2018年6月15日金曜日
【資本主義をハックする 5】 格差はなぜ起きるのか ~マルクス理論とは異なるもうひとつの格差~
複雑に入り組んだ現代資本主義に鋭いメスを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に究明するオッスおら悟空!なこのブログももう5回目を迎え、いよいよ資本主義の問題点に切り込んで行きながら、
資本主義をハックして、なんとかものにする
備忘録でございます。
資本主義の一番の問題点とされているのは、かのマルクスのおっさんも指摘していた
「貧富の差が拡大する=格差が生まれる」
問題でした。マルクス的には、資本家には資本が蓄積され、搾取された労働者には資本が貯まらないので、格差はどんどん広がるんだ!ということを説き、そして、格差の広がりが許容できなくなった際には革命が起きるっぽいことを書いたわけです。
んがしかし、稀代の変態実国学者である、ヨシイエ孝太郎さんからすれば、
「たしかにマルクスの言う、資本家と労働者の格差も存在するかもしれないが、それとは異なるメカニズムの格差も生じているのではないか?」
と仮説を立てたいところです。
マルクスは「資本家は労働者から搾取して、労働力の再生産に必要なくらいの給料は払うけれど、それ以上のお金は払う必要がないので、資本家にはお金が貯まる一方だぜ!」という視点で話を進めました。
たしかにそういう面もあるでしょう。
しかし、それではジャック=マーや、孫正義さんと一般人の間の格差は説明できるけれど、
「正社員と派遣社員の間の格差」や、「都市戸籍を持つ中国人と、そうでない中国人の間の格差」
については、説明できないような気がするのです。
むしろ、庶貧民であるボクたち、ワタシたちは、「ビルゲイツと私達の間にある格差」については、たぶんどうでもよくて、「ティムクックを敵視しているわけではない」のですから。
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マルクス的思考では、「資本家は自分の利益を最大にするために、労働者から搾取する」ということを発見したのですが、それは確かに面白い視点です。
しかし、現実に起きているのは「資本家がより儲けるために、賃金を抑える」ことではありません。
そうではなくて、「より利益を縮小させるために、労働者の賃金を抑える」という一見すると矛盾した事態が起きているのです。
このことを理解するには、
かの巨大資本主義権化企業のアマゾンちゃんが、「ほとんど電子小売事業で利益を上げていない」
とか
あの、日本全国を支配する小売王であるイオンが「ほとんど利益を上げていない」
とか、枚挙にいとまがないほどの
「利益を上げていない資本家の姿」
をしっかり観察する必要があるでしょう。
マルクス的視点では、アマゾンやイオンはもはや一党独裁に近いのですから、労働者を搾取しながら莫大な利益を上げる必然性があります。
しかし、巨人たちはそうではなく、ツイッターですら高収益企業ではない、ということは何を意味するのでしょうか??
そこに見え隠れするのは、
「より安く、より利益を絞り込むために、労働賃金を下げる」
という手法があるのだ、ということです。
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企業間競争には2つのパターンがあります。ヨシイエさんはいちおう企業の管理職ですから、そうした事態をしっかり見極めながら、毎日汗水たらしてひいこら働いています。
ひとつは
A 「より付加価値をつけて、より高い金銭をゲットするための戦い」
で、もうひとつは
B 「より価格を下げて、より低い金銭をゲットするための戦い」
です。
新しい新製品の炭酸飲料を490ミリリットル150円で売るぜ!という戦いもあれば
PBブランドで38円のコーラを売るぜ!という戦いもあるということです。
さて、この2つの競争が生じるとき、
Aの選択をすることは、すなわち「資本家は最大のお金をゲットしようとしている」ということになるでしょう。
しかし、Bの選択をするときは、「コストや労働費用をギリギリまで抑えて、絞りかすだけでもいい」と考えていることになります。
このとき、よくよく考えてみると、Aのパターンで戦う際には「労働者から搾取する」必要がないのです。
なぜなら、高付加価値高単価商品を売りたい場合は、「どんどんじゃんじゃん作ってくれたほうが儲かるので、ちょっとぐらい労働者に還元したって痛くない」からです。
しかし、Bパターンだと、価格はギリギリまで下げられますから「絞れる部分は、もはや人件費しかない」ところまで行き着きます。
つまり、
【資本主義をハックする3 あなたの給料を2倍にする方法】
https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2018/06/blog-post_13.html
でも説明したように、価格はたった10%上げただけで給料は倍にできるのですから、価格はたった10%下げただけで、半分の給料しか払えなくなる、というカラクリが生まれるわけですね。
ということは、みなさん。よくよく考えると、今ボクたちワタシたちが巻き込まれているのは、実は
「資本家が儲けようとしてみなさんが苦しんでいる格差」
なのではなく、
「万人が足の引っ張り合いや値下げ合戦をしているから互いに苦しんでいる格差」
が起きているのではないか?
