2017年8月12日土曜日

<実国学を考える22> 実はマイホームも結婚も幻想だった?! これから日本人が勤勉ではなくなる話



 まいどどうも孤高の国学者、ヨシイエ孝太郎です。



 文春オンラインに少し興味深い記事が出ていたので紹介します。


「地方出身者が作り上げたマイホーム神話という幻想」
http://bunshun.jp/articles/-/3613



 実はこの記事と似たようなことを、ブログに書こうとしていて、あまりにタイムリーだったので、ちょっとばかし引用したい次第。



 この話題、吉家的にはちょっと別の切り口から書こうと考えていました。


 それは・・・。



「日本人は本当に勤勉なのか?あるいは、これからも勤勉であり続けるか?」


という観点です。



 日本人は、勤勉でまじめに仕事を続ける傾向があるので、高度成長などの大きな発展をすることができた、みたいな言説が一般には信じられていますが、どうもこれは鎌倉幕府以来の


「ご恩と奉公」


がその実態なのではないか、という仮説です。鎌倉幕府と源頼朝にみんな従ったのは


「領地をくれる(ご恩)ので、従属してしっかりはたらく(奉公)」


という関係があったからです。 これを擬似的に再現したのが、戦後の日本社会(あるいは明治以降の日本社会)だったのではないか、という訳です。



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 今回の文春さんの記事でもあるとおり、日本の農村では「長男だけが家屋敷や田畑を継承することができる」のが普通でした。


 次男以降は、基本的には分家を立てるか、どこかへ養子へいくか、あるいはまったく別の土地へ行って開墾するか以外には、「新生活を成立させる術はない」のが古来から実態だったわけです。



 分家も簡単ではなく、田畑を兄弟で分ける行為は「田分け(タワケ)」なことですので、それぞれの資産が小さくなることを意味します。本来望ましいことではありません。



 なので、人工増加に伴っては「北海道を開拓して新しい土地を創出する」「あるいは満蒙を開拓して新しい土地を日本人のものにする」ということは必須だったわけです。


 これが、土地(そこから生産される米・食料)に依存した日本の国の姿でした。





 ところが、「食べるのに物理的な食料生産を伴わなくてもよい=産業革命以来の経済変化」が生じます。


 それは「貨幣」というものの力で、明治維新を経て現物の米ではなく、経済的の数字上の力で食べていくことが可能になったわけです。 (だから年貢が廃止され地租が生まれた)



 この頃から、富岡製糸工場へ女の子が務めたりするように、「農家の次男や三男、あるいは農家の娘達が、集団でどこかの企業に入って就職する」ということが増えるようになりました。


 その最たるものが「金の卵」というやつで、田舎から都市への人口移動が始まったわけですね。



 吉家が考える国学的視点では、この都市化の際に



「本家を中心とする、次男や女子の家臣構造」から「企業を中心とする、次男や女子の家臣構造」へと変化したのだ


と考えます。戦後の企業構造が家族的であったということは、言い換えれば、「主従と家臣構造」にも似ていたということでもあるのです。



 さて、家臣はなぜ本家や主家、企業に従属する理由があったのでしょうか?


 それは、まさにズバリ「衣食住を保証してくれるから」に他なりません。いや、「墾田永年私財法」以降、日本の国体の基本を貫いてきたのはぶっちゃけ「土地」ですから、引用した記事どおり、



「企業の家臣になれば、土地・領地が手に入る」


という、ご恩と奉公の関係そのものだったわけです。


 だから、分家して”家”を新しく立てなければ、結婚もできなかった農家の次男や三男でも、嫁の貰い手をみつけて、一家を維持することができるようになったのですね。



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 ところが、21世紀に入ると、企業人として仕えることは、ご恩と奉公でいえば「あまりご恩がない状態」になってしまいます。

 派遣社員などはその最たるもので、家臣ではなく「傭兵」ですから、戦国武将的にはすぐに「牢人・浪人」にならざるを得ないわけです。


 そうすると、果たして主家のために「勤勉に働く」ということが成立するのか怪しくなってきます。



 簡単に言えば、今後の職業人が「領地を貰うことができない」のであれば、主家(企業)からは離反する行動がムーブメントになるだろうと思います。



 元寇の後、必死でモンゴル軍を追い返したものの、与える領地が増えたわけではないので、恩賞があやふやになって崩壊した鎌倉幕府と同じことが、日本の企業体で起きようとしていると考えられます。




 安住する領地・土地がもらえないとなると、「次男三男が(新しく)家を立てる」とか「結婚して家族をもうける」ということは、難しくなってきます。


 マイホームを買うとか、結婚するとかがある程度当たり前なのは現在だけで、未来にはそうした行動は現象するに違いない、という予想が立てられます。



 もちろん、少子化ですから、そもそも次男や三男も激減します。長男長女しかいない、という家が大半になるわけですが、田舎では「本家をその一子が維持しようとする」動きがしばらくは続くでしょう。

 逆に都市部では、恩賞である領地に依存しないので「傭兵として死んでいく」者達が増えることになります。


 ちょうど、江戸時代には、9割が男性で、その多くが未婚のまま亡くなったように、都市部では男女ともに「一人で朽ちてゆく」人たちが増えることになると考えられます。



 その時、日本人は果たして勤勉でいられるのか?



