2015年10月23日金曜日

横浜「傾斜マンション」が教えてくれた”マンションという資産”の幻想 ~ビックリ!分譲マンションはあなたのものではなかった~!~

 日に日に大変な状況になっている横浜の「傾きマンション」こと施工不良物件ですが、起こってしまったことは時間を元に戻せないので、いずれは何らかの方法で


「手打ち、解決」


をせざるを得ないことは目に見えています。


 さて、TVのニュースなどでは住人の方が今回の問題で


「資産価値が下がる」


と繰り返し口にされておられますが、建て替えするにしても補償するにしても、なにせ住民の合意がまとまるのだろうか、というあたりが問題になっています。


 ヨシイエ的には何度も前ブログ・このブログで書いていますが、そもそも


「マンションは資産ではない」

し、また

「マンションはあなたのものではない」

と連呼し続けています。



 事実、今回のようなマンション問題が表面化すると、


「マンションが負債であり、重荷となる」

し、また

「住民の一定の合意が得られなければ何もできない」

ことが痛感されてしまうわけです。



 面白いことに、今回旭化成建材は、


「自社が関わった建築物の実際の名前を公表しない」


ということを決めました。


 報道的には「なんでやねん!なんで隠蔽するねん!」とつい思ってしまいますが、実際その建物に住んでいたり関わりがある人からすれば、「公表された瞬間に資産価値がゼロになる(売れない)」という切実な問題があるので、この判断はとりいそぎ良しとされているようです。



 逆に、「じゃあ怪しいかもしれないのに、それを隠して販売し利益を得たり、重要事項説明をせずに売るのはどうなんだ!」とツッコミが入るかもしれませんが、「知らなかったのだから仕方がない」で逃げ切ることも可能になるわけで、このあたりはたいへんに



 気持ちが悪い、気色悪い、ああ、大人っていやだ



な対応が現実に起きてしまうのです。


 神様にとっての正義と、マンション所有者にとっての正義はどうやら反するようですね(苦笑)



==========

 さて、ここでビックリ!な事実をみなさんにご紹介しておきましょう。


 マンションを買ったら、あなたのものだ。マンションはわたしの所有物だ。


とみなさんは思っていると思いますが、それは幻想かもしれません。



 というのも、昭和37年までは、マンションはあなたのものではなかったからです。


 今から53年前のことなので、現在53歳以上の人は


「マンションが自分のものではなかった時代」


を生きていたことになります。



 所有権、というのは、人類の歴史の中でもかなり古い概念ですが、「これはボクのもの」「これはわたしのもの」というのは社会生活において基本の考え方です。


 歴史的には、この概念をめぐっていろんな争いや議論が起きて、たとえば「奴隷という所有物がなくなった」とか、「逆にすべて国家のものとするように変えた」とか、多様なパターンが生まれました。



 しかし、その中でもマンションの所有権は、たった53年しか歴史がなく、まだまだ「法整備が未整備な分野」であることがわかります。


 ちなみに、マンションの区分所有という考え方ができる以前は、「全員一致の共有財産」でした。


 あなたのもの、ではなく、みんなのもの、だったのです。



 それが、全員一致でものごとを決める体制から5分の4などの合意形成が可能になりましたが、よくよく考えてみれば


 5分の4であっても、意思統一なんてほとんどできっこない


ことは誰でも気付きます。


 マンションに住んでいる人は、その無理難題をなんとか解決すべく、どこも苦闘しているわけです。



==========

 
 もしマンションが真の意味で区分所有であれば、5分の4とか関係なく


「各戸は個別に、自分が望むとおりの対応を実施できる」


はずです。法的には。だって区分に応じてちゃんと所有しているのだから。


 「オレの部屋だけ建て替えてくれ」とか「オレの部屋はそのままでいいからお金をください」とか、それらの全てが満たされてこそ、



 区分所有という概念が実行できる



ということになります。



 ところが、現実には建築筐体はひとつであり、別々の施策を取ることは物理的に不可能です。従って、


区分所有ということを真の意味で実現することは、物理的に不可能


だと証明されることになります。



 ということは、現在の区分所有は


「全員共有のうち、限定行為について議決・決定権を有する」


だけである、ということがわかってくると思います。




 しかし、それではマンションは売れません。



「このマンションをお買い上げになられると、みんなのものだけれど、あなたの部屋の部分だけについてくる権利を行使できますよ」


と言ってしまうと、


「なんだ、ゴルフの会員権みたいなもんだな」


と気付かれてしまいます。(実はそうなんです。会員権も売れるし、資産価値はあるからね)



 ゴルフ場がけしてあなたのものでないのと同じで、マンションはけしてあなたのものではないのです。



 ごめんなさいね。ほんとうのことを言うと怒り出す人もおられるでしょうけれど。





☆参考にしたい記事☆

 『区分所有権を「所有権」とはよべなくなった日』 日経アーキテクチャ
 http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/column/20100714/542316/








