2014年12月27日土曜日

資本主義の行き着く先は、「漠然と不安で、かつ、つまんねえ社会」である

大前研一さんが、日本経済の根本的な問題は、「低欲望社会にある」ということをおっしゃったそうで、


 http://www.news-postseven.com/archives/20141225_294042.html



ちょっと興味深かったので、一言書いてみる気になりました。

 大前さんの言うところの「低欲望」とは、まとめるとこういうことです。


① 個人は1600兆円の金融資産、企業は320兆円の内部留保を持っているのに、それを全く使おうとしない

② 貸出金利が1%を下回っても借りる人がいない。史上最低の1.56%の35年固定金利でも住宅ローンを申請する人が増えていない


 これは、今までに世界に例がなく、未だかつて経験したことのない「世界観」である、というわけです。


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 これとはまったく別の話で、今朝の関西では6チャンネルABCでちょこっと話に出ていたのですが、

 若者は選挙にいかず、かつ現状にあまり不満を持っていない。満足感が高い。


ということが取り上げられていました。


 この話は、すでに少し前から議論になっていて、橘玲さんのブログなんかがわかりやすいのですが、


http://www.tachibana-akira.com/2011/11/3431


 元ネタは社会学者・古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』あたりにあります。


 まとめると、橘さんと古市さんの視点では、


「現代の若者は、もうこれ以上幸せになれそうにないので、『まあ、こんなもんだ』と幸福度が上がっているのだ」


ということになります。


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 ところが、実際に現在の日本の若者がおかれている状況は、給料が低かったり、高い年金や社会保障が望めなかったり、家族を持つ希望がもてなかったり、と実は老人たちが生きた時代と比べても散々な状況です。それでいて満足感があるというのは、ちょっと不思議な気もするわけで。


 しかしながら、この二つの話は、たしかに「欲望がない」日本人の実態を明に暗に示しているようで、興味深いことは確かです。


 ということで、このことを今日は私なりに考えてみたいと思います。


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<1> 実は限界に達している『モノ』のイノベーション ~物欲の終焉~

 もうずいぶんと前から、私は現代社会の「モノ」のイノベーションは終わった、と感じています。産業革命以来、どんどんと新しい革新的なデバイスが登場しました。蒸気機関からモーター、エンジンの時代。馬車から自動車の時代、薪から石炭を経て、石油、太陽光などなど。

 モノは現代に向かって、驚きの進化を遂げてきたのに、ではこれから先、どこまで進化するのかと言われればかなりハテナが付くのです。

 極端な話、1970年代に、科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図と、2000年代に科学雑誌に載っていた未来の社会の想像図を比較してみたら、きっとまったくそこは進歩進化していないということに気付くでしょう。

 つまり、私たちはきっと未来永劫、「空飛ぶ自家用車」を持つことはなさそうだし、ドラえもんは、いつまでたってもできそうにないし、宇宙への旅は、いまだに月で止まったまま予算不足を迎えそうだし、・・・といった、「モノの進化の限界点」が近づいていることに気付きはじめているわけです。


 もう少し、身近なもので考えれば、音楽プレーヤは、カセットからCDになりMDを経てipodになったものの、「音楽を楽しむ」という体験はほとんど全く進歩しておらず、ただ器が今風になっただけで、できることが革新されているわけではありません。

 テレビなんかも良い例で、モノクロからカラーになり、せいぜいハイビジョンになれば、もうその後は、スーパーハイビジョンでもウルトラハイビジョンでも、4Kでも8Kでも16Kでも、「映像を楽しむ」という体験をそれ以上超えさせてくれないことに気付いてしまったのです。


 iphoneやipadが凄い!と思うのは一瞬です。ザウルスとpalmを知っている人からみれば、革新の速度が止まりつつあることは明白なのです。それが眼鏡になろうが、時計になろうが同じです。

 PC-9801を触り、ダイナブックを触り、リブレットを持っていた者からすれば、コンピュータのイノベーションなんて、先が見えていると言わざるを得ません。


 ・・・とすれば、いつの時代にどんなデバイスが登場しようが、「できること」というのがそれほど増えるわけではないということが真実だということになります。

 スマートフォンで時間をパズドラをして時間をつぶすのが今風だとしても、ゲームボーイを持ち歩いていた古代人と何が本質的に違うのか、と言われれば、はいその通り、何も変わっちゃいないのです。



<2> 経済大国の行く末、お金があるというのはどういうことだったのか。

 幸いなことに、日本は経済大国を体験し、総中流社会なるものを経験することができました。これは言い換えれば、「世界の中でお金持ちになる経験をした」ということです。


 初任給月収3万円だった私の父は、最後には40万とか50万になったという時代を経験したのです。


 高度経済成長と、バブルは、日本経済は上り調子でした。そしてその後、バブル崩壊と長期デフレがやってくるのですが、実はこの2つは正反対のように見えて、私たちにある一つの同じ体験をもたらしました。


