2017年12月26日火曜日

ビットコインはなぜ儲かるのか ~ギャンブルで勝つ秘密を解明する~



 バブルだバブルだといわれ続けているビットコイン界隈ですが、つい直近大きく値を下げたり(あるいはまた戻したり)して、一喜一憂の狂乱状態をかもし出している今日この頃です(^^


 日銀の黒田総裁が、「ビットコインは投機的」なんて発言をして、そのせいもあって



 なんだ、結局はギャンブルなんじゃないか!



と思う人もいるでしょうし、あるいは



 そんなに儲かるから、俺もやってみようかな?



なんて下心を出す人もいることでしょう。



 さて、そんな多くの人の思惑を乗せて乱高下しているビットコインですが、吉家さんから言わせると、


「ギャンブルで何が悪いんじゃい!大当たりもすれば大はずれもするかもしれないが、それがどうしたんじゃい!」



という気持ちもあります。 私個人は、素人さんにはオススメしないものの、このビットコインバブルには、



”儲かる要素、それがギャンブルであったとしても勝てる要素”



が詰まっていると考えるからです。



 というわけで、今日は、BITCOINでなぜ儲かるのか、という論理的な説明をしてみたいと思います。





==========




 まず、ギャンブルというのは、「偶発的な確率によって、もたらされる利益(結果)が投資額よりも上がったり下がったりするもの」です。


 そして、そこにはいくつかの公式が存在していて、最も重要な第一の公式は、


1)「開かれる賭場の総和(総合計)は閉じている」


ということが挙げられます。簡単に言い直せば、みんなが100円ずつ出し合ってギャンブルをする場合、10人いれば総合計は100×10で1000円であり、もたらされる結果は、「1000円を超えることはない=閉じている」ということを意味します。


 総和が1000円の賭場があって、誰かがボロ勝ちしても1200円もらえたりはしない、ということが基本中の基本です。



 そして、閉じた場における第二の法則は、


2)掛け金と掛け率の因果は数学的に決まっている


ということが挙げられるでしょう。


 この場合の確率論は、「2倍の掛け金がもらえる場合の勝率は2分の1である」と明確に決まってきます。「4倍の掛け金がもらえる勝率は4分の1」でもいいし、わかりやすいのはルーレットの目ですが、


「勝率と配当金の因果関係は常に一定の法則の下にある」


と言い換えることができます。



 さて、賭場の場合は3つめの法則があって、それは



3)元締めはかならず手数料・ショバ代を最初に差っぴく



というものです。 なので、博打プレーヤーたちの掛け金の総和からは、あらかじめ胴元の手数料が引かれるため、リターンは100%にならないのです。




==========



 多くのギャンブルはこの「総和-{ショバ代+(プレイヤーたちの勝率&リターン)}」という公式に基づいていますので、FXもパチンコもカジノも、宝くじですら、最終的には「拠出したお金たちの総和」の内部にあると言ってよいでしょう。



 ところが、ビットコインも、「現金などをビットコインに変えた参加者たちの拠出金の総和」で成立していることは同じなのですが、通常のギャンブルとは違って、そこには



 もしかすると儲かるかもしれない要素



が隠れています。




 というのも、少し前から「必ず競馬で利益を上げるAさん」の掛け金が経費になるかどうかというネタが最高裁までいくほど議論されていましたが、



 競馬は論理的に必ず儲けることができる



ことがわかってきたわけです。



 それはなぜか?



 本来であれば、ギャンブルというのは完璧に数学的な確率論ですから、第二の法則によりどの馬が勝ち馬になっても「胴元は必ず儲けるし、総掛け金は閉じているし、参加者たちの間で分配する」ことには変わりないのだけれども、その分配の方式が、ルーレットや機械・電子式パチンコと比較して、人間の考えるオッズと、数学的確率の間にズレが生じていることは意外に気づかれていません。



 ↑ここが、めちゃくちゃミソなのです。



 一体どういうことでしょう。



 馬たちが走ってどの確率で順位が決まるかは、数学的に計算することが可能です。仮に6頭が同時に走るとして、Aの馬が一位になる確率は、単純には6分の一です。


 しかし、人間同士が走っても「一般人とボルトが競争したら、まあほとんどボルトが勝つだろう」と推測できるように、単純確率とはズレるパラメータが存在することもすぐにわかるでしょう。


 ですが、「カールルイスとウサインボルトならどうか」「ベンジョンソンとボルトならどうか」となると、だんだん話が怪しくなってきますね。


 これらも、本来ならそれぞれの体力や、筋力やその日の調子をパラメータとして設定して、数学的な勝利の計算する事ができるでしょう。


 ところが、実際に人間が「ルイスとボルトとジョンソンの誰に賭けるかというオッズは、数学的パラメータがはじき出した、より理想的な確率オッズとはズレる」のです。



 ここにズレが生じるので、このズレこそが、


「数学的に掛け金と賭ける相手を分配したのなら、勝率は常に一定で胴元に取られる分だけ儲からない」事態に対して「胴元が差っぴいた分を勘案しても、数学的勝率と人間のオッズとの間にズレがあるので、その分だけ儲かるチャンスがある」


ということになるわけです。


 競馬で儲けていた人は、このズレとスキマを、多くの馬券を分散して計算どおりに買うことによって、「ズレの部分を際立たせる」ことに成功していた、ということなのです。




==========




 さて、ビットコインには「信用に裏打ちされた基準となる価格が存在しない」と言うことができます。


 金本位制では金の価格という基準があって、通貨はそれに対して価値を上下させていたわけですが、現在の国家が運営する通貨も


「いきなり明日国が破綻したり、10分後に国が生まれたりはしない」


という安定性を基準にしながら価値を上下させています。株式も、「いきなり社長が株価の半分を博打に突っ込んだりしない」という信用によって、安定的に運用されているわけでもあります。


☆時たま、自分の所有する金の大半を博打に突っ込む経営者がいますが、それはまた別のお話。


 ということは、通貨や株の上下は、そのデータを詳細に取ってゆくと、最終的には数学的勝率へと近づいてゆく可能性が高いということでもあるでしょう。



数学的勝率が存在するなら、そのギャンブルは「ギャンブル必勝法」といわれる「マーチンゲール法」に近くなるということかもしれません。


 マーチンゲール法とは、「勝つまで倍賭けする」ということです。マーチンゲール法は、最後に勝つ、というところが強調されるので必勝法のように見えますが、これは実は、


「負けても数学的に値戻しができる」


ということでもあり、どのように確率が元の値(フラット)に戻るかをシュミレートしているとも言えるでしょう。



 しかし、ビットコインの場合は、


1)数学的勝率を算出する基準というものがそもそもない。

2)つまり、人間の印象だけで価値が変わるという「ズレ」そのもので出来ている。

3)胴元が存在しない。手数料は無視できるほど小さい。


という特徴があるので、



 爆発的に理由なく儲けることができる



ということになるのです。 だから、仮にギャンブル投機であったとしても、理論的に正確なギャンブルよりも儲けられる率が高いと言えるでしょう。







 ですが、最後に言っておきますが、ビットコインの価値は



「もっとも数学的に信用ならない人間の印象のズレの集積体」



であるため、 その価値が、最終的に



ぜんぶすっきりすっかり夢のようなものであった



ということは起こりえます。


 理由なくすべてを失う可能性もあるビットコイン、これぞまさにギャンブルの中のギャンブルと言ってよいかもしれません(苦笑)





2017年12月7日木曜日

【学校をめぐる諸問題08】 子供たちからのSOSをどう受け止めるべきか




 高校生の頭髪をめぐる議論に対して、いろんな感想を抱いている人がいます。


 今日、ネットで上がっていたのは教育ジャーナリストを仕事にしておられるとある方の記事でした。


 大変興味深いので紹介したいと思います。




 高校生の頭髪をめぐる議論 ~過度な自己アピールはSOSかもしれない~
 https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20171207-00079011/





 詳しいことはリンク先を読んでください。私はこの方の意見に100%賛同し、そして彼の意見に100%賛同しないのですが、そのあたりの意味不明さはおいおい判明してくることでしょう(笑)



 ちなみに、結論はともかく全体のテイストとしては「大事なポイント」を意外にしっかり押さえた記事なので、理解しやすいと思います。



 いつものように骨子をまとめます。



■ 地毛指導や、黒髪に染めろという指導は人権侵害の要素がある。


■ 強制やおしつけの指導はナンセンスと感じる大人が多く、「効果がない」とする教育者もいる。 


■ 一方、服装やルールの指導は、社会に出るうえでも必須であると考える人も多数いる。



 まあ、このあたりまではわかりやすい話です。このまとめは、いろんなところでもよく出てきます。


 さて、彼の記事で面白かったのは、この問題を「内発的変容」と「外圧的指導」の側面から見ようとしたところです。


 つまり



A 自分の力で変わろう、正そうとする生徒が存在します


B 教師の強制力で変わらせようとする学校が存在します



という2つの視座を提案したところですね。たいへん興味深い。


 そこで彼はひとつの例を提示して、



「進学校の生徒は、自由にさせてもむやみに茶髪にしたりせず、まあ節度を持っている」



という事実を立てて来ます。これも一般的によく知られている事実です。



 そして、


「進学校でない生徒がわざと茶髪にしてくるのは、自己肯定感が低くて、押さえつけられていることへの反発やSOSを発しているからだ」


と、論を進めるわけです。





============





 最初の時点で、ワタクシ吉家は、このおおたさんの論を100%肯定すると言いました。


はい、そうです。


「子供たちはSOSを発しているから茶髪にしたり、服装を乱すのだ」


それは100%その通り。まさしくそうです。その昔、尾崎豊が自分で言っているように、大人たちに歯向かって盗んだバイクで走り出すんです。けしてもともと窃盗が好きなわけではない。そこよ。