と気付くことができるのです。
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この格差が起きるメカニズムを知ると、私たちはこの資本主義の荒波を乗り越えるヒントを得ることができるでしょう。
これは一体何かというと、単純に言えば「パクリ」による単価の下げあいなんですわ。
たとえば、iphoneというイノベーション製品が登場したとして、当然初発の高付加価値商品ですから、最高価格で投入できるし、かつ、高利益が望めます。
(それを中国で作らせて利益を最大にしようとする魂胆は、マルクス的資本主義格差ですが、逆に言えばアメリカ国内で作っても利益はちゃんと出るわけです。高付加価値商品なので)
ところが、ある商品が登場するとかならずパクリが出てきます。どこの何かとは言いませんが、資本主義社会では必ず互換品が後から登場します。
しかし、このパクリ商品には、オリジナルを超える高付加価値はありませんから
「必ず、オリジナルよりも下の金額で投入されなくてはならない」
という宿命があります。
ということは、単純に考えてiphoneを作る人よりも、ガラクシーを作る人には、少ない給料しか払えないということが起きます。
あるいは、オッチョかトッポかわかりませんが、さらに互換な商品が作られる際には、それよりも少ない給料しか払えないことが起きるわけです。
(実際には販売数量などの複雑な事情が絡みますが、ここでは単純化しています)
なので、資本家と企業は「パクリ商品を数で売り、その間に自社でもなんとか高付加価値商品を開発したい」と願いながら、それを頑張るわけですが、実際にはなかなかそう上手くはいきません。
結果として、同様な商品が氾濫すればするほど「消費者から見るとどんどんモノが安くなるが、同時にどんどん自分の給与も安くなる」ということが起きるわけですね。
これが、マルクス資本論ではあまり想定されていなかったデフレ状態です。
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ここから学べることはいくつもあります。
ひとつは①「パクリ商品、同等商品の投入だけでは、利益は下がる一方であり、労働者の給与は抑えられる一方である」ということです。
そして、もうひとつ②「常にイノベーションする資本家のみが、高利益を維持することができる」ということでもあります。
それ以外の資本家は、ダメダメで下のほうで似たりよったりだということですね。
この②番目の理論をしっかり理解することで、新自由主義における資本主義のありようを説明できるでしょう。
つまり、アマゾンがなぜ巨人たるかは、「常にイノベーションを繰り返し、オリジナルだから」ということです。
アップルにもそういう側面があります。
アップルも、「常にイノベーションの先端を行っているから、iphoneXを10万円越えの高値で売り出せる」のです。
孫さんが「伊達に髪の毛より先を走っているわけではない」ことも、ここからわかります。
「先行者利益をむさぼり続ける回転こそが、21世紀の資本主義の姿であって、それ以外はあえて言おう、カスであると」
ということでしょう。
なので、カス企業では、値段の下げあいと労働者からのさらなる搾取という悲劇が起きてしまうのですね。
資本主義ハッキングの観点からは、ヨシイエさんはっきり言いますが
「低価格は、美徳でもなんでもない。カスだ」
と定義できます。
低価格というのは、「そうせざるを得ない、他に価値をつけられないゆえの言い訳と謝罪」のようなもので、低価格路線を歩むことは、いずれ死を意味すると考えます。
ヤ○ー○デンキっ♪
みたいに。
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そうなると、アメリカ型資本主義の成立と成長の姿を歴史的にみていくと
「アメリカでイノベーションが起き、日本がノックダウン生産でパクり、それが中国へ移り、これからはさらにどうなるかわからん」
というあたりも読み解けるのではないでしょうか。
とすれば、資本主義をハックするには、規模の大小はともかく
「何かイノベーディブな商材を創造せよ!」
ということなんだとわかります。それが僕たち私たちが生き延びる術です。
そうでなくては、私たちはいずれ「アジア人よりさらに低い賃金で働かなくてはならない」のは必然だからです。
(もう、そうなりはじめているけどね)
2018年5月10日木曜日
格差の本質 ~田舎から東大に入った阿部幸大氏論考への最終結論~
前回の記事
格差とは何か ~拝啓 阿部幸大さま~ 格差は地域が生むのか、それとも世代か。
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2018/04/blog-post_30.htmlは、はからずもたくさんの方に読んでいただいたようで、感想もいただき感謝しています。
さて、今回この「阿部幸大氏論考」について、北海道の大学の先生から、新たな考察が登場したのでそちらも紹介しておきます。
