2018年8月30日木曜日

【資本主義をハックする 8】 価格の正体



 今日は、経済についてちょっと面白い記事があったので、そこからヒントを得た着想をメモ書きしておきます。




 「需要サイドの規模の経済」がプラットフォームを無敵にする
 https://diamond.jp/articles/-/178529

(ダイヤモンドオンラインさんより)



 資本主義の本質について、いつも思いをめぐらせているヨシイエさんですが、今回の記事には「なるほど」と思うことが書いてありました。



 ” 20世紀の産業時代には、「供給サイドの規模の経済」に基づいて巨大な独占状態が生じていた。生産量が増えるにつれ、製品を作る単位当たりコストが低減するという生産効率がこのことを牽引していた。

 こうした供給サイドが牽引する規模の経済は、業界内の最も大きな企業に、競争相手には歯が立たないほどのコスト優位性を与えうる”



 なんのこっちゃ!と思われるだけかもしれませんが、簡単に言えば、


「資本主義らしい大企業・大資本による独占と巨大な成長ができたのは、その巨大さゆえに可能になったコストダウンのおかげであって、それはライバルを蹴散らすほどの独占的な力を生んでいた」



ということです。



 もともとは、企業間の戦いというのはどんぐりの背比べです。Aという会社が何かを作っても、Bとという会社が何かを作っても、それほど大きな違いはないし、コストや価格も似たりよったりなものができるはずです。



 ところが、製造方法に関する大きなイノベーションが起きると、A社の製造コストが格段に下がるか、あるいは供給量を莫大に増やすことが可能になり、



「そこで、ライバルが追従できないような価格低下・価格破壊が起こせる」



というのです。これが、資本主義社会における「価格下落」の正体です。



 そして、逆に言えば、そのイノベーションが他社にも真似できるようになり、技術が陳腐化すると、その圧倒的優位性は終了する、という形で続いてゆきます。




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 ヨシイエが面白いなあ!と思ったのは、「価格の低下は、イノベーションの効果と反比例する」という部分で、逆の見方をすれば


「イノベーションと無関係な価格の引き下げは、ただの泥試合である」


ということになると感じたからです。



 A社とB社の争いの中で、何も革新的なものが生み出されていないのに、どちらかが価格を引き下げれば、それは単なる消耗戦に過ぎない、というわけです。


「価格は、他社を圧倒してはじめて、経済的に意味を持つ」


のだなあ、という感じですね。




 もし、自分が何かサービスを提供しよう!と思ったときに


「自分なら他社より安く提供できるので、価格優位に立てる」


と単純に思うのではなく、


「自分がやることに他社と異なるどれだけのイノベーションがあるか」


を確認することが必要だというわけです。そうでなければ、ただのダンピングになってしまうだけで、



「価格ありきではなく、イノベーションありき」


で物事を捉えるほうが、資本主義を渡ってゆけそうだということがわかります。

2018年8月22日水曜日

■【資本主義をハックする 7】 経済的に豊かであるとはどういうことか



 毎度おなじみ、資本主義社会の片隅でひっそりと生きているおぢさんが「どうやれば資本主義をハックして経済的に幸せになれるのか」をまじめに考えるこの企画。


 今回は、「経済的に豊かであるとはどういうことか」について考えます。



 昨今の日本では「生産性を上げる」とか「生産効率をアップさせる」みたいなことが目標のようによく言われますが、これらの言葉は、その定義や意味合いにおいてはかなり


 いい加減


なことばで、眉唾でもあり、気をつけたほうがいい言葉ですね。



 ざっくりくりくりと言えば、これらの「生産性」とは


■ 少子高齢化で労働人口が減るが、GDPをなるべく維持してお金が動く国でありたい


という意味で、 けして


■ 一人あたりの労働コストを減らしつつ、パフォーマンスを上げて楽して稼ぎたい


という意味ではありません。なぜなら、これを追求すると、


一人あたりの給料を上げて、そのことで結果的にGDPが上がる


ということになるので、政府や財界は


「いや、ちょっとそれは違う、それはあまり望んでいない」


という本音になるからです。



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 日本は、アメリカと中国に次いで第三位の「経済大国」だといいますが、一人あたりGDPについては日本よりはるかに


効率がよく、生産性が高い


国はたくさんあるのですが、そこを目指しているわけではないのです。あくまでも


せめて第三位は維持したい


という感じでしょうか。



 そのことの是非や、良し悪しはひとまず脇へ置いておきましょう。


 とりあえず、「経済大国であるということは、一人当たりが豊かであるかどうかではなく、総数において豊かであることを目指しているんだ」ということをここでは押さえておきたいと思います。



 それに対して、世界でも貧困状態にある国はたくさんあります。また経済的に疲弊している国もたくさんあるでしょう。

  そうした国は貧しく、あるいは我々は世界的にみても「豊か」であるとひとまずは言えるのですが、では「豊かであるとはどういうこと」なのでしょうか。



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Aという国でも、肉らしきものや野菜らしきものが流通していて、人々が暮らしを営んでいる。