 いや、おそらく大半の日本人は「宵越の金はもたねえ」じゃないですが、江戸っ子の気質のように刹那的なものへと変化するのだと思います。










2017年8月10日木曜日

■ 教員志望者が減少する理由 ~すでに教職は「完全不滅のエージェント」レベルが要求されている件

今日のツカミ。


”まだ教職で消耗してるの?”










 教師になりたい、という人間がおそらく減少し始めていて、そして今後も激減するであろうことは簡単に予想がつくわけですが、その理由をまとめてみると、大変興味深いことに気付きます。



 そう!もはや教師というのは人間が到達できるレベルではないほどの「サイボーグ兵士」とか、「ミッションインポシブル・スパイ」くらいの超絶した職務能力が求められているからです。





 ちなみに、ヨシイエは個人的には「そこらへんのおっちゃん、おばちゃんであっても、ちょっとお勉強ができれば勤まるくらいの仕事」が教師の実像であるのが望ましいと考えていますが、それは実際には真逆の方向へコトが進んでいるようで。





 では、現在の教師にはどんなことが求められているのか、一つ一つ冷静に考えてみましょう。





【1】 教科の指導がきちんとできること。


 ふた昔前には、授業でギターを弾くとか、ただ怖いだけの先生とか、そういうのでも存在価値が認められていましたが、現在の学校では「脱ゆとり教育」「高度な人材育成」が求められているため、教科指導がきちんとできることは大前提です。


 それも、わかりやすく訴えかけるプレゼンテーション能力が高く、かつ、覚えやすいドキュメンテーション作成能力があり、なおかつ、一人一人の様子を観察し、的確に補助することのできる教科指導教員が求められているのです。



 もう、これだけで「お、なかなか使えそうな営業マンってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【2】 保護者との的確なコミュニケーションがとれること。


  ふた昔前には、連絡帳と学級通信ぐらいでよかった保護者との情報交換は、「今日どんなことがあったか」「メンタルはどうか」「学業の進行具合はどうか」など、多岐にわたりかつ個別の連絡が求められている昨今の教師です。


 トラブルなどがあれば個別の面談や家庭訪問などを行うのはもちろん、朝の会(ホームルーム)や、放課後の様子なども含めて、気配りし、かつその様子をきちんと伝達できることが望まれています。

 PTA活動も保護者と協力して行い、円滑な学校教育を遂行するわけです。
 

 もう、このへんで「お、なかなか優秀なマネージャーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【3】子供の問題行動や家庭の環境などにも配慮できること。


 鬱や中ニ病、メンヘラ、リスカ、援助交際、不純異性交遊、暴力行為、万引きなど、ありとあらゆる犯罪行為や、精神的トラブルにも、適切な援助ができ、かつそれに気付くアンテナ能力が求められている教師の仕事です。


 実際に、校外での指導を伴う場合もあるし、校内でも人間関係のトラブル、部活動内でのトラブルなどをいち早く察知する必要があります。


 これをおろそかにして「いじめ」などに発展してしまうと、教師生命を脅かします。



 もうこのへんで、「お、とても有能な臨床心理士もしくはカウンセラーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【4】 次々に襲い掛かる難問に対して、不屈のメンタルを持っていること。



 教科上の課題、生活上の課題、心身の発達の課題、部活動の成果、家庭問題などなど、子供達が成長しなくてはならない課題は山積しており、それらのすべての面×35人~40人の対応をしなくてはならない教師は、自分がメンタルをやられている暇はありません。


 生徒同士ではセックスをして妊娠をしたり、パンチラがそこらへんに転がったりしていますが、男性教師は間違っても、そうした性的なあんなことやこんなことに心がふらついてはいけません。

 女性教師は、男性教諭や男性生徒からあらゆる面でセクハラ的態度をぶつけられることが多いのですが、けしてめげてはいけません。


 担任教師が、一時の気のゆるみで、「学級崩壊」なんかを起こしては、末代まで祟られます。

 
 もう、このへんで「24時間戦えるリゲインビジネスマンだね」と民間の方はピンとくると思います。




【5】 やったこともないスポーツでも、勝利へ導けるくらい指導できること。


 バスケでもサッカーでも、吹奏楽でも、バレーボールでも・・・。なんかよくわからないけれど、やったこともないスポーツにおいて子供たちを指導することが求められています。


