2019年3月2日土曜日
■ゆとり教育とは何だったか。 その本質をズバリ伝えよう。
興味深い論考が上がっていたので、それについてかなりブッコんだツッコみを入れてみたい。
「ゆとり教育とは何だったのか ~不毛な論争と偏見を語る」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60044
(現代ビジネス)
詳細は元ネタをご参照いただきたいが、文部官僚だった「寺脇研」氏と医師の「和田秀樹」氏らの論説を中心に、
ゆとり教育とはなんだったのか
を振り返る話である。
この「ゆとり教育」については、多くの人がそれぞれの立場で言いたいことがある~♪に違いないとは思うが、私ヨシイエとしては、その臨床現場にいて、そして現在もいるものとしてブッチャけた話をしておきたい。
まず、ヨシイエは「ゆとり教育」とやらが盛り上がったそのまっただなかで、前職の
「学校現場」
にいた。そして、それから民間企業で働きながら、
「ゆとり世代」
の部下や、年下の同僚との労務についている。 従って、それぞれの立場においての「ゆとりとは何だったか」がはっきりとわかる。
『それはお前の感覚的なものだろう。統計的エビデンスではないだろう』
と言われれば確かにそうだが、しかし、この私の感覚を元に今からする話は、そんじょそこらの統計データよりも
「あなたの人生と心に刺さる」
ことは間違いない。だから、まずはさらっと読んでいただきたい。
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□ 学校現場におけるゆとり □
ぶっちゃけ話、その1だ。ゆとり教育の導入、つまり学習指導要領の改訂と文部省からの通達指導は、タテマエはともかく、学校現場においてはまず第一のツボがあった。
それは「土曜日が休日になること」をダイレクトに意味する。
当時学校で勤務をしていたヨシイエからすれば、職員の土曜日の出勤が、「半ドン」になったり、「月に2回休みになったり」「完全週休2日制」になったりという過渡期を実体験したことになる。
ぶっちゃけ、学校において指導要領の内容がどうとか、学習内容が減るとか、そういったことは、どっちでもいいし、どっちでもどうにでもなることである。
元々教師は、教える内容のさじ加減などどうとでも出来るし、偏差値の高い学校ではそのように、偏差値の低い学校ではそのように、自由に調整が利かせられるものである。
だから教科書の内容を「指導要領に準拠しつつ調整」することなど、教師の労務においては、どうでもよいことだったのだ。
従って、少なくとも労働環境としての「ゆとり」、授業環境としての「ゆとり」とは
「出勤日数と年休と、夏休みや冬休みの勤務日数の調整をどうするねん」
というのが教頭の悩みであり、
「授業確保と、体育祭などの行事の時間の配分をどうするねん!土曜日なくなったやないか!」
というのが教務主任の悩みであり
「PTAの会合とか、どこに入れよう。平日の夜しかないの?」
というのが総務主任の悩みとなる、とまあ、そういうことだった。
しかし、これらのことは、学校外部の人間から見ても、生徒から見てもこれまたどうでもいいことである。
そこで、ぶっちゃけ話、その2である。
ゆとり教育の目的は「学力一辺倒ではなく、個性の尊重と幅広い人間力を身につける総合力の醸成」みたいなところにタテマエがあった。
そこで、何が起きたかというと、今日の学校指導のスタンスの原点でもある、
「いちおう生徒の事情や、家庭に配慮して、個別に相談的に対処する」
という生徒指導の方針へのゆるやかな変化だった。
それまでは「一斉指導で、とりあえず言っとけ、落ちこぼれるやつはいるけどしらんがな」の世界である。
あるいは、「1人はみんなのために、だから全員グラウンド10周してこい!」の世界だったのだ。
(なので体罰教師も、表向きはともかく、裏ではたくさんいた)
しかし、「ゆとり教育」という個別的な学力観や、そもそも学力以外も評価し、育てる対象になったことで、
「40人なら40通りの、仕事が増えた」
ということになる。これが、現在の教師の疲弊につながる、仕事量の増加や、モンスターペアレント、家庭内虐待への対応、発達障害などの個別の事情を汲んだ指導への道筋となっていったわけである。
まあ、いわゆる「教師のゆとりがなくなった」のは「生徒のゆとりが増えたから」なのだ。
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□ 企業現場、社会現場でのゆとり □
