2017年10月3日火曜日
教師に暴力を振るう生徒にどう対処するか ~こうすべき、ではなくどうするのが良いのかを模索する~
九州地方のHという(比較的偏差値の低いとされる)高校で、生徒による対教師暴力があった件は、twitterに動画がアップされたことで、一気に拡散し、また一気に解決をみたようです。
高校の具体名についてやら、行為を行った生徒の氏名などは、あまりこの際重要ではないので、目くじらを立てて取り上げるつもりはありません。
なぜなら
こうした行為は、どこの学校でも起こりうるし、これからも起こる
からです。
それとリンクして、本日興味深いニュースがあったのは、同じく対教師暴力を行った生徒を、被害者である教師が「常人逮捕(私人逮捕)」した、というものでした。
西日本新聞より
https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/363277/
犯罪行為に対して、逮捕権を誰もが持つわけですから、この行為そのものは「法の範囲内」にあります。
暴行事件が起きたことによって、その生徒を常人逮捕することには、法的には問題がないと言えるでしょう。
(ちなみに、検察が加害生徒を釈放したのは、逃亡の恐れがないからだと推測されます。通常、身元が判明し、自活しているわけではない高校生は、保護者の監督下にあるため、身柄を拘束せずともその後の処分は可能だ、ということでしょう)
==========
さて、今回twitterで問題になった暴行を行った生徒は、結局H高校を
自主退学
したようです。これもまた、現場サイドではよくある話です。
==========
さて、こうした一連の問題、つまり「生徒による教師への暴力」について、これこれこうすべきという議論は、時代や地域の実情や、個々の状況によっても変わってくるため、「これだ」という解決策はありません。
たとえば、今回取り上げた2事件について、
■ 加害生徒が自主退学したということは、今後大人から教育されない暴力男を野に放っただけだ
とか
■ 逃亡の恐れがない生徒を常人逮捕するのはいかがなものか、被害届けのほうが適切か
とか、さまざまな意見がありそうです。実際、最初に暴行を受けた教師が存在したことについても
■ 教師の指導力が不足していたのではないか
とか
■ 情けない、毅然と接するべきだ
といった論調も多く出てきました。
はたまた学校サイドの意見表明として、校長が観点のズレた謝罪をしたことで、 別の観点からも炎上してしまった場面もありました。
==========
実は、学校現場ではこうした「対教師暴力」は昔からよく起きていて、いわゆる「校内暴力」が流行した時代(1970~1985ぐらいまで)においては、こうした問題行動を起こす生徒に対して、
いかつい体育教師が、「ワレなめとったらぶっ殺すぞ」と言いながら竹刀を持ってしばき倒す
という対生徒暴力によって封じこめようとしたこともありました。
ここから管理教育という流れが生まれ、
■ 怖い先生に体罰される
■ スカートの長さを測られたり、持ち物検査をされたりする
■ 部活で汗を流して発散させる系スクールウォーズ部活が伸びる
という、現在の学校問題の根底に流れる文化が生まれます。
ヤンキーを熱血先生が部活で成果を与えて指導して、涙ながらにシバキ倒して抱き合う
という文化を礼拝する教師や保護者がいるのは、この時代の文化を受け継いでいるのですね。
あるいは、ケータイやスマホを朝の会で預かりますよ~とか、「茶髪検査しますよ~」とか、「ビゲンで染め直してこい」とか、そういう文化も、このあたりからスタートしています。
==========
ところが、こうした管理教育のスタイルは、1990年の遅刻指導における生徒の校門圧死事件において、大転換を迎えます。
遅刻しそうになった生徒に対して、教師が校門を締めたことで死んでしまう、という事件でしたから、学校サイドとしてはこれより後
「行き過ぎた指導は控えるべきだ」
と論調が変わります。体罰容認から体罰禁止へと全体の雰囲気や時代の流れが変わるターニングポイントもここです。
そうすると、 1990年代以降は、みなさん知ってのとおり
「先生は暴力を受けてもやり返してこない」
ということを生徒が知りはじめますので、徐々にですが再び学校が荒れはじめるわけです。
2000年代には「学級崩壊」という言葉が流行し、 ゆとり教育への反動で学校が勉学面での圧力を再び開始したここ最近はやや沈静化しましたが、近年は「教育困難校」なんて言葉も出てくるぐらい、現場は問題が山積しておりますね。
==========
こうした流れを理解していると、生徒の問題と学校が起こす問題は
シーソーゲームのようなバランスを生じている
ことがわかります。学校の管理を厳しくすると、教師側の暴力が問題となり、学校の管理を控えると、生徒側の暴力が増えるのです。
なぜか。理由は簡単。学校の内部でパワーゲームをやっているからです。
