2019年10月27日日曜日

■【資本主義をハックする21】 日本人の生産性が上がらないのは、ケチが多いからだ。



 働き方改革だの、生産性の向上だの、これからの企業と働く人の未来についてあれこれ議論されているところですが、「生産性を上げる」なんてことは実はとても簡単で、諸外国ではあっという間に実現できます。


 そもそも生産性とは何かを簡単にまとめると


「働いた労力に対して、お金がたくさん得られること」


に過ぎません。



 ところが、何を誤解しているのか、日本人は


「おなじ製品をできるだけ安いコストや価格で提供すること」


みたいにすぐ勘違いしてしまいます。



 なので、働き方改革に絡めて



「残業をしないで、これまでとおなじ製品量・サービス量を維持しなくてはいけない」


みたいに経営者も労働者も考えてしまうのですね。アホです。



 なぜなら、おなじ金額を稼ぐのに、より忙しかったり、労力が詰め込まれた作業をしなくてはならないのであれば、それはもはや



 奴隷労働


まっしぐらだからです。




==========



 生産性が高い商品と、生産性が低い商品の比較を行うには、コンビニへ行ってグミの棚を見ればよくわかります。


 お菓子のグミの陳列棚には、まあたいてい国産のグミとドイツ生まれの「ハリボー」のグミが並んでいます。


 ■ ハリボーのグミは100g入りで、だいたい230円ぐらい

 ■ 国産のグミの増量タイプは、100g入りで、だいたい200円ぐらい

 ■ 国産のグミの標準タイプは、50gぐらいで、だいたい100円ぐらい



という価格設定になっています。


 海外製の菓子類などを扱っているお店にいくとよくわかりますが、ハリボーのグミだけでなく、ポテトチップスなんかは、



「国産の3倍入っていて、国産の3倍の値段」



がすることがほとんどです。輸送費や関税の関係をさっぴいても、基本的に


「高くてでかい」


のが海外製品の特徴でしょう。コストコなんかへ行っても、それはよくわかります。



==========


  仮に、グラムあたりの価格が、国産品と海外品のどちらもおなじだったと仮定して、それでも



「3倍入って3倍高いほうが生産性は高い」


と言えます。なぜなら、客が1回の来店で3倍のお金を落としてゆくのであれば、そちらのほうが絶対に効率がよいからです。


 逆に、価格を3分の1にしたことで、客が3倍来店するかといえば、それも絶対にありません。せいぜい2倍はあるかもしれませんが、それでも3分の1の売上をロスしているわけです。



 お豆腐で考えましょう。スーパーに行くと、本来98円ぐらいのはずだったお豆腐のとなりに38円の豆腐が並んでいます。49円ぐらいの場合もあります。


38円の豆腐にすることで、鍋の回数が増えますか?


38円の豆腐をあなたは一回の鍋で倍量食べられますか?


 ええ、人は半額になったからといって、倍の豆腐は食べられないし、仮に月2回に鍋が増えても、その他のメニューが減るだけです。スーパーから見れば、総売上にはあまり影響がないわけで。



========




 以前の記事でも書いたとおり、もし価格と内容量を増やす方向に改革し、かつ、ちょびっとでも価格に転嫁できるのであれば、実は給料を2倍にすることだって簡単です。



【資本主義をハックする 3】 あなたの給料を2倍にする秘策を教えよう
https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2018/06/blog-post_13.html




 ということは、机上の空論的には



「製品の内容量を増やし、価格をその分増やして、適正な値上げをすれば、日本人の給料は2倍になる」


ということなのですが、それができない理由はとても簡単です。




 日本人がケチでアホだから



ということ以外にはありません。










2019年10月8日火曜日

教師の間でいじめが起きるのはなぜか?



 神戸の須磨で、教師が同僚の教師をいじめた(暴行した)というニュースが起きて、前代未聞の話だと盛り上がっています。


 ヨシイエは元学校に勤めていた人なので、教師間の「力関係」「パワーバランス」のこともよく理解しているし、「教師間いじめ」のようなもの、が起きることがあることもよく知っています。


 実際に、私が勤務していた学校でも、教師間のパワーバランスの乱れを目撃したことがありますが、それが「いじめ」だったかというと、今回のような事例とは異なるので、同じにするのはどうかなと思います。