2015年10月17日土曜日

傾斜マンションだけじゃない?!建築業界に潜む「まっとうな闇」

 横浜で話題になっている「傾斜マンション」。不十分なくい打ちでマンションが傾き始めたのは、硬い岩盤まで基礎が到達していないという根本的な原因があったそうですが、以前の「姉葉耐震偽装問題」といい、欠陥マンションはつぎつぎ登場のようです。


 施工にあたった旭化成といえば、これまた先日の堤防決壊で「流されなかった白い家」としてへーベルハウスが話題になったばかりですが、その高い評価も


 そもそもちゃんと施工していなかったら、話になりません


ですな。


 ==========


 そもそも建築業界は、元請けから下請けに仕事が流れてゆく中で、強烈な値下げ・コスト圧力がかかることで有名です。

 今回の事件も、販売元の三井ではなく、実工事を担当した旭化成子会社の責任、ということになっていますが、やったのはそうだとしても、そうなるように仕向けられた背景というものが隠れているだろうことは想像に難くありません。




 ハインリッヒの法則


なるものをご存知でしょうか?

 これは、1つの事件や事故には、そこにつながる300の小さなミスや事故、ヒヤリハットが隠れているというものです。



 これは保険料の設定にもかかわる重要な要素で、最新の研究では、300どころか、


重大事故1に対して、ニアミス600(バードの法則)

重大事故1に対して、ニアミス400(タイ=ピアソン)


もの小さい欠陥が隠れているとのこと!


 ようするに、マンション一棟あたり、数百のミスや瑕疵、ちょっと動いたら外れるとか切れるとか、ボルトが緩むとかそういうのが隠れているということになるわけです。



==========

 なんでそういうことになるのか?という究極の問いについては、建築業界の端くれにいるヨシイエからすれば、


 それで当たり前、当然。


という部分も相当あります。なので、そのからくりを説明しましょう。




 もし仮に、職人さんたちが全くミスをせず、問題なく部品をすべて加工取り付けして、完璧な状態でマンションや住宅を仕上げたとします。


 この完璧なマンション・住宅が「まったく問題なく、トラブルを起こさない期間が何年になるか」想像できますでしょうか??


 ふつうの人の感覚だと、2~30年はせめて持ちこたえてくれそう、と思うかもしれませんが、正式な答えは



 たった10年間



だけです。


 なぜか?私は建築業界の隅っこにいますので、いろんな部材・部品・構造物のカタログを持っています。

 それらのカタログをめくっていて、メーカーがそれらの部材のトラブルに対して、「問題を起こさない想定耐用年数」なるものを定めているのですが、そのうち「部材の保証ができる期間」は、ほぼすべての部材が10年以下だからです。


 いいですか?建築に使われる建材から小さなパッキン、ネジに至るまで、基本的にはメーカーは30年も使われることを保証してはいないのです。


「30~40年くらいは使われるだろうな」


ということは、頭ではわかっています。しかし性能的にそれは保証できないので、


「適切な期間の間にメンテナンスをしてくだいさいね」


という但し書きをカタログにつけて出荷している、ということなのです。


 ということは、10年たってパッキンやシーリング材が劣化したとしましょう。そこから水が入って、思わぬところに重大トラブルを起こすかもしれないわけです。

 金属てすりひとつにしてもそうです。適切な塗装をしていなければ、10年から先は、錆びて折れても仕方ないのです。




逆に言えば、施工する者からすれば、


「10年持ちこたえる施工をすれば、そこから後はメンテナンスする人間の仕事である」


と大手を振って言えることになります。


「大丈夫大丈夫、10年くらい持つし、そのときは『自然劣化です』とでも言っときゃいいんだって」


というのが、完璧な施工をした場合でも、職人さんのある種の本音なわけです。だって、そこから後の交換やメンテの仕事は、自分の仕事ではないからです。


 覚えておきたいのは、マンションの構造コンクリートは50年から100年持つ、と言われていても、その他の部材はすべて10年持つことしか補償されていない、という事実です。

 そこには大きなギャップがあるのです。



==========


 さて、ところが世の中には、建築部材のうち「20年補償」とか「30年補償」みたいなことを謳っている製品が実際に存在します。


 ところが、よくよく話を聞いてみると、それは「ひっかけ問題・なぞなぞとんち」レベルなのです。


 たとえば、ここに30年補償で100万円分の外装材があるとしましょう。


「この材料で建築した屋根壁は30年補償ですから安心ですよ!」

とセールスマンは売って回りますが、その部材を使ったおうちが、29年後に屋根に亀裂が生じて雨漏りしたと考えてください。


 さて、おうちの方はどんな補償をしてもらえるでしょうか、という問題です。



<回答A> 30年保証なので、外装材代の100万円と、そのやり直し施工費100万円の合計200万円くらいは出してもらえる。


<回答B> 30年保証なので、外装材代の100万円分は出してもらえるが、やり直し施工費は自己負担になる。


<回答C> 3万3千300円くらい、貰える。



 はい!賢いと思われる、たいていの人は回答Bが正解だと思うでしょう。回答Aほど世間はやさしくないし、回答Cは意味不明だからです。


 しかし、答え、正解は


 回答C


です!!!


