2018年9月24日月曜日

<実国学を考える 26-2> 田舎暮らしの本質とは何か



 前回の実国学シリーズでは「地方移住の実態」について「国学」の視点から解説しました。


 今回も、実質的にはその続きになります。「田舎暮らし」の本質について、かなり核心をついた部分を解説したいと思います。



 まずは、今度は「東洋経済」さんから、次の記事を事前にお読みくだされば、理解が進むと思います。



 夢の田舎暮らしにつきまとう「耳を疑う」現実
 https://toyokeizai.net/articles/-/238254



 国学的に地方を研究しているヨシイエからすれば「耳を疑う」どころか、しごくまっとうな話なのですが、ここで取り上げられている

『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(清泉亮著、東洋経済新報社)


の著者さんは、ある程度国学的な視点を、「身をもって発見」なさったようです。


 記事の概要を簡単にまとめると以下のようになります。


■ 日本はどこまでいってもムラ社会である。

■ 移住にはこれだけは守るべき、という鉄則がある。

■ 永住が比較的簡単に成功する者は、その土地の血縁者か出身者しかいない。

■ 新入りはもっとも下層として扱われる。


 移住におけるこれらの現実を知ると、都会生まれ都会育ちの人は、ひとことで言えば田舎に対しての幻想的な気持ちが



「萎える」



ことは、当然であろうと思います。あるいは、そうした実態を知って「戸惑いや不快感を覚える」という気持ちを持つ人もいることでしょう。



 しかし、もう一方で、前回の私の記事を読んで一定の理解をしてくださった方は、今回の現代ビジネスさんの記事を読んで「かなり似たことを言っている」ということに気づいてくださるのではないか?とも思います。


 そこで、今回は、 清泉亮さんの言葉を「国学的に補いながら」その事実をお伝えしようと思います。
 


 今回引用されている言葉、それは、


『 山間部であれ海沿いであれ、共通するのは、開拓の苦労である。
田舎はことごとく開拓、開墾の地である。どこまで行っても山岳地帯しかないこの日本列島に田園風景、畑が広がるのは、彼らが戦前から戦後も永く、開墾し続けてきたからである。
それは北海道への開拓移民や満蒙開拓団に並ぶ、それぞれの土地の者の血と汗の結果としての風景にほかならないのだ。
その歴史を直視せずして、素晴らしい風景、素晴らしい空気に水、などという表現は、それこそまず移住第一歩からして歴史を顧みぬ、風土と地元民に敬意を払わぬ、おちゃらけにしか映らない。』



というものでした。


 このことをもう少し厳密に説明すると、以下のようなことが背景にあるので、理解しておく必要があります。





1) 日本の農村の風景、里山の風景はすべて人工物である。

  農村の研究、あるいは植生と自然の研究をしている人たちの間では当然のことですが、日本における田園の風景、つまり、私たちが「自然豊かだなあ」と感じる景色は、すべて人工物です。

  江戸時代などに現在見える形に整備されてはいるものの、すべての里山の風景は人工的に整備され、特に最大限稲作に効率化された「システマティックに設計されたもの」なのです。山林は植林され、人間に必要なものが採れるように組み立てられています。

 逆に本当の自然に任せると、道、田畑、山林の境もまったくない「ジャングルのような植生」に埋もれてしまいます。

 たとえ人里離れた限界集落のように見えても、そこは少なくとも十数年前までは高度に整備された人工世界であったことを忘れてはいけません。
 
 ということはすなわち、「都市者が感動する風景や自然は、誰かが管理整備している」ということにほかなりません。田舎に住むということはその「管理整備の実務担当」の役割を、あなたが公的にも私的にも担う、ということなのです。

 美しい田園風景の享受者ではなく、提供者側の仕事を無償で求められる(日役)ということに他なりません。






2) 開拓の話は、戦前戦後どころではない。実は奈良時代の「墾田永年私財法」以降すべてのムラは開拓の歴史である。

 清泉亮さんのことばでは、戦前戦後という比較的イメージしやすい近年のことのように見えますが、実はこの営みは、制度的には「墾田永年私財法」によって「自分で開墾した土地は自分のものになる」というところからスタートしています。

