2015年3月12日木曜日

<メモめも> 実国学に関する公開メモです。随時書き換えたり追加します。


□ 実国学という試論・試験的アプローチから現代日本を捉えなおすこころみ。

□ 実国学=現代国学 (旧「国学」→「民俗学(新国学)」→その先にあるもの)



□ 実国学では皇室をどのように捉えるのか。

 私の父方の本姓は藤原氏であり、母方の本姓は源氏です。ということは、いわゆる日本の歴史において、朝廷は本来の主君主家であり、また祖先でもある、そういう組織・システムだということになります。

 およそすべての国民は、旧来の先祖として天皇家と関わったり、旧来の主家として天皇家と関わってきた歴史の上にあります。

 その意味で、現代においては統治権や実権を失った朝廷皇室ではあるけれども、まさしく「象徴」として尊重し、ていねいに取り扱うべきものだということになります。

 象徴としての天皇制との整合はこれで取れています。また、血脈の上でも、現行の皇室の人たちもおなじ祖先から分かれ出ている子孫であり、現行の「源姓・平姓」を持つ人も、実はおなじ祖先から分かれ出ている子孫であると言えるわけです。

 実際には、すでに各姓氏家系は婚姻による融合が進んでいるため、近年に日本に帰化したり、海外から日本に来られている人たち以外の大多数は、皇室とおなじ祖霊を根底に有している、という可能性を持ちます。

 その意味で、皇室に対する親しみと崇敬、おなじ祖霊をもつものとしての国家観国民間の共有は、不可能ではないと考えます。




□ 実国学では、主権をどのように考えるか。

 現行憲法のもとでは主権は国民にあります。実国学では、歴史的過程を踏まえて、実は「墾田永年私財法」のスタートから、朝廷皇室のもっていた権限が、土地を介してその他の人民に移動したと考えます。

 つまり、主権のベースになる土地に対する主権・所有権は早い段階で朝廷の手を実は離れていたとするわけです。

 このことは後に、国人領主や戦国大名を生みました。

 しかし、重要なポイントは「実行支配権」にあります。

 土地に対する真の主権である「実行支配権」は常に、その土地に根ざした武将・豪族や庄屋・土地持ち百姓にありました。

 戦国大名や藩政大名は「徴税権」としての5公5民などの年貢徴収権は持っていましたが、土地の実行支配権はあくまでも、土地の持ち主にありました。

 その意味では、ベーシックな意味での主権は常に土地とともにあったと考えることができます。



□ 実国学では「土地をもつもの」と「土地をもたないもの」をどのように考えるのか。

 土地を持つということは、それがいつの時点からの本貫地であるかを別にして、わが国に対して主権を表明する大きなポイントだと考えます。

 戦国的な例で言えば、土地を所有しているものは、「大名」です。(名田を持っているから) 逆に、土地を持たないものは、常に「扶持米」で雇われている家臣です。

 実際に現代のサラリーマンの多くは家臣であり、土地をもち、それを使って利益を生み出している「いわゆる創業家社長」は大名に相当するわけです。

 現代では土地をあまり重視しておらず、その変形資産である「資本(おかね)」の観点でものごとを進めていますが、戦国目線でたとえるならば、それは「石高」に相当します。

 つまり、戦国時代からすでに、土地の価値は「石高という形でお金化」されていたというわけです。

 実際に、土地を持っている武将は、石高で知行(給料)を貰います。土地を持っていない武将は、特に近世になると明確ですが、扶持米というサラリー(給料)そのもので支払われるわけです。

 実国学では、土地を持たないものが持つようになることを重視します。そして持っているものは、その土地を生かしてそこから利益を生むことを考えねばならないとします。

 土地から利益を生む一番簡単な方法は農業です。

 そのため産業革命以前の日本では、土地は主に米を生む手段として用いられ、それが石高に反映され、米が流通通貨の役割を果たしました。

 しかし、現代では、利益を生む方法は多様化しており、産業化されています。よって、自分の土地をいかに使って利益を生むのかは、各人に課せられた大きな課題といえるでしょう。

 その問題を解決するには教育を受ける必要があります。学ぶ理由は、そこにあるのです。各人が領主大名としていかに自分の土地を経営してゆくかを、日本人は常に精進しなくてはならない、というわけです。