  ヨシイエの勤務校では、Kという先生がかなり特異なキャラクターで、一部の同僚の間ではとても煙たがられていました。


 K先生がどれくらい変わっているかというと、


■ 別の地方出身なので、方言でとてもゆっくりネチネチと話す。

■ 生徒指導ができず、教室で生徒が騒いでいても注意できない。

■ 教員同士の飲み会で、「おいは、だれそれ先生が好きなんやー」と(本人の前で)絶叫する

■ 文化祭で「ど演歌」を泣きながら歌う


ほかにもいろいろあったけれど、もう覚えていないので、これくらいにしておきますが、 ひとことで言えば、



かなり・変な人



ということになります。


 そのため、職員室の間では、当時流行語であった


「彼はいわゆる指導力不足教師なのではないか」


 という言説が広まり、生徒もその特異なキャラクターを認知しているものだから、他の教師の授業の中でK先生のネタで笑いあう、ということが起きていました。



  こどもたちというのはとても敏感ですから、それをみて、
 

「先生同士でK先生をいじめている」


と感じていたと思います。

 そういうことをする教師、そういうことをしない教師を見分けながら、教師に対する信頼度を推し量るのは、むしろ子供たちのほうが正確だったのではないでしょうか。





~~~~~~~~




 ヨシイエはその場にまず、いませんでした。

 ヨシイエもまた、K先生を笑ってしまうようなパーティピーポー的教員たちからは別の意味で煙たがられていた職員でしたので、K先生をからかう場にはいないということになります。



 私は個人的には、たとえK先生が多少の指導力不足であったとしても


「進学校に赴任していれば、特に問題もなく、強烈な先生としてただ任務をまっとうできただろう」


とドライに見ていたのを思い出します。




 このように、構造的に見て、「弱い性格のものや、特異なキャラを持つ人間に対して、からかいやいじめに類することを行うものがいる」ということが


 職員室でも起きる


という点については、当然あると思っています。



 ただ、理解できないのは、今回の須磨のように、


■ 直接被害教師に触れて、暴行する


とか


■ 被害教師の持ち物に損壊を加える


とか


■ 激辛カレーなどを目に入れる


とか、そういう直接的暴行は、たしかに前代未聞ではないかと感じるところです。



 いわゆる教師間いじめは、ふつうの場合は


■ 陰口やたばこ部屋などでの話題にする

■ 生徒の前で該当教師の物まねをして笑いをとろうとする

■ 該当教師に対して仕事を過剰に割り振ったり、あるいは、叱責する

■ 該当教師の能力不足を認識させるように仕向ける


などが大半で、直接的に暴行するのは


単純に犯罪


だからです。




  教師は全員が大卒の頭脳集団でもありますから、自分達が責任を取らされるような下手な真似は、基本的にはしません。


「指導のあり方をめぐって、つい熱が入りました」

くらいで言い訳・ごまかしができるレベルには、留めておくことができる頭脳を持っているのです。





 ところが、今回の須磨では、そうした責任回避工作がなされず、


「単純暴行」


で被害教師を侵害しています。これはとても奇妙なことなのです。




~~~~~~~




 報道では、主犯格が校長のお気に入りだったなどの話も出てきていますが、少なくとも


「職員室機能、管理職機能がまったく働いていない職場」


であったことはたしかでしょう。



 ヨシイエさんの口癖は、「事件は現場で起きているんじゃない、職員室で起きているんだ!」ですが、まさにそんな感じ。




~~~~~~~~


 もうひとつ、今回の事件で神戸の教育界の未熟さが露呈しているのは



■ 校長がなにをやり、何をどう感じていたかまったく出てこない


■ 教育委員会も現場をまったく管理しきれていない


■ こどものいじめとおなじ対応を大人に対してしている


という3点です。



 「校長にどこまでの権限があるのか、あるいはなかったのか」は、今回のカギになる点だと思います。

 あるいは「組合員がいたのか、組合の力はどうだったか」も少し気がかりです。


 そして一番のあやまちは


「こどものいじめと同じ対応をしている」


ことです。



 こどものいじめに対して、学校や教育委員会が代わりに表に立って対応するのは


「子供が未熟な存在で、責任が取れないから」


です。



 それに対して、今回の登場人物は


「全員おとなであり、自分の口で語れるし、自分で責任が取れる存在」


です。学校現場における責任者は校長ですから、校長が直接喋ればいいし、加害教師も、被害教師も全員直接喋って、直接責任を取ればいいのです。


 実際、裁判になれば全員がそうするわけですから、今だってそうすればいいわけです。



「現場も知らず、管理もできていない教育委員会の人間が出てきて喋ることなど、ひとつもない」


というのが正論だと思います。