2018年9月24日月曜日
<実国学を考える 26-2> 田舎暮らしの本質とは何か
前回の実国学シリーズでは「地方移住の実態」について「国学」の視点から解説しました。
今回も、実質的にはその続きになります。「田舎暮らし」の本質について、かなり核心をついた部分を解説したいと思います。
まずは、今度は「東洋経済」さんから、次の記事を事前にお読みくだされば、理解が進むと思います。
夢の田舎暮らしにつきまとう「耳を疑う」現実
https://toyokeizai.net/articles/-/238254
国学的に地方を研究しているヨシイエからすれば「耳を疑う」どころか、しごくまっとうな話なのですが、ここで取り上げられている
『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(清泉亮著、東洋経済新報社)
の著者さんは、ある程度国学的な視点を、「身をもって発見」なさったようです。
記事の概要を簡単にまとめると以下のようになります。
■ 日本はどこまでいってもムラ社会である。
■ 移住にはこれだけは守るべき、という鉄則がある。
■ 永住が比較的簡単に成功する者は、その土地の血縁者か出身者しかいない。
■ 新入りはもっとも下層として扱われる。
移住におけるこれらの現実を知ると、都会生まれ都会育ちの人は、ひとことで言えば田舎に対しての幻想的な気持ちが
「萎える」
ことは、当然であろうと思います。あるいは、そうした実態を知って「戸惑いや不快感を覚える」という気持ちを持つ人もいることでしょう。
しかし、もう一方で、前回の私の記事を読んで一定の理解をしてくださった方は、今回の現代ビジネスさんの記事を読んで「かなり似たことを言っている」ということに気づいてくださるのではないか?とも思います。
そこで、今回は、 清泉亮さんの言葉を「国学的に補いながら」その事実をお伝えしようと思います。
今回引用されている言葉、それは、
『 山間部であれ海沿いであれ、共通するのは、開拓の苦労である。
田舎はことごとく開拓、開墾の地である。どこまで行っても山岳地帯しかないこの日本列島に田園風景、畑が広がるのは、彼らが戦前から戦後も永く、開墾し続けてきたからである。
それは北海道への開拓移民や満蒙開拓団に並ぶ、それぞれの土地の者の血と汗の結果としての風景にほかならないのだ。
その歴史を直視せずして、素晴らしい風景、素晴らしい空気に水、などという表現は、それこそまず移住第一歩からして歴史を顧みぬ、風土と地元民に敬意を払わぬ、おちゃらけにしか映らない。』
というものでした。
このことをもう少し厳密に説明すると、以下のようなことが背景にあるので、理解しておく必要があります。
1) 日本の農村の風景、里山の風景はすべて人工物である。
農村の研究、あるいは植生と自然の研究をしている人たちの間では当然のことですが、日本における田園の風景、つまり、私たちが「自然豊かだなあ」と感じる景色は、すべて人工物です。
江戸時代などに現在見える形に整備されてはいるものの、すべての里山の風景は人工的に整備され、特に最大限稲作に効率化された「システマティックに設計されたもの」なのです。山林は植林され、人間に必要なものが採れるように組み立てられています。
逆に本当の自然に任せると、道、田畑、山林の境もまったくない「ジャングルのような植生」に埋もれてしまいます。
たとえ人里離れた限界集落のように見えても、そこは少なくとも十数年前までは高度に整備された人工世界であったことを忘れてはいけません。
ということはすなわち、「都市者が感動する風景や自然は、誰かが管理整備している」ということにほかなりません。田舎に住むということはその「管理整備の実務担当」の役割を、あなたが公的にも私的にも担う、ということなのです。
美しい田園風景の享受者ではなく、提供者側の仕事を無償で求められる(日役)ということに他なりません。
2) 開拓の話は、戦前戦後どころではない。実は奈良時代の「墾田永年私財法」以降すべてのムラは開拓の歴史である。
清泉亮さんのことばでは、戦前戦後という比較的イメージしやすい近年のことのように見えますが、実はこの営みは、制度的には「墾田永年私財法」によって「自分で開墾した土地は自分のものになる」というところからスタートしています。
そのため、自力開墾による「領地」が生じ、日本中の荒地や沼地などが開拓されたことで、「江戸時代に向けて、農作物の栽培量が増えることで、それに釣り合う人口増が成し遂げられた」ということでもあります。
