2014年10月22日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書16】自由とは何か

 みなさんは、今の家庭や学校での生活を「息苦しい」と感じているでしょうか?それとも、「気楽でいい」と感じているでしょうか?


 古い話で恐縮ですが、私が中学生や高校生のころは、学校における制服の既定などがしっかり定められていて、いわゆる「校則」が厳しく運用されていました。

 もっと古い話をすれば、私が住んでいたとある地域では、「中学生男子は全員丸刈り」が強制されていて、私のひとつ年上の先輩までは、全員丸刈りでした。私の代から「長髪が解禁」された、なんてことがあったのです。


 他にも女の子であれば、スカートは膝頭から何センチの範囲に収まってなくてはいけない、とかそんなルールもありました。持ってよいカバンの種類まで決められていたように思います。


 そうした規則やルールを「厳しい・堅苦しい」と思うのは自然なことです。誰もが、そうしたがんじがらめのルールに対して「息苦しい」と思うことでしょう。



 自由とは何か。これは若者が人生で一度は考える悩みの一つです。学校だけでなく、家庭の中でや、親に対しても「自由が欲しい」と感じる場面がたくさんあることでしょう。




 というわけで、今回は「そもそも自由ってなんだ?」というお話です。


 歴史的な「自由の定義」はともかく、現代における自由とは、ひとことで言えば「自分の意思で何かを決定し、行動できること」とされています。


 ということは、あなたは自由ではありませんね(苦笑)。今日のお昼のお弁当は、お母さんの作ってくれたお弁当の中身に束縛されていますから、自由ではありません。今日の授業の時間割が決まっていますから自由ではありません。放課後には部活動が待っています。自由ではないのです。


 会社員である私は、会社にいかなくてはいけないので、自由ではないし、電気ガス水道代を払わなくてはいけないので、自由ではありません。


 現代社会に暮らしている以上、真の意味で自由な人がいるとしたら、「野山にあるものを勝手に食べたい時に採集して食べ、寝たいときに大地に寝て、誰がなんと言おうとそこらへんで用を足し、お金をまったく使用せずに暮らすことが出来る人」ということになります。


 もう、なんか、ホームレスとかそういうのを飛び越えて「野人」いや、もういっそ「野獣」な人だといわざるを得ません(笑)


 というわけで、私たちが普段考えている「自由」ということの大半は、ある部分だけを自分にとって都合よく考えた「自由」だということになります。


 人生を自由に生きたい、というのは、お金は支払わなくてはいけないけれど、できればたくさんお金を持っていることでそれを感じなくしたい、とか、今日のお昼ご飯は、自分で決めたい、とかそういうことです。


 お昼ごはんくらいは、かなり自由ですよ。お母さんが持たせてくれたお弁当を野山に投げ捨ててしまいましょう。「お弁当からの束縛から脱出」するのです。あなたの昼食のメニューは、なんと自由なことでしょう!


 盗んだバイクで走り出す必要もなく、「自由になれた気がした、15の昼」です。



 よく、一般的には「自由の権利を主張したい場合には義務を果たさなくてはならない」みたいな堅苦しいことを言う人がいますが、私はそんなしょーもないことは言いません。


 なんてったって自由なのですから、義務なんて果たしません。義務からも自由でありたいわけです。人は。


 だから、お弁当から自由になるために、もうお弁当は食べないのです。お金から自由なので、お金は持っていないのです。ただ、おなかをすかせた、自由な私がそこにたたずんでいます。お腹をすかせながら(笑)



 現実社会をよく見ると、「自由の権利と義務」がセットになっているというのは、ちょっとウソで、実は「自由と保護」が一体になっているということがわかってきます。


 お弁当が決まっているということは、お弁当が与えられているという保護があなたには与えられている、と考えてください。


 お弁当が自由だということは、お弁当をそもそも持たせてもらっていない、(ほっとかれている)ということだと、気付くのがポイントです。



 制服が決まっているということは、あなたには「制服が与えられている」ということです。着るものがまったくない貧しい状態ではない、ということがわかります。


 親によって進路が決められているということは、親がその道を選ぶことを保証してくれているということになります。「好きにすれば?どうでもいいし」と言われるより、よっぽど愛されています。