田舎から東大に入って絶望した彼に、北海道の単科大学教授が伝えたいこと
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55589
(現代ビジネス)
しかしまあ、そもそも阿部氏の記事を載せた現代ビジネスさんが、本人の弁解も他人の反論も載せてしまうあたりが
「盛り上がってきたので、いいぞ!どっちの側でもいいからもっとやれ!」
と焚き付けているようにも感じて、「現代ビジネス、おぬしも悪よのう」と思うのは、ヨシイエだけではありますまい(笑)
新たに記事を書かれた水野氏の結論が、意外にもワタクシ吉家の結論とまったくおなじだったので思わず苦笑したのですが、どうもこの話のオチはそこしかないようで。
吉家の結論
『阿部氏には、アメリカに居るのではなく、釧路へ戻って、次の世代を育ててほしいなあ、と思いますがいかがでしょうか。』
水野氏の結論
『阿部幸大氏は東大を経て現在はアメリカで学究に励まれているようであるが、「文化と教養の格差」克服のために、ぜひとも将来は釧路に戻られ、地域の若者に薫陶を授けていただきたいと思う。』
そだね~、それしかないよね~。
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さて、もはや結論は出てしまっているので、阿部幸大氏が今後釧路で活躍なさることを祈るばかりなのですが、せっかく水野氏が
「北海道論考」
をなさっているので、そのあたりにも触れておきましょう。
水野氏は大学教授なので、学生にもこの話題を問うたそうですが、 その学生さんの意見を引用させていただくと以下のようになっています。
「釧路と札幌・東京を比較すると、やはり教育格差や進学意識の差は確かに大きいです。私の場合には、親戚のなかに大学に通う従兄妹がいたこともあり、大学を含めた進学のイメージが描きやすい環境にありました。また、高校進学に向け学習塾に通っていたことも高校の先に大学という上級教育機関があると認識するきっかけになりました」
「阿部氏の主張通り、この機会を得るには家族の経済力や自分の子供に対する教育意識が影響していきます。もし生活が厳しい場合や身近に進学する知人がいなければ、より進学というものが疎遠になると思います」
これをよく読むとすぐわかるのですが、この意見は「都市か田舎か」の話ではありません。
大卒が近くにいるか、大卒が近くにいないか
の話だということです。
ということは、これは都市部でも「家族に大卒がいない」と「近しい人が大学進学を理解してくれない」ならば起こり得るということをまず確認しておきたいところですね。
だからこそ水野氏の結論も「人がそれを次の世代に繋いでゆくことが大切だ」となるわけです。
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さて、話は変わって水野先生の「北海道論」ですが、こちらは阿部氏のように誇張がない分、比較的おだやかで受け入れやすいものになっています。
しかし、そうは言っても水野先生の論にも抜け落ちている視点があるので、今回はそこらへんもヨシイエさんが補完しておこうと思います。
■ 北海道人は「開拓者精神」があるわけではなく、内向きであるという道民性
水野氏の論は、基本的には誤認を生むような書き方や、誇張はありません。その意味では、開拓者精神がないという点も、内向きであるという点も、ある程度北海道在住の人は納得できるものがあろうと思います。
その理由は簡単で、「そりゃ開拓したのは明治時代の人で、根付いてしまえば開拓しなくてもいいし、むしろ道内経済は縮小している」というぶっちゃけ話になるのですが、話はそんな単純でもないのです。
北海道は、物理的に海で他地域と離れているということもそうですが、それこそ明治時代から「開拓使」が置かれた時から「中央政府の管理下」に属した来た歴史が長いです。
なので、たとえば東北地方なら「山形城があってな、山形藩があってな」とか「伊達の殿様がいてな」とそれぞれの地方に中心となる地域や組織があったのですが、「道庁には中央からの役人が派遣され、道庁のその上はズバリ東京政府」という感覚が根強いのです。
これは今でもその傾向があって、私企業でも、「東京本社と札幌支店が繋がっている」という感覚になります。
これが関西だと「大阪本店があって、登記上の東京本社があって、各地に支店がある」みたいな会社とか、「うちの会社は全国に支店があるが、発祥は広島だ」とか、中央を中心とするピラミッドになっていないことが多いのです。
すると何が起きるかというと「中央から来た偉い人たち」と「現地で働く僕たち私たち」という二極化が生まれることになります。
この「僕たち私たち」が内向きになりますが、「中央から来た人たちとその末裔」は、外向き・ただし、青森や秋田はすっ飛ばしていきなり東京に向いています。
■ 就職先も地元志向で、都市との格差に気付くこともない
ほかの地方や地域、田舎とは異なる事情が北海道にはあります。たとえば広島の片田舎の子でも、1時間もあれば新幹線で大阪へ行けるし、静岡の子や長野の子でも、チャンスさえあれば東京でずにーらんどへ行くことは比較的たやすいことでしょう。