(逆に言えば、土地開墾が進んでいった平安時代~江戸時代までは、人口は微増です。日本の人口は江戸時代にいったん倍増し、明治維新まではまた微増で横ばいでした。人口爆発が起きたのは、コメ経済から貨幣経済(産業革命)へ変わった明治維新以降です。つまり、今ある農地は、その頃にはもう極限まで広がっていた、ということです)
参考>
http://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf
3) 田舎に存在するのは、基本的にはすべて「本家」であり「長男」であり、「祭祀の継承者」である。それ以外の人たちは外部に放り出されている。
江戸時代の始まりによって「検地刀狩り」で、農村における「領地」は確定しました。そこから 享保時代ごろまでは、農作技術の発展やコメ以外の生産が伸びていわゆる「開拓の成果」が飽和するところまで成長します。
しかし、そこから明治時代までは飽和状態で、それ以上の人口を養うことができていません。
明治維新によって、北海道開拓、満蒙開拓が始まるのは「飽和した長男以外の子孫を外部に出す」ということが実態なのです。
(そして、また彼らは家を新たに起こして「領地を得る」ことを繰り返しました)
ということは、逆にいえば、いわゆる「田舎」に現在も存在するのは、「長男の家系」です。ですから「先祖代々の墓」が継承され、先祖代々の田畑を所有しているのです。
彼らから見れば、Iターン者、Uターン者は、いわば「領地の継承権を失った者の出戻り」に他なりません。「継承者が断絶しそうな場合は、継承権の復帰」が望まれますが、それ以外の場合には、もともと「継承権を与えることができず、望むと望まざるとに関わらず、追い出したものの子孫」であるということなのです。
4) 田舎の人たちは、経済的に困窮しているのではなく「自分たちのみの食い扶持はあり、それを永遠に継承できる」人たちである。
現代は貨幣経済になっていますが、仮に人口と食料生産が釣り合った場合には、「田舎の本家の人たちのみの食い扶持があって、それ以外は飢え死にする」というバランスになっています。
なので、もし戦争などが起きると、都市生活者は困窮し、飢えます。(それはアニメ映画の火垂るの墓を見ているとよくわかります。西宮や神戸の人たちが、田舎の人たちと比較してどうなったかを思い出してください)
2)で引用した人口カーブをもう一度読み解き直してください。明治維新以降増えていったのは、農家の次男三男の家計で、彼らは北海道や満蒙へ出てゆき、戦後は都市へ「金の卵」として出てゆきました。
それが元に戻るのですから、実は「絶滅するのは、田舎の人たち」ではありません。増えた次男三男の家系が、元に戻るだけです。
それが証拠に、都市生活者の若者ほど、結婚や出産をしていません。農家の後継ぎは、現在でも積極的に結婚が維持されようとしているのです。
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前回も口をすっぱくして主張したように、田舎に住むということは
「本領復帰、本領発揮」
以外ではありえません。単なる感傷的な田舎暮らしなんてものは存在せず、「領地をどのように得るか」という主体的な氏族の戦いなのです。
しかし、戦国時代のようにそれを「主張」すれば、互いの領地や主義を争って殺しあう以外にはありません。
現在の国内の平穏は「武器を秀吉や家康に奪われて、お上の元に『互いの和平を維持しあう』約束をしている」状態、というわけです。
そのために、田舎では休戦協定ならぬ、互いの和がその中心になる、ということなのかもしれません。
2018年9月21日金曜日
【資本主義をハックする 10】 資本主義の肥大化 ~マネーも飽和しているが、ワタシの24時間もすでに溢れている~
マネーポストWEBさんに
映画・ドラマ・音楽も無料で… 増殖する「エンタメにお金をかけない」人たち
https://www.moneypost.jp/322004
という記事が載っていましたが、 これは今更言われなくても実感としてもう僕たち私たちをとりまく世界は無料のもので溢れ返っているわけで。
現代資本主義では、経済が周りに回って富裕層の投資マネーはすでに「溢れている」と言われていますが、それが、
資本主義の肥大化、欲望の肥大化の成れの果て
であるのなら、 私たちが享受する情報も「24時間」ではすでに溢れていると言えるでしょう。
エンタメ、つまり「動画や音楽、文章を読む」時間だけでなく、ニュースを得る時間、考える時間、遊ぶ時間、あるいは仕事をする時間、どの時間を取っても、