 そして、なおかつ、そうしたSOSを発し、問題を抱えている生徒が


「内発的、自発的な力によって自分を正すことができるのが理想的である」


とおおたさんは考えているようなので、それも100%激しく同意します。




==========




 と、ここまではとりあえずOKとしましょう。


 そのあと記事はこういう展開を迎えます。


 「できうるならば、彼らのSOSに耳を傾け、現実的にはリソースが少ない学校でそれを実現するのは難しいけれど、学校の中くらいは理想を語り、こどもたちに寄り添うべきだ」


というお話になるわけです。



 これはちなみに、



 国家の運営がうまくいかず、SOSをたくさん発射して日本海に落としている某国家があったりするけど、理想は国家の運営がそれぞれの民族で自立的、内発的になされるべきなので、理想の国家像を先進国は語りつづけようね



と言っていることとほぼ一緒なので、 (先進国は、他国の経済的排他水域にモノを発射して落としたりはしないぐらい、自律的です) 私は100%賛同しかねるのですが、それはまた別のお話。




==========





 この記事でいう理想論が実効的でないのは、仮に学校の中で理想論を立てて接したとしても、すでに子供たちの父親や母親が文化的にであったり経済的に「理想的生活を送れていないから、子供たちにもそうした影響が及んでいる」のに、何を持って理想とするのか、という点が抜け落ちているからです。


 SOSを発している。それは100%その通り。



 しかしそのSOSの元になっているトラブルの原因がなにかということを問えば、それは、実は学校の中の問題ではなく、生徒たちが置かれている社会状況と家庭状況の中に原因があるのに、その解決に関わることができない学校の教員が、何をもって理想を語ろうというのか!ということになるわけです。


「じゃあ、あんた、うちのお父さんがリストラされて貧しい今の状況を理想的にどう変えてくれんの」


「じゃあ、あんた、うちのおかんが男つくって出て行って姉妹二人で生活してるの、どう理想的な生活にしてくれんの」


ということに答えられない者が、理想を語ってはいけない、っちゅうことです。



 学校の教師は、SOSの原因が自分についてのことであれば、なんぼでも対応できます。



 しかし、現実に何が起きているかというと「教師が解決できない問題を生徒が抱えていて、それをSOSとして発している」事態が毎日毎分毎秒、日本中で起きているということなのです。




 では、教師が生徒の家庭環境や貧困や、親の無理解や社会情勢などに解決策をもてないのだとすれば、何を提供することができるのでしょうか?


 それは、そうした現実社会の中で、「それでもあなたに不利益がなるべく少ない方法を伝授して、自力で渡っていく技術」を伝達すること以外ありません。



  それが


「他人はみかけで人を判断するから、適切な服装や態度を有することが、逆境のあなたでも大きな助けになるんだよ」


「どこの組織に属しても、挨拶をしっかりできる人間は重宝されるから、そうしたことを大事にしたほうが損をしないよ」


「ルールを逸脱するものは排除されることが多いので、ルールに従ったほうが結果的に生きやすいよ」


という、生きる技術を教えるということなのです。



 けして「学校のいうことを聞け。俺の指導に従え」ではありません。



 もちろん、上記の内容をきちんと伝達している教師もいれば、うまくそれが伝わっていない教師もいるでしょう。


 そして、「そんな大人の世界がいやなら、選挙へいけ!」と教えるべきなのです。


 「そんな大人を変えたいなら、『踊る大走査線』を見て室井さんになれ!」と!



 そこであなたが茶髪にしていても、大人たちは変わりません。変えるなら、トップを取らねばならないのです。



2017年12月1日金曜日

【学校をめぐる諸問題07】 なぜこの世界は生きづらいのか ~黒髪と校則とリクルートスーツから~



 現代ビジネスの記事に面白いものがあったので紹介します。


 日本人の「心情」はすでに大震災前に戻ったのかもしれない
 ~なぜこの社会は生きづらいのか~
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53629 

  

 精神科医の堀さんという方の記事なのですが、やや話が難解な書き方なのでわかりにくいと感じられるかもしれませんが大変に興味深い話をしておられます。



 簡単に骨子を書くとこんな感じ。


■ 日本人は、ルールを作って運用する人間関係は苦手。


■ 日本人は、身分や上下を明確にしたがり、それが明らかだと意外と従順に従う。


■ 一般には封建的な考え方や、身分的な考え方は悪で、民主主義や平等は善だと考えられている。


■ しかし、日本人は、建前上(オモテ)は民主主義や平等を口にするが、本音(ウラ)では権威主義で封建的な生き方をしている。


■ 一般論から離れて考えると、権威や身分は単純な悪ではない。メリットもある。


■ 一般論から離れて考えると、民主主義や平等にもデメリットがある。



 いわゆる「本音と建前」のように、物事にはオモテウラがあるので、よけいに日本人として生きる中ではわかりにくい、ややこしいものとなっているのですが、それが日本的生きづらさの原因となっているのではないか、という話でした。




==========




 堀さんが例として挙げているのは、


『 平等的な思想を主眼とした取り組みをしたら、一見すると結果が上がった。しかし、平等を重んずるあまりに権威や身分を否定し始めると、チームや組織が崩壊した』


という医療現場の実態がありました。


 彼の言い方を借りれば、「権威的なもの」が旧来からあったけれど、近年は「反権威的なもの」も力を伸ばしてきて、それらが矛盾するから生きづらさが生まれている、というわけです。


 特に、今の若者はその2つの間で板ばさみになっているから、「立ち去るか引きこもるかしかない」というわけで。






==========




 この堀さん的視点で、たとえば校則や黒髪強要について考えると、現代の日本人が抱えている問題点がわかりやすくなってきます。



 とある高校生が地毛なのに黒髪を強要された、という訴えから先日「校則とはどうあるべきか」という議論が沸きましたが、結論から言えばとても簡単な図式です。





「表向きは、個性は大事であるとか、人権が大事であるということになっているが、実際にはその学校の周辺の住民や、企業の採用者は、『個性的な茶髪はいらない』とか『服装の乱れたものは見下そう』と考えているから、それを知っている学校・教師としては校則や規則でしめつけなくてはいけない」




ということが起きているわけです。いわば学校は、世間に対して忖度しているわけですが、これを強制するから権威主義的であり、封建的に見えてしまうということが起きるわけです。



 ところが、まったく同じことを大学3年生~4年生になると、今度は生徒自身が、世間に忖度して「茶髪でも黒髪に戻したり、みんなが没個性的なリクルートスーツを選ぶ」ことをやりはじめます。




 結果としてはおなじ行為を行うのだけれど、この文章の最初のほうに述べたように




 権威主義的で封建的なものは悪だよね



ということになっているので、学校は悪者にしやすいわけですね。



 もちろん、学校からすれば、それならほったらかしにして好きにすればいい、と思っているわけですが、実態は「服装や髪を自律的に忖度して世間さまに合わせられる能力がある」生徒と「そんな器用なことはできない」生徒がいるわけで、そのために



 偏差値の高い高校の生徒は制服も校則も比較的自由(忖度できるから)


 偏差値の低い高校の生徒ほど、世間の目を代弁する教師によって締め上げられる



ことが現実に起きているわけです。




==========




 これらは日本的社会のある意味最大の特徴なので、治りません。だから、そのしくみを理解して世渡りするものだけが最終的に得をします。


 学校の教師たちは、基本的には生徒に損をさせたくないので、最大公約数的に没個性で従順な人間を育てようとするわけです。



  もちろん、中には突然変異的に、個性的かつ高能力な者がいるかもしれませんが、学校側からすればそうした能力の高い人間は、偏差値教育の中で上位に選別されてそういう学校に行っている確率が高いので、これまた最大公約数的に、没個性な指導をすれば結果的に数学的には正解になるわけです。




 もし、本当に民主的で平等なルールを制定したいなら



20歳までは法的に責任を持たされるべき

「PTA(保護者)に校則を作らせる」

のが一番です。


 まあ、そうすると、子供たちが損をしないように、という意味では最も強力で制限的な校則が出来上がることになるわけですが(笑)


 あるいは、仮に自由な校則が出来て、生徒達が将来損をしても、それは保護者の責任ということでいいのではないでしょうか。



 可哀想なのは、何にも知らずに「自由と平等は正しい」と思いながら世間へ出てゆく子供たちですね。



2017年11月25日土曜日

■「仕事ができない人をみんなクビにしたら会社はどうなるか」がめちゃくちゃ納得できる件


 自分自身が「仕事ができるタイプ」なのか、それとも「仕事ができないタイプ」なのかは、自分では意外にわからなかったりするものですが、客観的に業界を眺めていると、


「ああ、まあこれくらいなら標準よりはできているのではないか」


と、なんとなく思う今日この頃です。ええ、今期から取締役に昇格するそうです。



 取締役とは言っても、いわゆる「失業保険がもらえないほうの取締役」ではなく、「失業保険がもらえるほうの取締役」なので、まあ従業員であることには変わりませんが。



 さて、そんな個人的なことはどうでもいいのですが、かなり面白い記事があったのでご紹介。




「仕事ができない人を全員クビにした会社で起きた驚きの結果


https://www.sinkan.jp/news/8176


記事は、新刊JPさんからですが、これはテレビでもけっこうCMやってたりしておなじみの Netflix 社で実際にあったことなのだそうです。


 仕事ができない人を解雇して、できるヤツだけにしたら業績はどうなるのか


という疑問は、なかなか興味深いものがありますが、たとえば働きアリさんなんかでは、


「何割かはいつもぜったいサボっている」


なんて観察結果もあるそうなので、ちょっと斜めから捉えると


「えー、絶対にそんなの会社としてはうまく行かないんじゃない?」


という予想になりますね。





 さて、そんな予想に反して



「仕事ができないやつをクビにしたら、業績は伸びた」
 
のが正解なのだとか!!!