Bという国でも、同じように肉らしきものや野菜らしきものが流通していて、人々は衣食住を享受しながら暮している。


しかし、Aの国では、平均月収が20万円相当で、Bの国では平均月収が2万円相当だとしましょう。

Aの国が豊かで、Bの国が豊かではないのは、いったいどういうことでしょうか。


 一般的には「そりゃ、Aが経済発展した国で、Bが発展途上にあるからだろう」という答えで片付きます。しかし、どうして


おなじ肉らしきものや、野菜らしきものが流通していて、値段や価値が異なる


のでしょうか。同一賃金、同一労働なんて言葉が理想とされますが、


「同一肉同一価格、同一野菜同一価値」


でもいいはずなのに、実際にはAの国の豚の価格と、Bの国の豚の価格は異なるのです。



 この不思議な現象の答えは、豚さんだけを見ていてはわかりません。Aの国では、農作物、畜産物だけでなく、木工品、機械類、電子部品、あるいは商業サービスなどの多くの商品がたくさんの種類が流通、提供されていて、Bの国では、おそらくですが、Aの国よりも、製作物やサービスの総物量が少ないのです。


 日本ではありとあらゆるものが生産され、流通し、加工され、消費されていますが、発展途上国では、わりと限られた農作物や資源からの生産物が提供されてはいるものの、それ以外の多数の商品は「購入するのみで、生産していない」ことが起きているわけです。


 ということは、「豊かである」ということはまず第一段階として



「よりたくさんの商材が回転していることが、経済発展つまり豊かであることの正体だ」


と言えるでしょう。回転、といいましたが、消費だけが突出しているとダメで、「生産や流通、提供」が多いほうがよいということでもあります。


 その点では、「モノづくり」が強かったかつての日本が経済発展をして、現時点で「モノづくり」の雄である中国が経済的に豊かになっているのは、納得できる答えです。

 ついでですが、生産されるものは、モノだけでなくても目に見えない「サービス」であってもかまいません。とにかく「何がしかの商材たりえるもの」が高速、高回転で廻っていることが「豊か」であることの正体なのです。



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 もうひとつ、第二段階のポイントもあります。たくさんの商材が回転していることは大事ですが、それが


「より高価格・高付加価値である」


ことが、豊かであることの2つめの正体です。 シンガポールではモノの生産が日本より少ないけれど、金融サービスの提供価格が高価格で高付加価値なので、一人当たりのGDPを押し上げることができるということですね。



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 ということは、私たちが豊かになるためには、2つのポイントがあるということです。


 私たちは仕事をしていて、24時間漫然と生きているけれど、


「よりたくさんの仕事を行えば豊かになれ、かつ、より高価格高付加価値の仕事を行えば豊かになれる」


ということです。当たり前だけれども奥が深いです。これは、言い換えれば



「じっくり物事に取り組むよりも、より効率がよい働き口へ変わったほうがいい」


とか


「可能な限り副業などをして、たくさんの収入源を持ったほうがいい」


ということになるからです。


 残念ながら、「ひとつのことに腰を落ち着けて長く取り組む」ということは、非効率ということになってしまうのです。


(そりゃ、意識高い系の若者が、すぐ転職したくなるのもわかりますね)



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 豊かであるということは、間違えてはいけないのは


「たくさんのものを所有していることが豊かであるということだ」


というわけではないことです。



 アフリカの部族の酋長さんが、広大な土地と家臣たちを所有しているとしましょう。しかし、その人たちは、狩とちょっとした農産で日々を過ごしているわけで、酋長は「たくさん所有している」けれど、


「経済的に豊かである」


とはいえません。残念ながら、あなたも、アフリカの広大な土地を上げるから酋長のように暮してください、と言われたら断るでしょう。


 なんなら北海道の結構な広さの土地と水源を格安で譲ってもらっても、ちょっと困るだけではないでしょうか。


  その土地が「交換・取引可能」であったり、「水源の水を販売」できてこそはじめて、経済的に豊かである、と表現できるようになるのです。



 ということは、これもポイントです。



「大切なのは、たくさん所有することではなく、たくさん回転させられるしくみを手に入れていることだ」


ということですね。


 たとえば、自動的に毎日、毎時間チャリンチャリンと小銭でもいいから自動的に自分に入ってくるしくみを持っているとか、そういうことが多いほうが、


「豊かになれる」


ということです。そして、できれば私たちは国や財界と異なり、「自分のコストを下げて、結果入ってくるパフォーマンスが大きいほうがいい」ということもツボです。


 この仕組みを思いついた時点で、いっさい所有していない庶民でも、豊かになれる、というわけです。こりゃあ、面白い話ですね。


















2018年8月1日水曜日

<実国学を考える25> 日本の欠点である「無兵站思考」  ~ママは兵士なのか~




  ヨシイエさんは、一応子育てをしていて、うちでは専業主婦の奥さんがその部門の中核を担いながら、夫である私が時にバックアップをするのですが、



 家庭とは何か、子育てとは何か



という問題を考えると同時に



 兵站(へいたん)