無料で提供され、ブッシュ型でセカイから送りつけられてくる情報は、もう溢れている
と言えるのは間違いないと思います。
いわゆるマスメディアなどによる公的なもの以外にも、個人のツイートやSNSの画像など、ちょっとした娯楽からオピニオンに至るまで、私的な情報も、すでに
24時間では全部を追いかけられないほど、情報が溢れてこぼれている
ことにも気付きます。
投資先を求めてマネーが巡り巡るように、受け手を求めて次々に繰り出され、消費され、破棄されていく情報がある、ということが、いかにも資本主義らしいシステムだな、と思います。
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そうなると、冒頭の記事ではないですが、
「無料で楽しめるものだけで、24時間が充分に満たされ、溢れかえるほどになる」
先には、何が起こるのでしょうか。
それは、有料で「お金と代替する情報」を提供するシステムが、限りなく無料へ近づいてゆく世界なのではないでしょうか。
たとえば、現在世界各国の政府は「莫大な債務でヒーヒー言っている」わけですが、逆に「投資家のマネーはじゃぶじゃぶ溢れている」という不思議なことが起きています。
同じように「旧来のメディアは収入の減少でヒーヒー言っている」のに、逆に「情報の提供者は、youtubeやフェイクニュースも含めて、じゃぶじゃぶ溢れかえっている」のです。
ここで、富の再配分を行うには、「富裕層に課税し、溢れている金を取り戻す」ことが必要かもしれませんが、情報の再配分を行うには「一般人が発信することを規制し、マスメディアに収益権を取り戻させる」ことと同等かもしれません。
後者がナンセンスであると言うなら、前者もナンセンスだということになります。
前者が正しいというのなら、後者も正しいことになるでしょう。
つまり、「溢れる情報」や「溢れるマネー」は、旧来のガバメントシステムや、旧来のメディアシステムに対して、
「コペルニクス的な大転換」
を強いるものであるということになります。
情報の統制が利かないセカイは、すなわち政治の統制が利かないセカイ
であるのならば、未来はこれまでの「政府」というもののあり方が根底から変わるのかもしれません。
2018年9月20日木曜日
【資本主義をハックする 9】 ゾンビでもわかるバブルのしくみとハック方法
経済界隈のネットネタを見ていたら、ちきりんさんのブログで「もう一度バブルがやってくる」という内容の記事が出ていました。
もう一回バブル崩壊が見られるかも!
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/?sid=35b416571c
バブルが再来することが是か非かはとりあえず置いておいて、ある人はそれを望み、ある人はそれを嘆くことは必至ですね。
新築マンションならいざしらず、築古の中古マンションでも5000万円以上している!というのは確かにバブルの香りがぷんぷんします。
ちきりんさんの言うように、この水準だとふつうのファミリーが住まいとして買うにも高すぎることになっているわけです。
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というわけで、このブログは「資本主義をハックしようぜ!」ということがテーマですから、ここは備忘録がてら「バブルはなぜ起きるのか」をこれ以上ないくらいに単純化して書いておくことにしましょう。
まずは、製造コストの合計が100円であるモノがここにあるとします。
これを実質的な価値とみなして、とりあえずは「100円のモノがある」と考えるのです。
それを商売として販売するときには、利益を乗せて「120円のラベルをつけて売る」ことができるでしょう。
ところが、その商品がレアものだったり、アイドル好きの誰かにとっては価値があるものだったりしたら、メルカリで売れば
「200円でも売れる」
ものだったりするとしましょう。
あるいは、いくつか集めてコンプリートするとさらに価値が上がって、全体を揃えたら「1つが1000円ぐらいの値段でも売れる」ものになったりするかもしれません。
そうすると、元々の製造原価コストは100円なのに、値段としての価値は1000円になるので、なんと10倍に価格が膨れ上がっているということがわかります。
これがバブルです。
よく考えると、”それ”は100円で作ることができるのですから、そのことに気付いた人は、100円で”それ”を作ってまたまた売り出そうとするでしょう。