  うわー、世知辛いなあとか、つい思ってしまいますが、よくよく考えてもう一周回って考え直したら、



これって、至極当たり前のことなのでは?



と管理職のヨシイエは思うわけで。




 感情論としての「クビ論」としてみるから「うわーきっつう!たまらんなあ」と感じたり、「ふっ、できないヤツは蹴落とせばいいのだ」とかいろいろ感じるわけで、実は誠実かつ論理的に言い換えれば、以下のような話になるだけなのですね。



 <言い換え例>


「成果のいいメンバー(レギュラー)だけを集めて、一軍を作ったら、試合に勝った」

 
「成績のいい社員の成績を集めたら、結果はめっちゃ良かった」

 
「成績のいい学生が、偏差値の高い大学に入ったら、成績の悪い生徒はそこにはいなかった」



・・・・・・あたりまえ♪ あたりまえ♪ 当たり前体操。




==========




 ということは、クビだの仕事ができないだの、人格否定を想起させる文言や仕打ちと連動するから、話がいやな感じになるだけで、これは明確な事実なんだと思います。


 その会社のミッションやビジョンが明確で、求められている動きもはっきりしているのなら、こりゃもう1軍選抜、偏差値選抜をすれば、明白に結果もそうなるというだけです。



 そりゃあ、その会社が、社会奉仕活動的側面が強い業務内容をしているのなら、仕事ができないけれど笑顔が優しい人がいてもいいでしょうが、一寸の狂いもない部品を最速で作ることがミッションな会社には、へらへら笑っているだけの人は「不要」なのは、どうにも仕方がない。


 ましてや、それが人命に関わるようなシビアな部品だったりしたら、そこで求められる成果は、「人間性ではなく精度」だと言われてもぐうの音もでないわけで。



 まあ、そんなこんなで当たりまえのことなので、私もなおいっそう一生懸命成果のある仕事をせねばならんなあ、と感じましたとさ。まる。



2017年11月20日月曜日

<吉家流儲かる起業塾19> 相変わらず攻めの姿勢のココナラが凄い ~バナー広告の威力で儲かる?!~



 不肖ヨシイエがココナラでの売上を晒すコーナーを不定期に開催しているわけですが、2017年秋現在でどれくらいかというと


 


 どん! 累計金額が約13万というところまで来ました。


 これだけで食べていけるほどではありませんが、金利利子よりかははるかに高い副収入なので、まあよしとしましょう。


 儲かってるかって?


 もともと元手も在庫も要らないので、純粋にもらえるものはいただいておきましょうということで(^^



 さて、このココナラさん。

https://coconala.com/ (公式)



 わたしはこの会社の回し者ではないですが、なかなか攻めの姿勢がすごくて毎回驚いています。


 前回も、ココナラがバナー広告代行をやってくれてる件でそのオドロキを書いたわけですが、

 


<吉家流儲かる起業塾11> ココナラのバナー広告がすごい! 無料であなたをCMしてくれる方法

https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html





なんかもう、どこかのページにバナーが出るよ、という話ではなく。


わかります? ココって書いてある箇所。

この写真は、ヤフーのページなんですが、ニュースページのアクセスランキングの下部とか、いわゆるトップページ相当の箇所に、ズバズバCMが入り込んでくるというしかけなのです。

 (該当部分は、モザイク処理しています)



 こうなると、誰か第三者のブログにバナーCMとして広告が入るよりも、はるかに高確率で目に留まる場所になるので、サービス出品者としては



「通常、ここに自分の広告出したら、ナンボ払わなあかんねん!」



ということを考えたら驚愕!なのですね。


 ココナラサービスの利用者は、自腹を切らずにあんなとこに広告を挿入してもらえるわけですから、これはオトク以外の何ものでもありません。




coconala ココナラが起業のトレーニングに最適な10の理由

  https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/04/coconala.html



というのも昔書きましたが、ほんとにココナラは起業の練習にピッタリなので、やってみ?

2017年10月27日金曜日

10年連続育休を取る社員は悪なのか?



 天下のプレジデントオンラインさんにすごい記事が載っていたので、のけぞってしまったヨシイエです。





なぜ”10年連続の育休社員が許されたのか ~制度の悪用は自分も不利にする~
http://president.jp/articles/-/23466





 詳しい内容はリンク先を読んでいただくとして、この記事は、とあるおっさんの目線で



女性が「10年連続育休を取るのは、悪だ!」


とぶった切っていることです。




 ええ?そうなの?そうだったの!



とオドロキを隠せない吉家です。





 というのも、私は個人的に10年近く3人の子育てをするために「産休・育休」をほぼ連続して取得した女性を知っているからです。


 その人物をもって、不埒である、悪である、制度の悪用であると断罪することができるのか!


 残念ながら、私には彼女が悪だとは到底思えません。


 なぜなら、彼女は3人の子供を育てながら、元来の職にとどまり両立することで、



 日本社会にも人類にも貢献していることが確か



だからです。逆に言えば、現代の日本における仕事も家庭も全部ちゃんとできる女性が3人の子供を安心安全に出産子育てするためには


「10年連続で育休を取ることが望ましい」


に決まっているじゃないですか!!!!!



 おっさん何を言うとるねん!あんたの存在がマタハラやないか!と突っ込まずにはいられないところです。(個人の感想です)



~~~~~~~~~~

 

 しかしながら、吉家とて人の子ですから、おっさんが言わんとしていることも十分によくわかります。

 そう、私が個人的に知っている女性が10年連続で育休みを取れたのは事実ですが、そこにはちょっとした壮大でおそろしいカラクリが潜んでいるからです。


 そのカラクリがなければ、10年連続の育休など、成立し得ないのですから!!!




 そのあたりの裏事情は、



 マタハラがなぜ起きるのか
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/01/blog-post_22.html



 という旧記事に書かれているので、ご参照あれ。




~~~~~~~~~~



 さて、簡単に話をまとめれば、「公立学校の女性教師」だったからこそ、10年連続の育休が可能であった、というのが上記の骨子です。


 そして、おなじことは民間企業では絶対にできない、ということもヨシイエは理解しているので、おっさんの言わんとしていることには、もちろん納得します。


 そうです、その通り、実態実際現実としては無理に相違ありません。



 しかしまた一方で、現代日本において、働く女性が3人子供を安心安全に産むためには、(つまり、人口を増やすには)、ひとつの案として



 10年連続の育休が可能であること



ぐらいの大胆なワザが使えなければ、人口問題は解消しないということでもあるわけです。



 なので、おっさんの立場を尊重すれば、


 人口衰退して日本人、氏ね!


ということでもあるし、人口を伸ばしたければ


 おっさんの立場を取る男たち、氏ね!



ということにもなるという究極の矛盾が生じているというわけですね。




~~~~~~~~~~



 それにしても、制度上それが使えるものであって、個人が最大限に利益を享受することは、「悪」なのでしょうか?


 それならそういう制度を廃止するか、そういう制度設計になっているところを見直すべきだと思うのですが、そのあたりはいかがなものか。


 私は、むしろ、日本人女性全員が10年育休が取れるシステムを作るべき、派なのですが。


 そのせいで、日本経済が衰退しようが、男社会に亀裂が生じようが知ったこっちゃありません。


 別にヨシイエはフェミニストではなく、




 そういう制度があるんだから、最大活用することが悪だといわれる筋合いはない




というだけのことなのですが、何か?





2017年10月23日月曜日

スズキ スペーシアカスタムZ に乗ってみたぜーっと! suzuki スペーシア試乗レビューの巻




 トールワゴン系ではけっこう人気なスズキ スペーシアですが、以前も実は試乗レビューをしています。

 というのも、うちがお世話になっている車検屋さんが、常に代車を


「いまどきのホットな車」


で当てがってくれるので、これは「乗ってみてよかったらぜひ買ってね」という策略に違いない(笑)



 というわけで、今回は、前回のスペーシア・スペーシアカスタムに引き続き、



 スペーシアカスタムZ



の登場です。


 おおっ、なかなかイカツイぜーーっと!


 というわけで、前回の

現行 スズキ スペーシア 試乗インプレッション! 良い点悪い点全部見せます!
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html 


もご参考に。


 以前は走り中心に書いたので、今回は中身に肉薄してみましょう。

 

前席・後席とも基本的に広々で、天井が高いのがいいですね~。


 

  最近のこのトール系軽自動車はほんとうに良く出来ていて、


 4人乗り


であることさえ除けば、十分かつひろびろとしたスペースがあるのが素晴らしい!


 逆に後席5人乗りの普通車でも、真ん中はおまけ扱いみたいな状況であることを考えれば、


ひとりひとりがゆったり座れる


のは、いいかも。




~~~~~~~~~~



 さて、スズキはいちおしの「Sエネチャージ」搭載なのですが、計器類もわかりやすく、


「今、エンジン走行中」

「今、回生充電中」


などの状況も液晶ですぐわかるようになっています。


 それより、ママ向けには


「今、省エネ走行できてますよ~」


という時にだけ、計器の色が変わるのでめっちゃわかりやすい! 







(画像は、静止時に撮影しています)
 
 
 
 ほら、通常運転時には、メーターの照明の色がなのですが、 エコ運転ができているときにはメーター周りがに変わります。

 ややこしい計器は気にせず、この色だけ見てすぐ理解できるのがGOOD!




~~~~~~~~~




 さて、後部座席です。


 


 通常状態でも、荷物スペースが広い!これはすごい!




 折りたたんでもひろい!




荷室フラットにもなるぜーーーっと!



 ぶっちゃけかなり使い勝手がよさそうです。まあ、パパママと子供2人家族だったら、常時フルメンバーなのでここまで荷室を使う場面はないかもですが、子供が少なかったり、たまにパパが遊びに使うにはいいんじゃないかな?




