2017年10月3日火曜日
教師に暴力を振るう生徒にどう対処するか ~こうすべき、ではなくどうするのが良いのかを模索する~
九州地方のHという(比較的偏差値の低いとされる)高校で、生徒による対教師暴力があった件は、twitterに動画がアップされたことで、一気に拡散し、また一気に解決をみたようです。
高校の具体名についてやら、行為を行った生徒の氏名などは、あまりこの際重要ではないので、目くじらを立てて取り上げるつもりはありません。
なぜなら
こうした行為は、どこの学校でも起こりうるし、これからも起こる
からです。
それとリンクして、本日興味深いニュースがあったのは、同じく対教師暴力を行った生徒を、被害者である教師が「常人逮捕(私人逮捕)」した、というものでした。
西日本新聞より
https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/363277/
犯罪行為に対して、逮捕権を誰もが持つわけですから、この行為そのものは「法の範囲内」にあります。
暴行事件が起きたことによって、その生徒を常人逮捕することには、法的には問題がないと言えるでしょう。
(ちなみに、検察が加害生徒を釈放したのは、逃亡の恐れがないからだと推測されます。通常、身元が判明し、自活しているわけではない高校生は、保護者の監督下にあるため、身柄を拘束せずともその後の処分は可能だ、ということでしょう)
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さて、今回twitterで問題になった暴行を行った生徒は、結局H高校を
自主退学
したようです。これもまた、現場サイドではよくある話です。
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さて、こうした一連の問題、つまり「生徒による教師への暴力」について、これこれこうすべきという議論は、時代や地域の実情や、個々の状況によっても変わってくるため、「これだ」という解決策はありません。
たとえば、今回取り上げた2事件について、
■ 加害生徒が自主退学したということは、今後大人から教育されない暴力男を野に放っただけだ
とか
■ 逃亡の恐れがない生徒を常人逮捕するのはいかがなものか、被害届けのほうが適切か
とか、さまざまな意見がありそうです。実際、最初に暴行を受けた教師が存在したことについても
■ 教師の指導力が不足していたのではないか
とか
■ 情けない、毅然と接するべきだ
といった論調も多く出てきました。
はたまた学校サイドの意見表明として、校長が観点のズレた謝罪をしたことで、 別の観点からも炎上してしまった場面もありました。
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実は、学校現場ではこうした「対教師暴力」は昔からよく起きていて、いわゆる「校内暴力」が流行した時代(1970~1985ぐらいまで)においては、こうした問題行動を起こす生徒に対して、
いかつい体育教師が、「ワレなめとったらぶっ殺すぞ」と言いながら竹刀を持ってしばき倒す
という対生徒暴力によって封じこめようとしたこともありました。
ここから管理教育という流れが生まれ、
■ 怖い先生に体罰される
■ スカートの長さを測られたり、持ち物検査をされたりする
■ 部活で汗を流して発散させる系スクールウォーズ部活が伸びる
という、現在の学校問題の根底に流れる文化が生まれます。
ヤンキーを熱血先生が部活で成果を与えて指導して、涙ながらにシバキ倒して抱き合う
という文化を礼拝する教師や保護者がいるのは、この時代の文化を受け継いでいるのですね。
あるいは、ケータイやスマホを朝の会で預かりますよ~とか、「茶髪検査しますよ~」とか、「ビゲンで染め直してこい」とか、そういう文化も、このあたりからスタートしています。
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ところが、こうした管理教育のスタイルは、1990年の遅刻指導における生徒の校門圧死事件において、大転換を迎えます。
遅刻しそうになった生徒に対して、教師が校門を締めたことで死んでしまう、という事件でしたから、学校サイドとしてはこれより後
「行き過ぎた指導は控えるべきだ」
と論調が変わります。体罰容認から体罰禁止へと全体の雰囲気や時代の流れが変わるターニングポイントもここです。
そうすると、 1990年代以降は、みなさん知ってのとおり
「先生は暴力を受けてもやり返してこない」
ということを生徒が知りはじめますので、徐々にですが再び学校が荒れはじめるわけです。
2000年代には「学級崩壊」という言葉が流行し、 ゆとり教育への反動で学校が勉学面での圧力を再び開始したここ最近はやや沈静化しましたが、近年は「教育困難校」なんて言葉も出てくるぐらい、現場は問題が山積しておりますね。
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こうした流れを理解していると、生徒の問題と学校が起こす問題は
