2022年6月7日火曜日

2020年 いよいよ「iOS16」の登場でiPhone7が切り捨て御免に!

 

 次のiPhoneのお話が面白いことになりそうです。

 

 「iOS16」がいよいよ2022年秋に登場予定ですが、なんと「iPhone7」以下が切り捨てられるもよう。

 

「iOS 16」発表

https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2206/07/news072.html 

 

 

 iPhone7は能力的にもバランスが取れていて、今でも現役という人も多いかもしれませんが、いよいよ終了です。


 iPhone 6s/6s PlusとiPhone SE(第1世代)までは、iOS15まで対応だったので、かなり長く延命されてきたのですが、その割からするとiPhone7の切捨てスピードは

 

「早っっ!」

 

と驚きかもしれません。

 

 アップルの場合、iPhoneに限らず、「製品ラインナップ」については単純に順番、ナンバーごとに区分けされるのではなく、一定の「まとまり」「ブロック」のようなものが存在します。

 

 iPhone6Sあたりは、その区分けではけっこう長く生き残っていたため、7はなんとなく「損」な感じがしますが、致しかたありません。

 

 iPhone8以降 ~現行機種

 iPhoneSE2/SE3

 

は新OSに対応のもようです。

 

 

 これまでの機種のブロックわけについては、

 

2021年 旧型 iPhone・iPad・iPod touch はどこまで使えるのか? 全シリーズ解説!  

 

の以前の記事をご参照ください!

 

 

 

2022年6月1日水曜日

cakesがサービス終了になり、noteが「なぜ」生き残るのか

 

    旧(株)ピースオブケイク、つまり現在のnote(株)が提供していたサービスは、これまで


◆ cakes

◆ note

 

の2サービスが同時並行で動いていた。

 

 ところが2022年 8月をもって「cakes」のほうはサービス終了となり、noteのみが残ることになった。

 

  そもそもcakesとnoteの違いは、


◆ cakes ・・・選抜された書き手が編集者のもとで執筆し、ギャラが発生する。

◆ note ・・・誰でも自由に書くことができ、自由に記事を販売できる。


というものである。


 その意味では、cakesのほうが旧来の出版のスタイルに近く、生みの親でもある加藤貞顕氏が元々編集者だったこともあり、理念の上でもわかりやすい仕組みであったと言えるだろう。

 

 cakesは、単純化すれば旧来の雑誌や書籍の出版をデジタル(それもソーシャルネットワーク上でのデジタル)に移行したものだ、と考えて差し支えないと思う。

 

 物理的な書籍や、雑誌などの出版・流通の部分をデジタルに置き換えた時、コンテンツの「販売」や「提供」をどのように行うかという課題を、ひとつの形として実現したものだと解釈することができる。

 

 加藤氏でなくても、こうしたスタイルでサービスを提供する場合、cakesとnoteの棲み分けは、以下のような理論でなされるだろうことは、想像に固くない。

 

◆ cakes ・・・プロもしくはそれに準じる、担当編集がつくに値する書き手のコンテンツ

 

◆ note ・・・玉石混交の、アマチュアリズム満載のコンテンツ

 

 実際に、cakesとnoteはそのように棲み分けがなされてきたし、「当初の目的と手段」という意味では、まさにそのとおりの運用がなされてきたと思う。

 

 

 編集者と出版社側からみれば「この書き手のコンテンツが読みたい」という読者の希望は、かなり尊重されるべきものとして目に映る。

 

 商業出版としても、この部分は重要なポイントであり、「経費をかけてコンテンツを提供する以上、一定のクオリティと一定の売上が期待される」というのは当然の発想だ。

 

 そのため、cakesは有料であり、有料でも読みたい書き手のコンテンツを提供することを主としてきた。まあ、当たり前の話である。

 

 

