2019年3月27日水曜日

■【資本主義をハックする 20】 なぜ、学歴や学力がある人が経営してもうまくいかないのか



 もうすぐ70歳近くになろうかといううちのおかんがよく呟いていることばに、たとえば政治であったり、あるいは国際問題であったり、またあるいは何かの経営活動などに対して、


「どうして賢い人たちがいっぱいいるのに、うまくいかないのかねえ」


というものがあります。


 政治経済のニュースを見ながら、それぞれ「賢い人たち=えらい学者さんや、えらい指導的立場野人たち」がいちおう一生懸命やっているのにも関わらず、どうしてこの世はうまくいかないことが多いのか、という素朴な疑問ですが、たしかに言いえて妙なセリフだと言えるでしょう。



 別に取り立てて、「お上とは、自然に偉いもので、かつ賢いものだ」なんていうつもりは毛頭ないけれど、東大やら京大やらを出た企業人や、官僚、あるいはそれには劣るかもしれないけれど、とりあえず、わが国の大学教育を受けた人たちがたくさん政治家になっていて、それでもこの状態なわけですから、



「学力とはなんだ?!」



という疑問を抱いても、それもまたおかしいことではありません。



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 某家具屋さんの経営がうまくいかないと、ここ数年来ずっと話題になっていますが、「父と娘の確執とか」「娘が社長を下りればいい」とか、井戸端会議レベルの評論はたくさん出てきますが、いざこの娘さんの経歴を見てみると、なかなかどうして賢い人であることがわかります。


 彼女は、「一橋大学経済学部を出て、筑波大学の法科大学院も出ている」才女です。


 実業の世界へ飛び込むまでは、研究者になろうと思っていたくらいの人ですから、お勉強はとてもできるのだと思います。



 ここで、またまた事前につっこみを入れておきますが、「しょせんお勉強はできても、経営はできなかったんじゃない?」なんて、井戸端会議レベルの感想を言うのは、すこし脇へ置いておきましょう。



 一橋大学を出ていないものが、やっかみでそうした発言をするのは、”ビールのアテ”レベルでは別にかまいませんが、もしまともにそれを議論すると


「一橋大学へ入れる学力も、一橋大学の教育も、筑波大学院の教育も、実業にはなんの役にも立たない」


のが真実であれば、わが国の教育制度そのものが崩壊するし、また、一から教育を見直さなくてはならないという大変な事態であることを認めることになるわけです。これは非常にまずいことといわざるを得ません。




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 こうしたことから、この世界において、とくにこの資本主義社会の経済で、成功したり、順調に経営を進めてゆくには、


「いわゆる学力と、経営力の間に、なにがしかの違いがあるのではないか?」


ということに気づく必要があるということだと思います。もちろん、それは学力と政治力の間、と言い換えてもよいかもしれません。


 そして、もしここをうまく読み解くことができるのであれば、この資本主義を渡ってゆく「資本主義ハック」にうまく活用できるのではないか?と推測を立てることもできるわけです。




 さて、結論から言えば、「学力と経営力の間に隠れているもの」というのは、それほど難しい話ではありません。


 よく一般的に



「頭で考えるのと、実際にやってみるのとでは違うわなあ」



なんていいますが、高学歴の人が実務に携わってうまくいかないのは、まさにこれで、



「学問上起こっていることと、現実に起こっていることの間には、大きな乖離がある」



ということが一つの結論の核だと思います。



 このことは、学問をまじめにやっている人から見れば、至極当然の話で、学問というのは



◆ 再現性があること


◆ 一般化できること


でなければ学問になりえません。


 つまり、簡単に言えば、あまたの事象の中から、法則性を見出すことが、そもそもの学問だ、というわけですから、現実社会がカオスな様相を呈しているのであれば、そもそも学問でそれらの事態は補足できないというわけです。




 ですから、学歴があり、学力があるということは



「確実性のあることについて、その内容を理解し、対応できる力がある」



ということになるのですね。



 それに対して、現実社会というのは



「不確実性の中で、その対応を考えなくてはならない」



ということなので、 だからこそ「学力があっても、その結果にコミットできない」ということが起こりうるわけです。




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 すなわち、家具屋の娘さんが、確実性の高い学問の世界で優秀でありながら、不確実なこの現実社会の中で、もがいてしまうということは、充分起こりうるわけです。


 そして、娘さんは、おそらく「こうしたらいいのではないか?」という法則的施策をつぎつぎに考え出しては実行するのだけれど、いくら「確実だと推定できる作戦」をたくさん繰り出しても、実際には


「この世の不確実性のもとに、惨敗する」


ということが起きているわけですね。


 これは家具屋さんに限らず、政治でも経済でも、経営でも、いたるところで起きています。



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 そうすると、いわゆる「不確実性」とは、「サイコロバクチ」のように、私たちには見えますから、