 毎日練習を組み立てるのみならず、子供たちや保護者からは「試合に勝つ」ということを望まれています。これを、まるで地域のスポーツチームの指導者のように、あるいは、スイミングクラブのコーチのように、求められているわけです。



 もうこのへんで、「つまり、ジムのトレーナーくらいはできるってことだね」と民間の方はピンとくると思います。




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 民間企業に置き換えると、教師の仕事は、ざっと挙げただけで、5つくらいのプロフェッショナル(専業職業人)と同等のレベルが要求されていることがわかります。



 プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ心理学にも行動学にも長けており、どんな難題でも顧客の将来や人格形成がかかっているので失敗が許されないという不屈のメンタルを有している笑顔が素敵なスポーツマン(もしくは何か芸術のセミプロ)であること。



 これが、求められている教師の姿なのです。




 ええっと。こういう人材を、民間企業の採用で考えればすぐわかりますが、こんなサイボーグみたいな人間はまず存在しません。


 どれか一つの規準を満たすのがやっとなくらいで、それぞれ「営業マン」であったり、「マネージャー」であったり、「スポーツトレーナー」やら「カウンセラー」などとして一人だちしてゆくわけですね。



 それを5つも6つも同時に教師に要求してゆくとどうなるか。



 これは簡単で「そういう仕事をしたい」という人間が激減するだけです。




 その昔「デモシカ教師」なんて言葉がありましたが、昔の教師は



「コミュ障だけど、勉強だけは好きだったので教科の教師になった」

とか


「部活大好きだったので、俺もサッカー教えてえ!と教師になった」

とか


「趣味の芸術に没頭していて、教師ぐらいしかなるもんがなかった」
 
とか、ぶっちゃけそんなんです。サイボーグというより、何か欠けている面があったりするのが普通でした。




 夏目漱石が高校の先生してましたが、


「部活指導とか、不登校児への対応とか、保護者だよりとPTAとか、クリケットの指導とかしたわけなかろう!!!!あほかー!!!」


というのがオチです(笑)





  ところが、いつの間にか「完璧な指導者であるべき教師像」みたいなのがどんどん一人歩きをはじめ、


「いじめを予防できる教師」とか

「ゆとりじゃない指導ができる教師」とか

「怪我をさせたり体罰をしない教師」とか

「君が代を歌う教師」とか


いろんな要素について「全部なんでもパーフェクトにできる教師像」へと変貌してゆくわけです。




 こうなると、そんなことは物理的に無理なので、一刻も早く、せめて


「どれか一つか二つに特化できたらそれでOKよ」


と教師を解放してやらないと、みんな死んでしまうに違いありません。



 スポーツ指導ができる教師は、数パーセントいればいい。


 生徒指導がうまい先生は、何人かいればいい。


 保護者とのやりとりは、だれそれ先生が窓口が一番ね



そういうのの総体として100%の円ができれば、学校は本来よき場となるはずなのです。





 まあ、残念ながらそうはならんけどね。このままじゃみんな疲弊するよ。











2017年8月3日木曜日

教員志望者、またすべての教師が知っておくべき 「校長とはなにか」ということ



 前回の記事、 



「教員の部活動問題が、本音と建前で180度違う理由」
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2017/07/blog-post_29.html 



 は、多数の方に読んでいただき、またツイッターなどでは多くのRTを頂いて感謝しています。




 部活動が、職務なのか、ボランティアなのか。あるいは、建前上はこうなっているけれど、本音ではこうだ、という点を「校長」という視点を通して書いたものですが、いまだに現役教師や、教師志望の方のツイッターやネットでの議論においては


「校長とはどういう存在か」


をよく把握していないものが多いので、今回は老婆心ながらそのあたりを書いておきたいと思います。



 一般論としての校長職のイメージは



■ 学校の一番の管理者である。

■ 学校を統括するものである。

■ 教育内容と、職務内容について責任をもつ立場である。

■ 指導要領どおりの教育が行われていることと、職員が健康安全に勤められる事について責任をもつ立場である。




などがあろうかと思います。これはこれでOK。まったくその通りです。



 しかし、現職の教員でもよく理解していない部分があるとすれば以下のようなことが挙げられるでしょう。




■ 校長は、行政官であり、教育を行う職分ではない。

■ 校長の権限は、高校ではお金を独自に扱うことができ、中小では独自に扱うことはできない。

■ 校長には、教員免許は不要である。

■ 校長は、校内の業務については、独自に物事を進めることができる。

■ 校長は、教員に対しての校外における人事権を持つ。




 ちょっとわかりにくい点もありますが、やさしく解説します。


 まず、校長は教師の延長線上にあるのではなく、教育を行う施設を管理監督しています。ですから、教育者である必要はなく、「管理者」であればよい、というわけです。


 なので、教師から校長へと出世の階段を登る人が多いことは事実ですが、事務長から校長になる人もいるし、教育委員会の事務方の施設課などから校長になることだって可能です。