そうすると、みんなも「ああ、なんだ”あれ”は100円の価値しかなかったんだ」と気付いて急速にそれを欲しがることがなくなったりします。
これがバブル崩壊ですね。
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都心の不動産も、あるいはビットコインも、多くの人が
「これは価値があるらしいぞ!」
と思っているので、値段が上がってゆきますが、賢い人は、「そもそも原価はなんぼやねん」ということを真っ先に考えます。
しかし、不動産なんてのは、原価というはっきりした基準がないし、「どの土地に価値があるか」なんてのもこれまた「みんなの人気、便利なところ」ぐらいのぼやっとしたモノサシしかないため
「神様からみて正しい不動産価格」
なんてのは、誰にもわからない、というのがバブルを生む素地を作っている部分はあるでしょう。
また、バブルを誘発する「もの」にも一定の傾向があって、たとえば誰もが欲しがっても「保存が利かず腐敗してゆくもの」とか「食べちゃったら消えるもの」なんかは、バブルには不向きだということも少し考えればわかりますね。
やはり、転売を重ねても本来の価値があまり大きく損なわれないもの、のほうがバブルには向いています。
なので、やっぱり不動産はバブルと親和性が高いことになります。
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では、私達のような庶貧民が、バブルをハッキングするにはどうしたらいいでしょうか。不動産のような高額のものはやり取りできませんので、あくまでも小額のものがターゲットになるのですが、
「バブルは、何度も取引が繰り返される中で価格が上がるので、売り切り終了・売り切れ御免の商品ではそのうまみを味わえない」
ということも覚えておくとよいでしょう。
逆に言えば、「転売ヤーたる投機家が投資目的で買い漁らないシロモノは、バブルにはならない」ということも言えそうです。
また、「実質価値とラベルの値段にズレがあるところには、儲けの種が転がっている」ことも忘れてはいけません。
むしろ、バブルの芽は、そこにあるのです。
2018年9月19日水曜日
<実国学を考える26> この国で地方移住が進まない理由
しばらく書いていなかった「実国学」シリーズですが、この日本での生活、暮らし、そして生き方の背景にある
「国学(日本学)」
を把握しながら、現代社会を読み解いていこうというコーナーでございます。
さて、今回のお題は「地方移住と地方創世」について。まずは現代ビジネスさんにこんな話が載っていました。
この国で、地方移住がまったく進まない根本理由がわかった
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57571
筆者の方は、理系で工学やら金融に詳しい方のようですが、ごめんなさい。私は彼をまったくDISるつもりはないのですが、
「地方移住がまったく進まない理由が、根本的にわかってない!」
ということを申し上げざるを得ません。ほんとうにごめんなさいね。悪気はないのです。
この加谷さんの論では、地方移住が進まないことに対しての処方箋というのは、
■ 若年者の地方移住希望は増えている
■ しかし仕事がなかったり給料が安い。仕事のミスマッチもある
■ 自治会に入らないと村八分でゴミが出せない
■ 結論→金銭的な補助だけではなく、田舎の社会システムに手を入れろ
となっています。
これらの話は、一見すると都会人で田舎に移住しようとしている希望者からするともっともなのですが、実は、話はそう簡単ではなく、すべての原因は
「国学と国の成り立ち」
にあるのですね。
それがわかると、すべてが解決しますので、今日は国学者としてそのお話をしましょう。
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1)『村八分になるのは、理由がある』
まずは、ネットでも話題になった、自治会に入らないとゴミ出しができず、あるいは自治会に入るのも「旧来の住民が許可してやっと入ることができる」などの制度についてお話します。
これは、いくつかの「もともとは切り分かれた別々の事情」がベースになっているのですが、これらのトラブルの原因はすべて「国学的発想」にあります。
たとえば、とある田舎の自治会ではこういうことがあります。
「市の広報が全世帯に配布されるのだが、市は月に一回公民館に広報を届けて、それを自治会の役員が分担して各世帯に配っている」
「そのため、自治会では、毎年広報配布係を交代で選出して、その人に配布を担ってもらう」