シーソーゲームのようなバランスを生じている
ことがわかります。学校の管理を厳しくすると、教師側の暴力が問題となり、学校の管理を控えると、生徒側の暴力が増えるのです。
なぜか。理由は簡単。学校の内部でパワーゲームをやっているからです。
そういう意味では、今回の2つの事件は、とても興味深い事例になりそうです。その大きなポイントは
少年であるから最終的な処分は、少年にふさわしいものになるだろうが(つまり、大人よりは甘いだろうが、)
警察と検察が介入するということが当然となった
ということでしょう。つまり、暴力は学校内部の問題ではなくなったのです。
このことそのものは、歓迎すべきことだと言えるでしょう。子供の成長、教育は学校という限定された機関だけで行われるものではなく、社会全体でその任務を果たすものです。
そういう意味では、教師の暴力へも、生徒の暴力へも、それが明らかになれば「法治国家の下で、警察や検察が動く」ということは、良いことだと思われます。
ただ、現実問題としては、警察とて仕事が山積みなので、そこまで手を回したくないのが本音でしょう。
というわけで、その昔、私は
「鉄道警察・航空警察ならぬ、学校警察を置け」
という提言をして賞金を10万円もらったことがあるので、ぜひそれをやってほしいものです。
え?誰が学校警察官になるのかって?そりゃあ、もちろん体育の先生ですよ。竹刀から警棒に持ち替えていただくということで(←このへんから冗談です)
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冗談はさておき、個人的には、学校内部の機能をもう少し高めてから校外の警察等へつなげてゆきたいものだと思っています。
教師を蹴り飛ばしたU君は、蹴り飛ばした瞬間は、「教師より俺のほうが上だ」と優越感を持っていたことでしょう。
しかし、実際には、U君は優越感を持っているだけで、「力(実力)」を持っていません。
学校内において力を持っているのは、「懲戒権を持つ校長(とそれを具申する教師集団)」です。
学校の機能というのは、社会に出る前の未熟な若者に
「この世界には、力(実力)・権力を有する上位者が存在する」
ということを、支配的ではなく、丁寧に教えることがその根底にあることを忘れてはいけません。
リベラルな人は、こうした話をするとすぐ誤解して、「偉い者にひれふせということか」などと怒り狂うのですが、そうではなく、
「力を所有しているものとの関係性を適切に理解して、その距離感を学ぶ」
ということが社会に出るということだと教えるのが、学校の大事な仕事だと言っているわけです。
ちなみに学校という組織は大変に優しいところで、校内で受けたいかなる懲罰であれ、それを学外に持ち出したり、生徒のその後の人生に引きずらせたりはしません。
これはぜひ覚えておいてください。
簡単にいえば、学校内で怒られることや指導は、その後の人生ではチャラである。
ということです。学校という組織や教師という存在は、「おまえに烙印を押す」ということを極端に嫌います。
(ですから今回のU君も、自主退学を認めているのです。懲戒権を発動せずにすむということです)
だから本当は、生徒たるもの学校内で怒られまくってかまわないのです。担任に怒られ、生徒指導部長に怒られ、校長に怒られても実は卒業すればたいしたことはありません。
その悪行三昧は、どこにも記録されず、次へ引き継がれることはないからです。
だからこそ、学校の教師・組織としては、できるだけ内部で悪い生徒を
「叱り飛ばし、(手を出さずに)指導したおして欲しい」
と個人的には思います。そして、ゲームのように、悪行たるもの引き際を見極めなければ
「小ボスが出てきて、中ボスが出てきて、ラスボスが出てくるんだ」
ということを学んでほしいわけです。これは大人になるための勉強です。
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教師の中にも勘違いしているアホがいますが、「指導力のない教師だからあんな目に逢うんだ」と思っている人はたくさんいるでしょう。
しかし、それは違います。
上で書いたように、生徒が学ぶべきものは
「次々、強いボスが現れるんだ」
ということです。その場面にいる敵が強いか弱いかは、表面的なもので、本質ではありません。
心優しい女性の教師に対して、暴言を吐く生徒もいます。
おだやかな教師の言うことをわざと無視して力関係を試す生徒もいるでしょう。
しかし、その段階で一線を越えてしまうと、社会においては「次なるボスがおまえをしばく」ということが起きるわけです。
それを学ばせるのが学校ですから、教師同士で「俺はできる、あいつはできない」ということをマウントしている暇はありません。
組織で、チームで「人生というRPGを教える」のが教師の務めなのです。
じゃあ、指導力があるという教師の自負があるなら、中ボスの役割で生徒に当たればいいじゃないですか。
そして、大ボスやら、ラスボスと連携して、その生徒を鍛錬すればよいのです。
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