 どういうことかわかりますか? たいていの場合、こうした長期に渡る保証・補償は


残存補償


というスタイルになっていることが多いのです。 残存補償とは、30年なら30年分つかったでしょ?残った分は補償しますよ、ということです。


 車のリースで、残存価格付きリースというのが流行していますね?あれと一緒です。


 なので上の例の場合、本来なら傾斜がついた残存金額になりますが、今回は例題なのであえて均等割りにして、


 100万÷30年=3.3333・・・


 29年持ちこたえたので、残存補償額は3万3千円、となるわけです。(それも部材のみ、ね)



==========

 こうした理由で、私ヨシイエは現在2件の一戸建て不動産を所有していますが、マンションや集合住宅には絶対に手を出しません。


 なぜなら、10年でどこかしらメンテしなくてはならないとわかっているのだったら、自分の意思・意図・タイミングで手当てができる一戸建てしか不可能だからです。


 マンション管理組合の全体の合意とか、ヨシイエには意味不明です。 自分のことくらい、自分で決めないと、不動産の管理・メンテなんてできないことがわかっているのですから!!







2015年10月10日土曜日

【学校をめぐる諸問題03】 教師である前に親である、親である前に教師である。

 ここ2回ばかりの記事で、学校におけるさまざまな事象を取り上げてみましたが、今日もかなり濃い内容でお届けしようと思います。


 モンスターペアレントなんて言葉が流行するように、学校と保護者の関係は、いろいろな問題や課題をはらんでいることがなんとなく予想できますが、今回はそこに切り込んでみます。


 教師とは?そして保護者とは?ということを、あるモデルケースを例に問い直してみましょう。


 まずは、以下のお話を読んでください。


==========

 Aさんという人が、公立学校の教師として採用され、22歳の春から晴れてとある学校で働きはじめたとします。


 このAさん、彼の場合もあるし、彼女の場合もあるでしょう。しかし、その男女の性差については、もう少し後で分岐させることにしましょう。


 Aさんは最初の勤務校に放り込まれます。大抵の場合は、都市部ではなく郡部であったり、比較的大きい市の教育委員会に所属する学校の場合でも、学級数の小さい周辺部の学校に勤務することになるでしょう。


 Aさんは4年あるいは5年程度その学校に勤務し、次にもう少しだけ大きい学校か、あるいは地域の離れた別の学校に赴任することになるでしょう。

 2つめの学校でも5年程度勤務すれば、Aさんは32歳前後になっている、というわけです。



 さて、ここらあたりで、最初の分岐点が現れますね。Aさんが男性でも女性でも、25歳頃から35歳くらいを迎えるにあたって



 結婚


についてどうするか考え始めることになるわけです。とくに女性の場合は、その後に控える妊娠出産を見越して、いろんなことを考えなくてはいけないわけです。


 では、まずはここから先、男性の動きを見てみましょう。


  30歳前後で結婚した男性教師の場合、子供が10歳を迎える40歳までの間に、かならず1回の転勤を経験します。多い人だと2回の場合もあるでしょう。これで、新卒から数えて3校めから4校め、というわけです。


 教師のこどもは、親が転勤すればこどもも必然的に転校せざるを得ません。親がもし5校めに異動すれば、小中の間に2回の転校を経験するわけです。


 しかし、多くの教師はこうした転校をこどもにさせません。ナゼカ?!


 教育内容や教育課程について熟知している教師は、こどもを転校させると教わる内容が分断され、こどもの学習にあまりよい影響がないことをわかっているからです。そのため、生涯で1度の転校くらいはどこかでやむなしと思っても、自分の赴任に合わせて何度もこどもを転校させることはしないのです。


  じゃあ、一体どうするのか!!!!


 ここから先は、男性教師の本音が如実に現れる行動をとります。


 30代から40代の転勤の間で、男性教師は「ここぞ」と思った都市部、大規模校への赴任がかなうとその場所に



家を買う


のです。わかりやすくいいましょう。兵庫県であれば、(県職員の場合)神戸市・宝塚市・芦屋市・西宮市・姫路市といった都市部に赴任したらチャンスです。あるいは郡部であっても地域の中核となるような市町村に赴任する時期を見計らって家を買ってしまうのです。


