かれ出ている子孫であると言えるわけです。

 実際には、すでに各姓氏家系は婚姻による融合が進んでいるため、近年に日本に帰化したり、海外から日本に来られている人たち以外の大多数は、皇室とおなじ祖霊を根底に有している、という可能性を持ちます。

 その意味で、皇室に対する親しみと崇敬、おなじ祖霊をもつものとしての国家観国民間の共有は、不可能ではないと考えます。




□ 実国学では、主権をどのように考えるか。

 現行憲法のもとでは主権は国民にあります。実国学では、歴史的過程を踏まえて、実は「墾田永年私財法」のスタートから、朝廷皇室のもっていた権限が、土地を介してその他の人民に移動したと考えます。

 つまり、主権のベースになる土地に対する主権・所有権は早い段階で朝廷の手を実は離れていたとするわけです。

 このことは後に、国人領主や戦国大名を生みました。

 しかし、重要なポイントは「実行支配権」にあります。

 土地に対する真の主権である「実行支配権」は常に、その土地に根ざした武将・豪族や庄屋・土地持ち百姓にありました。

 戦国大名や藩政大名は「徴税権」としての5公5民などの年貢徴収権は持っていましたが、土地の実行支配権はあくまでも、土地の持ち主にありました。

 その意味では、ベーシックな意味での主権は常に土地とともにあったと考えることができます。



□ 実国学では「土地をもつもの」と「土地をもたないもの」をどのように考えるのか。

 土地を持つということは、それがいつの時点からの本貫地であるかを別にして、わが国に対して主権を表明する大きなポイントだと考えます。

 戦国的な例で言えば、土地を所有しているものは、「大名」です。(名田を持っているから) 逆に、土地を持たないものは、常に「扶持米」で雇われている家臣です。

 実際に現代のサラリーマンの多くは家臣であり、土地をもち、それを使って利益を生み出している「いわゆる創業家社長」は大名に相当するわけです。

 現代では土地をあまり重視しておらず、その変形資産である「資本(おかね)」の観点でものごとを進めていますが、戦国目線でたとえるならば、それは「石高」に相当します。

 つまり、戦国時代からすでに、土地の価値は「石高という形でお金化」されていたというわけです。

 実際に、土地を持っている武将は、石高で知行(給料)を貰います。土地を持っていない武将は、特に近世になると明確ですが、扶持米というサラリー(給料)そのもので支払われるわけです。

 実国学では、土地を持たないものが持つようになることを重視します。そして持っているものは、その土地を生かしてそこから利益を生むことを考えねばならないとします。

 土地から利益を生む一番簡単な方法は農業です。

 そのため産業革命以前の日本では、土地は主に米を生む手段として用いられ、それが石高に反映され、米が流通通貨の役割を果たしました。

 しかし、現代では、利益を生む方法は多様化しており、産業化されています。よって、自分の土地をいかに使って利益を生むのかは、各人に課せられた大きな課題といえるでしょう。

 その問題を解決するには教育を受ける必要があります。学ぶ理由は、そこにあるのです。各人が領主大名としていかに自分の土地を経営してゆくかを、日本人は常に精進しなくてはならない、というわけです。


 土地を持たないという生き方もないわけではありません。戦国武将の中には、家臣として活躍した人はたくさんいます。本来の禄を捨てて、別の戦国大名のもとで家臣として過ごした人もたくさんいます。あるいは土地を持っている者よりも、その生き方で多くの禄を手にしている者もいるでしょう。

 しかし、彼らはそのままではけして領主ではない、ということだけは事実です。



□ 実国学では、軍隊をどのように捉えるのか


 すべての基盤は土地です。ですからその土地を侵略して奪おうとするものについては、主権を発動して戦うことがあってしかるべきだと考えます。

 国内においては、その手段は武力ではなく【法】であるべきですが、国内法が通用しない相手であえば、それが武力になる場合もあるでしょう。

 しかし、すべては土地に関するものですので、日本国の有する武力が海外で行使されることは誤りです。

 奇しくも「自衛隊」という軍隊の成り立ちそのものと合一しますが、自らの土地を守るための武力を持つことは、主権において当然だと考えます。



□ 実国学では国家国民をどのように捉えるのか。

 国家とは土地をもつ国民の融合体です。墾田永年私財法により、土地をめぐる主権はすでに土地の持ち主にありますので、その主権者が主権を行使し、国家の体制を形作るべきです。