しかし、北海道の場合は、釧路から札幌まで特急で4時間かかります。道東根室から、新幹線に乗ろうと函館まで行くには、特急を乗り継いで8時間かかるわけです。
(そのため、よほどの鉄道マニアでなければ、鉄道利用で東京へ行こうと考える人は少ないと思います)
釧路のジャスコまで120キロ自動車でぶっとばさないと「都市へも行けない」ため、これはどうしても地元志向にならざるを得ません。
「日本人はどうしてアメリカで働きたがらないのだ!地元志向だ」と言っているのと同じというレベルなのですね。
一方で、先に説明した「中央からの派遣組」の官僚の子や、東京本店から支店へやってきた人たちの子たちは、
『飛行機使って東京へ帰りてええ!!!』
といつも思っています。なので、2分化されたこっちのジャンルの人たちは、常に東京に目線が向いているのです。
名作とされている「北の国から」のセカイですね。蛍と純は、北海道になんて来たくなかったのですから。
また、北海道大学を出れば、道内ではどの企業においてもトップのように扱われます。内向きの世界でいえば北大生は「鶏口なるとも牛後となるなかれ」という意味において、生活は安泰です。
なので、北大生もあえて外界へ飛び出さなくてもいい、という側面はあります。
■ 田舎において文化と教育の大切さを教えられるのは教員しかいない
北海道大学やに入学した高校生の出身地域は、既に半数以上が道外出身で、同じく北海道で教職につく人材の半数が道外からの採用です。
つまり、既に北海道の教育界や、道内において指導的立場にある組織群の人材は、「外からの文化的還流」をもたらしていると言ってよいでしょう。
実はこの件については、まだルポやネット記事で明らかになっていませんが、日本の別の地域のほうが教育的には問題がある「田舎」がたくさんあるのです。
それはたとえば「とある県では、とある県内の教育大学出身者ばかりで教職の採用を固め、他所出身からの採用を極力絞る」ということを現実にやっています。
(教職志望者は、そのあたりの事情はよく知っているはずで、既に分析も出ていると思います)
その意味では、北海道の教員たちは、すでに頑張っているし、もっと面白いことを言えば、
「たいていの県では、教育委員会や校長会の実権を握っているのはその県の教育大出身者の派閥である」
けれど、北海道だけは異なっていて、
「北海道の教育委員会や、校長会の実権を握っているのは東京学芸大や筑波大学の系統の派閥である」
ということは覚えておいて損はありません(笑)
なぜ、北大や北海道教育大系ではないのか、がこの疑問のツボです。先ほどお伝えしたとおり、北海道は常に中央の息がかかっていますから
「旧東京師範大」
の派閥が根強いのですね。これも北海道開拓使依頼の伝統かもしれません。
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となると、総合的な結論で言えば、阿部氏も水野氏も「あなたは大卒者の支援を受けて外界へ出られてよかったね」というお話になるわけで、田舎に文化がないとか、そういう問題ではないことが明らかになるわけで。
私は大卒者ですから、現在地方に住んでいても身の回りの子供たちや自分の子供に
「外へでて学んで来い!そして、また地方に根付いて頑張りなさい」
と言うことにしています。
ある意味素晴らしいことに大学卒の学歴を持つ人たちは同世代人口の50%に近くなっているわけですから、阿部氏がこれから論客として復活するには
「大学全入タダにしろ!地方から出てきた学生生活費も面倒みろ!」
を主張する路線がお勧めですね。それを釧路から訴えるというのがいいと思います。鈴木宗男さんにも支援をお願いしてみるとよいでしょう。
2018年4月30日月曜日
格差とは何か ~拝啓 阿部幸大さま~ 格差は地域が生むのか、それとも世代か。
教育についてちょっとだけ造詣が深いと思われる吉家さんが、ちまたで話題の「地方と都市の格差」について考えてみたので、そのお話を今日は書こうと思います。
元ネタ
底辺校出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353
(現代ビジネスより)
筆者の阿部幸大さんという方は、1987年生まれだそうで、私は彼と会ったり、直接お話したことはありませんが、彼が大学生になって東大へ行くまでの釧路では、もしかしたらすれ違っていたかもしれません。
なので、同時代をあの空間で過ごした者として、愛情をこめてこれを書いてみることにしました。
さて、上の記事は、賛同も批判も含めて数多くの反響を巻き起こしたようですが、その理由もよくわかります。
それは、
「本質論、本筋で言えば、阿部氏の言いたいことはわかる、賛同できる」
という方が多いのに対して、
「そのために用いた事例に、いろいろと誤認を起こさせる仕掛けがほどこしてあった」・・・なのでそこに問題がある
からだと言えるでしょう。
このお話ではそのあたりをきちんと整理したいと思います。