 そこから後は、どこへ異動させられても男性教師のみが単身赴任をしたり、遠距離通勤をして対応します。


 こうすることで、自分のこどもには、もっとも条件がよい環境で学習が行えるように人生設計するわけです。


 あとは都市部の私学一貫校に入れようが、公立トップ校に入れようがかまいませんが、少なくとも「奥さんとこどもの住環境は、よいところに置く」というのがマストなのです。





 一方、今度はAさんが女性の場合を考えてみましょう。女性の場合はいろんなパターンがあります。

 職場結婚などをして夫もおなじ教師である場合、二人は「近いとも言えないが遠くはない距離」に引き離されます。同じ学校での勤務はありえません。


 このこと自体は、こどもが生まれるまではたいした問題ではありません。どちらかが、ちょっと遠距離通勤するだけです。


 こどもを妊娠するとどうなるでしょうか?Aさんは産休と育休で1年間は最低学校現場からいなくなります。

 育休は延長がかけられますから、数年間(無給ですが)教師として籍だけを置くことは可能です。

 志ある女性だと、育休延長の間にまた出産(二人め)をかまして長期に休んだりします。1年間出てきたけどまた休むの?なんてこともあります。



 普通の民間企業だと、その間の他の社員への負担等が増えるので、「育休社員ママ」に対しての非難たるやごうごうたるものがありますが、学校ではそんな嫌な顔はされません。

 なぜなら校長の権限で「育休代替要員」をちゃんと引っ張ってこれるからで、その分の人事上の手当てもきちんとなされるからです。


(学校にAママ先生の籍はありますが、過剰人員を配置する(加配)ことで、もう一人臨時講師を雇えることになります)


 もう、すごい人だと産休と育休をかまして、「所属校でほとんど仕事をしないまま、次の勤務校にて復帰」という人もいます。


 さすがにここまでやると「厚かましい女だ」と思われるので、みなさんそこそこで思いとどめますが、でもよく考えてみてください。


「少子化を止めるには3人生まないとだめだけれど、3人女性教師が生むためには足掛け10年くらい学校に出たり休んだりしないと無理」


ということにはすぐ気づくでしょう。


  なので、女性教師は、こどもをあきらめるか、もし3人こどもが生みたい場合はどこかで退職を選択することになります。


 また、こうした「厚かましいとも思える」人生設計を強行できないおとなしい女の先生は、ずるずると普通に勤務しているうちにすぐに40歳近くを迎えてしまうわけです。



==========

 以上のことをまとめると、良き教師であるかどうかは別にして、良き父母でいるためには、


「夫は都市部への転勤を狙って暗躍し(つまり、そういうところへ引っ張ってもらえるように管理職とのパイプ作りをし)、妻は産休と育休を計画的につかいまくる」


ということができないとダメだ、ということがわかるでしょう。


 教師としての「志(こころざし)」はどうあれ、公務員たるもの、どこへでも身を粉にして飛んでいきますという理想はどうあれ、



 自分のこどもの出産・育児・学習生活を天秤にかけると



誰もが悩まざるを得ないのです。



 こういう視点は、これまでの学校問題分析ではほとんど着目されてきませんでした。教師としての資質がどうのとか、不適切教師がどうのとか、保護者との協力がどうのとか、表面はいろいろナゾられているものの、



管理職はどういう異動をさせられるのか、一般教師はどうなのか、管理職試験を受けるとは何を犠牲にすることなのか


などなど、そうした側面はノーカウントになっていることが実は問題なのではないでしょうか?


 民間企業の場合は、出世することや異動するさせられることについては、左遷でない限りはそれ相応の「利益」をともなうものですが、教師の場合は異動における「利益」というのは金銭的にはほとんど担保されません。


 平たくいえば、年寄りの一般教師と管理職がもらえる給与にそれほど差がない、ということです。管理職加算が、いわゆる学校における責任をとらされ具合と見合っていないので、管理職になりたくないという教師も増えているわけです。


=========

 一般企業の場合、部長級1000万、課長級800万、係長600万、平社員400万だとしましょう。


 ふつうの中小企業では、定年近い平社員の場合、多少の年功加算はあれども基本的には58歳でも年収500万程度です。


 ところが教師の場合は、校長900万、教頭800万、おなじ年齢の平教師 700万ですから、順当に年をくってれば、まあそこそこ貰えるわけです。


 また、どことは言いませんが、成績別給与にもからくりがあって、本当にまじめにA先生は特A評定、B先生はA評定、C先生はB評定なんてやっているところもありますが、次のような裏技を使う場合もあるので要注意なのです。


2015年度は、A先生が頑張っていたので特A評定。
2016年度は、B先生が頑張っていたので特A評定。
2017年度は、C先生が頑張っていたので特A評定。


わかりますね?こうやって順繰りに誰かを「頑張ったで賞」で評価してゆけば、最終的にはみんな平等にお金をもらえる、という


越後屋、おぬしも悪よのう


というシステムです!!!



==========


 さて、長々書きましたが、今日の結論。学校はシステムで動いています。そして、教師たる者、ちょっと裏をめくれば一人のわがままな人間に過ぎません。


 そうした普通の人たちの集合体が、学校というシステムで動いている以上、教科書通りに美しい世界が運営されるわけではない、ということを覚えておく必要があります。




 







2015年10月7日水曜日

【学校をめぐる諸問題02】いじめや学級崩壊が起きるのは全て職員室のせいである!

 先日より、学校を取り巻く諸問題について、ヨシイエならではの鋭い視点で切り込み隊長をしていますが、今回はその2回目です。


 教育にやたら造詣が深い吉家ですが、とくに死人や怪我人が出るようないじめや学級崩壊・学校問題が噴出する理由は、




 すべてその学校の職員室にある!!