「自治会に入らない!という新入居世帯が現れると、『では、勝手に市役所へ行って、置いてある広報を持って帰ってください。自治会では配布しません』と宣言される」
はい。これで広報の村八分のできあがりです。
このお話、新入居者から見ると、「自分の家だけ広報を配ってくれない。差別である」と思いがちですが、自治会入会者から見ると、
「あんたのところだけ、広報係を免れるのに、受益だけ得ようとするのはおかしい」
となるわけで、広報を配ってもらえるという受益には、「広報係に何年かに一度なる」という負担がくっついてくる、ということが裏にあるわけです。
この話にはもっともっと裏があって、実は「広報を各家庭に配ってもらうために、市は各自治会に対して年間一個あたり数百円の「ポストイン代行手数料」を払っている、ということがあります。
自治会では、その代行手数料をプールして、自治会活動に当てているので、「みんなで共同して負担をし、また金銭的な受益も得ている」ということになっています。
だとすれば、市としては、村八分にされた個別の家に対して、たとえばヤマトのメール便などで、市の負担で個別配送をすればいいのですが(実際、そういう対応になる)、それでは費用が膨大になりすぎるので、
「市は自治会を下請けに使って、広報費用や連絡伝達業務を安価に抑えている」
ということが背景にあるわけです。
仮に、日本の行政から自治会業務を切り離すと、災害の場合の人員把握や、必要な物資の供給などはすべて頓挫します。
なぜなら、市は、すべての家庭に情報伝達と物資(チラシや広報物を含む)を個配送しなくてはならなくなり、その費用負担だけでパンクすることになります。
つまり、市は自治会を下請けとして上手に使っている、というわけです。
2)自治会の正体
さて、では市の下請けとして機能している自治会は一体なぜ市の下請けに甘んじているのでしょうか。
それは、現在の自治会機能が戦中に発展した「隣組」の影響を受け、また、それ以前をたどれば江戸時代の「五人組」の影響を受けているから、
「お上の言うことをある程度集団で聞く」
というシステムができることになったのですね。
隣組も五人組も、広報、物資の供出や分配(配給)、有事の際の避難防衛などを基本としながら「思想統制」や「相互監視」、「年貢の連帯責任」なども負っていました。
つまり、自治会の機能そのものが、「会員、つまり住民の意思統一を行政の支配下で推し進める」という側面があるために、
「入らないものは、当然除外せざるを得ない」
というシステムになってしまうのです。
ゴミ捨てにおける村八分の問題にしても、当然「ゴミ集積所の設置と維持管理を自治会に下請けさせた」以上は、自治会に入らずして、受益することは不可能なのです。
それはあえて言えば、「全地域にゴミ集積所を配置し、定期的に維持管理を直接行う」というコストアップを避けた、市の怠慢とも言えるわけですね。
3)自治会の本質
しかし、それではまるで「自治会は市の手先」のように思えてしまいますので、そこは改めて置きたいと思います。
結果として、江戸時代や戦時体制のせいで「市の手先」として使われていることは事実ですが、本質としての自治会は、あくまでも
「自治、自警のための権利集団」
であることは覚えておきましょう。
いわゆる田舎における自治、というものは、現代リベラル社会における「公民自治」とは少し異なる概念から発生しています。
ここが「国学(日本の国としての成り立ち)」に関わる根幹なのですが、いわゆる戦国時代には
「領主である武士がいて、武士は職業武士と農業を兼務しながら自分の土地を経営ならびに自警していた」
ということが、とりあえずのスタートになるでしょう。
戦国時代には、それぞれの武将がドンパチやりながら領地を増やしたり減らしたりしていたのですが、秀吉の天下統一によって「はいそれまで」となり、その場所で全員椅子取りゲームの曲が止まった状態で、静止させられてしまうのですね。
その最終局面での領地の確定が「検地・刀狩り」です。
ここで、いわゆる職業武士は幕藩体制へと移行してゆくのですが、在地の領主は武士から刀が取り上げられて「帰農」せざるを得なくなります。
しかし、領地は確定していますから、秀吉の時代から徳川の時代に入ると、ひとつの土地に対して
「この土地の所有権はあなたにあり、この土地の支配権・行政権は私たち幕府にあるので、年貢は5公5民としましょう」
というわけで、土地に対する領有権を半々で手を打ったわけです。
それがそのまま、明治まで来ていますので、つまり