 土地からは固定資産税という形で、主権の発動である金銭供託をしています。それをどのように全体で使うのかは、主権者たちの代議制合議で決めるものでかまいませんから、現行の政府を否定するものではありません。



□ 土地に対してウエイトを置きすぎているきらいがあるが。

 歴史的にみれば、土地からすべては発しているのですが、実際の経済社会においてはそれは金銭的な価値に変換されて取引されていることは承知しています。

 実際、江戸時代ですでに、現物としての石高は無視され、そこから変換された貨幣が経済では用いられていましたから、土地が金銭的価値に変換されて扱われることは自然なことだと言えます。


 しかし、金本位制における紙幣の本体が金そのものであったように、金銭的経済社会の皮をかぶっていても、実はわが国の基盤を形成しているのは土地であることを忘れてはいけません。




□ 土地に注目することのメリットは

 歴史的経緯において、主権の発動の真の姿が土地にあることを理解することで、現在では二束三文の無用の長物に成り下がった「地方・田舎」の土地にふたたび価値を与え、真の意味での地方創生と地方分権を実現させることが実国学のねらいです。

 貨幣化された社会では、肥大化した資本だけが注目されがちですが、その本体は実は歴史的にみなさんが勝ち取ってきた田舎の(地元の)(本家の)土地にあるんだということに気付いてもらうことで、土地を中心にしたあらたな枠組みを設定することになるわけです。



□ 実国学における宗教とは


 信教は自由です。しかし日本人の土着の信仰としての「親に対しての意識」「なくなった祖父母への念」などは存在します。その積み重ねが、神道的な祖霊崇拝です。

 祖霊崇拝の究極の目的は、助力によって「五穀豊穣・子孫繁栄」を願うという現世的な利益です。

 また、それは私たち自身の生きる目標でもあります。土地に豊かに何かが実り、利益を生んで、そして子供達が健やかに伸び広がってゆくということが日本人にとっての根源的な幸せであると考えます。

 そこにキリスト教的な創造神を据えたり、仏教のように死んだあとの来世を据えるのは自由ですが、わたしたちが生きているこのリアルな世界における幸せは、やはり飢えず、豊かであって子供達が広がること以外にないのではないでしょうか?


□ 土地をもとにした主権と人をもとにした主権の2つの相違は?

 現行憲法では、土地に根ざした主権は規定されておらず、あくまでも国民は「人」ベースで主権が設定されています。これは、戦後民主主義の根幹をなす「新しい主権」といってよいでしょう。

 それに対して「土地」を持つものに地租を設定し、土地の大きさで権力が変化するようなスタイルは中世的であり「古い主権」だといえます。

 現代の政府は、古い主権を認定していませんが、たとえば一票の格差の問題など、「人のみの主権」に依拠するがゆえに生じているひずみも実際にあるわけで、ここで土地にねざした主権という考え方を盛り込めば、
「鳥取県からは議員は出さなくてもいい」
みたいなゆがみは解消されることになるでしょう。

 多人数だから狭い都市に主権が集まるということは、弊害も生んでいるわけです。真の意味で地方創生をめざすのであれば、土地にも主権があるという考え方を頭の片隅に置くのもよいのではないでしょうか?








