2014年12月17日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書28】 第六章 あなたという存在が輝くために

 長々と書いてきた「高校生のための人生の教科書」の最後の章として、これからの世界であなたが


 しっかり、生き生きと、輝きながら生きてゆく



ためのヒントをまとめてみようと思います。


 まず、そのために大事なことをお話しましょう。



「あなたは神を信じますか?」



・・・まるで宣教師に声を掛けられた時の「コント」みたいなセリフですが、実は大事なことなので、一度ゆっくり考えてみてください。


 あなたは、神様を信じているでしょうか?




 日本人はとても変わった宗教観を持っている人種です。


 年の初めには神社に初詣にいきます。日本の神道の神を信仰しているような気がしますね。

 結婚式は教会で挙げたいカップルが多いことでしょう。クリスマスも大好きです。きっとキリストのことを信じているのでしょうね。

 お葬式は仏教です。お経を上げてもらわないと、成仏できなさそうです。熱心な仏教徒なのでしょう。




 しかし、これらの行事を実際に体験しているみなさんは、「あなたは神様を信じていますか?」といえば、


「いえ、僕は私は神を信じていません」

とか

「無神論者です」

と多くの人が答えるのではないでしょうか。




 ところが、「あなたは落ちていた千円札をどうしますか?」と尋ねると、大半の人が「警察に届けます」と答えることでしょう。


 じゃあ、なぜ警察に届けるのですか?法律で決まっているから?つかまりたくないから?


 いいえ、ほとんどの人はそんな風には考えません。正しいことをしないと、


「何か、神様のような存在が見ているような気がするから」


と答えるのです。


 カンニングをしない理由も同じです。「カンニングがバレる確率と、実行して上がる正解率を分析した結果リスクが高いと判断する」人はたぶん皆無です。

 ほとんどの人は、


「そういうことをするのは良くない。そんなことをしたらバチが当たるかもしれない」


と考えるのです。バチを与えるのは、先生ではありませんよね?そう、


「何か神様のような存在が、私にバチを与えるかもしれない」


と思っているわけです。




 こうしたことから、日本人は極めて高い確率で「有神論者」であると言われることがあります。


 ただ、その信仰している”神様”というのがどこの誰なのかが「あまりにも漠然としている」わけです。


 エホバの神を信仰している。アラーの神を信仰している。アフラ・マズダ神を信仰している。アマテラスオオミカミを信仰している。釈迦を信仰している。


といった具体的な神ではなく、「どこか遠い天の上のほうにいるっぽい、なんかよくわからないけれど私たちを見ている神様」とか「どこか空の星のあたりで、私たちを見守っているご先祖さま(名前とかはよく知らないけれど)」が存在していて、その神のような存在に守られたり叱られたりしながら、生きているというわけです。



 さて、欧米の人たちは、キリスト教徒が多いので、生きていく時の基本的なルールや規範をキリスト教の教えに基づいて行動することが多いように思います。


 弱者には施しをしよう、とか家族や友だちを愛することを重視しよう、とかそういう行動原理が働いています。


 アラブの人たちはイスラム教徒が多く、イスラム教で決められた戒律に従って生きることを重視します。

 決められた時間には礼拝をしよう、とか、教えに反する食べ物は食べないようにしようなどですね。


 


 では、私たち日本人はどのように生きてゆくべきでしょうか?先ほど例を挙げて考えたような「天の上にいる神や、ご先祖様」が怒らないような行動規範を、実は常に心のどこかに置きながら行動していることがあります。


 嘘をつかない。困っている人は助ける。感謝の気持ちを表す。友だちと仲良くする。みんなで分け合う。などなど。


 こうした良い面をたくさんもっているので、概ね日本人は穏和で争いを好まない生活を営んでいるのですが、実際には生きているうちには様々な問題に突き当たるため、そのとき



「自分の心のよりどころや生きていくための指針」


に迷い、苦しむことになるわけです。


 

 では、諸外国の人は、困難に出会ったときはどのように考えるのでしょうか?


 たとえば、キリスト教の人は「ああ、あの人は最後の審判で地獄に落ちるんだ。かわいそうに」と思いながら自分を納得させたり、「これは神が私に試練を与えてるのだから、頑張って乗り越えよう」と考えて立ち向かったりします。


 イスラム教徒は、「異教の者たちは神によって滅ぼされるのだから、自分はそうならないようにもっと頑張ろう」と考えたり、「もっと神に信仰を誓って、よりよき成果を得たい」と考えることもあるかもしれません。


 仏教徒は、「悪人は輪廻転生して畜生に生まれ変わるので、残念だけれども仕方ない」とか、「これは自分にまつわる縁=因果なのだから、乗り越えなくては」とかそういう見方をするかもしれません。


 いずれにしても、明確な宗教観を持つということは、悩みや苦しみに対して「何か、理論づけられた解決法や受け止め方を身に着けている」ということでもあるわけです。


 これは「事実・真実がどうか」という問題ではありません。


 本当に地獄があるのか、とか、輪廻があるのかとか、異教だと滅ぼされるのかとか、どれが真実かが問題なのではなく、宗教があることによって、


「生きている上での問題に、立ち向かったり解決する軸足・ベースがある」


という良い面がうまれているということなのです。





 日本人は残念なことに、この意味での「軸足・ベース」がとても弱いため、現代を代表する病である「うつ病」や「自殺」などが蔓延することになってしまうのです。


 では、せっかく「日本人らしい宗教観(神の存在)」があるのに、問題や困難に立ち向かう軸足がないのはもったいないと思いませんか?


 そこで、次はその点に注目しながらお話を進めたいと思います。



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