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その1 【 阿部氏が釧路を描写するに用いたしかけとは 】
阿部氏が描きたかったシナリオは、
「田舎では都市との情報格差があって、都市で入手できるはずのものや、そこへ進学しようというモチベーションがもともと生まれないという構造的問題があるんだ」
ということだったと思います。
この展開そのものは、私も都市と郡部での両方の生活を体験しているので、大枠では言いたいことはわかる気がします。
しかし、その理由がどこから生まれてくるかを説明するのに、釧路という地域の様子を誇大的に書いてしまったのは、やや問題だったのではないでしょうか。
そのまずいポイントを列挙すると以下のようになります。
■ 大学生を見たことがなかった。
→誇張だと思われる。釧路には公立大・北海道教育大釧路校・釧路短大があり、少なくとも高校生になれば知っていたはず。中学時代荒れている学校に在籍しておられたというので、それがどの校区かおおむね予想はつくが、中学時代は意識せずとも高校になれば絶対に理解していたと言ってよい。
■ 釧路には参考書が売っていなかった。
→これは誤りだと思われる。彼が高校生当時、すでに超大型書店の「コーチャンフォー釧路店」がオープンしており、道内最大級の書籍が販売されていた。むしろ、この店舗は当時から北海道最大の品揃えをしており、ここに参考書がないというのならば、札幌の高校生が北海道大学へ進学できないことになる。何しろ今でこそコーチャンフォーは、札幌や道外へ進出しているが、当時はこの店舗が最も道内で大きかったのであるから。
自転車で通えない地域に住んでおられたということは考えられるが、そうなるとこれは釧路が田舎だという論証にはまったくならないことになる。
■ 若者が集る場所といえば「ジャスコ」しか選択肢がなく
→ある意味正しいが、文脈としては誤認を誘導している。
当時の釧路にはイオンモール昭和(いわゆるジャスコ)と、ポスフールがあり、それぞれ大型施設として稼動していた。その他にもダイエー・生協などがかろうじて生き延びており、シダックスなどのカラオケ店もあった。
ここでいうジャスコは「ジャスコしかないんだぜ」という文脈ではなく、根室や十勝からも120キロかけて皆がやってくる「2時間かけても釧路のジャスコに行きたい!」という今でいう郊外型ショッピングモールのはしりとしてのジャスコであり、文脈上は、関東人にとっても
「週末はアウトレットモールまでいくぜ!」
という意味の場所に相当することを、わざと隠していると言えよう。
・・・とまあ、このあたりをつつきだすとキリがなく、そこを追求するのは本意ではないので、このくらいにしておきますが、少なくとも釧路は田舎ではないと思うわけです。少なくとも当時の釧路にはすでに全国展開しているチェーン店のほぼすべては揃っていたし、文化的にもけして見劣りのする場所ではありませんでした。
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しかし、その一方で、阿部氏が感じていた感覚的な「田舎」や世代間の「文化的素養」の問題については、同感できる箇所もたくさんあります。
今度はそのあたりを客観的にお話しましょう。
その2 【階層の問題と家庭環境の問題】
■ 北海道における学歴の意味
阿部氏が入学した北海道湖陵高校は、北海道の東半分ではトップ校です。北海道全体でも偏差値の高い高校として認識されており、おそらく阿部氏は中学時代は「神童」のように扱われ、その才能を埋もれさせるのはもったいないと中学校の教師たちは必死で湖陵高校へ送りこもうとしたはずです。
湖陵高校は、そうした「神童」たちが各地から集ってくる学校ですから、おのずとその先の大学進学についても”高校に入ってからは”意識せざるを得ない環境だったことでしょう。
とすれば、阿部氏が大学を意識せず育ったのはその家庭環境ゆえということのほうが、真の実態に近い事実だったのかもしれません。
大学を意識しなかったのが本当に「田舎」ゆえの理由だったのか、その検証を間違えば、最初からボタンのかけ違えが生じることになるでしょう。
■ 親の考え方という環境の違い
話はまったく変わり、わたしが現在住んでいる兵庫県の田舎での話です。ここには
A 子供には大学進学などをさせるべきだ
B 子供は義務教育まででも別に構わない(せめて高校まで)
という2種類の親の考え方があります。 社会階層に絡めてこの議論をすることもできそうですが、実際には
「地元に残っていてほしいので大学へ行ってしまうといなくなる」
という考え方もあれば
「外で学ぶことが大事である」
という考え方もあります。これらは真逆ですね。
驚いたのは、ある農家さんでは、この時勢に子供の学歴は「中卒まででもよい」という親もいるらしく、私の元同僚は本人こそ専門学校卒でしたが、弟さんは中卒で地元の工場勤務をなさっているそうです。
さて、ここで話を釧路に戻します。
私の知人は、阿部氏と1歳しか違わない若者で、かつ親御さんが中卒で釧路在住で地元の公務員をしています。