 






2015年3月11日水曜日

<話題>空き家になった実家は、資産か負債か

 最近は実国学についてのネタが多いヨシイエですが、気になるニュースがあったのでお伝えしようと思います。


 BusinessMedia誠さんより

 マネーの達人 空き家になった実家---それは資産?負債?
 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1503/11/news014.html


 岩宗繁樹さんという方の記事ですが、誰も住まなくなった田舎の実家をどうするか、というお話でした。

 まあ、ふつうに考えれば、こどもたち兄弟姉妹のうち誰かが相続するなりして、思い出のある実家を残しておこうとするのが普通ではあるのだけれど、


「固定資産税を払い続けねばならない」とか

「特定空き家に指定されると固定資産税が6倍になる」とか

「賃貸で貸そうとしても誰も借り手がない」とか

「解体するのに、百万単位での費用がかかる」とか


そうした諸問題で、これは資産ではなくて負債ではないのか?!と気付かされた、という内容でした。



 中身についてはまったくもっておっしゃる通りで、ワタシも旧ブログでそのへんの話を問題提起したことがあります。

 
もう一度訊く!「どうしてマンションが資産になるのかわからん」
 http://blogs.yahoo.co.jp/nensyu_300/11706711.html



 なので、いわゆる不動産が、最終的には資産ではなく負債化してしまうのが現実であり、現代の事実なのですが、しかし、だからといって


「相続放棄してしまう」


というのがいいのか、と言えば、ちょっと悩みますね。


 極論を言います。


 たとえば、都心の老マンションでも、田舎の土地でもいいです。それらが最終的に負債化してしまうので、売りたいと誰もが思います。

 そこへ突然、「そのマンションや実家を買いますよ」という人が現れます。それもなかなかの好条件の値段で買ってくれるので、よろこんで販売したところ、後で調べてみると、


「アジアの某国の人たちが、後からどんどん登記をして、その地域や不動産が片っ端からアジアの某国の人たちのものになっていく」

あるいは、

「実際に、そのアジアの人たちは、一族を引き連れて移住してきて、コミュニティを作りはじめる」


ということが起こるかもしれません。


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 日本というもののありようを考える時に、土地や不動産を「金銭に変換する」という考え方で終始するならば、その土地は売れたらOKです。

 しかし、それをつきつめてゆくと、たしかに金銭的には潤いますが、何かおかしいところが残るような気がしませんか?


 国防上の問題でもそうだし、国家観の上でもそうだし、何より日本人が日本で暮らすということが脅かされたり否定されたりすることに、わたしは


 ハテナ??


を感じずにはいられないのです。



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 これだけ世界がグローバルになってくると、通貨や金銭的な価値観だけでいえば、


「預金は外貨にしたり、世界的に安全で利回りのよい国で運用すればいい」とか

「会社はタックスヘイブンの国に本社をおいて、こどもも米国籍を取らせたい」とか

「資産を海外に分散しておき、有事の際は安全な海外で暮らす」とか


より、資産が増えたり効率がよかったり、あるいは安全な生き方を選択できるようになるのだと思います。お金持ちは。


 しかし、そこで抜け落ちているのはやはり「国家観・国民観・民族観」などのアイデンティティであって、

「日本の日本にいる日本人であるアナタワタシ」

という観点も必要なのではないかと思うわけです。


 たとえば、また極論ですが、金融資産のことだけ考えるのなら、日本を買ってくれるところがあれば、まるごと売ってしまえばいいわけです。

 もし、某国が「日本国債の借金を全部肩代わりしますよ」といえば、政府はどうするでしょうか?


 ・・・・・・そうした問題の答えが、やっぱり


「お金の問題ではなく、日本人の日本人による日本の問題があるのだ」


という点として浮かび上がってくるのではないでしょうか。


 極論ではなく、現実に起こりそうな例で言えば「移民の問題」などもあります。日本の人口減を移民受け入れで解決しようという考えもあるようですが、それはお金に言い換えれば

「日本の負債を外国の投資受け入れで解決しよう=日本を売ってしまおう」

というさっきの極論とかなり構造的に似ていることに気付くことでしょう。


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 私が「実国学」というアプローチでものごとを考え始めたのはそのあたりからはじまっていて、簡単に言えば


「日本人が金銭的アプローチでしか物事を考えられないくらいに、思想理念の面で迷っているのであれば、もう一度日本のありようを根底から考え直そう」

と思っているから、それをカタチにまとめようとしているわけです。


 アメリカは国家としての伝統歴史基盤よりも、他民族の集合体としての形が強い国家です。そこでは金銭的価値観が客観的尺度としては有意義だったでしょうが、それが他の国でも通用するとは思いません。