~~~~~~~~~~



  で、ここからは先進の安全設備編ですが。今回のカスタムZはデュアルカメラ付。


でも、写真のとおり、車格に対してカメラがやたらでかいので、室内から見るとかなり


圧迫感


 があります。


 フロントガラスの面積に対してのカメラの大きさが、(左上あたり)、ちょうど目の上のたんこぶのようで、


 ずどーんと重たい感じがする


のです。


 このへんはもうちょっと今後小さくなるといいねえ。



 肝心の機能ですが、私はふだん安全運転なので、追突防止もレーンはみ出し防止も、普通に乗っている分にはよくわかりません。



 まあ、いざという時のいざがやってこないのが一番ですね!





 全体としての印象ですが、そりゃ



 新車で150万



もするのだから、設備も造りもいいに決まってるがな(苦笑)



 軽自動車は高くなる一方ですが、もうちょっと価格バランスが良くなればとも思います。



 ちゃんちゃん。




2017年10月8日日曜日

さらば我が電子書籍「営業刑事は眠らない」はiOSとともに去りぬ!


 いやーん。アップルのばかばかっ!


 というわけで、長らくご愛顧頂きましたiOSバージョンの電子書籍アプリ



 「営業刑事は眠らない by吉家孝太郎」

 http://www.itmedia.co.jp/info/itmapp/bizss01.html


↑アプリ終了のおしらせ。


ですが、iOSのバージョンアップとともに、32ビット版アプリが動作しないということで消えてしまいました(涙)


 ついに、私のiphoneでも作動しなくなったので、みなさまのお手元のアプリも、削除行きのことと思います。


 ほかの電子書籍でもそうですが、契約上はサービス提供者からのレンタル扱いみたいなものですから、紙の本と比較して、永遠に残るわけではないので、残念ですが致し方ないところです。



 で、もう、一生読めないかというとそういうわけではなく、アーカイブが残っていますので、今後気になる方はそちらからお読みくださいませ。



==========



「営業刑事は眠らない」

(本文は↓こちら)

http://blogs.bizmakoto.jp/makotonovel/entry/5440.html



(結果発表時の記事は↓こちら)

http://blogs.bizmakoto.jp/makotonovel/entry/5634.html



(講評などは↓こちら)

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1211/16/news001.html




==========



 いやあ、2012年の作品ですから、もう5年も経ったんですね〜。月日が経つのは早いものです。


 この名義では小説などをその後はあまり書いてませんが、ブログは以前続けております。また、気が向いたら物語を書こうかな、とひと昔前を思い出して、ちょっと意欲が沸いてきたり。



 この頃はまだiphoneはソフトバンクからしか出てなかったので、ITメディアさんもソフトバンク系列ゆえ、iOSアプリでの配信だったのだと思います。


 あれから5年で、メディア業界も政治も、社会情勢もかなり変化しました。


 また、次の5年に向けて、ヨシイエも活動して参ります。どうぞよろしくお願い申し上げます! 










2017年10月3日火曜日

教師に暴力を振るう生徒にどう対処するか ~こうすべき、ではなくどうするのが良いのかを模索する~



 九州地方のHという(比較的偏差値の低いとされる)高校で、生徒による対教師暴力があった件は、twitterに動画がアップされたことで、一気に拡散し、また一気に解決をみたようです。


 高校の具体名についてやら、行為を行った生徒の氏名などは、あまりこの際重要ではないので、目くじらを立てて取り上げるつもりはありません。



 なぜなら



 こうした行為は、どこの学校でも起こりうるし、これからも起こる



からです。



 それとリンクして、本日興味深いニュースがあったのは、同じく対教師暴力を行った生徒を、被害者である教師が「常人逮捕(私人逮捕)」した、というものでした。

西日本新聞より
 https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/363277/



 犯罪行為に対して、逮捕権を誰もが持つわけですから、この行為そのものは「法の範囲内」にあります。


 暴行事件が起きたことによって、その生徒を常人逮捕することには、法的には問題がないと言えるでしょう。


(ちなみに、検察が加害生徒を釈放したのは、逃亡の恐れがないからだと推測されます。通常、身元が判明し、自活しているわけではない高校生は、保護者の監督下にあるため、身柄を拘束せずともその後の処分は可能だ、ということでしょう)



==========



 さて、今回twitterで問題になった暴行を行った生徒は、結局H高校を


 自主退学


したようです。これもまた、現場サイドではよくある話です。




==========


 さて、こうした一連の問題、つまり「生徒による教師への暴力」について、これこれこうすべきという議論は、時代や地域の実情や、個々の状況によっても変わってくるため、「これだ」という解決策はありません。



 たとえば、今回取り上げた2事件について、


■ 加害生徒が自主退学したということは、今後大人から教育されない暴力男を野に放っただけだ


とか


■ 逃亡の恐れがない生徒を常人逮捕するのはいかがなものか、被害届けのほうが適切か



とか、さまざまな意見がありそうです。実際、最初に暴行を受けた教師が存在したことについても



■ 教師の指導力が不足していたのではないか



とか



■ 情けない、毅然と接するべきだ



といった論調も多く出てきました。


 はたまた学校サイドの意見表明として、校長が観点のズレた謝罪をしたことで、 別の観点からも炎上してしまった場面もありました。




==========


 実は、学校現場ではこうした「対教師暴力」は昔からよく起きていて、いわゆる「校内暴力」が流行した時代(1970~1985ぐらいまで)においては、こうした問題行動を起こす生徒に対して、



いかつい体育教師が、「ワレなめとったらぶっ殺すぞ」と言いながら竹刀を持ってしばき倒す



という対生徒暴力によって封じこめようとしたこともありました。



 ここから管理教育という流れが生まれ、


■ 怖い先生に体罰される

■ スカートの長さを測られたり、持ち物検査をされたりする

■ 部活で汗を流して発散させる系スクールウォーズ部活が伸びる


という、現在の学校問題の根底に流れる文化が生まれます。


 ヤンキーを熱血先生が部活で成果を与えて指導して、涙ながらにシバキ倒して抱き合う


という文化を礼拝する教師や保護者がいるのは、この時代の文化を受け継いでいるのですね。


 あるいは、ケータイやスマホを朝の会で預かりますよ~とか、「茶髪検査しますよ~」とか、「ビゲンで染め直してこい」とか、そういう文化も、このあたりからスタートしています。



==========



 ところが、こうした管理教育のスタイルは、1990年の遅刻指導における生徒の校門圧死事件において、大転換を迎えます。

 遅刻しそうになった生徒に対して、教師が校門を締めたことで死んでしまう、という事件でしたから、学校サイドとしてはこれより後


「行き過ぎた指導は控えるべきだ」


と論調が変わります。体罰容認から体罰禁止へと全体の雰囲気や時代の流れが変わるターニングポイントもここです。


 そうすると、 1990年代以降は、みなさん知ってのとおり


「先生は暴力を受けてもやり返してこない」


ということを生徒が知りはじめますので、徐々にですが再び学校が荒れはじめるわけです。


2000年代には「学級崩壊」という言葉が流行し、 ゆとり教育への反動で学校が勉学面での圧力を再び開始したここ最近はやや沈静化しましたが、近年は「教育困難校」なんて言葉も出てくるぐらい、現場は問題が山積しておりますね。




==========




 こうした流れを理解していると、生徒の問題と学校が起こす問題は



 シーソーゲームのようなバランスを生じている



ことがわかります。学校の管理を厳しくすると、教師側の暴力が問題となり、学校の管理を控えると、生徒側の暴力が増えるのです。




 なぜか。理由は簡単。学校の内部でパワーゲームをやっているからです。




 そういう意味では、今回の2つの事件は、とても興味深い事例になりそうです。その大きなポイントは



 少年であるから最終的な処分は、少年にふさわしいものになるだろうが(つまり、大人よりは甘いだろうが、)

 警察と検察が介入するということが当然となった



ということでしょう。つまり、暴力は学校内部の問題ではなくなったのです。



 このことそのものは、歓迎すべきことだと言えるでしょう。子供の成長、教育は学校という限定された機関だけで行われるものではなく、社会全体でその任務を果たすものです。


 そういう意味では、教師の暴力へも、生徒の暴力へも、それが明らかになれば「法治国家の下で、警察や検察が動く」ということは、良いことだと思われます。



  ただ、現実問題としては、警察とて仕事が山積みなので、そこまで手を回したくないのが本音でしょう。



 というわけで、その昔、私は



「鉄道警察・航空警察ならぬ、学校警察を置け」



という提言をして賞金を10万円もらったことがあるので、ぜひそれをやってほしいものです。



え?誰が学校警察官になるのかって?そりゃあ、もちろん体育の先生ですよ。竹刀から警棒に持ち替えていただくということで(←このへんから冗談です)





