2014年9月29日月曜日

自然の猛威 ~御嶽山と広島と福知山~ 随想

 仕事で遂行しなくてはいけない建築系のプロジェクトがあって、その現場が福知山近辺であるため、日曜日だったが空き時間を利用して下見に行って来た。

 実は、先日の福知山・丹波を襲った水害以来、近辺に行く機会がなかったので、8月18日前後以降、一か月以上経ってからの訪問であった。


 福知山に入る前に、丹波市市島町を経由して京都府側へ行こうとしたのだが、大きな国道の橋が落ちていて迂回を余儀なくされた。

 看板等を見ると、丹波市と福知山市の境界である峠も崩落しているらしい。



 丹波市側から既に、道路が一面茶色になっている。これはあの雨災害から既に一月以上経つのに、まだ道路に土砂の痕跡が堆積している、ということだ。

 また、日曜日の真昼間に関わらず、各家庭でまだ「後片付け」をしている人たちにたくさん遭遇した。

 まだ、片づけが済んでいない、ということに他ならない。



 福知山市に入り、地元の人と話すことがあったが、市内全域ものすごい状況になっていたそうで、だがしかし、


「それも、広島の災害の報で、全部すっとんでしまいました」


とのこと。福知山の被害はまだ終わっていないが、広島の土砂災害のほうに、全国の視点はいっせいに振り向けられることになり、こちらは忘れられてしまったようだ。


 福知山訪問の前日、TVからは御獄嶽山噴火のニュースがいっせいに報じられていた。その日も、朝から、御嶽山登山客の被害の話でもちきりだった。


 言い方は悪いが、これでまた「広島の被災者」たちのことも、忘れられてしまうのかもしれない。



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 今年の漢字一字を決めるとすれば「災」でよいのではないか。縁起が悪いかもしれないが、想定外といういいわけばかりしてきた我々には「戒めのことば」がむしろふさわしいかもしれないと思う。

 それほどまでに、今年は自然の猛威について考えさせられた。


 ふだん、建築や不動産に関わるブログをちらちらと書いているものからすれば、現代の私たちは科学技術の進歩に惑わされて、「自然のこと」にきちんと向き合うことを忘れているように思えてならない。


 家を建てる、家を買う。どこに住むか、どこで暮らすのか。それは原始時代から何も変わっていない。


 どの洞窟なら安全なのか。山や川とはどうつきあうべきか。生活の場と狩猟の場はどう異なるのか。


 いくら科学が発展しようが、人類が自然に勝てない以上、この基本ルールは全く変わっていないといってよいだろう。


 

 自然災害が起きて、しばらくのうちは「誰に責任があるのか」ということが話題になった。


 はじめのうちは、「避難警報の出し方、あり方」について気象庁の方法がああだ、とかこうだ、とかそういう話が出た。


 つぎに「自治体の姿勢」がどうなんだ、という話がでてきた。


 広島の土砂災害では、「ああいうところを造成するのはどうなんだ」という意見や「そういうところに開発許可を出すのはどうなんだ」という話が出てきた。


 そして、今回の御嶽山の噴火。兆候の微動は12分前に検出されただけで、あっという間に本噴火になったらしい。


 さあ、どうする?今回の被災は誰に責任があるのか。


 自治体か、山を管理する部署か。気象庁か。それとも自己責任なのか。



 今回、報道でもネットでも、誰も「それは登った人の自己責任だ」という論調で語っていない。なぜか。


 ようやく、我々は本能的に気付いたのだと思う。これは誰にも予想できず、誰にも責任を問えず、つまり、自然には逆らえない、ということを。



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 東北の震災のあと、地震予知学者たちが「さじを投げた」話は有名だ。(地震の予知は極めて困難である、と方針を変えた)


 結論から言えば、それはある意味正確だと思う。


 つまり、土地開発などの面でも、避難等の行政措置面でも、自然に対して「アンダーコントロール」な状態に置くことができる、ということそのものが、もともと間違っているということである。


 もともと、自然には勝てず、我々は全くの無能である、ということを再認識することこそが、実は重要なのではないか、と私も思う。



 山も川も海も、時として牙を向くことがある。それは宗教的な言い方をすれば神々の怒りのようなものであろうし、確率学的な言い方をすれば、1000年に一度の不運かもしれない。



 だが、すべての人がそれを当然だと思って暮らしていれば、もう少しは日頃から「生き延びることに執着した人生」を送る事ができるのではないか、とも思う。


「山の神が怒るようなところに住んではいけない」とか


「用もなく神々の地に立ち入ってはならない」とか


「川や海に畏敬の念を抱きながら暮らす」とか


そういうことだ。



 そうした感性が「原始的でカッコ悪い」と思うかもしれない。しかし、そうした感性をバカにして現代文明を謳歌した結果が、これだ。




 現代文明もくそもない。我々は原始時代から一貫して、自然に対して無能なままであったのに、そうじゃないと誤解してきただけに過ぎないのかもしれない。