 中東には中東の、アジアにはアジアの、ヨーロッパにはヨーロッパの歴史観と国家観があり、そこからよりよい国を目指しているわけです。


 実国学、という考え方は、実際には「現代国学」と言ってもいい、日本の国家観を基盤にした、日本の現代と未来のありようの提言そのものです。


 たとえば、実国学では、金銭的には負債である「実家の土地」を、まったく別の観点から捉えます。

 それが、先日の記事でも書いている「墾田永年私財法」に関することなのですが、


「あなたの実家の土地は、その昔朝廷から【あなたに私有することを許可する】というお墨付きをいただいた土地なのです。そこをめぐって、時には荘園領主が、時には戦国大名が、命をかけて奪い合い、自分のものとして認められ、また他者の土地との相違を認めてきたものなのに、お金がかかるからという理由で放棄するのですか?」


という視点でみることにするわけです。


 国家のありようの話で言えば、地方・田舎の土地が、負債になるほど価値がないものにしてしまっている現在の我々の生き方、社会のあり方のほうが、間違っていると問い直すべきなのです。

 真の意味での地方創生とは、そうした金銭的に不良債権化している土地(田舎という存在)に、ふたたびさまざまな価値を与えなおす、価値を生みなおさせることなのではないでしょうか?


 この考え方が、実国学の基本理念にあるというわけです。






 














2015年3月4日水曜日

<実国学を考える 7>実国学とはズバリどんな考え方か?

 第5節と6節で、いきなり現代の諸問題を実践編で考えてしまったので、


え?何?実国学って結局どんな学問なの?


と思われた方も多いことでしょう。お許しください。フェイントみたいなもんです。


 それとは対照的に、第1節から4節までは、日本の歴史と国学の歴史を絡ませながら書いていましたので、いっそうピントがずれてしまいました。ごめんなさい。


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 というわけで、改めて「実国学」の概念について今回は再確認しておきたいと思います。


 国学のおはなしは、吉田松陰さんというおっさんの生き様からスタートしたはずです。つまり、吉田松陰は日本の歴史と国学を学んでおり、それは


「仏教が入ってくる前の、万葉集的日本観、ひいては皇室からつながってくる古代日本人の国家観」

をもとにしよう、というものでした。


 なので、明治維新に当たっては、吉田松陰は「尊皇攘夷」的思想のアイドルとして君臨するわけです。

 尊皇攘夷、つまり皇室を中心にして、外国を追い出せ、ということですね。


 ところが、外国が実際にはものすごく技術的に発展していることを知ると、日本人は「いや、まずは外国に学ぼうぜ。そうじゃなきゃ勝てない」ということで開国に傾き、それから「いや、いっそ外国を追い越そうぜ。負けちゃダメだ」ということで、日清日露太平洋戦争へと突っ走ってゆくわけです。


 で、戦争で負けてGHQとアメリカに、ぎゃふんと言わされ、まったくもって「真逆」に近いような国家観、社会観を生み出すようになったわけで。


 政治経済社会の面では、こうした形で吉田松陰の思想は打ち砕かれたわけですが、一方の生活と文化の面では、国学を受け継いだ「柳田国男」というおっさんによって、日本人のこころの側面にはずいぶんとスポットが当たるようになりました。


 マチやムラに存在する生活上の感覚や、神様などの概念については、「民俗学」という形で集大成されることになります。


 これは、国学のもう一つの側面でありました。



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 しかし、そうした生活的国学の側面も、わが国にの都市化・現代化によって大きく様変わりしようとしています。様変わりといえば、それもひとつの言い方ですが、厳密には多くの感覚・概念が