そういう意味では、今回の2つの事件は、とても興味深い事例になりそうです。その大きなポイントは
少年であるから最終的な処分は、少年にふさわしいものになるだろうが(つまり、大人よりは甘いだろうが、)
警察と検察が介入するということが当然となった
ということでしょう。つまり、暴力は学校内部の問題ではなくなったのです。
このことそのものは、歓迎すべきことだと言えるでしょう。子供の成長、教育は学校という限定された機関だけで行われるものではなく、社会全体でその任務を果たすものです。
そういう意味では、教師の暴力へも、生徒の暴力へも、それが明らかになれば「法治国家の下で、警察や検察が動く」ということは、良いことだと思われます。
ただ、現実問題としては、警察とて仕事が山積みなので、そこまで手を回したくないのが本音でしょう。
というわけで、その昔、私は
「鉄道警察・航空警察ならぬ、学校警察を置け」
という提言をして賞金を10万円もらったことがあるので、ぜひそれをやってほしいものです。
え?誰が学校警察官になるのかって?そりゃあ、もちろん体育の先生ですよ。竹刀から警棒に持ち替えていただくということで(←このへんから冗談です)
=========
冗談はさておき、個人的には、学校内部の機能をもう少し高めてから校外の警察等へつなげてゆきたいものだと思っています。
教師を蹴り飛ばしたU君は、蹴り飛ばした瞬間は、「教師より俺のほうが上だ」と優越感を持っていたことでしょう。
しかし、実際には、U君は優越感を持っているだけで、「力(実力)」を持っていません。
学校内において力を持っているのは、「懲戒権を持つ校長(とそれを具申する教師集団)」です。
学校の機能というのは、社会に出る前の未熟な若者に
「この世界には、力(実力)・権力を有する上位者が存在する」
ということを、支配的ではなく、丁寧に教えることがその根底にあることを忘れてはいけません。
リベラルな人は、こうした話をするとすぐ誤解して、「偉い者にひれふせということか」などと怒り狂うのですが、そうではなく、
「力を所有しているものとの関係性を適切に理解して、その距離感を学ぶ」
ということが社会に出るということだと教えるのが、学校の大事な仕事だと言っているわけです。
ちなみに学校という組織は大変に優しいところで、校内で受けたいかなる懲罰であれ、それを学外に持ち出したり、生徒のその後の人生に引きずらせたりはしません。
これはぜひ覚えておいてください。
簡単にいえば、学校内で怒られることや指導は、その後の人生ではチャラである。
ということです。学校という組織や教師という存在は、「おまえに烙印を押す」ということを極端に嫌います。
(ですから今回のU君も、自主退学を認めているのです。懲戒権を発動せずにすむということです)
だから本当は、生徒たるもの学校内で怒られまくってかまわないのです。担任に怒られ、生徒指導部長に怒られ、校長に怒られても実は卒業すればたいしたことはありません。
その悪行三昧は、どこにも記録されず、次へ引き継がれることはないからです。
だからこそ、学校の教師・組織としては、できるだけ内部で悪い生徒を
「叱り飛ばし、(手を出さずに)指導したおして欲しい」
と個人的には思います。そして、ゲームのように、悪行たるもの引き際を見極めなければ
「小ボスが出てきて、中ボスが出てきて、ラスボスが出てくるんだ」
ということを学んでほしいわけです。これは大人になるための勉強です。
==========
教師の中にも勘違いしているアホがいますが、「指導力のない教師だからあんな目に逢うんだ」と思っている人はたくさんいるでしょう。
しかし、それは違います。
上で書いたように、生徒が学ぶべきものは
「次々、強いボスが現れるんだ」
ということです。その場面にいる敵が強いか弱いかは、表面的なもので、本質ではありません。
心優しい女性の教師に対して、暴言を吐く生徒もいます。
おだやかな教師の言うことをわざと無視して力関係を試す生徒もいるでしょう。
しかし、その段階で一線を越えてしまうと、社会においては「次なるボスがおまえをしばく」ということが起きるわけです。
それを学ばせるのが学校ですから、教師同士で「俺はできる、あいつはできない」ということをマウントしている暇はありません。
組織で、チームで「人生というRPGを教える」のが教師の務めなのです。
じゃあ、指導力があるという教師の自負があるなら、中ボスの役割で生徒に当たればいいじゃないですか。
そして、大ボスやら、ラスボスと連携して、その生徒を鍛錬すればよいのです。
2017年8月12日土曜日
<実国学を考える22> 実はマイホームも結婚も幻想だった?! これから日本人が勤勉ではなくなる話
まいどどうも孤高の国学者、ヨシイエ孝太郎です。
文春オンラインに少し興味深い記事が出ていたので紹介します。
「地方出身者が作り上げたマイホーム神話という幻想」
http://bunshun.jp/articles/-/3613