なので、阿部氏の親ごさんのイメージも、理解できます。そしてまた、その知人も「大学へ行くことなど想定もしていなかった」と言います。
それは、確実に「親世代の考え方」に由来していると言えるのではないでしょうか。
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とすると、阿部さんの問題提起から導き出されるのは「田舎には何が起きているか」ということの本質でしょう。
阿部さんは「田舎には情報がない、文化がない → だから大学へ行ったり文化的なものに対して損をしている」という側面でものを見ていますが、これは本当は文化の還流の問題で、
田舎には 都市生活を経て戻ってきて、その地域に文化を還流し、次の世代も大学へやる親がいない
ということかもしれません。
田舎の問題点は、文化がないことではなく
人材が一方通行である
ことなのだと思います。
だとすれば阿部氏には、アメリカに居るのではなく、釧路へ戻って、次の世代を育ててほしいなあ、と思いますがいかがでしょうか。
2015年3月2日月曜日
<実国学を考える 5> 格差はすでに再配分されていた!実は平等な国家「日本」
トマ・ピケティブームの昨今ですが、彼の説によれば
「親の代からの資産を持つものは、その資産によってお金が増えてゆくので有利」
ということでした。
また、
「資産によって得られる利益・利子は、頑張って働いて伸びた給与や稼ぎの資産より多い」
ということがわかったため、
「公平な世界を作るには、格差を縮小するために、資産の多いものから税金をとらねばならない」
という結論に至るようです。
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ところが、特に日本においては、ピケティ説が一概に正しいとはいえない=当てはまらないのではないか、ということが議論されるようになりました。
世界の傾向がそっくりそのまま、日本のこれからにピッタリ合うかどうかはわからない、ということです。
さてこの理由、いったいなんで日本は世界と事情が異なるのか、という点ですが、歴史を紐解いてみると面白いことが浮かびあがってきます。
簡単に結論から言えば、
「日本の場合、すでに格差は再配分されている」
ということがざっくりとした事実だったりするのです。まあ驚き。
もしかすると、戦後高度成長期に「一億総中流社会」なんてことが実現できたのも、「格差は既に再配分されていた」からかもしれないし、これからの時代においても、「ピケティ理論は、ちょっと日本では修正が必要」かもしれないわけです。
というわけで、今日は実国学の視点から
「再配分終了後の社会、ニッポン」
について考えてみたいと思います。
前回までは、日本という国の概念をざっくりと「国学」の歴史と共に説明してきましたが、ここからはいきなり実践編に入ります。
日本の国の伝統的あり方を頭の片隅に置きながら、現代の諸相を読み解いたり改革していこうという試み、それが「実国学」なのです!
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さて、ピケティのいうところの資産が経済発展よりも利益を生む、というデータを収集した期間というのは、ざっくり200年くらいだとされています。
つまり、
19世紀初頭から20世紀はじめにかけての時代
1900年代前期から1970年ごろまでの2度の戦争の時代
それから戦後の高度成長の時代
です。
この3つの時代は、以下のような特徴があります。
最初の時代は、9割以上もの資産が親子間で受け継がれ、持つものと持たないものの格差が非常に広がっていた。
次の時代は、不況と戦費調達のため、富裕層の富が大きく失われた期間であり、格差が縮小した。
最後の戦後時代は、富裕層がまた富みはじめ、中間層が消えて二極分化している。
特に、最後の時代は格差拡大の傾向であるため、このまま格差はいっそう広がるよ、という警告の書となっているわけですね。
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このピケティが分析した200年間を再検討すると、日本においてはこの時点ですでに多少のズレがあることがわかります。
たとえば、日本では、特権階級だった武士が「秩禄処分」により資産を失ったのは明治維新のせいです。
明治維新は1868年ですから、ざっくり150年前。150年前には、日本人は一度
「資産の再配分」
を経験していることになるわけです。
それから、戦後のGHQの介入で「農地改革」が行われたのは、1947年(S22年)です。
この時点で、土地持ち農家は解体させられており、小作人に土地が再分配されています。
また、この前年「預金封鎖」「新円切り替え」「財産税」という方法で、富裕層から現金を奪っていますので、金融資産面でも、不動産資産面でも、実質的な再配分が実行されていることがわかるわけです。
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ここまでの話で、日本の場合は、明治維新から太平洋戦争までの歴史の中で、ピケティ標準モデルよりも