「失われつつあり、また私たちは指針を失って迷いつつある」


といってもいいでしょう。


 戦後の経済成長の中で、私たちは政治経済社会的「国学」を失っても、みかけの豊かさで十分満足を得ることができました。それが一億総中流社会です。

 また、生活的文化的「国学」を失っても、それは日々の都市生活の忙しさの中で気付かない状態でした。


 しかし、ここに来て、失われた20年の不況を経て、経済発展の停滞・少子高齢化・過疎化・都市震災などの不安と危険などの多くの状況に囲まれて


日本人は、この国の拠るべきよりどころを失っている


ことにあらためて気付かされた、というわけです。



 そこで、現代の吉田松陰を自称する怪しい男、ヨシイエ孝太郎の登場です。


 何を言い出すかといえば


「実国学」という新しい考え方


を提唱することで、もういちど、保守の理念をしっかり再認識してみよう、というわけなのです。


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 明治維新の時は、徳川将軍家という大儀が失われ、その代替として「朝廷と皇室」が再び脚光を浴びました。


 これは、ひとつ大きなポイントです。


 皇室の存在感が増したことで、旧来の「国学」は皇室に典拠した日本人像を定義して、そのまま太平洋戦争へと突き進んでしまいました。


 しかし、戦争の過ちを経験した日本人にとって、徳川将軍家はもとより、皇室ですらも単に依拠する存在としてはならない、ということは確認ずみです。


 そこで、私たちは資本民主主義という「私たちそのものに依拠する方法」を取り入れたわけですが、



私たちのアイデンティティ自体が、何だかよくわからない



中で迷走を始めていることも確かです。


 そこで、実国学では、そうした戦後民主主義の理念も尊重しながら、


「独立し、自由なワタシ。国家の主体たる我々」


を確立した上で、この国の形を再考しようというわけです。



 では、実国学では、皇室でもなく、幕府でもなく、そして個人を尊重した上で、この国の形をどんな基盤から再構築すると言うのでしょうか。



 それは簡単です。国学のもっとも初期の部分が、皇室に由来することは否定できません。日本の歴史の中で、ヤマト朝廷にはじまる現代の皇室をないがしろにはできません。


 しかし、もうひとつ、重要なことがあります。皇室はすでに


「独立し、自由なワタシ。国家の主体たる我々」


の役目を、個々に認めているという歴史があるのです。


 それはズバリ



「墾田永年私財法」


に他なりません。


 この時点で、個人は個人として独立することが公的に許可され、それは皇室の財産ではない、つまり「ワタクシというものの自由自在が明確に定義されている」と言っても過言ではないわけです。



「私財としての土地」という概念は、戦国時代には本貫地という形で大変重視されます。また、この考え方は、実は江戸時代・明治大正昭和を経て、現代にまで



まだ残っている基盤的考え方



でもあるのです。長男が家を継ぐとか、あるいは、長男は都会に出ても次男が継ぐとか、婿養子をもらうとか、嫁と姑とか。


 そうした日本的生活パターンのベースにあるのは、やはり「先祖伝来の土地」だったりします。



 現代の生活はある意味、これとの共存であったり、これへの反発であったり、これの崩壊だったりするわけで、それと同時進行で


「地方の疲弊と高齢化・過疎化」


が進行していることも事実です。


 

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 というわけで、実国学のいっちばん基礎の基礎は、やはり


「墾田永年私財法」にはじまる、我々の本貫地を再認識する


というところからスタートするわけです。ここを、皇室中心からワタクシ中心へ、の転換点として位置づけ、戦後民主主義との矛盾を解消しつつ、わが国の本来のあり方へと戻そうとする運動へつなげてゆこうと思っています。



 
















2015年3月3日火曜日

<実国学を考える 6> 地方と都市の抱える矛盾

 先日、ある地方議員さんとけっこう突っ込んで話をする機会がありまして。地方自治や、地方の活性化について議論することができました。

 その中で、いろいろ面白い矛盾が生じていたので、これは「実国学」のネタになるなと、内心ニタニタしていたのは誰あろう


 現代の吉田松陰


を自称している吉家孝太郎その人です。


 地方といっても、ド田舎村から、ニュータウン的郊外、あるいは中間的な田園都市まで、いろんな形態があるので、一概に議論することはもちろんできないのですが、ざっくり言うなれば、