 =========



 冗談はさておき、個人的には、学校内部の機能をもう少し高めてから校外の警察等へつなげてゆきたいものだと思っています。



 教師を蹴り飛ばしたU君は、蹴り飛ばした瞬間は、「教師より俺のほうが上だ」と優越感を持っていたことでしょう。


 しかし、実際には、U君は優越感を持っているだけで、「力(実力)」を持っていません。


 学校内において力を持っているのは、「懲戒権を持つ校長(とそれを具申する教師集団)」です。



 学校の機能というのは、社会に出る前の未熟な若者に



「この世界には、力(実力)・権力を有する上位者が存在する」


ということを、支配的ではなく、丁寧に教えることがその根底にあることを忘れてはいけません。


 リベラルな人は、こうした話をするとすぐ誤解して、「偉い者にひれふせということか」などと怒り狂うのですが、そうではなく、


「力を所有しているものとの関係性を適切に理解して、その距離感を学ぶ」


ということが社会に出るということだと教えるのが、学校の大事な仕事だと言っているわけです。





 ちなみに学校という組織は大変に優しいところで、校内で受けたいかなる懲罰であれ、それを学外に持ち出したり、生徒のその後の人生に引きずらせたりはしません。



 これはぜひ覚えておいてください。



 簡単にいえば、学校内で怒られることや指導は、その後の人生ではチャラである。



ということです。学校という組織や教師という存在は、「おまえに烙印を押す」ということを極端に嫌います。


(ですから今回のU君も、自主退学を認めているのです。懲戒権を発動せずにすむということです)



 だから本当は、生徒たるもの学校内で怒られまくってかまわないのです。担任に怒られ、生徒指導部長に怒られ、校長に怒られても実は卒業すればたいしたことはありません。


 その悪行三昧は、どこにも記録されず、次へ引き継がれることはないからです。



 だからこそ、学校の教師・組織としては、できるだけ内部で悪い生徒を


「叱り飛ばし、(手を出さずに)指導したおして欲しい」


と個人的には思います。そして、ゲームのように、悪行たるもの引き際を見極めなければ


「小ボスが出てきて、中ボスが出てきて、ラスボスが出てくるんだ」


ということを学んでほしいわけです。これは大人になるための勉強です。




==========




  教師の中にも勘違いしているアホがいますが、「指導力のない教師だからあんな目に逢うんだ」と思っている人はたくさんいるでしょう。


 しかし、それは違います。


 上で書いたように、生徒が学ぶべきものは


「次々、強いボスが現れるんだ」


ということです。その場面にいる敵が強いか弱いかは、表面的なもので、本質ではありません。


 
 心優しい女性の教師に対して、暴言を吐く生徒もいます。


 おだやかな教師の言うことをわざと無視して力関係を試す生徒もいるでしょう。


 しかし、その段階で一線を越えてしまうと、社会においては「次なるボスがおまえをしばく」ということが起きるわけです。



 それを学ばせるのが学校ですから、教師同士で「俺はできる、あいつはできない」ということをマウントしている暇はありません。


 組織で、チームで「人生というRPGを教える」のが教師の務めなのです。


 じゃあ、指導力があるという教師の自負があるなら、中ボスの役割で生徒に当たればいいじゃないですか。


 そして、大ボスやら、ラスボスと連携して、その生徒を鍛錬すればよいのです。











2017年8月12日土曜日

<実国学を考える22> 実はマイホームも結婚も幻想だった?! これから日本人が勤勉ではなくなる話



 まいどどうも孤高の国学者、ヨシイエ孝太郎です。



 文春オンラインに少し興味深い記事が出ていたので紹介します。


「地方出身者が作り上げたマイホーム神話という幻想」
http://bunshun.jp/articles/-/3613



 実はこの記事と似たようなことを、ブログに書こうとしていて、あまりにタイムリーだったので、ちょっとばかし引用したい次第。



 この話題、吉家的にはちょっと別の切り口から書こうと考えていました。


 それは・・・。



「日本人は本当に勤勉なのか?あるいは、これからも勤勉であり続けるか?」


という観点です。



 日本人は、勤勉でまじめに仕事を続ける傾向があるので、高度成長などの大きな発展をすることができた、みたいな言説が一般には信じられていますが、どうもこれは鎌倉幕府以来の


「ご恩と奉公」


がその実態なのではないか、という仮説です。鎌倉幕府と源頼朝にみんな従ったのは


「領地をくれる(ご恩)ので、従属してしっかりはたらく(奉公)」


という関係があったからです。 これを擬似的に再現したのが、戦後の日本社会(あるいは明治以降の日本社会)だったのではないか、という訳です。



==========



 今回の文春さんの記事でもあるとおり、日本の農村では「長男だけが家屋敷や田畑を継承することができる」のが普通でした。


 次男以降は、基本的には分家を立てるか、どこかへ養子へいくか、あるいはまったく別の土地へ行って開墾するか以外には、「新生活を成立させる術はない」のが古来から実態だったわけです。



 分家も簡単ではなく、田畑を兄弟で分ける行為は「田分け(タワケ)」なことですので、それぞれの資産が小さくなることを意味します。本来望ましいことではありません。



 なので、人工増加に伴っては「北海道を開拓して新しい土地を創出する」「あるいは満蒙を開拓して新しい土地を日本人のものにする」ということは必須だったわけです。


 これが、土地(そこから生産される米・食料)に依存した日本の国の姿でした。





 ところが、「食べるのに物理的な食料生産を伴わなくてもよい=産業革命以来の経済変化」が生じます。


 それは「貨幣」というものの力で、明治維新を経て現物の米ではなく、経済的の数字上の力で食べていくことが可能になったわけです。 (だから年貢が廃止され地租が生まれた)



 この頃から、富岡製糸工場へ女の子が務めたりするように、「農家の次男や三男、あるいは農家の娘達が、集団でどこかの企業に入って就職する」ということが増えるようになりました。


 その最たるものが「金の卵」というやつで、田舎から都市への人口移動が始まったわけですね。



 吉家が考える国学的視点では、この都市化の際に



「本家を中心とする、次男や女子の家臣構造」から「企業を中心とする、次男や女子の家臣構造」へと変化したのだ


と考えます。戦後の企業構造が家族的であったということは、言い換えれば、「主従と家臣構造」にも似ていたということでもあるのです。



 さて、家臣はなぜ本家や主家、企業に従属する理由があったのでしょうか?


 それは、まさにズバリ「衣食住を保証してくれるから」に他なりません。いや、「墾田永年私財法」以降、日本の国体の基本を貫いてきたのはぶっちゃけ「土地」ですから、引用した記事どおり、



「企業の家臣になれば、土地・領地が手に入る」


という、ご恩と奉公の関係そのものだったわけです。


 だから、分家して”家”を新しく立てなければ、結婚もできなかった農家の次男や三男でも、嫁の貰い手をみつけて、一家を維持することができるようになったのですね。



==========




 ところが、21世紀に入ると、企業人として仕えることは、ご恩と奉公でいえば「あまりご恩がない状態」になってしまいます。

 派遣社員などはその最たるもので、家臣ではなく「傭兵」ですから、戦国武将的にはすぐに「牢人・浪人」にならざるを得ないわけです。


 そうすると、果たして主家のために「勤勉に働く」ということが成立するのか怪しくなってきます。



 簡単に言えば、今後の職業人が「領地を貰うことができない」のであれば、主家(企業)からは離反する行動がムーブメントになるだろうと思います。



 元寇の後、必死でモンゴル軍を追い返したものの、与える領地が増えたわけではないので、恩賞があやふやになって崩壊した鎌倉幕府と同じことが、日本の企業体で起きようとしていると考えられます。




 安住する領地・土地がもらえないとなると、「次男三男が(新しく)家を立てる」とか「結婚して家族をもうける」ということは、難しくなってきます。


 マイホームを買うとか、結婚するとかがある程度当たり前なのは現在だけで、未来にはそうした行動は現象するに違いない、という予想が立てられます。



 もちろん、少子化ですから、そもそも次男や三男も激減します。長男長女しかいない、という家が大半になるわけですが、田舎では「本家をその一子が維持しようとする」動きがしばらくは続くでしょう。

 逆に都市部では、恩賞である領地に依存しないので「傭兵として死んでいく」者達が増えることになります。


 ちょうど、江戸時代には、9割が男性で、その多くが未婚のまま亡くなったように、都市部では男女ともに「一人で朽ちてゆく」人たちが増えることになると考えられます。



 その時、日本人は果たして勤勉でいられるのか?



 いや、おそらく大半の日本人は「宵越の金はもたねえ」じゃないですが、江戸っ子の気質のように刹那的なものへと変化するのだと思います。










2017年8月10日木曜日

■ 教員志望者が減少する理由 ~すでに教職は「完全不滅のエージェント」レベルが要求されている件

今日のツカミ。


”まだ教職で消耗してるの?”










 教師になりたい、という人間がおそらく減少し始めていて、そして今後も激減するであろうことは簡単に予想がつくわけですが、その理由をまとめてみると、大変興味深いことに気付きます。



 そう!もはや教師というのは人間が到達できるレベルではないほどの「サイボーグ兵士」とか、「ミッションインポシブル・スパイ」くらいの超絶した職務能力が求められているからです。





 ちなみに、ヨシイエは個人的には「そこらへんのおっちゃん、おばちゃんであっても、ちょっとお勉強ができれば勤まるくらいの仕事」が教師の実像であるのが望ましいと考えていますが、それは実際には真逆の方向へコトが進んでいるようで。





 では、現在の教師にはどんなことが求められているのか、一つ一つ冷静に考えてみましょう。





【1】 教科の指導がきちんとできること。


 ふた昔前には、授業でギターを弾くとか、ただ怖いだけの先生とか、そういうのでも存在価値が認められていましたが、現在の学校では「脱ゆとり教育」「高度な人材育成」が求められているため、教科指導がきちんとできることは大前提です。


 それも、わかりやすく訴えかけるプレゼンテーション能力が高く、かつ、覚えやすいドキュメンテーション作成能力があり、なおかつ、一人一人の様子を観察し、的確に補助することのできる教科指導教員が求められているのです。



 もう、これだけで「お、なかなか使えそうな営業マンってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【2】 保護者との的確なコミュニケーションがとれること。


