2016年3月28日月曜日

子どものいない人生は、「負け犬」なのか。特に女子。


 ”「子の無い人生」をどう生きる? 酒井順子が問う、未産女性の今とこれから”

 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48261

という、現代ビジネスさんの記事を読んで、なかなか思うところがたくさんあったのでメモしておこうという次第。

 著者の酒井順子さんと言えば、「負け犬女子」という言葉や定義を生み出して一世を風靡した人です。

  話題となった「負け犬の遠吠え」(エッセイ)の発表が2003年だと言うから、あれから軽く10年も経ってしまったわけで。

  しかし、この本で書かれていたのは、「未婚、30代以上、こどもなし」の女性を自虐的に表現するものの、そうした生き方を応援する内容であったから、刺激的な言葉とは裏腹に、世の女性たちには多いに賛同を得たという面もあります。


 その酒井さんが、10年を経て、どのようなことを言っているか。これには男性である私も興味がつきません。

 30代を過ぎて、40代を越えてきたという酒井さんは、今回の新著で「たとえ結婚していても、子供がいない人生というのは、どうもまずいらしい」という趣旨のことを言っておられます。

 

 その究極のポイントは、「子供がいない私を誰が看取るのか」という視点だそうです。

 仮に親族がいたとして、実の子ではない「姪っ子や甥っ子」が看取るとはどういうことなのか。あるいは、彼らがそれを実行するということが、どれほど負担や課題であるのか、という視点。

 それは、酒井さんが実際に実の親を看取る時にこそ、リアルな話として浮かび上がってきたわけです。

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 ある種の諦念を持っているヨシイエとしては、「自分が死んだ後のことなんて、知ったこっちゃないわ」という気持ちも、ないわけではありません。

 現代人からすれば、自分が幽霊となって天井からおろおろする親族を見下ろしているようなことは、おそらくないと考えているし、仮に明日突然クルマにハネられたり災害にあったりしたら、そうした老後の心配どころではないこともアタマではわかっているわけです。


 しかし、そうしたニヒルなヨシイエであったとしても、実国学者としての吉家孝太郎は、やはり

 「自分の人生というものが存在していたことを肯定してくれるのは、結局は子孫だけなのではないか」

 と思うようになりました。

 

 たとえば、現役で仕事をしている男女であれば、今あなたや私が取り組んでいる日々は、同僚や取引先や、関係者によってきちんと認められるということはあるでしょう。「認める」なんておおげさな言葉を使わずとも、「誰それという社会人が、そこで日々生きている」ということは、その関係者によって存在が実感されているわけです。

 ところが、もし仕事を引退したとしたら、あなたが確実にそこに存在していたということは、誰が肯定や実感してくれるのでしょう。どれだけ仕事で大きな成果を挙げたとしても、引退して10年も立てば、あなたやわたしのことは、きっと関係者にも忘れられてゆくことは必定です。

 

 そして、あるいは、そうした仲間や知り合いがつぎつぎに亡くなってゆく未来においては、「あなたがあなたらしく生きた」ということを、ただ知っていてくれる人は、どこにもいなくなってしまうのではないでしょうか?

 

 その頃には、あなたが生きていたことを知っているのは、家族や親類だけになっていることでしょう。 あるいは、もっと重要なことをズバリと言うならば、「あなたという人がいたんだ」ということを受け継いでくれるのは、きっと子や孫しかない、ということに私たちは気づいてハッとするのです。

  私たちは、どこそこの会社の素晴らしかった事業部長のことなんて、わかりません。歴史ある建物を建てた人物にすら、あまり興味がなかったりします。

 しかし、すべての人は、自分がどこから来たのかとか、祖父や祖母や曾祖父がどんな人だったのかが気になります。

 

 いや!気にならなくても、その存在をただ知っていたり、認めたり、肯定できます。なぜなら、それは私やあなたに繋がる存在そのものだからです。

 

 子供を産まない女子や、あるいは産めない女子のことを思うと、私は胸が痛みます。どこかの校長のように2人以上「産むべきだ」とか、そうした趣旨のことは、まったく言うつもりはありません。

  ただ、遺伝子は、命はそこで絶滅するのだなあ、と思うと、涙が出るのです。恐ろしいことだとも思います。


 酒井さんが、文章の中で言っておられますが、男は「70になっても、まだ遺伝子は残せる!」というアホみたいかもしれませんが、幻想に抱かれながら年を重ねることができます。