 5階建て以上のマンションとか、ないよね


なところを”地方”や郊外と仮に呼ぶことにしましょう。


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 まず、地方と呼ばれるところは、都市に比べて仕事が少なかったり、あるいはいい大学がなかったりして、若い者はどんどん都会に出て行ってしまいます。

 なので、議員さんと話をしていても、村の長老たちと話をしていてもそうなのですが、基本的に


「若い優秀なもんには、都会に出て学んでほしいわいのう」


ということには異論はありません。あるいは、個別の家庭に目を向けてみると、


「うちの息子は、東大さいったんだ。誇りたかいべ。自慢の息子さ」

「うちとこは、東京の企業に勤めてるべ。さっすがはエリートだもの、仕事で海外にもいくんだとよ」


ということになります。


 ところが、同じ議員さんや老人たちが、一方で現在の少子高齢化や過疎化をみながら、


「このままではうちの村や町は廃れる一方だべ。なんとかして活気のある町にせねばならんの」


というわけです。


 あれ?何かおかしいですね。そもそも優秀な人材が全員流出しているのに、村や町が発展するはずがなかろう。


 彼らの中に、ちょっとウィットに富んだ人がたまにいたりして、


「そら、残っているのは息子のうちでもアホなほうばかりだもの」


と苦笑している人がいるくらいです。なるほど、言いえて妙である。


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 そんな風に根源的に矛盾を抱えているものだから、楽なほうに流れがちな人は、


「行政が何か手立てをしてくれて、底上げをしてくれたらいいなあ」

とか

「まずは補助金というお金をくれたいいなあ」

とか、

「そして、温泉とか箱物をつくるべ」


とか、そういうことを考えるようになります。


 こうした構図が、戦後から現代まで様々な地方市町村で実際に行われてきたと考えてあながちハズレではありません。


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 議員さんと話をしていて、ああ、さすがは一応市民の代表として頑張っておられるだけあるな、と思ったことがあります。


 それは、「じゃあこの状況を打開するにはどうしたらいいか」というところで、


「この町になにがしかの魅力がないとダメだ。町の魅力という資産を生かさなければダメだ」


という考えを述べられたところです。おお、これはなかなか重要ですね。


 ところが、ここで考え違いを起こすと、


「だったら、やっぱり温泉という魅力を生かすべ」


とか、


「特産品で観光客を呼ぶべ」


とか、また元の話みたいに戻ってゆくわけですね。



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 そうじゃなくて、東大生でも、京大生でも早慶でもMARCHでもなんでもいいんですが、彼らがこの町へ帰ってきて新たなイノベーションを起こす手立てやサポートを考えるという方策にはいかないのかな?


と、ヨシイエは思うのですが、実際にそんなことをすると


「都会さ行ってあったまでっかちになったヤツになにがわかるもんか」


みたいになったりするのがオチなんでしょうか?ああ、難しい。



 さて、いよいよここから実国学者の出番です。


 ここで地方に欠けている視点は、やはり「先祖伝来の土地・人脈を生かしてどうイノベーションしてゆくか」ということではないでしょうか。


 戦国時代、各地の戦国武将や領主たちは「本貫地」に重きをおきました。


ここは先祖伝来の我々の領地であるから、この場所の自治権は認めろ!


という気持ちで、互いに戦っていたわけです。その土地において、開墾したり治水をしたりしながら、それぞれの領地の収穫高を上げ、貿易の流通を加速させる、あるいは関所のような形でショバ代を取るなど、彼らは


「地域を中心に据えながら、経済活動のイノベーションを行ってきた」


といえます。


 なので、同時においしい地域は隣からも狙われたりして、いっそう戦いが激しくなったりしたわけですが。


 織田信長の楽市楽座などはその恒例で、「自分のエリアにイノベーションを起こすことで、そのエリアを都市にしてしまう」という思想はなかなか面白いですね。


 このスタイルは、藩政時代になっても続いているため、全国各地の今は「ど田舎」と呼ばれるところにたくさん「小京都」と呼ばれるところが存在しており、それらの町は、今でもかつての隆盛の足跡がみられるわけです。