「学歴なんか無関係で、わしは一発当てたんじゃ!」



というやんちゃな兄ちゃんやおっさんが、企業家として成功してしまう場面にも遭遇することになります。


 これもまた、この世界ではよく見られる場面です。



 となると、これで上手くいった人たちに言わせると、今度は、



「経営なんて学校のお勉強は無関係なんじゃ!」


ということになりますが、実はそれもまた正確には「正しいとはいえない」のです。





 不確実性というのは、表面的に見ると、「偶然・偶発・ランダムな事象」のように見えます。


 もし本当に偶発的なことの集りなのであれば、この世はバクチと同じなので、一生懸命努力をしたり、学校で勉強したり、何かを我慢したりせず、とにかく好き勝手やってみて


「当たるのを待つ」


ことが正しい戦略になります。


 しかし、当人が好き勝手やっていて、たとえばお笑いの賞レースで偶発的に優勝することが少ないように、実際には


「一見偶発的、偶然的に見える事象でも、それなりに裏ではある程度なんらかの整理された事情が隠れている」


と考えるほうが妥当です。お笑いの芸が偶然100%ではなく、それぞれバラバラに見えるものの、なんらかの下積み努力が底を支えているのと同じです。



 同様に、料理屋をはじめるのもバクチ、就職するのもバクチ、仕事というものはバクチ、であれば、この世界はきっとすぐに破綻することでしょう。ということは



「一見バクチに見えるけれど、実はそうではない」


のがこの世界だということです。




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 より正確に話すのであれば、学問や学力は「確実性」の世界だというならば、この世界で起きているのは

「不確実性」

というよりは

「複雑性」

といったほうが正しいでしょう。けしてバクチで動いているのではなく、



「その法則性を見出せるほど単純ではないか、あるいはいくつもの法則性が複雑に絡み合っていて、結果としてランダムのように見える状況」


なのが、正確だと言うわけです。



 この複雑性を読み解き、ある程度まとまった回答を出すのは、実は賢い人たちでもかなり難しい作業です。ですから、賢い人たちでも、この世界を取り回すのはうまくいきません。



 たとえば天気ひとつを取ってみても、大気はかなり複雑な動きをして、スーパーコンピュータをぶん回しても、「これぞ!」という正解にはたどりつきません。


 なんとなく、大まかには当たるけれど、それでも正確性は70%程度なのかな?といった状態なわけです。


 政治や経営とは、これに近い分野で、人々の移り気や市場の需要、あるいは供給の数値、海外でのブームや傾向、ニュースや関心事によって、


「民意や売れるものの傾向は複雑系として移行する」


と言ってよいでしょう。 これを読み解いて、対応するには、賢い人たちが数百人集ってぶっ倒れるまで考え抜かねばならないわけですね。



 まあ、実際にはそれができないから、誰もうまくいかないわけです。


(実際には、仮に超頭脳な人たちが集っても、声がでかいやつとか偉そうなやつに言いくるめられたりするので、あまり当てにはなりません)




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 そうすると、僕たち私たちのようなあまり賢くない庶民が、いくら「こうだろうああだろう」と考えても、そもそもダメなわけですが、かといって、自分の仕事や日々のくらしを


「今日もサイコロ振ってきめちゃお!あ、×が出たから今日は営業行ってもムダー!」


というふうにバクチにゆだねるわけにも行かないので、 せめてできることがないか考えるわけです。



となると、もう一度、原点に立ち戻って、


◆ 確実性の世界で高みを目指すことが学力である。


→ しかし、わたしは一橋大や筑波を出ていないので、アホである。



と、まずは「確実性の分野で、戦おうとはしない」ことを心がけることができます。



そして、



◆ この世は、不確実ではあるが、ランダムではない。



→ したがって、バクチのような生き方はやめよう


という心がけもできます。




 そして、いよいよまとめに入っていきますが、


◆ この世は、複雑系なのだから、答えはわからないし、アバウトに作用する。



→ ひとつの考え方に固執せず、何をやるにも、「ええ加減、(よいころあい)」ぐらいでいい




◆ しかし、偶発事象ではないので、なんらかの方向性ぐらいはある。



→ アンテナを張って、それがよさそうだとなんとなく思ったらやってみる(でも固執しない)




という考え方が大事で、できるならこのサイクルをころころスピード感を持ってやることが大事だとわかるのです。



そうすると「頭で考えるのと実際にやるのは違うけれど、すぐ修正してゆく」ことも可能になってきます。




 この生き方、外部からみると


「すごくふわふわしていて、変わり身も早い」


とか


「けっこうその都度場当たり的で、いいかげん」


に見えるというマイナスもありますが、でも、それでいいのかもしれません。



 少なくとも、バクチ打ちよりマシで、かつ「凝り固まった秀才」よりも結果を出すことは間違いないでしょう。





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