実はこの記事と似たようなことを、ブログに書こうとしていて、あまりにタイムリーだったので、ちょっとばかし引用したい次第。
この話題、吉家的にはちょっと別の切り口から書こうと考えていました。
それは・・・。
「日本人は本当に勤勉なのか?あるいは、これからも勤勉であり続けるか?」
という観点です。
日本人は、勤勉でまじめに仕事を続ける傾向があるので、高度成長などの大きな発展をすることができた、みたいな言説が一般には信じられていますが、どうもこれは鎌倉幕府以来の
「ご恩と奉公」
がその実態なのではないか、という仮説です。鎌倉幕府と源頼朝にみんな従ったのは
「領地をくれる(ご恩)ので、従属してしっかりはたらく(奉公)」
という関係があったからです。 これを擬似的に再現したのが、戦後の日本社会(あるいは明治以降の日本社会)だったのではないか、という訳です。
==========
今回の文春さんの記事でもあるとおり、日本の農村では「長男だけが家屋敷や田畑を継承することができる」のが普通でした。
次男以降は、基本的には分家を立てるか、どこかへ養子へいくか、あるいはまったく別の土地へ行って開墾するか以外には、「新生活を成立させる術はない」のが古来から実態だったわけです。
分家も簡単ではなく、田畑を兄弟で分ける行為は「田分け(タワケ)」なことですので、それぞれの資産が小さくなることを意味します。本来望ましいことではありません。
なので、人工増加に伴っては「北海道を開拓して新しい土地を創出する」「あるいは満蒙を開拓して新しい土地を日本人のものにする」ということは必須だったわけです。
これが、土地(そこから生産される米・食料)に依存した日本の国の姿でした。
ところが、「食べるのに物理的な食料生産を伴わなくてもよい=産業革命以来の経済変化」が生じます。
それは「貨幣」というものの力で、明治維新を経て現物の米ではなく、経済的の数字上の力で食べていくことが可能になったわけです。 (だから年貢が廃止され地租が生まれた)
この頃から、富岡製糸工場へ女の子が務めたりするように、「農家の次男や三男、あるいは農家の娘達が、集団でどこかの企業に入って就職する」ということが増えるようになりました。
その最たるものが「金の卵」というやつで、田舎から都市への人口移動が始まったわけですね。
吉家が考える国学的視点では、この都市化の際に
「本家を中心とする、次男や女子の家臣構造」から「企業を中心とする、次男や女子の家臣構造」へと変化したのだ
と考えます。戦後の企業構造が家族的であったということは、言い換えれば、「主従と家臣構造」にも似ていたということでもあるのです。
さて、家臣はなぜ本家や主家、企業に従属する理由があったのでしょうか?
それは、まさにズバリ「衣食住を保証してくれるから」に他なりません。いや、「墾田永年私財法」以降、日本の国体の基本を貫いてきたのはぶっちゃけ「土地」ですから、引用した記事どおり、
「企業の家臣になれば、土地・領地が手に入る」
という、ご恩と奉公の関係そのものだったわけです。
だから、分家して”家”を新しく立てなければ、結婚もできなかった農家の次男や三男でも、嫁の貰い手をみつけて、一家を維持することができるようになったのですね。
==========
ところが、21世紀に入ると、企業人として仕えることは、ご恩と奉公でいえば「あまりご恩がない状態」になってしまいます。
派遣社員などはその最たるもので、家臣ではなく「傭兵」ですから、戦国武将的にはすぐに「牢人・浪人」にならざるを得ないわけです。
そうすると、果たして主家のために「勤勉に働く」ということが成立するのか怪しくなってきます。
簡単に言えば、今後の職業人が「領地を貰うことができない」のであれば、主家(企業)からは離反する行動がムーブメントになるだろうと思います。
元寇の後、必死でモンゴル軍を追い返したものの、与える領地が増えたわけではないので、恩賞があやふやになって崩壊した鎌倉幕府と同じことが、日本の企業体で起きようとしていると考えられます。
安住する領地・土地がもらえないとなると、「次男三男が(新しく)家を立てる」とか「結婚して家族をもうける」ということは、難しくなってきます。
マイホームを買うとか、結婚するとかがある程度当たり前なのは現在だけで、未来にはそうした行動は現象するに違いない、という予想が立てられます。
もちろん、少子化ですから、そもそも次男や三男も激減します。長男長女しかいない、という家が大半になるわけですが、田舎では「本家をその一子が維持しようとする」動きがしばらくは続くでしょう。
逆に都市部では、恩賞である領地に依存しないので「傭兵として死んでいく」者達が増えることになります。
ちょうど、江戸時代には、9割が男性で、その多くが未婚のまま亡くなったように、都市部では男女ともに「一人で朽ちてゆく」人たちが増えることになると考えられます。
その時、日本人は果たして勤勉でいられるのか?