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 一方のnoteは、駄文の集合体でもある。駄文どころか、どこかの誰かの、ありとあらゆる欲望やら(もちろん、社会通念上の一定のルールはあるが)、「個人の感想です」にすぎないヨタ話が毎時毎分アップされる。

 

 それに対して経費をかけて編集者が手を入れることもないので、「個人が、個人の文責で好きなことを書ける場」として広がってきた。

 

 運営や編集サイドとしては、それでも「おもしろい可能性を持った文章や書き手」がワラワラと沸いてでてくることは承知しているので、「コンテスト」形式を用いたり、「お題」のようなものを設定して交通整理をしながら、「新しい書き手や良き書き手」を発掘する市場としても活用してきたのである。

 

 もちろん、noteには課金機能があるから、編集サイドの思いなどつゆ知らず、あくまでもその書き手の個人的ファンを集めて、収益を上げる、という方法も充分に可能である。

 その結果、一時期は金銭欲をあおるような扇情的記事も増えてしまい、慌てて運営が多少の制限をかけるようなこともあった。

 

 しかし、おおむね「公序良俗に大きく逸脱しない書き手」にとってのコンテンツ販売プラットフォームとしては、うまく機能しているように思う。

 

(うまく機能したがゆえに、ココナラという素人コンテンツ販売サイトでも、noteを模したブログ販売機能を後からリリースしたくらいである)

 

 そうした流れで、今回のcakes終了のニュースだ。

 

 生物の進化は「環境に適合したものが生き残る」のであって、編集者や神のようなものが「選別した生物が生き残る」わけではないのだから、結果的にはこれは当然の結末だったのだろうが、それにしても

 

◆ noteのほうが生き残る

 

なんてのは、めちゃんこおもしろい事態である。

 

 逆に言えば、編集者の仕事、出版社の仕事内容が、これまでとこれからとでは大きく変わる、ということでもあるだろう。

 

 おもしろい書き手は、次々に勝手に市場に現れる。それをうまく狩猟採集しながらメディアの仕事は進む、ということなのかもしれない。

 

 

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 とまあ、ここまでは表の話。ここからは裏を読む。

 

 cakes時代に、いくつかのトラブル・不祥事をやらかしており、それは「書き手のコントロール」の上で、「どこまで編集者や出版社が介入し、責任を取るか」という問題を含んだものだった。

 

 こうした不祥事の際、旧来の出版メディアでは「出版した以上、出版社がケツを拭く」ということが比較的多かったのが、デジタルメディアになってcakesでは、「記事の修正や配信停止はするが、ケツは拭かない」というスタイルを印象づけてしまったため、雰囲気が悪くなってしまったことは否めない。

 

 このあたりは、デジタルメディアにおける編集部・出版社のありかたがまだまだ模索段階だったことも悪かったのだろう。

 

 しかし、結論としては、noteのほうが生き残るというのは、「ケツを拭かなくても、手数料で稼ぐ」ということを選択した、ということになるのかもしれない。個人の感想です。

 

 駄文であっても、個人の感想であっても、ファンクラブであっても、有料noteがそれなりに動き、手数料が動くのであれば、それはそれでOKだ、ということなのかもしれない。

 

 あるいは良質なコンテンツは、やっぱり編集部が「一本釣り」をしているから、それなりにnoteでヒットしたものを見極めて「商業出版」のほうにいざなえばいいのだ。

 

 実際にnoteでは「あの人気noteが書籍になりました!」みたいな「なろう系note」がたくさん誕生しているし、それもまたよきかな、である。

 

 

 そんなわけで全体を通してみれば、共産主義国家や全体主義国家じゃないけれど、「お上が下々のものをコントロールしながら、望ましいコンテンツを配信する」なんてスタイルは結局無理があり、

 

「自由な市場の中から、傑作が生まれる(駄作も多数生まれ、屍になってゆくが)」

 

ということが、真理真実なのだろう。 



 それがわかった今、ヨシイエはこうして駄文を書いているわけである。わはは。



(おしまい)