2014年12月20日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書31】 あとがきにかえて ~人生を見つめなおす方法~

 全5章、31節に渡る比較的長めの連載「高校生のための”人生”の教科書」を取り急ぎ書き終えて、ちょっと肩の荷が下りたような気持ちになっています。


(もしかしたら、随時多少の手直しを加えるかもしれません。ご了承ください)


 この教科書は、一見高校生向けという体裁を取りながら、実はすべての青年と壮年、あるいは老人に向けて書いている一種の寓話のようなものになっています。

 情報化社会と言いながら、あるいは成熟したはずの先進国だと思いながら、その実惑わされ、迷わされることの多い現代の日本社会を、私なりに一度きちんと見つめ直したい、ということを実験的にまとめてみたのがこのシリーズだったわけです。



 私はまだ40代ですが、ちょうど人生折り返し地点を迎えた中で、「自分の父親の人生はどうだったのだろう」とか、あるいは「自分は残された人生をどう生きるべきだろう」といった気持ちを抱くようになりました。

 そこで、そこから逆算して「高校生」のとき、人生のいろいろな要素を知っていたらどうしていただろうかという妄想も交えながら、このお話を書こうと考えたわけです。



 日本という国は、世界の中ではかなり稀有で恵まれた国であることは、みなさんもよくご存知のことと思います。しかし同時に、この国に対しての溢れんばかりの不安も渦巻いているわけで、そのギャップの中でも私たちは右往左往しているように思えます。

 
 その答え、この国のありようの答えと、ひいてはそこに生きる私たちの「生きることそのもの」のベースをどこに求めればよいのか、というのはずっと個人的にも謎でした。


 最終章で触れたように、宗教的感覚からそれを紐解くこともできるでしょうし、実際欧米の社会はそうなっており、また近年はイスラム教の存在感とともに、それが再度問い直されている実態もあると思います。


 しかし、日本人はさすがに宗教観からものごとを把握することは苦手なようです。地縁・血縁は薄れ、お葬式も挙げず、結婚もせず、子供も作らず何がしかの物質的幸せを求めて、それも手に入れないまま滅びてゆく、それがこれからの日本人だとすれば、これはたいへんなことに相違ありません。



 そうした「漠然とした不安感ともやもや」の中で、この話を書くヒントになったのは、実は「戦国時代を調べること」でした。


 私たちの苗字というのは、一般的には明治時代から名乗ることを許されましたが、実は戦国時代にその大半が成立しています。戦国時代は、それまでの朝廷の権威が崩壊し、おのおのが実力で下克上を成し遂げようとする大きなうねりでした。

 そこで、自ら他と区別する苗字を名乗って、武将たちは活動するようになったわけです。

 重要なポイントは苗字だけではありませんでした。戦国時代に、武将たちは「土地」を手に入れます。


 これまで朝廷のものだった「土地」あるいは、寺社の荘園のものだった「土地」が、戦国時代に「誰かが実力で手に入れ、そこを支配するようになる」ことが大きなポイントでした。


 江戸時代に、それらのすべての土地はまるで徳川家のものになったかのように思われていますが、実際には、戦国時代に土地を手に入れた武将は、その地に根ざして「帰農(農民に戻る)」し、庄屋や長百姓として明治維新まで支配します。


 その頃武士は、領地として土地を支配しているように見えましたが、実際には5公5民でも4公6民でもいいですが、「土地は土地持ち百姓のもので、そこから上がる米のうち一定比率が上納された」のが実態だったわけです。


 つまり、戦国時代に土地をゲットし、食料をゲットした一団は、明治維新までその土地を維持しつづけたわけで、もっと言えば、その土地は現代でも「農家」のもの、「実家のおじいちゃんのもの」といった形で存在していることに気付かされたわけです。


 そうです。私たちの「生き方」は実は戦国時代からずっと変わっていなかったり、その影響下にあることに気付いた時、ここ数十年の「戦後日本」の姿や「先進国日本」の姿をその根底から問い直せるのではないか、と考えるに至ったわけです。


 その一連の物語を、生活における「環境」「仕事」「結婚」「よりどころ」などのいくつかの側面から組み立て直したのがこの教科書なのでした。


 究極的には、私個人も戦国時代を生き延びた先祖のおかげで今ここにいると気付いた時、かなり人生観が変わったように思います。

 ちなみに、調査の結果、私の苗字は(もちろん本名の苗字ですが)、最も古い記録で延元元年(1336)ごろ、南北朝時代から始まっているということがわかり、自分の一族がそんな遥か昔から生き延びることを続けてきたのだと思うと愕然としたわけです。


 そうした観点から書いたこの教科書は、ある意味では「真の保守」主義にまみれているようにも感じます。しかし、私自身は、こうした考え方を「右傾化」しているとは全く思っていません。


 むしろ、日本人の中に漠然と漂う「農村的保守主義」のイメージの源泉がどこかを明らかにすることで、その影響からなかなか逃れられない中で「では、どう未来に対して生き延びてゆくのか」を問い直して欲しいと考えています。


 最初の章で「土地があるかないかで人生は大きく変わる」ということを示したのは、まさにそのあたりを考えてほしいからでした。


 最終章でも、ふたたび日本的感覚の源泉に触れましたが、逃れられない呪縛であるのなら、それを軸足にしてでも両足でしっかり立って欲しいという気持ちもあります。


 日本は島国ですから、究極的な意味での国境無きグローバル化に耐えうる一団かどうかは、まだまだ未知数です。そこで悶々として悩み苦しみ滅亡するくらいなら、あえて軸足をそこに置くのもまたよかろう、とも考えています。


 全体のテイストとして、「生きることはエサを食べることだ」という定義づけをしています。しかし、エサがこれからどこにあるのかについては、全く触れないようにしています。


 国内にエサが無くなってしまうかもしれません。では、どこへ行くのか?は、それこそ未来を生きる者たちが自力で考えなくてはいけないことです。


 そこではじめて、また「土地の呪縛」から卒業することが生じるかもしれません。


 教科書として、伝達すべきことはただ一点でした。それは「生きろ」ということに尽きます。そのための方法や正解は、世界中どこの教科書にも書いていないのです。


 どう生きるか、いかに生きるかは、最終的には人類の究極の課題なのですから。


0 件のコメント:

コメントを投稿