 

 しかし、女子はリアルに時間制限がついている。20代から40代という二十数年間に「意思決定や、実行」をしないと、本当に絶滅するのです。

 

 これはとてつもなくすごいことを要求されていると言ってよいでしょう。

 

「誰それというおばあちゃんがいたんだね」というただそれだけのことが、あなたの人生にあるのか、それとも、それはないのか。

  こんなに簡単なようで、重大な話はありません。

 

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 ヨシイエは実国学者ですから、世間からは右翼だと見られるかもしれませんが、私は「家族のあり方」とか「子供を産んで人類に貢献せよ」とか、「男は仕事、女は家庭」とか、そういうことを論じる気はないのです。

 

 別に家族を持たなくても、女性は好きに子供を産めたらいいじゃないか、とも思います。男子たちが不倫に明け暮れて、遺伝子を残したくてたまらないように、女性も自分の理想とする方法で、遺伝子を残していただければいいわけで(^^

 どんな形態であっても、親子は不変だし、それこそ母子の関係は、男子には代替できないものです。

 

 しかし、この国のありようや、社会情勢やら政治やらのせいで、「女子が絶滅しない自由」を奪われるのは、それはいけない!と思うのです。

 

 

 

2016年3月4日金曜日

ゆとり世代とは何か ~「今の若いもんは、」という言い草では説明できない世代~

 ゆとり世代、という層が、おそらくこれからの日本社会でいろいろな物議を巻き起こすであろうことを予見しながら、この記事を書いておこう。(今日はマジ口調)



実は、今日付けのBLOGOSに


「ついにゆとり世代がマスコミ業界に!」
http://blogos.com/article/164632/


という記事が載っていて、テレビに映った新人ディレクターの態度・様子がどうもふつうの感覚とは異なるぞ?というニュアンスで紹介されていた。



 しかし、古今東西を問わず、いわゆる大人や古い者たちから見て、若者や新しい世代に対して


「今の若いもんは」


と非難めいた口調になるのは当たり前なので、ゆとり世代を人くくりにして、


新人類(ありましたねー。そんなことば)


扱いするのは、正しい認識とは言えないだろう。





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 そこで、ヨシイエ的に真の意味で「ゆとり世代とは一体何なのか?」ということをきちんとまとめて、みなさまに問題提起をしたい。


 「ゆとり世代」というのは、これこれこういうことを考えていて、なのでこのように取り扱い注意なのですよ、というわけだ。



 まず、一般的に、ウィキペディアなどでゆとり世代は



ウィキペディアより、「ゆとり世代」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E4%B8%96%E4%BB%A3



”広義では1987年4月から2004年3月生まれを指す。”


とされている。



 これは、2016年現在において計算すると29歳から12歳を指すため、ふつうの人は、



「ゆとり世代って、社会人になって間もない若者たちのことでしょ?」



と誤解しがちである。



 29歳といえば、大学を出て7年であるから、まだまだ若い。会社においても新人や若手を指す言葉であるので、


「いまどきの若者はなっとらんな」


とおぢさまたちが言いたくなるのもわからんでもない。



 しかし、上記の定義は、実は間違っていて、この29歳から12歳というのは



”小学校から大学まで、ゆとりに基づいた教育を受けた者たち”



ということで、実態はもっと根深い。



 小学校から大学まで、ということは、完全ゆとり培養である。それはそれでいい。


 しかし、教育課程においては完全ではなく、一部ゆとり教育を受けているものたちもいる。


 そもそも、日教組が「ゆとり」と週五日制を言い出したのは1972年のことであり、歴史が古い。


 それによって従来の詰め込み教育から


「学習内容を削減した」


学習指導要領に改訂され、それが施行されたのが小学校1980年、中学校1981年、高校1982年からのことだった。


(しかし、このバージョンの指導要領を、世間の人も文科省もゆとりとはあまり言わない。しかし、文言としてはたしかに”ゆとり”が入っている。)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98#1980.E5.B9.B4.EF.BC.88.E6.98.AD.E5.92.8C55.E5.B9.B4.EF.BC.89-