 自由ではない、ということの裏には「かならず保護」が隠れているのが、この世界です。


 
 もう少し、社会的な例を考えてみましょう。


 信号のルールが定まっておらず、自由に通行してよいとすれば、車にぶつかってはねられたら、「はねたヤツが悪い」か「はねられたヤツが悪い」かのどちらかに自然に決定されます。


 はねられたヤツがもし死んでしまったら、生きてる方がどう頑張っても勝ちですね。死に損です。


 これが自由な社会で、自由なゆえに誰もあなたを守ってくれません。


 ところが、信号というルールがあることで、(制限があることで)、信号無視したほうが悪いんだという決まりができ、それに従って結果が判定されるようになります。


 悪いほうが相手をしなせた場合は、刑罰という報いを受けることになります。自由だったら、刑罰もありません。だって自由なんだもの!イエイ!


 
 人は職業選択の自由も持っているし、居住の自由も持っています。なので、今日家に帰ったら、山田があなたの部屋に居座っていて、そこから動かない自由を発揮しているかもしれません。


 それはたいへん困ると思います。


 なので、国家は「住居侵入罪」という制限をわざわざ作って、山田がどこに住んでもいい自由をあえて制限しているのです。


 あなたは自由でないことの見返りに、安心して自分の部屋で過ごせるという保護を受けています。




 こうしたことから言えるのは、あなたが何か「保護して欲しい」「権利を守ってほしい」と思うことがあれば、多少「自由が制限される」ということと抱き合わせであることを納得しなければなりません。


 それを納得できない人は、この世界では排除されることになっています。だから、他人の部屋の真ん中で放尿する人は自由を制限されるし、他人の夕食を勝手に食べる人は自由を制限されるのです。




 もちろん、こういう例え話をしていると、「でも、他人に迷惑かけなきゃいいじゃん」と言う人がかならず出てきますね。


 「靴のかかとを踏んでいたり、シャツの裾が出ていたり、腰パンでもだれにも迷惑かけてないじゃん」


と主張する人がいるでしょう。なんてったって自由なんですから。


 というわけで、明日から、校長先生は黒塗りのベンツで学校に来て、毛皮のコートを身にまとったミニスカの保健の先生といちゃつきながら朝礼を行うことにします。自由だし。


 教科の先生は、東進ハイスクールの映像授業をテレビで流して、自分は静かに50分間黙っていることにします。


 生徒指導の先生は、タバコを販売してくれることになりました。


 音楽の先生は、XJapanのドラムを実演してくれます。毎時間。



 ・・・誰にも迷惑をかけていないかもしれませんが、どうもこれではマズイらしいことは想像がつきますね。


 そう、学校の先生がそれらをしないのは、みなさんの学力が一定程度になるように、国から指令を受けて「これこれ、こういう内容のことを授業でやりなさい」とか「こういうことは、してはいけない」と制限されることで、みなさんの学力を保護しているのです。


 皆さんを保護するという意味では、「シャツ出し腰パン禁止」も同じです。


「あそこの学校の子、やあねえ、あんな格好して」


と周囲の人たちから後ろゆびさされないように、保護されるためには必要なことのようです(笑)


 なので、どうしても腰パン・シャツ出し、茶髪にしたい人は、学校を辞めたら自由になれます。実際にそうして高校を中退する人は山ほどいます。仲間ですね。


 しかし、その時は自由になれたかもしれませんが、その後は自由であるかどうかはわかりません。なんといっても「高校生」という保護された環境からほったらかしにされるわけですから、もしかしたらかなり不自由な生活が待っているかもしれません。




 タバコを吸えるのは大人になってからですが、大人になったら犯罪時に名前を出されてしまいます。

 お酒を飲めるのは20歳になってからですが、20歳になったら少年法で守られません。


 ね?自由と保護は、ちょっと関係あるでしょう?




 この自由と保護のお話は、もっと本格的なことや重たい話がいろいろあるのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。より詳しいことが知りたい場合は「新自由主義」とか「規制緩和」といったことばをググってみてください。


 政治や経済の社会の中で「自由と保護」がどのように関わっているかの重たい事例がたくさん見つかると思います。


 


 
 



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