 小京都、という言葉も面白い響きで、この言葉を誰も否定しませんが、実は


「どっこもみんな東京みたいになりやがって」


な現代の地方中核都市と実は、おんなじことが起こっていたと言えます。


 小京都は情緒があってOKだけど、「各地が東京化するのは、個性がなくてダメだ」なんて言っている人は、とんだクソ野郎かもしれません。


 小京都の存在は、各地の藩の中心ムラ・マチが「都会」を目指した姿そのもののなれの果てです。


 逆に言えば、それだけ全国各地に、都市化された生活が成立していたということでもあるわけで、ここは見習うべきポイントがあるかもしれません。


 そういう意味では、札幌と東京と名古屋と大阪と福岡におなじブランドの店があって、全然OKなのです。各都市が節操もなく都市化してゆくことは、それはそれで自治の意味があるのです。


 
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 江戸時代までと明治以降の大きな違いは何か、それは


「優秀なやつが生まれ育った地元で実力を発揮した」時代





「優秀なやつが東京・海外へ行ってしまう」時代



の差であるかもしれません。


 実国学では、優秀なやつが大金を稼いで、海外で生活をして資金を外貨でためてタックスヘイブンの国に会社を作って儲けることを良しとしません。


 そんなのはダメです。それより、しっかり地元に根ざして、まるで戦国武将のように君臨していただいてもかまわないと思っています。

(ちょっと言い方があれですが、地元に才能と税金で返してほしいし、また地元を引っ張っていってほしい、ということです)





















2015年3月2日月曜日

<実国学を考える 5> 格差はすでに再配分されていた!実は平等な国家「日本」

 トマ・ピケティブームの昨今ですが、彼の説によれば



「親の代からの資産を持つものは、その資産によってお金が増えてゆくので有利」



ということでした。


 また、



「資産によって得られる利益・利子は、頑張って働いて伸びた給与や稼ぎの資産より多い」



ということがわかったため、



「公平な世界を作るには、格差を縮小するために、資産の多いものから税金をとらねばならない」



という結論に至るようです。



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 ところが、特に日本においては、ピケティ説が一概に正しいとはいえない=当てはまらないのではないか、ということが議論されるようになりました。

 世界の傾向がそっくりそのまま、日本のこれからにピッタリ合うかどうかはわからない、ということです。


 さてこの理由、いったいなんで日本は世界と事情が異なるのか、という点ですが、歴史を紐解いてみると面白いことが浮かびあがってきます。


 簡単に結論から言えば、


「日本の場合、すでに格差は再配分されている」


ということがざっくりとした事実だったりするのです。まあ驚き。 

 

 もしかすると、戦後高度成長期に「一億総中流社会」なんてことが実現できたのも、「格差は既に再配分されていた」からかもしれないし、これからの時代においても、「ピケティ理論は、ちょっと日本では修正が必要」かもしれないわけです。


 というわけで、今日は実国学の視点から



「再配分終了後の社会、ニッポン」



について考えてみたいと思います。


 前回までは、日本という国の概念をざっくりと「国学」の歴史と共に説明してきましたが、ここからはいきなり実践編に入ります。

 日本の国の伝統的あり方を頭の片隅に置きながら、現代の諸相を読み解いたり改革していこうという試み、それが「実国学」なのです!


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 さて、ピケティのいうところの資産が経済発展よりも利益を生む、というデータを収集した期間というのは、ざっくり200年くらいだとされています。

 つまり、

19世紀初頭から20世紀はじめにかけての時代

1900年代前期から1970年ごろまでの2度の戦争の時代

それから戦後の高度成長の時代

です。


 この3つの時代は、以下のような特徴があります。


 最初の時代は、9割以上もの資産が親子間で受け継がれ、持つものと持たないものの格差が非常に広がっていた。


 次の時代は、不況と戦費調達のため、富裕層の富が大きく失われた期間であり、格差が縮小した。


 最後の戦後時代は、富裕層がまた富みはじめ、中間層が消えて二極分化している。



 特に、最後の時代は格差拡大の傾向であるため、このまま格差はいっそう広がるよ、という警告の書となっているわけですね。



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 このピケティが分析した200年間を再検討すると、日本においてはこの時点ですでに多少のズレがあることがわかります。