と言っても過言ではないので、今日はそのあたりをレクチャーしましょう。




 そうです。職員室の状況を見れば、その学校が問題を起こすのか、それとも適切に学校運営がなされているのかは一目瞭然なのです。



 言っちゃいましょう!あのセリフ。さあ、みなさんもご一緒に!



「事件は教室で起きてるんじゃない!職員室で起きているんだ!!」


↑ここはあえてのモスグリーン色で(笑)




==========



 ところがどんどこしょ。一般の人や保護者など、つまり職員室の外部の人にとっては、残念ながら職員室でどんな事件が起こっているのかわからない、というのが現実です。これは大変困ったことなのですが、


いかんせん学校は密室


なので、一朝一夕には解決しません。


 ヨシイエのような学校問題の専門家(←どこが?)になると、いろんな話を聞けばおおよその状況は察しがつくのですが、これはとてもマニアックなので、外部からはわかりにくくなっています。



 というわけで、今回不肖ヨシイエが、「問題を起こす職員室の状況」を説明したいと思います。


(もちろん、すべてではありませんよ!一側面として取り上げてみるものです)


==========


 と、その前にとっても大事なことがあるので、職員室を観察する前に、そもそも教師とはどういう存在なのかを確認しておきましょう。

 職員室でさまざまな人や心の動きが生まれるには、理由があります。


 1件の飛行機事故に至る前には、300の原因やヒヤリハットが隠れているなんていいますが、学校で1つの事件が起こるのにも、実は陰に300の原因や遠因が隠れているわけです。



 さて、一般的な公立学校の教師とはどんな生き方をするのかを想像しながら以下の説明を読んで欲しいと思います。



 まず、教員採用試験を受けた学生は、小中学校であれば県全体で採用されて、各市町村教育委員会所属の学校へと振り分けられます。自分の希望はほとんど通りません。

 仮にA県のA市で生まれ育った学生がいたとしても、彼がA市に配属されたのならばとてもラッキーで、大半の学生は全く関係のないZ市に配属され、そこで一生を終えます。


 高校教師の場合は少し違っていて、県で採用された学生は、県内のどこの地区へも飛ばされまくりです。


 これらをスタートにして、数年後とに学校を変わりながら教師は人生を過ごしてゆくのですが、仮に管理職になろうとすれば、最初に採用された時のようにどこかの小さな学校の教頭・中くらいの教頭・大きい学校の教頭を経て、また小さな学校の校長になってゆきます。



 逆に、ヒラの教師でいる場合は、年数が過ぎるごとに「わがままが言える権利」を持ってゆきます。


 これもとっても大事です。若いときにさんざん田舎へ飛ばされたんだから、中堅から老後に向かっては、「自分の好きな学校へいられる権利」のようなものが暗黙に形成されているのです。

 これはちゃんとしたご褒美なのです。


 すると、ひとつの学校にずっと居座っているような老害教師が生まれたり、やってくる教頭や校長よりもキャリアが長い教師が生まれたりすることになります。


 そして、そうした教師は都市部や大規模校では「たくさんの教師の中の1人」でいられますが、小規模校では「経験の長い、大先輩」扱いされていることもあるわけです。





========

 さあ、面白いのはここからです。


 表向きには誰もそんなことは言いませんが、学校には序列があります。

 都市部の学校と田舎の学校の間には、ヒエラルキーピラミッドの階層が横たわっています。
 

 同じ都市部の学校同士、同じ郡部の学校同士でも、「旧制中学だったとか」「歴史が古い」とか「元は藩校だった」とかいろいろなランクが潜んでいます。


 外部からそれを見抜くヒントは、少子化の現代においては「間口数の増減」を観察しているとすぐにわかります。


 ランクが上の学校は間口数(1学年あたりの学級数)が多い、もしくは学級数が減らされないなどの特徴ある動きをします。

 それは都市部同士、郡部同士でもちゃんと順位づけされていますから、プロが見るとすぐわかります。


 なぜ、この序列が重要かと言えば、教師の転勤や校長・教頭の配置はこの学校序列ランキングの順位表とルート表によって管理されているからです。


(もちろんこの”表”とやらは明文化されていません。あくまでも暗黙の了解によって形成されています)


 そもそも、最初の配属の時から、教師の試験の成績と配属地は関連性があります。


もう、ぶっちゃけ言いますね。


「成績のよい学生は、ランキング順位の高い学校に配属される」


これがスタートです。


「あたまの悪い学生は、僻地校からスタートしたり、教育困難校に行かされる」ということです。


 もちろん、そこから先は教師としての実力によってルートは入れ替わってゆきます。その実力がどういうものかは、前回説明したとおりです。



==========

 まず、これがどういうことを意味するのかというと、問題が起きる学校は「どういう職員が配置され、どういう教頭が配置され、どういう校長が配置されているか」が、すでに問題の起きない学校とかなりの差があるということです。