 土地を持たないという生き方もないわけではありません。戦国武将の中には、家臣として活躍した人はたくさんいます。本来の禄を捨てて、別の戦国大名のもとで家臣として過ごした人もたくさんいます。あるいは土地を持っている者よりも、その生き方で多くの禄を手にしている者もいるでしょう。

 しかし、彼らはそのままではけして領主ではない、ということだけは事実です。



□ 実国学では、軍隊をどのように捉えるのか


 すべての基盤は土地です。ですからその土地を侵略して奪おうとするものについては、主権を発動して戦うことがあってしかるべきだと考えます。

 国内においては、その手段は武力ではなく【法】であるべきですが、国内法が通用しない相手であえば、それが武力になる場合もあるでしょう。

 しかし、すべては土地に関するものですので、日本国の有する武力が海外で行使されることは誤りです。

 奇しくも「自衛隊」という軍隊の成り立ちそのものと合一しますが、自らの土地を守るための武力を持つことは、主権において当然だと考えます。



□ 実国学では国家国民をどのように捉えるのか。

 国家とは土地をもつ国民の融合体です。墾田永年私財法により、土地をめぐる主権はすでに土地の持ち主にありますので、その主権者が主権を行使し、国家の体制を形作るべきです。

 土地からは固定資産税という形で、主権の発動である金銭供託をしています。それをどのように全体で使うのかは、主権者たちの代議制合議で決めるものでかまいませんから、現行の政府を否定するものではありません。



□ 土地に対してウエイトを置きすぎているきらいがあるが。

 歴史的にみれば、土地からすべては発しているのですが、実際の経済社会においてはそれは金銭的な価値に変換されて取引されていることは承知しています。

 実際、江戸時代ですでに、現物としての石高は無視され、そこから変換された貨幣が経済では用いられていましたから、土地が金銭的価値に変換されて扱われることは自然なことだと言えます。


 しかし、金本位制における紙幣の本体が金そのものであったように、金銭的経済社会の皮をかぶっていても、実はわが国の基盤を形成しているのは土地であることを忘れてはいけません。




□ 土地に注目することのメリットは

 歴史的経緯において、主権の発動の真の姿が土地にあることを理解することで、現在では二束三文の無用の長物に成り下がった「地方・田舎」の土地にふたたび価値を与え、真の意味での地方創生と地方分権を実現させることが実国学のねらいです。

 貨幣化された社会では、肥大化した資本だけが注目されがちですが、その本体は実は歴史的にみなさんが勝ち取ってきた田舎の(地元の)(本家の)土地にあるんだということに気付いてもらうことで、土地を中心にしたあらたな枠組みを設定することになるわけです。



□ 実国学における宗教とは


 信教は自由です。しかし日本人の土着の信仰としての「親に対しての意識」「なくなった祖父母への念」などは存在します。その積み重ねが、神道的な祖霊崇拝です。

 祖霊崇拝の究極の目的は、助力によって「五穀豊穣・子孫繁栄」を願うという現世的な利益です。

 また、それは私たち自身の生きる目標でもあります。土地に豊かに何かが実り、利益を生んで、そして子供達が健やかに伸び広がってゆくということが日本人にとっての根源的な幸せであると考えます。

 そこにキリスト教的な創造神を据えたり、仏教のように死んだあとの来世を据えるのは自由ですが、わたしたちが生きているこのリアルな世界における幸せは、やはり飢えず、豊かであって子供達が広がること以外にないのではないでしょうか?


□ 土地をもとにした主権と人をもとにした主権の2つの相違は?

 現行憲法では、土地に根ざした主権は規定されておらず、あくまでも国民は「人」ベースで主権が設定されています。これは、戦後民主主義の根幹をなす「新しい主権」といってよいでしょう。

 それに対して「土地」を持つものに地租を設定し、土地の大きさで権力が変化するようなスタイルは中世的であり「古い主権」だといえます。

 現代の政府は、古い主権を認定していませんが、たとえば一票の格差の問題など、「人のみの主権」に依拠するがゆえに生じているひずみも実際にあるわけで、ここで土地にねざした主権という考え方を盛り込めば、
「鳥取県からは議員は出さなくてもいい」
みたいなゆがみは解消されることになるでしょう。

 多人数だから狭い都市に主権が集まるということは、弊害も生んでいるわけです。真の意味で地方創生をめざすのであれば、土地にも主権があるという考え方を頭の片隅に置くのもよいのではないでしょうか?








 






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