「田舎の土地の所有者は、もともとは戦国武将で、その土地の領主であり、時代の流れで徳川の世になり世を忍ぶ仮の姿の農民ではあるが、今でもこの土地の領主である」
ということなんです。それを明治になって登記しているだけで、このことを「先祖代々の土地」と一般的に言うわけです。
では、自治会とは何か。これは端的に言えば、「領主会議」です。
年貢というのは、実は農民に科せられたわけではありません。年貢の徴収を受けるのは、先ほどお話したようtに「土地の領主と行政の権利者が収穫物を半分こに分ける作業」ですので、「領主」に科せられているのです。
それが、村でいうところの「庄屋」「長百姓」などで、彼らは農業経営者であり、元武将の領主であり、水飲み百姓という土地を持たない農民をこきつかって経営をしていたわけですね。
(つまり、行政者である藩と庄屋はどちらも領主なのです。このあたりから、行政の下請けがはじまります)
(ちなみに、庄屋が藩側についた地域もあれば、農民寄りだった地域もあります。このあたりは江戸時代が現代に近づくについて変動します)
したがって、「自治会」とは「領主たちが行政者である藩と、どのように協力したり、あるいは時にはどのように自分たちの意見を挙げてゆくか」という高度な政治の場であり、元々は水飲み百姓は土地の権利がないので除外されているのです。
ところが、戦後の農地改革で、地主層から水飲み百姓への土地の移譲が進み、自治会が「領主層の支配者会議」ではなくなってきました。
しかし、「土地を持つものの権利会」であることは変わっていません。その対象者が増えた、ということです。
4)領主たちの権利会
自治会がそうした経緯を引きずっている以上、特に田舎ではそれに似たような付随した権利の会がたくさん生き残っています。
たとえば田園農村であれば「水利組合」というのがあり、その名のとおりどのように水を配分するかで領主たちが協議を重ねたり、誰かがでかい口を叩いたり、新参者に対してぎょろりと目を見開いたりしています。
分りやすいのは「村で持っている松茸山の権利」というのもあります。これなんかは、先祖代々の領主たちの利権を引き継いでいるので、
「自治会入会OK、村の神社の氏子会もOK、でも松茸山権だけはよそ者には加入させない」
なんてのはどこでもそうです。なんで新参者のおまえに売上をわけてやらなあかんねん、ということです。
いま、少し書きましたが、「寺の檀家がらみの会」とか「神社の氏子」とか「祭りの係」とか、戦国時代からの歴史によって継承されているいろんなことが、
田舎の村にはある
のが普通です。それは、何度も言うように「国学的視点」がないと理解不能です。
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こうした問題点のすべては
「土地をもった領主たちが、自分たちの権益を守るためにその村で最大限努力してきたことの証」
でもあり、
「時には藩という行政と対立し、一揆を起こしたりしながら自治を勝ち得てきた」
という歴史的な経緯も含まれています。
ですので、移住者がふらりと田舎に舞い降りても、消費社会の真っ只中でしか生きていない都市の人間には、理解できなことだらけなのです。
消費者ではなく、「権益を維持し、発展させる」ことに全力を注いでいる人たちですから、「何かをしてもらう」というフリーライド発想を極端に嫌うのです。
ですので、実国学者である私は、単なる田舎への移住ではなく、
「あなたの氏族が本来領地として持っていた本領へ帰ろう!」
ということを推奨しています。それが「本領復帰・本領発揮運動」です。
都市生活者の大半は、昭和時代に「農家の次男・三男で本来の領地を継げなかった人たち」の子供もしくは孫です。
それが金のたまごやら集団就職やら、大学卒業後に都市へ定着したのがみなさんですから、できることならば
「本来の田舎で、領地継承者が途絶えている本領へ、関係者として戻る」
のが一番です。これなら、血縁・地縁の手助けによって、田舎ぐらしの継承も多少はうまく行くのです。
田舎が領地継承者の絶滅に困っているのであれば、そこへ「本領復帰」するのが氏族としてもふさわしいことではないかと思います。
ご先祖さまの土地を守るためにも、ぜひ一考してみてください。
2018年9月7日金曜日
台風による屋根被害の状況とその対応について H30年台風21号
ふだん関西圏の建築業界の隅っこで仕事をしているヨシイエですが、今回の近畿圏を襲った猛烈な台風21号で被害に遭われたみなさまには心からお悔やみ申し上げます。
さて、今回の21号台風では、特に
板金屋根、防水シート類、看板類、足場類
