今日のツカミ。
”まだ教職で消耗してるの?”
教師になりたい、という人間がおそらく減少し始めていて、そして今後も激減するであろうことは簡単に予想がつくわけですが、その理由をまとめてみると、大変興味深いことに気付きます。
そう!もはや教師というのは人間が到達できるレベルではないほどの「サイボーグ兵士」とか、「ミッションインポシブル・スパイ」くらいの超絶した職務能力が求められているからです。
ちなみに、ヨシイエは個人的には「そこらへんのおっちゃん、おばちゃんであっても、ちょっとお勉強ができれば勤まるくらいの仕事」が教師の実像であるのが望ましいと考えていますが、それは実際には真逆の方向へコトが進んでいるようで。
では、現在の教師にはどんなことが求められているのか、一つ一つ冷静に考えてみましょう。
【1】 教科の指導がきちんとできること。
ふた昔前には、授業でギターを弾くとか、ただ怖いだけの先生とか、そういうのでも存在価値が認められていましたが、現在の学校では「脱ゆとり教育」「高度な人材育成」が求められているため、教科指導がきちんとできることは大前提です。
それも、わかりやすく訴えかけるプレゼンテーション能力が高く、かつ、覚えやすいドキュメンテーション作成能力があり、なおかつ、一人一人の様子を観察し、的確に補助することのできる教科指導教員が求められているのです。
もう、これだけで「お、なかなか使えそうな営業マンってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【2】 保護者との的確なコミュニケーションがとれること。
ふた昔前には、連絡帳と学級通信ぐらいでよかった保護者との情報交換は、「今日どんなことがあったか」「メンタルはどうか」「学業の進行具合はどうか」など、多岐にわたりかつ個別の連絡が求められている昨今の教師です。
トラブルなどがあれば個別の面談や家庭訪問などを行うのはもちろん、朝の会(ホームルーム)や、放課後の様子なども含めて、気配りし、かつその様子をきちんと伝達できることが望まれています。
PTA活動も保護者と協力して行い、円滑な学校教育を遂行するわけです。
もう、このへんで「お、なかなか優秀なマネージャーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【3】子供の問題行動や家庭の環境などにも配慮できること。
鬱や中ニ病、メンヘラ、リスカ、援助交際、不純異性交遊、暴力行為、万引きなど、ありとあらゆる犯罪行為や、精神的トラブルにも、適切な援助ができ、かつそれに気付くアンテナ能力が求められている教師の仕事です。
実際に、校外での指導を伴う場合もあるし、校内でも人間関係のトラブル、部活動内でのトラブルなどをいち早く察知する必要があります。
これをおろそかにして「いじめ」などに発展してしまうと、教師生命を脅かします。
もうこのへんで、「お、とても有能な臨床心理士もしくはカウンセラーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【4】 次々に襲い掛かる難問に対して、不屈のメンタルを持っていること。
教科上の課題、生活上の課題、心身の発達の課題、部活動の成果、家庭問題などなど、子供達が成長しなくてはならない課題は山積しており、それらのすべての面×35人~40人の対応をしなくてはならない教師は、自分がメンタルをやられている暇はありません。
生徒同士ではセックスをして妊娠をしたり、パンチラがそこらへんに転がったりしていますが、男性教師は間違っても、そうした性的なあんなことやこんなことに心がふらついてはいけません。
女性教師は、男性教諭や男性生徒からあらゆる面でセクハラ的態度をぶつけられることが多いのですが、けしてめげてはいけません。
担任教師が、一時の気のゆるみで、「学級崩壊」なんかを起こしては、末代まで祟られます。
もう、このへんで「24時間戦えるリゲインビジネスマンだね」と民間の方はピンとくると思います。
【5】 やったこともないスポーツでも、勝利へ導けるくらい指導できること。
バスケでもサッカーでも、吹奏楽でも、バレーボールでも・・・。なんかよくわからないけれど、やったこともないスポーツにおいて子供たちを指導することが求められています。
毎日練習を組み立てるのみならず、子供たちや保護者からは「試合に勝つ」ということを望まれています。これを、まるで地域のスポーツチームの指導者のように、あるいは、スイミングクラブのコーチのように、求められているわけです。
もうこのへんで、「つまり、ジムのトレーナーくらいはできるってことだね」と民間の方はピンとくると思います。
==========
民間企業に置き換えると、教師の仕事は、ざっと挙げただけで、5つくらいのプロフェッショナル(専業職業人)と同等のレベルが要求されていることがわかります。
プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ心理学にも行動学にも長けており、どんな難題でも顧客の将来や人格形成がかかっているので失敗が許されないという不屈のメンタルを有している笑顔が素敵なスポーツマン(もしくは何か芸術のセミプロ)であること。
これが、求められている教師の姿なのです。
ええっと。こういう人材を、民間企業の採用で考えればすぐわかりますが、こんなサイボーグみたいな人間はまず存在しません。
どれか一つの規準を満たすのがやっとなくらいで、それぞれ「営業マン」であったり、「マネージャー」であったり、「スポーツトレーナー」やら「カウンセラー」などとして一人だちしてゆくわけですね。
それを5つも6つも同時に教師に要求してゆくとどうなるか。
これは簡単で「そういう仕事をしたい」という人間が激減するだけです。
その昔「デモシカ教師」なんて言葉がありましたが、昔の教師は
「コミュ障だけど、勉強だけは好きだったので教科の教師になった」
とか
「部活大好きだったので、俺もサッカー教えてえ!と教師になった」
とか
「趣味の芸術に没頭していて、教師ぐらいしかなるもんがなかった」
とか、ぶっちゃけそんなんです。サイボーグというより、何か欠けている面があったりするのが普通でした。
夏目漱石が高校の先生してましたが、
「部活指導とか、不登校児への対応とか、保護者だよりとPTAとか、クリケットの指導とかしたわけなかろう!!!!あほかー!!!」
というのがオチです(笑)
ところが、いつの間にか「完璧な指導者であるべき教師像」みたいなのがどんどん一人歩きをはじめ、
「いじめを予防できる教師」とか
「ゆとりじゃない指導ができる教師」とか
「怪我をさせたり体罰をしない教師」とか
「君が代を歌う教師」とか
いろんな要素について「全部なんでもパーフェクトにできる教師像」へと変貌してゆくわけです。
こうなると、そんなことは物理的に無理なので、一刻も早く、せめて
「どれか一つか二つに特化できたらそれでOKよ」
と教師を解放してやらないと、みんな死んでしまうに違いありません。
スポーツ指導ができる教師は、数パーセントいればいい。
生徒指導がうまい先生は、何人かいればいい。
保護者とのやりとりは、だれそれ先生が窓口が一番ね
そういうのの総体として100%の円ができれば、学校は本来よき場となるはずなのです。
まあ、残念ながらそうはならんけどね。このままじゃみんな疲弊するよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