 それは、「モノは、いつでもどこにでもあり、かつそれは買える」ということです。

 経済成長により、日本人はいろんなものを買えるようになりました。三種の神器と呼ばれた、冷蔵庫・洗濯機・テレビをはじめ、エアコンも車も買えるようになったのです。

 マイホームを手にした人もいれば賃貸の人もいるでしょうが、快適で風呂のついた住まいに住めるようになりました。


 これは、実は金額的な成長が止まったバブル崩壊~リーマンショック後も、実体験としてはそのまま続いたのです。


 質のよいユニクロの衣服が安く買えるということは、お金をたくさん保有しているのと実は同じです。PBブランドのコーラが30円で買えたりするのも同じです。120円のコーラが3本買えるお金を持っているのと「体験」の上ではまったく同じだからです。


 というわけで、派遣社員でもiphoneやスマホは持てるし、使うか使わないかは別にしても、アパートにエアコンくらいはついていたり、テレビはみんな持っていたりする、そういう「モノはすでにそこらへんにある」という状態が生み出されるようになりました。


 なので、レクサスを望むと高いけれど、ダイハツでよければ買えるじゃんという体験を日本人は重ねてゆくことになります。高かろうが安かろうが、タイヤは4つどちらもついていて、どちらでも移動できる、という意味で、体験はすべての人に平等に降り注ぐようになったわけです。


 だから「金の糸で織った服と綿の糸で織った服のどちらが欲しいですか?」と尋ねられたら、「どっちでもええわ。ていうか、綿でいいよ綿で」という時代が来たのです。レクサスは、別にいらないし、ダイハツでいいじゃん、ということです。(もっといえば、ソニーじゃなくても、中華TVでいいやとか、喫茶店へ行かなくてもローソン珈琲で十分とか、すべてがそうなっています)


 そして、ついでに言えば、”高価なものと安価なものがあり、そこにこだわらなければ「同じ体験ができる」社会”というのは、面白いことに先進国の特権ではなくなりつつあります。

 
 たとえば、スマートフォンでも、先進国向けと途上国向けにランクは変えているものの、「スマートフォントを使う体験」は同じように提供されつつあるのです。


 アフリカで未開社会のように見えるのに携帯は持ってるとか、貧しいけれど中古のランクルはそこらじゅうを走り回っているとか、そういうことは世界中で起きています。




<3> 資本主義の最後の姿、「つまんねえ」社会がやってくる。


 こうして、「新しい体験を得るような革新的デバイス」は限界に近づき、かつ「高い安いは別にして、同じような体験ができるモノ」が溢れている社会が資本主義経済の最終形態だとすれば、この世界はどうなるのか。それは簡単で単純明快です。


 ・・・つまんねえ社会


しかありません。ワクワクするようなデバイスはどんどん減り、どんな家電やハイテク機器をみても驚かなくなり、むしろそれが当たり前になり、逆に経済がピークから下降することで、少しずつ不便になってゆくことも多い社会は、つまんねえ以外に何があるでしょうか。


 電車の本数が減り、バスが無くなり、公共サービスは低下します。そういう意味では、「漠然とした不安」はさらに進行し、「未来はきっと、良くならないだろうなあ」という気持ちをベースにしながら、「ワクワクを失う」のは、ある意味悲しい社会の末路です。


 3丁目の夕日ではないですが「何もなかったけれど、未来に希望がありそうだった」日々は、すでに折り返してしまった、ということです。



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 この「つまんねえ」社会を実感することで、その先何が起こるのかはわかりません。ネットではウヨク的な言説も増えているようですが、

「やれー!いけー!そりゃー!」

といった帝国主義的戦争へも、行かなさそうな気もします。だって、めんどくせえから。


「オラも列強のように強くなりてえ」

というモチベーションで日本は富国強兵にいそしんだのですが、経済大国を経験してしまえばなんてことはありません。


(ちなみに、今猛烈に強くなりてえオーラを放っている国が近くにありますね。かつてのどこかのようです。)



 個人的には、アメリカの自動車メーカーのGMがなぜ潰れたのかにヒントがありそうです。GMは資本主義の権化のような会社ですが、そうして富を手に入れてゆくと、従業員の福利厚生にエネルギーを投入するようになり、まるで「社会主義」のような構図で社員が守られるようになっていったといいます。


 社会主義(共産主義)は、ごらんのように資本主義化し、資本主義は社会主義化するというのは、けっこう笑えます。


 日本は物が溢れ、誰でも通話が定額になったりする平等社会主義国家です(笑)


 その先は、滅亡くらいしかないのかもしれませんね。



 







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