がそれはもうひどい状態で吹き飛ばされている状況が数多くTVなどに写し出されていました。
特に板金類は、飛散しどこかへ落ちると、人体を切って傷つける能力が非常に高く、ガラスなどが飛散するよりも危険な状態を生むことがあります。
今回の被害状況で直接ご覧になった方も多いと思いますが、
「板金による屋根類は、台風などの風害にとても弱い」
ということを知っておくのはよいことだと思います。
特に、阪神大震災・東日本大震災・熊本地震などを経て
「屋根は軽いほうがいい」
というイメージが強くなり、焼き物の瓦屋根が敬遠されて板金の屋根材が増えている最中ではありますが、
「板金屋根は、屋根ごと飛ぶ」
というデメリットも、知っておいて比較するほうがよいでしょう。また、板金屋根は一部補修ができず、剥がれると全部屋根全体を葺きかえる必要があるため、そうしたデメリットも理解しておいたほうがよいと思います。
「重い屋根と軽い屋根はトレードオフの関係にある。
重い屋根は台風に強く地震に弱い
軽い屋根は台風に弱く地震に強い 」
ということを頭の片隅に置いておいたほうがよいと思います。
===========
さて、これから多少酷な話をします。
常に現場サイドで、昨今の建築業界を取り巻く事情をリサーチしているヨシイエさんの情報ですが、
陶器瓦の屋根職人も板金屋根の職人
も、すでに関西圏では圧倒的に人数が足りていません。(もっと言えば大工さんとかもそうですが)
何が起きているかを時系列で書くと、
■ 平成30年豪雪により、まず近畿北部では屋根が雪によって多く破損した。
→ この軒数がものすごく多く、屋根関係、建築関係の末端の職人は2018年春から夏にかけて補修仕事が数十件抱えながらの業務となっている。
■ 平成30年7月豪雨で、屋根関係の補修は既にオーバーフローした。
→ いわゆる梅雨前線と台風7号による大雨被害で、「屋根が飛んだ」事案が多発。 豪雪以降遅れがちになっていた屋根関係の補修仕事が、完全にマヒした。
■ 平成30年大阪北部地震で、完全にノックアウト
→ いわゆる高槻茨城などの北摂地震で、こちらも屋根・躯体の被害が多数発生。該当地域への補修工事は、すでに「誰もいけない、手がつけられず放置」の状態になっている。
■ いよいよ今回、平成30年台風21号
→ もはや補修に回れる建築職人はいない。私が勤めている会社にも「職人はいないか」とバンバン電話がかかってくるが、完全に対応不能。
==========
こうして全体の流れを追うとよくわかると思いますが、ここ数年来の建築不況により実働できる建築職人が激減している中、
大雪、大雨、地震、台風
の4連発で、需要と供給のバランスは一気に崩れていることがわかると思います。
そのため現場では何が起きているかというと
「とりあえずブルーシートだけ掛けにくるにわか業者が出没」(屋根や構造に詳しい人たちではなく、とりあえず屋根に上ってボッタくる)
「どの工事業者に電話をかけても、誰も相手にしてくれない」(通常顧客を優先しているため)
「工務店が下請け業者を探しても、まったく言うことを聞いてくれず下見にも来てくれない」(すでに下請けさんもオーバーフローしているため)
という状況になっているわけです。
おそらくこれは1年ぐらい続きます。
==========
どうしてこういうことになったかと言うと、業界の構造が「安値志向」「ローコスト住宅」ブームで、現場の職人さんへのお金の配分が長年少なくなってきたため、
「建築職人という仕事は美味しくない」
ということがバレてしまって、人手がどんどん去っていったからなんですね。
ところが、業界全体としては、「少子化」「着工軒数減」なので、人手が減ってもバランスがとれてしまっていたのです。
どうせ新築物件は建たないので、職人の数も多くなくてよい、という状態へソフトに移行してしていた矢先の災害の連鎖だったので、
そもそも工事ができる人材は、もとからいない
ことになってしまっていたのです。
==========
こうした事態を避けるには、車の車検制度ではないですが、住宅にある程度の
「数年ごとのチェック制度を義務付ける」
などして実働できる職人の絶対数を維持できる政策がないと、どんな災害が来ても修復すらできないということが起きてくると思われます。
いや、すでに今日の大阪から、それは始まるのです!いっしょに目の穴をかっぽじって、これから何が起きるかよく見たほうがいいです。まじで。
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