 つまり、とある県の○○教科研究会の議長を勤め、教育委員会で指導主事を経験して、旧帝大派閥のトップに君臨しているA校長先生は、



 いじめが起きるような学校には赴任しない



のです。それよりも、A校長先生の学校の関心事は、国公立大学に何人ほりこんだとか、中学校であれば旧ナンバースクールのA高校に何人進学したかとか、そういうことなのです。わかるよね?これ以上は言わなくても。



 そして、そういう学校には、そういう一般の先生もたくさんいます。仮にA校長が「うちの学校では生徒指導をもう少ししっかりやりたいな」と思えば、


各地域の生徒指導部長を3人くらい引っ張ってきて赴任させる


ということも可能です。(実際にそれをやると、評判に響きますが(笑))



==========


 逆の見方をすると、事なかれ主義に陥っている職員室の学校は、


①そもそも校長が、教頭から校長になったばかりだったりする。

②そもそも教頭も、教頭になったばかりだったりする。

③その土地にずっと根ざしている古株の教員が能力もないのに威張っていたりする。

④若い先生は成績・能力(これらを雅語で「経験」と呼び替えます)が芳しくない方が多いかもしれない。


なんて問題を抱えています。



 こういう学校の最大の特徴は、職員会議のあと、煙草部屋に集まっていたおっさん教師数人が、


「やっぱりさっきの話はアレだけどさ」


とか、言い出して議決内容をひっくり返すこともしばしばです。


 
 もっと最悪なのは、校長が学校の状況を把握していない故に、勤務年数の長いおっさん教師にすべてを任せてしまい、自ら攻め込もうとしないことです。




 こういう学校にぶち当たってしまうと、たとえば自分のクラスでいじめがあって、同僚や上司に相談しようとしても



「それは君の教師としての力量が不足しているからだ。もっと生徒と向き合いなさい」



なんてわけのわからないお小言を貰って煮詰まってしまうことになります。



 ☆ここで名言!「生徒と向き合え」という言葉を使う人間には気をつけましょう。

 そういう言葉を使う教師に限って、「生徒と向き合うということを具体的な行動5つに置き換えて説明しなさい」ということができないからです。



 ヨシイエはできますよ。大丈夫です。


①教室で問題があるなら、休み時間も給食時間も教室にいて生徒を観察する。

②すべての生徒と個別面談をして、保護者にもその結果を伝達する。

③気になることの記録を文書で残しておき、管理職と学年主任に見せて報告しておく。

④欠席した生徒の家に行き、顔をみて話す。

⑤事務室へ行って金銭の出納状況に問題がある生徒がいないか確認する。

⑥部活動の顧問・教科担任などが気付いていることがないか確認して回る。

⑦全ての生徒の放課後の机の中、ロッカーを見る。

⑧保健室の先生と連絡を取る。


・・・・・13くらいは出せますが、まだ必要ですか?



 まあ、問題のある学校の職員室では、こうしたことが驚くほどに出来ていません。連携もなされていないし、該当の教師はただただ孤立してゆくのみです。





 逆の視点も添えておきましょう。よい職員室とはどんな状況なのか。答えは簡単です。とても簡潔明解です。



 それは、こどもの諸問題に立ち向かう時に、


二人以上の教師が常に関われている職員室」


間違いがおきません。



 担任と副担任、担任と学年主任、担任と教頭などなど、(もうこのさい校長はいいです。えらい人だし)


常に二人以上がチームで問題意識を持って同じテーマに顔を向けている職員室は、いい職員室です。

別に2人に限定せず、6クラスの担任同士6人とかでもいいです。中のいい教師2人でもいいし、部活の顧問と担任でもいいのです。



 実はこれは、刑事の鉄則でもあるのです。パトカーの機動部隊は常に2人の警察官が乗っています。

 単独行動になると、間違いを犯したり、付け入られたり、何かを見逃したりすることがありますが、2人だととても強くなります。


 こどもの話を聞くときでさえ、かならず2人で聞いてください。これは絶対に必要です。



 なので学級崩壊の予兆があれば、すぐに2人目の教師を送り込める管理職は優秀だし、いじめ問題を疑えば2人以上のチームで当たらせる管理職はプロです。




 もし、この記事を読んで1人で学校問題に悩んでいる教師の方が居れば、ヨシイエは常にここにいますのでなんでもご相談ください。


 え?ヨシイエさんは何者かって?