ということばが頻繁に頭に浮かぶようになりました。




 兵站というのは、簡単に言えば、軍隊が最前線で戦っている時に、後方から物資を送ったり、負傷した兵士を救護し入れ替えたり、あるいは進軍に従って輸送を順次繋いでゆく後方支援を指す言葉なのですが、




 はて、家庭には兵站があるのか



ということをすごく考えさせられるわけです。




 よく、働くお母さん達が、保育所に子供を預けていて、子供の熱が上がってしまったので、仕事を切り上げて迎えにいかなくてはならない、なんて場面が問題にされますが、



 働くお母さんには、兵站がないので、最前線から引き上げなくてはいけない



ということが起きているわけですね。


 そういう意味では、一見すると「保育所などを整備することが、働く母親を支援することだ」とみんなは思いがちですが、実際には、「保育所は兵站になっていないので、最前線から働く人を引き戻してしまうシステムである」ということになるのです。



  本当に、働く人を支援するシステムであれば、



「熱を出した子供を安全、安心に保護してくれる場所」



が確保されていてこそ、それが故に「お母さんは安心して働ける」ということになるわけですね。



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 先日、こんなことがありました。話そのものはすごく小さなことですが、実は大事なことだと思います。


 上の子供が小学生で、夏休みのプールが開放されていて、その監視当番をお母さんたちが交代でやるのですが、


「監視に当たっては、いざというときに危険を伴うので、小学校未満のきょうだいを連れてこないでください」


ということが取り決められているのです。


 とすると、うちの奥さんは、小学生である上の子の子ども会・PTA当番でプールの監視に行くのだけれど、下の子は幼稚園児なので、連れて行けない。はてどうするか、となったのですね。



■ 一日だけ、どこかの施設と契約して子供を預かってもらうのか

■ おじいちゃんおばあちゃんがいる家庭や近くに親族がいればそこに頼むのか

■ 結果的にヨシイエの会社に連れてきて、ヨシイエが仕事しながら預かったのだけれども。



 
 ええ。結論は私が預かったんで、それはなんとかなったのですが、なんとかなったというよりは、無理やりイレギュラーな対応をしただけで、普通の会社だったら、幼稚園児の子供をお父さんは預かることはできないと思います。



 つまりは、ヨシイエさんは、いちおう会社の偉い人なので、特権を最大限に利用しただけなんですわ。




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 小さなことのようでありながら、こういった矛盾や、そもそも「そういう場合の想定がなされていない」ことは多々あって、これは、端的に言えば、



「日本人は、兵站のことを全然考えていない」


という欠点であると思います。これは、改めたほうがよろしい。



「一億総活躍社会」



と耳さわりのよいキャッチフレーズが挙げられている現代社会ですが、 その一億は、全員


「最前線のソルジャー(兵士)」


としてイメージされているだけで、兵站として支援する人たちのことを全く考えていないことがわかります。



 たとえば、保育の業務ひとつにとっても、「お母さん兵士の支援として、保育所という兵站があります」というわけではけしてなく、子供が熱出したらお母さん兵士は戦場から呼び戻されるわけですから、実は


「保育士というソルジャー」


がまたそこに作られて最前線に送りこまれているだけなんですね。



「保育士の子供が熱を出したら、保育士は家に帰らなくてはいけないのだ」



なんて笑ってはいけない笑い話が生じるのも、まったくもって兵站を無視しているからです。




 ベビーシッターが家にいる、というのが兵站的発想です。仮に子供が熱を出しても、シッターさんによって寝かしつけてもらえるならば、お母さん兵士は前線から戻る必要がないわけで、



 つまりは、この国に兵站思考があるのなら、ベビーシッター代を賄えるだけの補助金を出すべきであって、保育所を増やす必要はない



ということになるかもしれません。




「一億総活躍」という言葉は、



「進め一億火の玉だ」




という、総員兵士の玉砕志向そのものです。


 太平洋戦争時から今まで、日本の思想はぜんぜん変わってないということがわかります。



 先の戦争で結局日本が敗れたのも、「兵站」思考がなく、せっかく征圧した海外の諸所を、兵站によって




維持確保し続けるという考えに足りないところがあって



そのために、結局連合国に奪い返されたのだ、という論説もあるほどです。




 実は、戦後のインフラもそうで、道路やトンネル、鉄道なんかも



「いけいけでどんどん作るのだけれど、適切な維持ができず、すべて老朽化してトラブルばかり起きている」



のが現在ですが、これも「兵站思考」の欠如と関係があるかもしれませんね。





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 このように、実国学の視点から見ると、最前線の兵士と、後方支援の兵站は一体となって運用されるべきです。



 目先のGDPのアップや、社会での活躍という言葉に踊らされずに、家庭における「兵站」のあり方を考え直すのは、いかがでしょうか。



 うちは奥さんに専業主婦をしてもらっていますが、「時にどちらが社会において表に立ち、どちらがバックアップするか」ということはとても意識するようにしています。



 子育てだけでなく、家庭の取り回しすべてにこの兵站思考を盛り込めば、もっと暮らしよくなるかもしれません。