  ふた昔前には、連絡帳と学級通信ぐらいでよかった保護者との情報交換は、「今日どんなことがあったか」「メンタルはどうか」「学業の進行具合はどうか」など、多岐にわたりかつ個別の連絡が求められている昨今の教師です。


 トラブルなどがあれば個別の面談や家庭訪問などを行うのはもちろん、朝の会(ホームルーム)や、放課後の様子なども含めて、気配りし、かつその様子をきちんと伝達できることが望まれています。

 PTA活動も保護者と協力して行い、円滑な学校教育を遂行するわけです。
 

 もう、このへんで「お、なかなか優秀なマネージャーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【3】子供の問題行動や家庭の環境などにも配慮できること。


 鬱や中ニ病、メンヘラ、リスカ、援助交際、不純異性交遊、暴力行為、万引きなど、ありとあらゆる犯罪行為や、精神的トラブルにも、適切な援助ができ、かつそれに気付くアンテナ能力が求められている教師の仕事です。


 実際に、校外での指導を伴う場合もあるし、校内でも人間関係のトラブル、部活動内でのトラブルなどをいち早く察知する必要があります。


 これをおろそかにして「いじめ」などに発展してしまうと、教師生命を脅かします。



 もうこのへんで、「お、とても有能な臨床心理士もしくはカウンセラーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。




【4】 次々に襲い掛かる難問に対して、不屈のメンタルを持っていること。



 教科上の課題、生活上の課題、心身の発達の課題、部活動の成果、家庭問題などなど、子供達が成長しなくてはならない課題は山積しており、それらのすべての面×35人~40人の対応をしなくてはならない教師は、自分がメンタルをやられている暇はありません。


 生徒同士ではセックスをして妊娠をしたり、パンチラがそこらへんに転がったりしていますが、男性教師は間違っても、そうした性的なあんなことやこんなことに心がふらついてはいけません。

 女性教師は、男性教諭や男性生徒からあらゆる面でセクハラ的態度をぶつけられることが多いのですが、けしてめげてはいけません。


 担任教師が、一時の気のゆるみで、「学級崩壊」なんかを起こしては、末代まで祟られます。

 
 もう、このへんで「24時間戦えるリゲインビジネスマンだね」と民間の方はピンとくると思います。




【5】 やったこともないスポーツでも、勝利へ導けるくらい指導できること。


 バスケでもサッカーでも、吹奏楽でも、バレーボールでも・・・。なんかよくわからないけれど、やったこともないスポーツにおいて子供たちを指導することが求められています。


 毎日練習を組み立てるのみならず、子供たちや保護者からは「試合に勝つ」ということを望まれています。これを、まるで地域のスポーツチームの指導者のように、あるいは、スイミングクラブのコーチのように、求められているわけです。



 もうこのへんで、「つまり、ジムのトレーナーくらいはできるってことだね」と民間の方はピンとくると思います。




==========



 民間企業に置き換えると、教師の仕事は、ざっと挙げただけで、5つくらいのプロフェッショナル(専業職業人)と同等のレベルが要求されていることがわかります。



 プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ心理学にも行動学にも長けており、どんな難題でも顧客の将来や人格形成がかかっているので失敗が許されないという不屈のメンタルを有している笑顔が素敵なスポーツマン(もしくは何か芸術のセミプロ)であること。



 これが、求められている教師の姿なのです。




 ええっと。こういう人材を、民間企業の採用で考えればすぐわかりますが、こんなサイボーグみたいな人間はまず存在しません。


 どれか一つの規準を満たすのがやっとなくらいで、それぞれ「営業マン」であったり、「マネージャー」であったり、「スポーツトレーナー」やら「カウンセラー」などとして一人だちしてゆくわけですね。



 それを5つも6つも同時に教師に要求してゆくとどうなるか。



 これは簡単で「そういう仕事をしたい」という人間が激減するだけです。




 その昔「デモシカ教師」なんて言葉がありましたが、昔の教師は



「コミュ障だけど、勉強だけは好きだったので教科の教師になった」

とか


「部活大好きだったので、俺もサッカー教えてえ!と教師になった」

とか


「趣味の芸術に没頭していて、教師ぐらいしかなるもんがなかった」
 
とか、ぶっちゃけそんなんです。サイボーグというより、何か欠けている面があったりするのが普通でした。




 夏目漱石が高校の先生してましたが、


「部活指導とか、不登校児への対応とか、保護者だよりとPTAとか、クリケットの指導とかしたわけなかろう!!!!あほかー!!!」


というのがオチです(笑)





  ところが、いつの間にか「完璧な指導者であるべき教師像」みたいなのがどんどん一人歩きをはじめ、


「いじめを予防できる教師」とか

「ゆとりじゃない指導ができる教師」とか

「怪我をさせたり体罰をしない教師」とか

「君が代を歌う教師」とか


いろんな要素について「全部なんでもパーフェクトにできる教師像」へと変貌してゆくわけです。




 こうなると、そんなことは物理的に無理なので、一刻も早く、せめて


「どれか一つか二つに特化できたらそれでOKよ」


と教師を解放してやらないと、みんな死んでしまうに違いありません。



 スポーツ指導ができる教師は、数パーセントいればいい。


 生徒指導がうまい先生は、何人かいればいい。


 保護者とのやりとりは、だれそれ先生が窓口が一番ね



そういうのの総体として100%の円ができれば、学校は本来よき場となるはずなのです。





 まあ、残念ながらそうはならんけどね。このままじゃみんな疲弊するよ。











2017年8月3日木曜日

教員志望者、またすべての教師が知っておくべき 「校長とはなにか」ということ



 前回の記事、 



「教員の部活動問題が、本音と建前で180度違う理由」
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2017/07/blog-post_29.html 



 は、多数の方に読んでいただき、またツイッターなどでは多くのRTを頂いて感謝しています。




 部活動が、職務なのか、ボランティアなのか。あるいは、建前上はこうなっているけれど、本音ではこうだ、という点を「校長」という視点を通して書いたものですが、いまだに現役教師や、教師志望の方のツイッターやネットでの議論においては


「校長とはどういう存在か」


をよく把握していないものが多いので、今回は老婆心ながらそのあたりを書いておきたいと思います。



 一般論としての校長職のイメージは



■ 学校の一番の管理者である。

■ 学校を統括するものである。

■ 教育内容と、職務内容について責任をもつ立場である。

■ 指導要領どおりの教育が行われていることと、職員が健康安全に勤められる事について責任をもつ立場である。




などがあろうかと思います。これはこれでOK。まったくその通りです。



 しかし、現職の教員でもよく理解していない部分があるとすれば以下のようなことが挙げられるでしょう。




■ 校長は、行政官であり、教育を行う職分ではない。

■ 校長の権限は、高校ではお金を独自に扱うことができ、中小では独自に扱うことはできない。

■ 校長には、教員免許は不要である。

■ 校長は、校内の業務については、独自に物事を進めることができる。

■ 校長は、教員に対しての校外における人事権を持つ。




 ちょっとわかりにくい点もありますが、やさしく解説します。


 まず、校長は教師の延長線上にあるのではなく、教育を行う施設を管理監督しています。ですから、教育者である必要はなく、「管理者」であればよい、というわけです。


 なので、教師から校長へと出世の階段を登る人が多いことは事実ですが、事務長から校長になる人もいるし、教育委員会の事務方の施設課などから校長になることだって可能です。


 つまり、彼らは「教育者である」必要はないのです。



  その権限は、小中義務校と高校では少し異なるのですが、小中義務校は、ほんのささいなお金の使い方にも教育委員会事務局が「やいやい言う」のが普通です。校長には、あまり現場サイドでお金を動かすことができません。



 ところが、高校の校長は権力が大きく、「自分の裁量でお金を動かす」ことができます。


 仮に「この教育内容が必要なので、生徒全員バスに乗せてどこそこへ連れて行く!バス代使うぞ!」という思い付きのようなことが突然ひらめいても、それを実行するだけの権限があるということです。
 (極論ですが)


 また、人事面でもお金が使えるので、「こういう教師・講師を追加で投入するぞ!」ということを本気で考えた場合、教育委員会と調整の上ではありますが、ひっぱってくることもできます。



  また、近年よく知られるようになりましたが、「職員会議」は、法的決定権を持ちませんから、すべての現場の教師が反対しても、校長は独断で物事を決定し、遂行することができます。



  しかし、校長といえども、法の下にありますので、「違法な労働活動を命令する」ことはできません。これは重要なポイントですね。






 
 校長が行政官であるということは、現場の教師とは視点がまったく違う、ということでもあります。


 たとえば、ある高校に「無茶苦茶悪い生徒」がいて、他の生徒に影響を及ぼすなど、問題行動が多かったとします。


 現場の教師の視点では、「こういう生徒は置いておけないので懲戒なり退学なり、断固とした措置を取るべきだ」なんて職員会議で意見が出たりしますよね。



 その時、校長がそれに同意するかどうかは、校長の視点によって大きく異なります。


「その生徒が、外部に出て、治安に大きな影響を与えるような育ち方をするのであれば、最終的に警察や司法のお世話になるようなことがあるだろう。そうなる前に、学校としてその子を正せるところまで教育するのが我々公務員の責務である」


と実際にある校長先生は言いました。つまり、警察・司法・学校という行政組織の一として、どの場面でどの人間に当たるべきか、という話です。


 これが行政官の考え方です。


 こうした考え方がベースにあるので、教育困難校(高校)で定員割れした場合、どんな生徒でもまずは受け入れろ、という校長が多いのは、そのような行政官としての訓練を受けているからにほかなりません。





==========


 
 さて、最後にみなさんの立場に関係ある話をしておきましょう。


 校長は、実はそれなりに強大な権力を持っていますが、校内で起きる出来事については、教頭や副校長、そしてその学校に長くいる古参の教師とある程度仲良くやっていきたいと考えていますから、それらの権力を振りかざすことはあまりしません。