 つまり、彼らは「教育者である」必要はないのです。



  その権限は、小中義務校と高校では少し異なるのですが、小中義務校は、ほんのささいなお金の使い方にも教育委員会事務局が「やいやい言う」のが普通です。校長には、あまり現場サイドでお金を動かすことができません。



 ところが、高校の校長は権力が大きく、「自分の裁量でお金を動かす」ことができます。


 仮に「この教育内容が必要なので、生徒全員バスに乗せてどこそこへ連れて行く!バス代使うぞ!」という思い付きのようなことが突然ひらめいても、それを実行するだけの権限があるということです。
 (極論ですが)


 また、人事面でもお金が使えるので、「こういう教師・講師を追加で投入するぞ!」ということを本気で考えた場合、教育委員会と調整の上ではありますが、ひっぱってくることもできます。



  また、近年よく知られるようになりましたが、「職員会議」は、法的決定権を持ちませんから、すべての現場の教師が反対しても、校長は独断で物事を決定し、遂行することができます。



  しかし、校長といえども、法の下にありますので、「違法な労働活動を命令する」ことはできません。これは重要なポイントですね。






 
 校長が行政官であるということは、現場の教師とは視点がまったく違う、ということでもあります。


 たとえば、ある高校に「無茶苦茶悪い生徒」がいて、他の生徒に影響を及ぼすなど、問題行動が多かったとします。


 現場の教師の視点では、「こういう生徒は置いておけないので懲戒なり退学なり、断固とした措置を取るべきだ」なんて職員会議で意見が出たりしますよね。



 その時、校長がそれに同意するかどうかは、校長の視点によって大きく異なります。


「その生徒が、外部に出て、治安に大きな影響を与えるような育ち方をするのであれば、最終的に警察や司法のお世話になるようなことがあるだろう。そうなる前に、学校としてその子を正せるところまで教育するのが我々公務員の責務である」


と実際にある校長先生は言いました。つまり、警察・司法・学校という行政組織の一として、どの場面でどの人間に当たるべきか、という話です。


 これが行政官の考え方です。


 こうした考え方がベースにあるので、教育困難校(高校)で定員割れした場合、どんな生徒でもまずは受け入れろ、という校長が多いのは、そのような行政官としての訓練を受けているからにほかなりません。





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 さて、最後にみなさんの立場に関係ある話をしておきましょう。


 校長は、実はそれなりに強大な権力を持っていますが、校内で起きる出来事については、教頭や副校長、そしてその学校に長くいる古参の教師とある程度仲良くやっていきたいと考えていますから、それらの権力を振りかざすことはあまりしません。


 しかし、校長が本気になれば、一つだけ「完全無欠の、誰にも逆らえない武器」を使うことが許されています。それが校外の人事権です。



 これは、簡単にひとことで言えば、教師であるあなたを



「どこへ飛ばすか、好き放題にできる」



ということです。逆に言えば、校長が教諭に対して持っている武器はたったひとつこれだけです。




 もし、校長の考えにそぐわない教師が校内にいるとします。そのままでは別に何もおきません。それだけで飛ばされることはないです。


 ただし、校長に対して面と向かって考えが異なることを主張し、彼が大人気なく怒りを抱いたら、その教師は


「離島でも郡部でも、義務校なら中学から小学校へでも、好き勝手に飛ばされる」


 ことだけは覚悟しなくてはなりません。



 教師というのは、どこにいても教師であり、子供たちはどこにいたって教育を受けるべき可愛いこどもたちです。



 ↑この大前提の理論を悪用すれば、ある先生が「どの学校がふさわしくて、どの学校がふさわしくない」なんてことは全く無く、何処へ行っても教師たる職分を果たすべきである、ということを振りかざすことができるのです。



(この話は、実際に私のかつての同期が、離島へ飛ばされた事実をもとに書いています。そして、彼は帰してもらえず退職しました。)





 組合活動などが盛んな地域だと、「校長に食ってかかるのはかっこいい」みたいな間違った風潮がある場合も見受けられますが、校長とはそういう存在だと正しく理解して、きちんと誠実に話をするのがもっともよいと思います。



 校長とて人間ですから、誠実できちんと話ができれば、逆にさまざまな意味であなたの意見や気持ちを認めてもらうこともできるのですから。