 一介のサラリーマンであり、時に作家であり、変態で、実国学者を名乗る現代の吉田松陰(新)です。

↑バカ。



2015年10月6日火曜日

<実国学を考える 18> 『女子の武士道』と実国学

 日本古来のある種「伝統的・正統的な」日本人の生き方とはなんぞや?ということを模索している実国学のコーナーですが、興味深い記事を見つけたので取り上げてみたいと思います。



 明治時代の外国人がみた「日本女性」の評判がスゴい
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150929-00946454-sspa-soci



 元ネタは週間SPA!さんのようですが、石川真理子さんという方の「女子の武士道」という本について取り上げた記事です。


 さて、この本の内容。米沢藩士の娘に生まれた明治女の石川さんの祖母がどんな規範や、たしなみを自分の中に持っていたのか、ということをまとめたものだそうで。


 現代の女性も「強くなった」と言われますが、その強さとは全く違った別の「強さ」を秘めていることが明らかになっています。



 石川さんから見れば、


『世界でも有数の経済大国へと成長したことそれ自体は確かに素晴らしいことですが、それに反比例するように日本人としてのアイデンティティが薄れていって、まるで“根無し草”のような感覚を持った人が増えていると感じます。

 結果、先祖から連綿と続く命の楔の先端に自分が存在することに無自覚なことはもちろん、生きている意味や人生において何を為すべきかということに思いが至らないわけで、どうしても生き方が無責任にならざるを得ない。

 元来、日本人は八百万の神を信じ、万物に宿る神々を支えに生きてきました。

 それは、人生における数多の苦しみを少しでも軽減し、人生をより豊かなものにするための“確かな方法のひとつ”として実践されてきたものではないでしょうか。』


(以上引用)

という現代人が失ったものがそこにある、というわけですが、この視点はまさに実国学のそれとおなじものです。


 ヨシイエ個人の考え方としては、現代の私たちがイメージする「武士道」という概念は、どちらかと言えば、江戸中期から明治期にかけて醸成されたものであり、中世の武士道とはだいぶんニュアンスが違うので、「武士道」ということばそのものに惑わされる必要はないと思いますが、その根底に共通して流れている何かがあることも事実であろうと思います。


 そのあたりを本ブログでは「実国学」という視点で捉えなおそうとしているわけですが、一見男性中心に見えるそれらの観念を


女性の視点とポジションで考える


ということはとても重要な論点だと思います。



 また、実国学は「武士」の生き方を問うものではありません。

 「じゃあ、農民や商人や町人はどうなんだ」と言われれば武士道だけでは、日本人の生き方を規定できないことになってしまいます。


 従って、実国学の焦点は、いわゆる武士だのなんだのという身分制度ではなく、日本という土地にどのように根ざしているかをポイントにおいているところが特徴です。




2015年10月5日月曜日

【学校をめぐる諸問題01】なぜ学校教師は部活動をやめられないのか?!

 

 ワシの現在のテーマではないのですが、「学校教育」をめぐる諸問題について、若手の学校職員の間ではあまり知られていないことなどもあるらしいので、書き留めておくことにしました。


 いちおう、学校教育にやたら詳しいヨシイエの妄言ということで、軽く読み流していただければ幸いです。


 ちなみに、これまでもチクチク書いてますので、ご興味があればどうぞ。






『いじめを解決する画期的な方法」
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/07/blog-post_14.html


『いじめを解決する画期的な方法 つづき』
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/07/blog-post_15.html


『なぜ学校は機能しなくなったのか』
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/07/blog-post_16.html




<ニュースを読む>教諭への暴行など逮捕相次ぐ 警察介入是非で議論
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/08/blog-post_19.html




『学校はブラック職場なのではなく「オワコン」なのである』
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/06/blog-post_5968.html


『担任がこどもの入学式に出て欠席な件』
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/04/blog-post_12.html


『なぜ公募校長ではうまくいかないのか』
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/03/blog-post_20.html




 ・・・いやあ、ワシのテーマではないとか言いながら、けっこう書いてるやん!!


==========

 それはさておき、まず、ネットで「部活の担任をもつことについてどうのこうの」ということが議論されているらしいので、この件について明確で明解な事実をお伝えしておこうと思います。


 まあ、学校の先生を取り巻く諸問題にはいろいろありますが、上の件については


「そもそも、残業や日祝出勤をしてまで、学校の先生が部活の顧問を持たされるのはどないやねん」


という話がある、というところをスタートといたしましょう。


 この議論、教師の人事的ないろんな立場から議論することは可能なのですが、そういうのはもうネットで出尽くしていると思うので、ヨシイエはそこらへんはさらっと流します。


例)教師は残業代として4%加算されて給料を貰っているからうんぬんとか。

例)日曜日の部活手当てって、4時間指導して500円とかそんなんだぞボケ、とか。(時給なんぼやねんワラ)

例)そもそも、校長が残業を命じることをできるのは、会議と事件と修学旅行と行事くらいのもんだとか。



 他にもきっと、いろんなことが根深く横たわっていると思いますが、残念ながら、部活の指導から教師が解放されることはしばらくありません。


 なぜか?


 そこには、大きな、それは大きな恐ろしい人間の心の闇が潜んでいるのです。なーんて。



=========


 まじめにお話をすると、学校教育において、実は


「学校の先生を人事上評価する方法は、実はたった一つしかない」


という驚愕の事実があるのです。そこを忘れては、この話はそもそも成り立ちません。



 では、人事上、どのように教師を評価できるのか、考えてみましょう。


 表向きには、以下のような方法で、上司である校長は部下である教師を評価できうると思います。



①授業が上手か下手か。

②公務分掌(組織の仕事)をきちんとこなしているかどうか。

③クラスや学年といった生徒をきちんと指導できているかどうか。



 ふつーの人は、たぶん先生方はこんな方法で評価されているんだろうね~、と思いがちです。現役の教師でさえ、上記のような項目で自分は評価されていると思っていると誤解しています。


 たしかに、上記3点のような仕事ができるかどうかは、学校運営上とても大事なことです。これらがきちんと出来ている教師は優秀だし、出来ていない教師は努力する必要があるでしょう。



 しかし、ここからまず驚愕のポイントその1です!!!