 そのため、自力開墾による「領地」が生じ、日本中の荒地や沼地などが開拓されたことで、「江戸時代に向けて、農作物の栽培量が増えることで、それに釣り合う人口増が成し遂げられた」ということでもあります。

(逆に言えば、土地開墾が進んでいった平安時代~江戸時代までは、人口は微増です。日本の人口は江戸時代にいったん倍増し、明治維新まではまた微増で横ばいでした。人口爆発が起きたのは、コメ経済から貨幣経済(産業革命)へ変わった明治維新以降です。つまり、今ある農地は、その頃にはもう極限まで広がっていた、ということです)

参考>
http://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf




3) 田舎に存在するのは、基本的にはすべて「本家」であり「長男」であり、「祭祀の継承者」である。それ以外の人たちは外部に放り出されている。

 江戸時代の始まりによって「検地刀狩り」で、農村における「領地」は確定しました。そこから 享保時代ごろまでは、農作技術の発展やコメ以外の生産が伸びていわゆる「開拓の成果」が飽和するところまで成長します。

 しかし、そこから明治時代までは飽和状態で、それ以上の人口を養うことができていません。

 明治維新によって、北海道開拓、満蒙開拓が始まるのは「飽和した長男以外の子孫を外部に出す」ということが実態なのです。

(そして、また彼らは家を新たに起こして「領地を得る」ことを繰り返しました)



  ということは、逆にいえば、いわゆる「田舎」に現在も存在するのは、「長男の家系」です。ですから「先祖代々の墓」が継承され、先祖代々の田畑を所有しているのです。


 彼らから見れば、Iターン者、Uターン者は、いわば「領地の継承権を失った者の出戻り」に他なりません。「継承者が断絶しそうな場合は、継承権の復帰」が望まれますが、それ以外の場合には、もともと「継承権を与えることができず、望むと望まざるとに関わらず、追い出したものの子孫」であるということなのです。


 

4) 田舎の人たちは、経済的に困窮しているのではなく「自分たちのみの食い扶持はあり、それを永遠に継承できる」人たちである。


  現代は貨幣経済になっていますが、仮に人口と食料生産が釣り合った場合には、「田舎の本家の人たちのみの食い扶持があって、それ以外は飢え死にする」というバランスになっています。

 なので、もし戦争などが起きると、都市生活者は困窮し、飢えます。(それはアニメ映画の火垂るの墓を見ているとよくわかります。西宮や神戸の人たちが、田舎の人たちと比較してどうなったかを思い出してください)


 2)で引用した人口カーブをもう一度読み解き直してください。明治維新以降増えていったのは、農家の次男三男の家計で、彼らは北海道や満蒙へ出てゆき、戦後は都市へ「金の卵」として出てゆきました。

 それが元に戻るのですから、実は「絶滅するのは、田舎の人たち」ではありません。増えた次男三男の家系が、元に戻るだけです。

  それが証拠に、都市生活者の若者ほど、結婚や出産をしていません。農家の後継ぎは、現在でも積極的に結婚が維持されようとしているのです。




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 前回も口をすっぱくして主張したように、田舎に住むということは


「本領復帰、本領発揮」


以外ではありえません。単なる感傷的な田舎暮らしなんてものは存在せず、「領地をどのように得るか」という主体的な氏族の戦いなのです。


 しかし、戦国時代のようにそれを「主張」すれば、互いの領地や主義を争って殺しあう以外にはありません。


 現在の国内の平穏は「武器を秀吉や家康に奪われて、お上の元に『互いの和平を維持しあう』約束をしている」状態、というわけです。


 そのために、田舎では休戦協定ならぬ、互いの和がその中心になる、ということなのかもしれません。


 




 

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