「早い時期から格差の再配分がはじまっており、かつ、戦争に負けたために強制的に再配分は敢行されている」
ことがわかるはずです。
そのため、その後やってくる「高度成長」時代において、「国民全体のスタートラインが、その時点であまり差がなかった」ことにつながり、
一億総中流
時代への基礎となっていることがわかるのです。
実国学では、「日本の土地の在り方、ありよう」にかなり着目してものごとを考えますので、もっと深いことを言えば、
「室町時代末期の下克上風潮」
から戦国時代突入により、朝廷・幕府由来の資本格差は再配分されているし、その後天下統一と江戸幕府の隆盛によって、一旦富は固定化したかに見えたものの、その実態においては
「特権階級である武士が、領地を持ちながら実は実行支配せずに、土地を実行支配していたのは帰農した元武士領主である『庄屋・土地持ち百姓』層であるという二重構造」
があったため、権力の格差と資本の格差が連動しにくかった、面に着目しています。
(江戸時代の武士は、土地を所有しておらず、徴収権・徴税権だけを持っていた)
そういう面では、日本という国は、実は資産に関してはかなり何度も「再配分」「どんぶり返し」が行われていた、と見ることもできるわけです。
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さて、翻ってピケティ的に言うところの1970年代以降の、いわゆる「再び格差の時代」についてはどうでしょうか。
たしかに、正規社員と非正規社員の問題であったり、地方と都市の差であったり、様々な面で「格差」が取りざたされるようになっている感じがします。
しかし、一方でシャープ・松下・ソニーといった70~80年代型巨大企業にも再編の波が押し寄せ、旧財閥系企業も合併を繰り返してなんとか家名を保っている状況を見れば、格差の単なる拡大だけを叫ぶのは難しいかもしれません。
また、ユニクロなどに代表される、新興資産勢力も現れているわけで、意外と「回転率が上がっている」のかもしれません。
その根源的理由は、実ははっきりしていて、現代日本においては、「封建的土地制度としての資本・資産が機能していない」ことが挙げられると思います。
本来、広大な土地資産を持つものは、大きな金融資産をもつこととニアリーイコールでしたが、現代日本では、北海道に広大な土地を持つよりも、都心に小さな土地を持つことのほうが価値が高くなっています。
そうした、土地をめぐるアンビバレントな状況が、「資産と資本の継承」を再配分させている面はあるでしょう。
200年前であれば、田舎に広大な土地を持つものは、絶大な資本を次世代へ継承できたでしょうが、現代日本では、都心に小さな土地を持つものですら、相続税に苦しんで土地すら失うという状況です。
田舎の大土地は、売れない不良債権に成り下がっており、売れても二束三文です。
一方、都心のマンションにいくらでもお金を払う人がいますが、マンションの躯体がだめになる60年後にはそれらは資産から負債へと変化します。
つまり、現代の日本には「継承されるべき堅実な資産などない」という面白い状況が起きているのです。
160万人とも言われるニートを親が一方的支払いで食べさせていたり、夫婦でお金を稼いでいるリッチな人たちは子どもが1人いるかいないかだったり、とにかく
「資産継承面でも、この国は問題だらけ」
だということも忘れてはいけません。
「親の代からの資産を持つものは、その資産によってお金が増えてゆくので有利」
ということでした。
また、
「資産によって得られる利益・利子は、頑張って働いて伸びた給与や稼ぎの資産より多い」
ということがわかったため、
「公平な世界を作るには、格差を縮小するために、資産の多いものから税金をとらねばならない」
という結論に至るようです。
=========
ところが、特に日本においては、ピケティ説が一概に正しいとはいえない=当てはまらないのではないか、ということが議論されるようになりました。
世界の傾向がそっくりそのまま、日本のこれからにピッタリ合うかどうかはわからない、ということです。
さてこの理由、いったいなんで日本は世界と事情が異なるのか、という点ですが、歴史を紐解いてみると面白いことが浮かびあがってきます。
簡単に結論から言えば、
「日本の場合、すでに格差は再配分されている」
ということがざっくりとした事実だったりするのです。まあ驚き。
もしかすると、戦後高度成長期に「一億総中流社会」なんてことが実現できたのも、「格差は既に再配分されていた」からかもしれないし、これからの時代においても、「ピケティ理論は、ちょっと日本では修正が必要」かもしれないわけです。
というわけで、今日は実国学の視点から
「再配分終了後の社会、ニッポン」
について考えてみたいと思います。
前回までは、日本という国の概念をざっくりと「国学」の歴史と共に説明してきましたが、ここからはいきなり実践編に入ります。
日本の国の伝統的あり方を頭の片隅に置きながら、現代の諸相を読み解いたり改革していこうという試み、それが「実国学」なのです!