 耳の穴かっぽじって良く聞いてください!!




 上の3点について、「良く仕事ができる先生」も、「あまり仕事ができない先生」の2人が存在したとします。


 たしかに、学校長のメモ的には、この2人の成績は異なるかもしれません。


 しかし、恐ろしいことに、この2人の教師の年齢とキャリアが同じであれば、その給与はほとんど大差なく、あるいは全く同じであることが大半なのです!!!


ババババーン!!!


 現役の教師は、みんな知ってますね?


 そうです。この二人は、人事評価制度があったとしても、その差分はとても小さく、ほとんどおなじ給与をもらっているということは事実なのです。


 ここに、最初の問題点があります。



 じゃあ、じゃあ、じゃあ。


 学校の先生の人事評価って、いったいどうなっているのか!本当のところ、本当のツボはどこにあるのか、と気になりますよね?!





 では、ヨシイエがその秘密をお教えいたしましょう!


 実は、上記3点のほかに、こんな観点があるのです。


④どの学閥や教科の派閥に属しているかどうか。

⑤研究会における活動内容(研究発表など)

⑥部活動の成果。



 学校の先生は、教育大系なのか、国立文型か私立かによって、先輩方に目をつけられています。

 高校以上だと、職業科もあるので、その教科派閥の力は絶大です。


 あるいは教育庁主宰の研究会で発表するような先生は、目を掛けられていて出世コースに乗りますので、それを目指して研究会に所属することも重要です。



 そして最後。部活動の大会で勝てる指導者どうかは、その先生の一生を左右する重要ポイントになるのです!!!



 いいですか?



 学校において、国語のA先生と数学のB先生のどちらが優秀か、客観的に判定する方法はありません。


 その生徒が仮に高校生だとして、彼が東大に受かったからと言って、


「国語を教えたA先生が優秀だったから彼は東大に受かった」


とか


「数学のB先生がすばらしいので、彼は東大に受かった」


とか、


そういうのはナンセンスです。つまり、ぶっちゃけそこに相関があるのかどうかもわからないし、そもそも

「その生徒が優秀だった」ことはわかりますが、そこに関わった教師が優秀かどうかは誰にも判定できないのです。




 これが最大のミソです。



 教師を評価するのはとても難しいのですが、しかし、部活動だけは別なのです。



 「部活動で県大会へ連れて行った」

 「全国大会へ出場を決めた」


となると、その顧問が優秀であることは一目でわかります。



 客観的であり、かつ誰の目にも明らかな指導者のアドバンテージがそこに存在するわけです。



 なので、人事異動の面でも



「Aという学校で数学の先生に空きが出たので数学の先生に来て欲しい」

というときは、数学教師であれば誰でもいいのですが、


「Aという学校でバレーの顧問が今度転勤する」


となると、代わりは「バレーの指導がちゃんとできる教師」が異動対象になるのです。




 ここまで言ったのでついでに、最強の事実を書いておきましょう。優秀な先生とそうでない先生の基本的な給与がおなじだとすれば、どうやって教師は「評価の結果報いられる」ことができるのでしょうか?


 わかりにくいのでズバッといいます。頑張っても頑張らなくても給料が同じなのであれば、ご褒美はどこにあるのか?ということです。


 はい!教師にとって最大のご褒美は「いい学校に転勤できる」ということ以外にありません。だって給料はおなじなんだから。



 能力の高い先生は、「良いと言われている学校に転勤できる」可能性が高いです。そして、上司に逆らわず覚えめでたい先生もそうです。でも、それらはすべて外部から客観的に評価できません。

 そこで、部活動の結果を持って異動するということが起きてくるわけです。



==========

 結論を申しましょう。教師を人事評価するものさしはひとつしかありません。


 すべてのものさしは隠されていて恣意的です。A先生が真に指導力があるのか、B先生のほうが指導者としてすごいのか、職員会議にかけても誰も神様のように判定することはできないのです。


 しかし、部活の結果というものさしだけには、すべての教師は逆らえないのです。


 いくら心の中で「あいつは体罰野郎で変態だ」と思っていても、全国に連れてゆく部活の教師には、誰も文句を言えないのが現実なのです。



 逆に言えば、なぜ部活動に命をかけている先生方が、すべてを投げ打ってでもそこに没入できるかは、わかっていただけると思います。


 そこで頑張ると、ちゃんと評価されるんです!!!

 勝てば教師としての資質が認められるんです!!!


(でも、なんぼ授業が上手でも、あまり誰も褒めてくれないんです)



ああ、おそろしい。おそろしい。