2014年10月20日月曜日

【高校生のための”人生”の教科書14】高校で何を学ぶか、大学で何を学ぶか

 前回は、勉強=学ぶことの基本的な意味についてお話しました。

 それはまず、


 「勉強というのは、最終的に楽をするためのものだ」


ということが第一段階で、


 「勉強で得た知識を、どう生かすか」


ということが第二段階であることを確認したと思います。




 この、一見あたりまえなことが、意外とうまくいかないのが多くの人の人生です。


 勉強がよく出来て、知識がしっかりあって、偏差値の高い大学を出ても、社会において


「つかえねえな、こいつ」


と思われてしまう人材は山ほどいます。それは、第一段階だけで、第二段階を見過ごしているからですね。


 逆に、学生時代の勉強はいまいちでも、人生を過ごすうちに「どうこの世界を生き延びてゆくか」に力を発揮する人たちもいます。その人たちは、学歴は遡ることはできませんが、その時々に応じて「新しい知識を自ら学ぶこと」で乗り越えてゆきます。

 (結局、勉強は続けているというわけです)


 ちなみに、知識というのは単なる物量なので、いくらでも後から増やせます。しかし、それを使いこなす能力は技量(テクニック)なので、得意な人と不得意な人がいます。


 そこが、ちょっとしたポイントだったりします。




 さて、みなさんはこれから、高校3年間、大学4年間でいろいろな知識を学習しますが、それらは全て第一段階ですから、何を勉強しようと実は「生かせるかどうかは」わかりません。


 たとえ司法試験に合格しても同じです。弁護士になれる資格があっても、「仕事がこない」人は山ほどいます。


 ここがポイントですが、


「発展途上国の場合は、知識を持っている人の数が少ないので、知識を持っているだけで重宝される」





「先進国になると、知識を持っている人の数はたくさんいるので、知識だけでなくそれを使う力が試される」


というわけです。



 みなさんのおじいちゃんの時代、そしてお父さんの時代までは、まだ「大学卒業者」が重宝されましたが、今は違います。知識を持っている人は、いくらでもいるのです。





 さて、ここからは少し見方を変えて、違う視点でお話しようと思います。ではなぜ、今でも私たちの周りでは「偏差値がどうの」とか「いい学校が」とか「いい会社が」といった話がまだ残っているのでしょうか?


 それは、学校というシステムがもっている、ある機能に社会が期待しているからです。その秘密をお話しようと思います。



 まず、いい学校とは何か。みなさんが思い浮かべる「いい学校・お勉強ができる学校」の名前を想像してみてください。その学校は、おそらく中学校からすごく勉強ができる生徒が通う学校で、最終的には東京大学に進学する生徒がたくさんいるような高校ももっているかもしれません。


 その学校の名前を仮に「難高」としましょう。良く似た名前の学校がありますが、気のせいです。


 「難高」はいい高校とされています。「難高」からは、東大進学者がたくさん出るくらい、優秀だとされていると仮定してください。


 ここで、ちょっと考えます。「難高」は授業内容が高度で、しっかり教えてくれるから、生徒は東大へいけるのでしょうか?それとも「もともと東大へいけるような生徒が集まる」のでしょうか?


 これは、実は誰も恐ろしくて実験したことがありませんが、答えは「後者」です。


 そう、「難高」から東大入学者がたくさん出るのは、「難高」が教える力がすごいのではなく、もともと入学する生徒の力がすごいからなのです。


 もし「難高」に大量のヤンキーが押し寄せてきたら、「難高」は大学どころか、高校卒業すらあやうい生徒の溜まり場となることでしょう。



(もちろん、能力の高い生徒が集まることで、より内容が高度な授業ができる、という面はあると思います。生徒の力と授業の力が掛け合わさって、より相乗効果を生んでいる面もありますが、ここではその点は考慮しません)




 さて、それでは「いい学校」というのは、そもそも「いい生徒が集まる」ことで「いい学校」になっているのだ、ということがわかりましたね。


 これは、学校には「選抜機能がある」と一般的に言われます。日本社会には、たくさんの「地域一番の学校、二番の学校、三番の学校」があり、中学や高校に進学する時点で、多くの生徒が振り分けられるようになっています。


 そして、次に大学入学時点で、さらに振り分けられるのです。



 この


「振り分け機能」


が、実は日本社会にとって、めっちゃ便利なのです。


 そう!とてもとても、ある人たちからすれば便利なので、やめられないのです。


 あなたが、どこかの会社の社長をしていて、優秀な社員を欲しいなあ、と思っているとき、5人の人間が現れたとしましょう。


 その5人の人間が、どれだけ知識を持っているか調べるには、5人に対して学力試験をしなくてはいけませんが、さてどれくらいの問題数とか、どれくらいの難易度で、誰が問題を作ればいいでしょうか?


 ・・・うーん、考えるだけでメンドくさい感じがしますね。実際に、その試験を作って、試験を実行するには、手間もかかります。採点もしなくてはいけません。


 しかし、Aくんは中卒、Bくんは高卒、Cくんは名もなき大学卒業、Dくんは東京大学、Eくんはハーバード大卒だとします。


 すると、別に学力試験をしなくても「ああ、Aくんは中学校レベルの知識、Bくんは高校レベルの知識、Cくんはふつうの大学レベルの知識・・・を持っているんだな」


とすぐに分別できます。


 こういう便利さを「ラベル」といいます。誰それが何々大学卒業であるということは、その人が、そこを卒業できるくらいの力があったんだな、とおでこに「ラベル」が貼られていて、すぐに分かるのと同じだというわけです。




 私たちの身の回りの商品には、「特上」とか「並」とか、「上選」とか「ピュアセレクト」とか「純生」とか、いろいろなラベルが貼られた商品があって、「どノーマルな普通の商品とは違いますよ~」ということをPRしています。


 学歴もそれとおなじで、「何か、普通より上っぽいラベル」が貼られていたほうが、より買ってもらいやすくなります。


 しかし、逆の言い方をすれば


「新米・農家が選んだ特選ほしのゆめ」




「ふつうのコシヒカリ」


とどちらがおいしいかは、食べる人の好みですよね?


 「やっぱりコシヒカリがいいわ~」という人もいるし「さすが新米」という人もいます。なので、どの大学を出た人物が、どれだけ「使えるか=おいしいか」は食べてみないとわからなかったりもするわけです。


 ただ、だからといって「なんのラベルも貼っていない、わけのわからないお米」を指名してくれる人は、あまりいません。なので、そういうお米は


「金額を安くしないと売れない」


わけです。


 だから、学歴がない人は実力があるかもしれないけれど、安い給料でスタートせざるを得ないのです。




 高校・大学で何を学ぶかは、あなたの好きにしたらいいことです。しかし、その結果、あなたのおでこにどんなラベルが貼られるのかを知っておくことは、悪いことではありません。






 

 




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