リンクのウィキペディアでいうところの昭和55年版指導要領というやつである。




 このバージョンを適用されたものは、実は1980年に6歳だったとすると、2016年には42歳になっている。


 高校で一部適用されたものは、1982年に16歳だったとすると50歳になっているのである。


 ということは、老人と経営トップ以外は、管理職や部長級でもみんな「ゆとり教育」を受けているということがわかる。



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 しかし、一般に言うところのゆとり教育は、このバージョンではなく、次のバージョンからが主だ。



 小学校1992年、中学校1993年、高校1994年から適用された通称「平成4年版学習指導要領」は、



新学力観



を提唱した。小学校に「生活科」ができて「生きる力」をテーマに円周率が3になったアレだ。


 そして、このマイナーバージョンアップとして、1992の秋から第2土曜日が休みになり、1995の春からは2.4土曜日が休みになったのである。


 ここから「週五日制」への布石が確実なものとなり、いよいよ、次のバージョンで完全週五日制へと移行するのである。




 と、その前に、この平成4年版の教育を受けた者が、いま何歳になっているか確認しておきたい。


 1992年に6歳だったものは、2016年現在30歳になっている。高校から適用されたものは、38歳である。


 この若手から中堅に当たる世代も、実は「ゆとり教育」の洗礼を受けているのである。


 さすがに、38歳の者は、円周率は3.14の教育を受けている。しかし、新学力観のもとでの教育をうけているため


「基礎基本よりも、変化への対応力」

「思考力や問題解決、そして個性の重視」

「結果ではなく意欲を評価する」


教育を(高校・大学と)受けているわけだ。



さらに、この世代から「週5日制が当然で、その論拠は週40時間労働にあり」ということを身を持って知っていることになる。





☆なので、今20代から30代の教師たちが、「部活動はブラック労働だ(週40時間を超える)」といい始めているのは、当然である。


 かれらは「ゆとり教育」をきちんと受けている世代なので、週40時間労働が基準であることをちゃんと学んできているのだ。




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 そして、一般的に最悪という評価を受けているのが、2002年・平成14年版学習指導要領だが、これは


完全週5日制

絶対評価

総合的な学習の時間


を目玉とするものであった。


 当然、最初に出てきた29歳から12歳がこれに当たる。





 さて、ここでよく考えてほしい。いわゆる一般的に言われている「ゆとり世代」の問題点、



「社会人としての基礎や基本的な習慣や考え方が根付いておらず、自分の都合を優先する」


とか


「服装やみだしなみ、あるいは行動を抑制せず、自己主張をする」


とか


「結果が不本意に終わったときの態度に問題がある」



とか



「残業や面倒な仕事を嫌い、権利意識については人一倍主張する」



とか



「自己評価が高く、なかなか改めようとしない」



とか



そういうマイナス点は、平成4年版と平成14年版の学習指導要領の特徴・内容と奇妙に符合すると思わないだろうか?




 いや、完全に合致すると言ってよい。こつこつとしたプロセスの積み重ねではなく、臨機応変という名のもとに「その場をとりつくろ」い、ベーシックな努力を厭い、華やかな結果だけに魅了される、という「ゆとり世代の特徴」は、



そうなるように形成された教育のたまもの


なのである。



 これはある意味、すごいことで、日本の学校教育は「それほどまでに指導要領どおりの人材を育てることができる」という事実の裏返しなのである。




 そのため、これは単に「今のわかいもんは」の分脈で理解したり、対応すべきものではないのだ。




 もし、結果論的に、平成4年・14年版の指導内容に不備があり、課題や問題があったとしたら、実は



「企業内や、組織内で、それに対する修正教育を補完してやる必要がある」



ということを意味している。



 しかし、残念ながら、今の企業や組織には、そうした力が残っていないため、上司にあたる古い世代も疲弊するし、当の「ゆとり世代」も本人が悪いのではない部分があるため、理解ができず苦悩することになる。


 そしてその教育補完ができないために、当の本人たちは「理解されない感」や「昔の人たち意味わかんねーよ感」「不満足感」を感じて離職したり不遇な職業生活を送ることになるのである。



 しかしまあ、これから、そうした世代がすべての企業や組織で中堅中核になってゆくことを思うと、ちょっぴりやるせないのだが、



 寺脇さん、なんとかしてください。



と言いたいところである。



注>寺脇研。当時ゆとり教育のスポークスマン的立場にあった文部官僚。現在は大学教授。