 たとえば、日本では、特権階級だった武士が「秩禄処分」により資産を失ったのは明治維新のせいです。

 明治維新は1868年ですから、ざっくり150年前。150年前には、日本人は一度


「資産の再配分」


を経験していることになるわけです。


 それから、戦後のGHQの介入で「農地改革」が行われたのは、1947年(S22年)です。

 この時点で、土地持ち農家は解体させられており、小作人に土地が再分配されています。


 また、この前年「預金封鎖」「新円切り替え」「財産税」という方法で、富裕層から現金を奪っていますので、金融資産面でも、不動産資産面でも、実質的な再配分が実行されていることがわかるわけです。


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 ここまでの話で、日本の場合は、明治維新から太平洋戦争までの歴史の中で、ピケティ標準モデルよりも


「早い時期から格差の再配分がはじまっており、かつ、戦争に負けたために強制的に再配分は敢行されている」


ことがわかるはずです。


 そのため、その後やってくる「高度成長」時代において、「国民全体のスタートラインが、その時点であまり差がなかった」ことにつながり、


一億総中流


時代への基礎となっていることがわかるのです。





 実国学では、「日本の土地の在り方、ありよう」にかなり着目してものごとを考えますので、もっと深いことを言えば、


「室町時代末期の下克上風潮」


から戦国時代突入により、朝廷・幕府由来の資本格差は再配分されているし、その後天下統一と江戸幕府の隆盛によって、一旦富は固定化したかに見えたものの、その実態においては


「特権階級である武士が、領地を持ちながら実は実行支配せずに、土地を実行支配していたのは帰農した元武士領主である『庄屋・土地持ち百姓』層であるという二重構造」


があったため、権力の格差と資本の格差が連動しにくかった、面に着目しています。


(江戸時代の武士は、土地を所有しておらず、徴収権・徴税権だけを持っていた)



 そういう面では、日本という国は、実は資産に関してはかなり何度も「再配分」「どんぶり返し」が行われていた、と見ることもできるわけです。



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 さて、翻ってピケティ的に言うところの1970年代以降の、いわゆる「再び格差の時代」についてはどうでしょうか。


 たしかに、正規社員と非正規社員の問題であったり、地方と都市の差であったり、様々な面で「格差」が取りざたされるようになっている感じがします。


 しかし、一方でシャープ・松下・ソニーといった70~80年代型巨大企業にも再編の波が押し寄せ、旧財閥系企業も合併を繰り返してなんとか家名を保っている状況を見れば、格差の単なる拡大だけを叫ぶのは難しいかもしれません。


 また、ユニクロなどに代表される、新興資産勢力も現れているわけで、意外と「回転率が上がっている」のかもしれません。



 その根源的理由は、実ははっきりしていて、現代日本においては、「封建的土地制度としての資本・資産が機能していない」ことが挙げられると思います。



 本来、広大な土地資産を持つものは、大きな金融資産をもつこととニアリーイコールでしたが、現代日本では、北海道に広大な土地を持つよりも、都心に小さな土地を持つことのほうが価値が高くなっています。


 そうした、土地をめぐるアンビバレントな状況が、「資産と資本の継承」を再配分させている面はあるでしょう。


 200年前であれば、田舎に広大な土地を持つものは、絶大な資本を次世代へ継承できたでしょうが、現代日本では、都心に小さな土地を持つものですら、相続税に苦しんで土地すら失うという状況です。

 田舎の大土地は、売れない不良債権に成り下がっており、売れても二束三文です。


 一方、都心のマンションにいくらでもお金を払う人がいますが、マンションの躯体がだめになる60年後にはそれらは資産から負債へと変化します。


 つまり、現代の日本には「継承されるべき堅実な資産などない」という面白い状況が起きているのです。


 160万人とも言われるニートを親が一方的支払いで食べさせていたり、夫婦でお金を稼いでいるリッチな人たちは子どもが1人いるかいないかだったり、とにかく


「資産継承面でも、この国は問題だらけ」


だということも忘れてはいけません。