 しかし、校長が本気になれば、一つだけ「完全無欠の、誰にも逆らえない武器」を使うことが許されています。それが校外の人事権です。



 これは、簡単にひとことで言えば、教師であるあなたを



「どこへ飛ばすか、好き放題にできる」



ということです。逆に言えば、校長が教諭に対して持っている武器はたったひとつこれだけです。




 もし、校長の考えにそぐわない教師が校内にいるとします。そのままでは別に何もおきません。それだけで飛ばされることはないです。


 ただし、校長に対して面と向かって考えが異なることを主張し、彼が大人気なく怒りを抱いたら、その教師は


「離島でも郡部でも、義務校なら中学から小学校へでも、好き勝手に飛ばされる」


 ことだけは覚悟しなくてはなりません。



 教師というのは、どこにいても教師であり、子供たちはどこにいたって教育を受けるべき可愛いこどもたちです。



 ↑この大前提の理論を悪用すれば、ある先生が「どの学校がふさわしくて、どの学校がふさわしくない」なんてことは全く無く、何処へ行っても教師たる職分を果たすべきである、ということを振りかざすことができるのです。



(この話は、実際に私のかつての同期が、離島へ飛ばされた事実をもとに書いています。そして、彼は帰してもらえず退職しました。)





 組合活動などが盛んな地域だと、「校長に食ってかかるのはかっこいい」みたいな間違った風潮がある場合も見受けられますが、校長とはそういう存在だと正しく理解して、きちんと誠実に話をするのがもっともよいと思います。



 校長とて人間ですから、誠実できちんと話ができれば、逆にさまざまな意味であなたの意見や気持ちを認めてもらうこともできるのですから。




















2017年7月29日土曜日

教員の部活動問題が、本音と建前で180度違う理由



 ここのところ教員の部活動問題が、教育界の内外で話題になっておりますが。


 簡単に言えば、部活動の指導はボランティアであるのに、それが半ば義務化されているのが実態で教員のブラック労働の温床になっている、という話です。


 そこで、一部の志ある若い教師からは、


「労働としてきちんと手当てされていないものであるならば、部活動を指導するしないの選択権を持てるなど、何がしかきちんとした体制がほしい」


という要望が上がっているわけで、逆にまた


「部活動の指導が労働の一部であるならば、給与面や労働時間についてきちんとした体制がほしい」


とも言っているわけで、これは確かにまったくもってその通りで、部活問題が「労働問題」として議論されることは



 大いに正しい



と私も同感します。



 ところが一方で、部活動にどう当たるべきか、という現実の現場サイドでの話で言えば、上記のようにきちんと体制が作られているわけではなく、


「先生方に置かれましては、部活動は労働ではないのですが、そこはうまく対応して、なんとか指導に当たっていただきたい」


という校長からの、お願いだか命令だかよくわからないままの無言の圧力によって、今日も明日もすぐには変革されず部活が続いていることは、みなさんご承知の通り。



 そんななか、ちょっと面白い記事がツイッターに上がっていて、





ソラさんのツイート

https://twitter.com/SoraEduJapanese/status/890923567495249920


これはかなりRTされているツイートなのですが、要するに



 大学で教員志望を指導している元校長が、


『部活動の職務は、教員の職務なんだから、やれったらやれ』

『勤務時間後の部活指導は、校長によるお願いによって、教員が分担してするものだ』

『わしらも若い頃からずっとやってきたので、たぶん変わらんよ』


という旨の指導をしたという話です。





==========

 
 勤務なのか、ボランティアなのか。勤務時間と部活指導時間はどのように労働時間として扱うか。


 上記のような議論は、おそらく労働基準法に基づいて精査すれば、おのずと答えは出ます。


 ところが、そうならないのは、建前はともかく教員の世界にはいろいろなウラ事情があるからです。



 そのウラ事情として


(『なぜ教師は部活動を辞められないのか』
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/01.html



の中で、「部活動の指導実績が評価に直結するから」ということを説明しました。



 今回は、この補足事項を「校長目線」でお話したいと思います。



 学校の教師が、どのように評価されるのかは、上の記事でもある程度書いています。しかし、現実には、勤務年数によって、実際の評価はある程度横並びですから、教師が現実問題としてどのように評価されるかは



 どの勤務校へ移動できるか



以外にはありません。あとは、指導主事になって教頭になるとか、そういう出世の話は別ルートです。



 そうすると、教師がどの学校へ次移動するかは、教育委員会とやらが決めるわけではなく、



「各学校のトップである校長たちが合議して決める」


のです。


 つまり、教職員一覧表がまず存在し、そこからある学校で、どの教科やどのポジションの教師が抜けるのか(異動対象になっているか)を検討するわけです。

 今度は、抜ける側の校長からするとはないちもんめがはじまるわけで


「あのこが欲しい あのこじゃわからん ♪ 相談しよう そうしよう ♪」


というそれぞれの教師というコマのやりとりをすることになるのです。




 その異動させ、動かし、ぐるぐる回すコマには、要素があります。




 第一の要素は、もちろん中高教師では「教科」です。年齢はあまり関係ないです。

 (基本的には、年齢が高い教師は、いわゆるいい学校や都市部へいける可能性は高いが、『田舎・郡部校のリーダー的存在として行ってくれ』ということも多々あるので年寄りでもOK)



  第二の要素は、ある程度の「経験」です。学年主任をやったのか、生徒指導部長などの分掌のリーダーを経験したか、などですね。




  そして、第三の要素は、「部活動の指導実績」なのです。だから、校長からすれば、人事異動でどの教師をひっぱってくるか、あるいは放出するかの重要なファクターになるため、この切り札が使えなくなることは非常にマズいことになります。





 従って、校長経験者であればあるほど「部活動の指導は重要な仕事なので、文句を言わずにやりなさい(→それがあなたの将来のためなのです)と言わざるを得ないのです。




 校長同士も実はマウントしあっていますから「どの学校で校長をしたか」はものすごく大きな人生のテーマだったりします。




 そして、校長としての一番の腕の見せ所は「人事異動」なので、


「どの分掌のベテランや力のある教師を引っ張ってこれたか」

「どの部活動のベテランや力のある教師を引っ張ってこれたか」


によって、校長としての実力が左右される、ということになっています。



 間違ってはいけないのは、校長は学校内の「内部の人事」については、基本的には「教頭もしくは副校長の意見を最大限尊重」します。


 そこに口を出す校長は、「懐がせまい」と思われるので、校長は「校外との人事」に全力を傾けます。




 こういう事情をしっておくと、どうして部活動問題が本音と建前でぐちゃぐちゃになるのかがよく理解できると思います。

















2017年7月24日月曜日

<吉家流儲かる起業塾18> ココナラTVCMの効果は?! 大量CM投下は、仕事を生んだのか?



 2017年7月15日から30日までの予定で、テレビCMを投入しているココナラさんですが、かくいう私も、いちおうココナラユーザーです。




 みんなの得意を売り買い ココナラ
 https://coconala.com/




 ちなみに吉家孝太郎は、ココナラでどんなサービスを提供しているのか、このブログでは一切告知しておりませんし、名前も違います(笑)



 それは秘密ということで。そのおかげで客観的なココナラ批評ができると考えております。


 ステマっぽい告知とか嫌いなので(^^;;;





 というわけで、ココナラのスタッフにすれば、ここ半月のテレビCMの効果についてはやきもきしているところでしょうが、ヨシイエの体感でいえば




 ココナラのテレビCMが入っても、依頼や顧客はあんまり増えていない!




というのが、ひとつの真実ではないかと(苦笑)



 その原因を探ってみると、いろんなことが思い浮かびます。



■ ココナラテレビCMは、「ココナラというサービスの認知度を上げた」



 テレビCMの投入によって、「あ、ココナラというプラットフォームがあるんだ」という告知はできたんだと思います。そのことによって「売るほう、買うほう」の知らなかったユーザーの掘り起こしはたぶんできたのだと。





■ ココナラテレビCMでは、「サービス提供者の内容までは到達できない」



  出品希望者から見ると「ココナラというサービスに自分のスキルをアップしてみよう」と思うきっかけにはなりますが、既存のサービス提供者からすれば、


 テレビCMが即、既出サービスへのつなぎにはならない


可能性があります。 ぶっちゃけ、この機能でいえば、既に実行されているココナラのネットバナー広告のほうが、ダイレクトに顧客の希望している内容へとリンクするので有利です。





 ■ ココナラテレビCMは、ワオミーなどの「後発勢力」へのけん制か?