話は変わって、学校を卒業した後の生徒のそれからである。
これもぶっちゃけの話をすると、「ゆとり教育」のタテマエ・表面で批判された
「学力が低下する!」
とか、そんな問題は実はどうでもよかったのだ。
学力や、偏差値上の成績なんか「よいやつはそれなりによいところへ行く」「悪いヤツはそれなりのところへ就職する」だけで、その分別がどのようになろうが、別に誰も困らなかったのだ。
ぶっちゃけ、あなたの会社で、先輩と新人のTOEICの点数を比較して、年によって上がっていようが下がっていようが、売上とはなんの関係もないということは、これはもう当然の世界だ。
だから、企業社会や、ビジネスの世界で、
「ゆとり教育を受けた、ゆとり世代の学力が問題になることは絶対にない!」
と断言してもいい。
そうではなく、社会で問題になっている「ゆとり問題」とは、結局は
「生活姿勢や物事へのスタンス」
だけのことなのである。
だから「脱ゆとり、で学力向上を目指す」のは好きにしたらよいだけで、そんなことではこれからの社会問題は解決しないとはっきりしているのである。
企業社会において「ゆとり世代」の問題点とは
「自分のワークライフバランスと、企業のワークライフバランスを比較して自分を優先する」
「自分から学ぶのではなく、教えられ、そのことに価値を見出せないとやる気にならない」
などの、ヤバイ態度・姿勢である。
これまた、何度も出てくるが、表向き・タテマエでいえば、
「自分のワークライフバランスは優先されるべき、であり、価値のある仕事を人はすべきである」
というのはわかる。しかし、
ぶっちゃけ企業活動とは
「雇用者の価値を100吸い取ったとして、それ以下しか給料を払わないから会社の経費と利益が出る」
のが本質であって、実は、「会社バランスと個人バランスは絶対につり合ったりしない」のである。
だから、特に、「上司は部下のかき集めてきた労働力の上前で食ってゆく」し、「上納できない部下は使えない」のである。これは嫌な言い方でもなんでもなく
「資本主義とはそういうしくみ」
なのだから仕方がない。
(それをこれまでは「一斉教育と個人の抹殺、集団で頑張れ!なんとかついてこい!」でごまかしてきたわけだ)
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こうしたことから、現代社会におけるゆとり教育の最大の問題とはどういうことかをズバリ教えようと思う。
まず、これまでの論考から
ゆとり教育における「学力」なんかどうでもいい
ことは明白だ。それはそれなりになんとかなる。
そこではなくて、問題は
懇切丁寧に、個人の環境や能力、意欲を勘案しながら、意義をもって行動させなくてはいけないゆとり世代の資質
であることは明らかだ。
これがなぜ問題なのかといえば
「上司や会社は、労働者からの上納労働力の搾取によって成立しているのに、労働力のほうに上司や会社が、それより多くの『配慮や教育や指導やコスト』がかかるのであれば、企業が上前をハネる利益分が相殺されるか、もしくは逆転する」
という部分なのである!スバババーン!!!!
幸か不幸か、この点にまだビジネス界の誰もが気づいていないから、マネジメントの助言や教科書、コンサルなんかは
「見て学べ!というやり方ではなく、部下や社員とそれぞれの個性に配慮しながら伸ばしましょう」
なんてことを平気で言っている。アホではなかろうか。
これをやっていると何が起きるか。
「丁寧に教えて、個別に配慮して仕事ができるようになった給料のより安い若者が会社に残り、おなじ仕事しかできない給料の高い上司やおっさんはお払い箱になる」
ということだ。
これに気づいた上司は、まっさきに「懇切丁寧にゆとり社員を扱うことをやめる」に違いない。
にこにこ黙っておいて、自分の既得権益と、自分の得意領域を死守するに違いない。
だって右肩下がり社会なのだもの。
企業活動も、ヤ○○屋さんの活動も、資本主義の基本は、上納による搾取である。
だから、新しい労働力は搾取されないと経済は立ち行かなくなるのだ。それがおかしいと声を上げる社会はいわゆる
下克上
なので、それぞれが実力でガチバトルするという戦国時代にならざるを得ない。
もし、今後、戦国時代がやってくるのであれば
そこにゆとりはない。
ゆとりなんか、みじんもない。
それだけは、事実なのである。
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