2017年12月7日木曜日
【学校をめぐる諸問題08】 子供たちからのSOSをどう受け止めるべきか
高校生の頭髪をめぐる議論に対して、いろんな感想を抱いている人がいます。
今日、ネットで上がっていたのは教育ジャーナリストを仕事にしておられるとある方の記事でした。
大変興味深いので紹介したいと思います。
高校生の頭髪をめぐる議論 ~過度な自己アピールはSOSかもしれない~
https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20171207-00079011/
詳しいことはリンク先を読んでください。私はこの方の意見に100%賛同し、そして彼の意見に100%賛同しないのですが、そのあたりの意味不明さはおいおい判明してくることでしょう(笑)
ちなみに、結論はともかく全体のテイストとしては「大事なポイント」を意外にしっかり押さえた記事なので、理解しやすいと思います。
いつものように骨子をまとめます。
■ 地毛指導や、黒髪に染めろという指導は人権侵害の要素がある。
■ 強制やおしつけの指導はナンセンスと感じる大人が多く、「効果がない」とする教育者もいる。
■ 一方、服装やルールの指導は、社会に出るうえでも必須であると考える人も多数いる。
まあ、このあたりまではわかりやすい話です。このまとめは、いろんなところでもよく出てきます。
さて、彼の記事で面白かったのは、この問題を「内発的変容」と「外圧的指導」の側面から見ようとしたところです。
つまり
A 自分の力で変わろう、正そうとする生徒が存在します
B 教師の強制力で変わらせようとする学校が存在します
という2つの視座を提案したところですね。たいへん興味深い。
そこで彼はひとつの例を提示して、
「進学校の生徒は、自由にさせてもむやみに茶髪にしたりせず、まあ節度を持っている」
という事実を立てて来ます。これも一般的によく知られている事実です。
そして、
「進学校でない生徒がわざと茶髪にしてくるのは、自己肯定感が低くて、押さえつけられていることへの反発やSOSを発しているからだ」
と、論を進めるわけです。
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最初の時点で、ワタクシ吉家は、このおおたさんの論を100%肯定すると言いました。
はい、そうです。
「子供たちはSOSを発しているから茶髪にしたり、服装を乱すのだ」
それは100%その通り。まさしくそうです。その昔、尾崎豊が自分で言っているように、大人たちに歯向かって盗んだバイクで走り出すんです。けしてもともと窃盗が好きなわけではない。そこよ。
そして、なおかつ、そうしたSOSを発し、問題を抱えている生徒が
「内発的、自発的な力によって自分を正すことができるのが理想的である」
とおおたさんは考えているようなので、それも100%激しく同意します。
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と、ここまではとりあえずOKとしましょう。
そのあと記事はこういう展開を迎えます。
「できうるならば、彼らのSOSに耳を傾け、現実的にはリソースが少ない学校でそれを実現するのは難しいけれど、学校の中くらいは理想を語り、こどもたちに寄り添うべきだ」
というお話になるわけです。
これはちなみに、
国家の運営がうまくいかず、SOSをたくさん発射して日本海に落としている某国家があったりするけど、理想は国家の運営がそれぞれの民族で自立的、内発的になされるべきなので、理想の国家像を先進国は語りつづけようね
と言っていることとほぼ一緒なので、 (先進国は、他国の経済的排他水域にモノを発射して落としたりはしないぐらい、自律的です) 私は100%賛同しかねるのですが、それはまた別のお話。
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この記事でいう理想論が実効的でないのは、仮に学校の中で理想論を立てて接したとしても、すでに子供たちの父親や母親が文化的にであったり経済的に「理想的生活を送れていないから、子供たちにもそうした影響が及んでいる」のに、何を持って理想とするのか、という点が抜け落ちているからです。
SOSを発している。それは100%その通り。
しかしそのSOSの元になっているトラブルの原因がなにかということを問えば、それは、実は学校の中の問題ではなく、生徒たちが置かれている社会状況と家庭状況の中に原因があるのに、その解決に関わることができない学校の教員が、何をもって理想を語ろうというのか!ということになるわけです。
「じゃあ、あんた、うちのお父さんがリストラされて貧しい今の状況を理想的にどう変えてくれんの」
「じゃあ、あんた、うちのおかんが男つくって出て行って姉妹二人で生活してるの、どう理想的な生活にしてくれんの」
ということに答えられない者が、理想を語ってはいけない、っちゅうことです。
学校の教師は、SOSの原因が自分についてのことであれば、なんぼでも対応できます。
しかし、現実に何が起きているかというと「教師が解決できない問題を生徒が抱えていて、それをSOSとして発している」事態が毎日毎分毎秒、日本中で起きているということなのです。
では、教師が生徒の家庭環境や貧困や、親の無理解や社会情勢などに解決策をもてないのだとすれば、何を提供することができるのでしょうか?
それは、そうした現実社会の中で、「それでもあなたに不利益がなるべく少ない方法を伝授して、自力で渡っていく技術」を伝達すること以外ありません。
それが
「他人はみかけで人を判断するから、適切な服装や態度を有することが、逆境のあなたでも大きな助けになるんだよ」
「どこの組織に属しても、挨拶をしっかりできる人間は重宝されるから、そうしたことを大事にしたほうが損をしないよ」
「ルールを逸脱するものは排除されることが多いので、ルールに従ったほうが結果的に生きやすいよ」
という、生きる技術を教えるということなのです。
けして「学校のいうことを聞け。俺の指導に従え」ではありません。
もちろん、上記の内容をきちんと伝達している教師もいれば、うまくそれが伝わっていない教師もいるでしょう。
そして、「そんな大人の世界がいやなら、選挙へいけ!」と教えるべきなのです。
「そんな大人を変えたいなら、『踊る大走査線』を見て室井さんになれ!」と!
そこであなたが茶髪にしていても、大人たちは変わりません。変えるなら、トップを取らねばならないのです。
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