  ネット上でのスキルの売り買いサービスは、実は後発組が少しずつ増えています。


 ランサーズストア
 http://www.lancers.jp/store


 ワオミー
 https://wowme.jp/



 いずれのプラットフォームも、できることは似ているので、ココナラさんとしては先行者利益を最大にしたいので、まずはユーザーの囲い込みに走りたいところ。


 そこで、ネットの世界から現実世界へと移動してのテレビCM投入、ということになったのでしょう。






~~~~~~~~~~




 しかし、ココナラの経営上のポイントは、「とにかくたくさんのサービスを使ってもらって、手数料をかせぐ」ことなのですが、逆説的ながら、サービス提供者からすると



「提供側ユーザーが増えれば増えるほど、自分の商品は多勢にかすんでゆくので不利になる」



という一面もあります。要するに、ライバルが増えると、一サービスあたりの個性は消えてゆく、というわけですね。



 このへんのバランスをしっかりコントロールできないと、アタリショックのようなことが起きてしまいます。



 起業者としては、このあたりの「たづなの引き具合」を勉強材料としてしっかり見てゆきたいものですね!




2017年7月12日水曜日

子育てママにピッタリ? トヨタ新型ルーミー・タンク/ダイハツ新型トール/スバル新型ジャスティ を徹底解剖!

(画像はトヨタさんのサイトからの引用です)



 みなさんこんにちは。



 ふだんはホンダ・フリード乗りの吉家孝太郎ですが、うちの奥さんのママ友さんから


「新しく出たトヨタのソリオみたいなやつ!ってどうなの?」


と尋ねられたので、 子育てママ目線での


 トヨタ ルーミー・タンク

 ダイハツ トール

 スバル ジャスティ


(この4車種は、ぜんぶ兄弟車)


の良しあしについて、つっこみを入れてみよう!という記事でございます。




 ちなみにママともさん、「ソリオはスズキなので、そこんとこよろしく!!」



 でも、そんな間違いをするくらい、このサイズのミニミニミニバンは、スズキのソリオが、かなり有名になっていることはたしかです。



 スズキソリオは、簡単に言えば「軽自動車のワゴンRがでっかくなっちゃった、もの」だと思ってください。


  なので、初代はソリオじゃなくて、「ワゴンR+(プラス)」という名前でしたね。







 ということは、ソリオのライバルとして登場した「ルーミー・タンク・ダイハツ・ジャスティ」も、厳密に言えば




 ミニバンが小さくなったものではなく、ダイハツさんが作っている軽自動車がでっかくなったもの



と考えることができます。




 なので、たとえばホンダのフリードや、トヨタのシエンタのように



「ミニバンをコンパクトにしたもの」



とは、ちょっと考え方が違うと、覚えておきましょう。




 従って、後席がスライドドアなのは、上記のミニバンとも同じなのですが、たとえば、フリードやシエンタは、6人、7人乗りができますが、ソリオやルーミー・タンク・トール・ジャスティは



「あくまでも5人乗りサイズ・おまけにコンパクト」



を目指しています。




 このことがはっきりわかる証拠があります。


 新型ルーミーなど 全幅1670
 新型ソリオ     全幅1625

 新型フリード    全幅1695
 新型シエンタ    全幅1695



 ほら、車体の幅は、ルーミーやソリオのほうが、明らかに小さいんですね。






 このことは、当然、子育てママにとっては「コンパクトで取り回しがよい」 ことに繋がります。


 新型ルーミーなど 最小回転半径4.6~4.7m
 新型ソリオ     最小回転半径4.8m

 新型フリード    最小回転半径5.2m
 新型シエンタ    最小回転半径5.2m
 


ね!曲がりやすいのは圧倒的にルーミーやソリオでしょ?




 ところが、子育てママ目線で見ると、たしかに買い物やスーパーには行きやすいんですが、ひとつだけ



 ここだけはしっかり確認!



しておかなくてはいけないことがあるのです。




 それは、ご家庭のお子さんの人数!!!


 幅が小さいということは、言い換えれば、「後ろのイスも狭い」ということなのです。



 ルーミーやソリオは、5人乗りなので、後席は3人掛けであることは間違いないのだけれど、後席がどうかなーと見てみると。




 新型ルーミーなど 室内幅1480
 新型ソリオ     室内幅1420
 
 新型フリード    室内幅1455
 新型シエンタ    室内幅1470


ん??

んんん??

ソリオはたしかに狭いけど、

ルーミー頑張ってるじゃん!!!




ということで、ソリオは、ちょっと5人しっかり乗るにはしんどいけど、



新型ルーミー・タンク・トール・ジャスティは子育てママでも安心!!



ということがわかりました。 買いだぜ!

2017年7月11日火曜日

<吉家流儲かる起業塾17> ココナラの売上が10万円を超えました。 ココナラ売上を晒すコーナー



 みなさんこんにちは


 

 そういえば、全然売上を晒していませんでしたが、やっとこさ総売上が10万円を超えました。


 ちなみにココナラの表示は、「手数料引き後」の金額なので、いわゆる「総売上」というよりは、




「あなた、わたしに入ってくるお金の総額」




というほうが正しいかもしれません。




 さてさて、売上10万円に到達するスピードが、遅いのはご愛嬌として、 それでも、私のやっている商材は




「在庫不要!物品不要!手間最小!」



なので、まあ、純粋に10万円貰えたと思えば、ありがたいものです(^^



 個人的には、この商品の需要が、もう少し多くて、回転数ももう少し多いのではないか?と予想していたのですが、




「注文が来るときにはバタバタっと来るのに、止まると静かになる」



傾向があるので、 このあたりは頑張ってPRしていこうと思っています。






 でも、ココナラさんには、自分でPRしなくても、ネット上のバナー広告に「あなたのココナラ商材を勝手に流してあげるよ」機能がついているので、




※詳しくは 
<吉家流儲かる起業塾11> ココナラのバナー広告がすごい! 無料であなたをCMしてくれる方法 
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html 



を読んでね。





 CMがバチッと決まれば流入が増えるのかもしれません。(解析しろよ)





 というわけで、ボチボチですが、頑張ります~。

2017年6月29日木曜日

質屋アプリ「CASH」がどうなるかは知らん!しかし、CASHトラブルに起業家にとってのヒントがあった!




 みなさんこんにちは。


 質屋アプリ「CASH」がスタート初日でコケた(審査中止に追い込まれた)ニュースは、ネット界隈を騒然とさせていますが、





質屋アプリ「CASH」
https://cash.jp/




 キャッチフレーズは「目の前のアイテムが、一瞬でキャッシュに変わる」でしたが、実際には、「目の前の3億円が、一瞬でキャッシュで出て行く」事態だったようで、運営さんも大変ですね。




 さて、この質屋アプリ、しくみをおさらいしておくと



 ■ 自分の持っている現物を写真を撮って送り、審査を受ける。


 ■ 査定され金額がわかる。


 ■ 現金が振り込まれる。


 ■ 2ヶ月後にお金を手数料を乗せて返すか、品物を送って質流れにするか選ぶ。


 ■ 金融的な一回当たりの限界値は2万円。


 ■ 手数料は2ヶ月で15%



 という流れです。








 まあ、このしくみが、金融としてはグレーなんじゃないの?とか、悪用するやつが出てくるとか、そのあたりの悲喜こもごもは、みなさんの井戸端会議に任せるとして、



「この話には、ネット起業家にとっては、実に重大なアドバイスが含まれている!」


という点は、学んでもよかろうと思います。



 質屋アプリCASHさんが、初日にして総崩れになることは、体制の不備やら、想定の弱さやら、


「そもそも資本金が600万円で、社員4人で対応できるの?」


という部分も含めて、いろいろ話が出てきている最中です(苦笑)







 しかし、賢明なる読者諸君は、運営のBANKさんのことをいろいろ批評したり、悪く言っている場合ではなく、



「この大いなるネタから、大いなる教訓を得ようではないか!」



と感じ入ってほしいところです。



 そう!このCASHの失敗には、重要なポイントが隠れていたのです。




 その大事なポイントを指摘しておられるのは、現時点ではこの人しかいません。


 シェアーズカフェオンラインの中嶋よしふみさん。



 
質屋アプリ「CASH」が一日でサービスを停止した、たった一つの理由。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/nakajimayoshifumi/20170629-00072707/



 詳しく読みたい人は、彼の記事をよく読んでください。



 この記事でいわんとするところを簡単に言えば次のようなことになります。






「ウェブサービスを成功させる唯一にして絶対の方法は、コンピュータにやらせて自分は何もしないことだ!」




 おなじことをいろいろ言い換えてみましょう。



「ネットで起業する時、一番の成功の鍵は、自分がいかにして何もしないか、ということだ」




 ほかの言い方もできます。



「ネットやウェブで成功するには、自分自身は実際のモノを扱わないことだ」




  なんとなく見えてきましたね?!




 そう!今回CASH陣営がやらかしたのは、最終的な末端顧客との間で、



「モノを査定する」「金を送金する」「モノを送りつけられる」などの実際の作業を担当してしまったこと



にあるのです。



 ネットでウェブですから、顧客が増えたりサービス利用が増えると、「実際の作業が膨大に膨れ上がり」ます。


 アマゾンさんじゃないのですから、物理的な倉庫や、集配システムが追いつかなければ、


「実際の作業」


なんてものは、やらないにこしたことはありません。



 質草の受け取り作業に4人しか社員がいないなんてのは、もはやネットサービスでも、ウェブでもアプリでもなく、



 永遠なる人力作業



以外の何者でもありません。





==========





 アマゾンなどの国際巨大企業ならともかく、個人や少人数ではじめるベンチャー的スタートアップであれば、



「パソコンが勝手に作業をしてくれ、顧客が物を実際に触る作業をやってくれるならば、手数料が黙っていても入るんだけどな」


というしくみを構築するのが、最善だと言える訳です。


 そういう意味では、ヤフオクは自分では売り買いそのものや発送をせず、「そういう場を自動化して提供しているだけ」なので、収益を上げやすいことがわかりますね。


 あるいは、個人ベースでは、「電子書籍を作って売る」なんてのは、印刷製本流通を無視して、「ファイルをコピーして送るだけ」なので、手間がほとんどかかりません。

 



===========



 で、吉家孝太郎ならどうするか。


 質屋アプリを作りたいなら、


■ 写真を撮ってモノを査定

■ 金額が出るが、提携先の質屋や買取ショップへ持っていけばその金額が担保される。

■ あとは質屋でどうぞ。会社はバックマージン(手数料)を得る




とか


■ 写真を撮ってモノを査定

■ ヤフオクやメルカリで売れた最高値と、ハードオフの査定金額を瞬時に表示

■ ハードオフへ走るか、メルカリで売れ!

■ 毎月定額の使用料を取る。



とか、そんなのが考えられそうですね。