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さて、ピケティのいうところの資産が経済発展よりも利益を生む、というデータを収集した期間というのは、ざっくり200年くらいだとされています。
つまり、
19世紀初頭から20世紀はじめにかけての時代
1900年代前期から1970年ごろまでの2度の戦争の時代
それから戦後の高度成長の時代
です。
この3つの時代は、以下のような特徴があります。
最初の時代は、9割以上もの資産が親子間で受け継がれ、持つものと持たないものの格差が非常に広がっていた。
次の時代は、不況と戦費調達のため、富裕層の富が大きく失われた期間であり、格差が縮小した。
最後の戦後時代は、富裕層がまた富みはじめ、中間層が消えて二極分化している。
特に、最後の時代は格差拡大の傾向であるため、このまま格差はいっそう広がるよ、という警告の書となっているわけですね。
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このピケティが分析した200年間を再検討すると、日本においてはこの時点ですでに多少のズレがあることがわかります。
たとえば、日本では、特権階級だった武士が「秩禄処分」により資産を失ったのは明治維新のせいです。
明治維新は1868年ですから、ざっくり150年前。150年前には、日本人は一度
「資産の再配分」
を経験していることになるわけです。
それから、戦後のGHQの介入で「農地改革」が行われたのは、1947年(S22年)です。
この時点で、土地持ち農家は解体させられており、小作人に土地が再分配されています。
また、この前年「預金封鎖」「新円切り替え」「財産税」という方法で、富裕層から現金を奪っていますので、金融資産面でも、不動産資産面でも、実質的な再配分が実行されていることがわかるわけです。
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ここまでの話で、日本の場合は、明治維新から太平洋戦争までの歴史の中で、ピケティ標準モデルよりも
「早い時期から格差の再配分がはじまっており、かつ、戦争に負けたために強制的に再配分は敢行されている」
ことがわかるはずです。
そのため、その後やってくる「高度成長」時代において、「国民全体のスタートラインが、その時点であまり差がなかった」ことにつながり、
一億総中流
時代への基礎となっていることがわかるのです。
実国学では、「日本の土地の在り方、ありよう」にかなり着目してものごとを考えますので、もっと深いことを言えば、
「室町時代末期の下克上風潮」
から戦国時代突入により、朝廷・幕府由来の資本格差は再配分されているし、その後天下統一と江戸幕府の隆盛によって、一旦富は固定化したかに見えたものの、その実態においては
「特権階級である武士が、領地を持ちながら実は実行支配せずに、土地を実行支配していたのは帰農した元武士領主である『庄屋・土地持ち百姓』層であるという二重構造」
があったため、権力の格差と資本の格差が連動しにくかった、面に着目しています。
(江戸時代の武士は、土地を所有しておらず、徴収権・徴税権だけを持っていた)
そういう面では、日本という国は、実は資産に関してはかなり何度も「再配分」「どんぶり返し」が行われていた、と見ることもできるわけです。
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さて、翻ってピケティ的に言うところの1970年代以降の、いわゆる「再び格差の時代」についてはどうでしょうか。
たしかに、正規社員と非正規社員の問題であったり、地方と都市の差であったり、様々な面で「格差」が取りざたされるようになっている感じがします。
しかし、一方でシャープ・松下・ソニーといった70~80年代型巨大企業にも再編の波が押し寄せ、旧財閥系企業も合併を繰り返してなんとか家名を保っている状況を見れば、格差の単なる拡大だけを叫ぶのは難しいかもしれません。
また、ユニクロなどに代表される、新興資産勢力も現れているわけで、意外と「回転率が上がっている」のかもしれません。
その根源的理由は、実ははっきりしていて、現代日本においては、「封建的土地制度としての資本・資産が機能していない」ことが挙げられると思います。
本来、広大な土地資産を持つものは、大きな金融資産をもつこととニアリーイコールでしたが、現代日本では、北海道に広大な土地を持つよりも、都心に小さな土地を持つことのほうが価値が高くなっています。
そうした、土地をめぐるアンビバレントな状況が、「資産と資本の継承」を再配分させている面はあるでしょう。
200年前であれば、田舎に広大な土地を持つものは、絶大な資本を次世代へ継承できたでしょうが、現代日本では、都心に小さな土地を持つものですら、相続税に苦しんで土地すら失うという状況です。
田舎の大土地は、売れない不良債権に成り下がっており、売れても二束三文です。
一方、都心のマンションにいくらでもお金を払う人がいますが、マンションの躯体がだめになる60年後にはそれらは資産から負債へと変化します。
つまり、現代の日本には「継承されるべき堅実な資産などない」という面白い状況が起きているのです。
160万人とも言われるニートを親が一方的支払いで食べさせていたり、夫婦でお金を稼いでいるリッチな人たちは子どもが1人いるかいないかだったり、とにかく
「資産継承面でも、この国は問題だらけ」
だということも忘れてはいけません。
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