いや、おそらく大半の日本人は「宵越の金はもたねえ」じゃないですが、江戸っ子の気質のように刹那的なものへと変化するのだと思います。
2017年8月10日木曜日
■ 教員志望者が減少する理由 ~すでに教職は「完全不滅のエージェント」レベルが要求されている件
今日のツカミ。
”まだ教職で消耗してるの?”
教師になりたい、という人間がおそらく減少し始めていて、そして今後も激減するであろうことは簡単に予想がつくわけですが、その理由をまとめてみると、大変興味深いことに気付きます。
そう!もはや教師というのは人間が到達できるレベルではないほどの「サイボーグ兵士」とか、「ミッションインポシブル・スパイ」くらいの超絶した職務能力が求められているからです。
ちなみに、ヨシイエは個人的には「そこらへんのおっちゃん、おばちゃんであっても、ちょっとお勉強ができれば勤まるくらいの仕事」が教師の実像であるのが望ましいと考えていますが、それは実際には真逆の方向へコトが進んでいるようで。
では、現在の教師にはどんなことが求められているのか、一つ一つ冷静に考えてみましょう。
【1】 教科の指導がきちんとできること。
ふた昔前には、授業でギターを弾くとか、ただ怖いだけの先生とか、そういうのでも存在価値が認められていましたが、現在の学校では「脱ゆとり教育」「高度な人材育成」が求められているため、教科指導がきちんとできることは大前提です。
それも、わかりやすく訴えかけるプレゼンテーション能力が高く、かつ、覚えやすいドキュメンテーション作成能力があり、なおかつ、一人一人の様子を観察し、的確に補助することのできる教科指導教員が求められているのです。
もう、これだけで「お、なかなか使えそうな営業マンってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【2】 保護者との的確なコミュニケーションがとれること。
ふた昔前には、連絡帳と学級通信ぐらいでよかった保護者との情報交換は、「今日どんなことがあったか」「メンタルはどうか」「学業の進行具合はどうか」など、多岐にわたりかつ個別の連絡が求められている昨今の教師です。
トラブルなどがあれば個別の面談や家庭訪問などを行うのはもちろん、朝の会(ホームルーム)や、放課後の様子なども含めて、気配りし、かつその様子をきちんと伝達できることが望まれています。
PTA活動も保護者と協力して行い、円滑な学校教育を遂行するわけです。
もう、このへんで「お、なかなか優秀なマネージャーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【3】子供の問題行動や家庭の環境などにも配慮できること。
鬱や中ニ病、メンヘラ、リスカ、援助交際、不純異性交遊、暴力行為、万引きなど、ありとあらゆる犯罪行為や、精神的トラブルにも、適切な援助ができ、かつそれに気付くアンテナ能力が求められている教師の仕事です。
実際に、校外での指導を伴う場合もあるし、校内でも人間関係のトラブル、部活動内でのトラブルなどをいち早く察知する必要があります。
これをおろそかにして「いじめ」などに発展してしまうと、教師生命を脅かします。
もうこのへんで、「お、とても有能な臨床心理士もしくはカウンセラーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【4】 次々に襲い掛かる難問に対して、不屈のメンタルを持っていること。
教科上の課題、生活上の課題、心身の発達の課題、部活動の成果、家庭問題などなど、子供達が成長しなくてはならない課題は山積しており、それらのすべての面×35人~40人の対応をしなくてはならない教師は、自分がメンタルをやられている暇はありません。
生徒同士ではセックスをして妊娠をしたり、パンチラがそこらへんに転がったりしていますが、男性教師は間違っても、そうした性的なあんなことやこんなことに心がふらついてはいけません。
女性教師は、男性教諭や男性生徒からあらゆる面でセクハラ的態度をぶつけられることが多いのですが、けしてめげてはいけません。
担任教師が、一時の気のゆるみで、「学級崩壊」なんかを起こしては、末代まで祟られます。
もう、このへんで「24時間戦えるリゲインビジネスマンだね」と民間の方はピンとくると思います。
【5】 やったこともないスポーツでも、勝利へ導けるくらい指導できること。
バスケでもサッカーでも、吹奏楽でも、バレーボールでも・・・。なんかよくわからないけれど、やったこともないスポーツにおいて子供たちを指導することが求められています。
毎日練習を組み立てるのみならず、子供たちや保護者からは「試合に勝つ」ということを望まれています。これを、まるで地域のスポーツチームの指導者のように、あるいは、スイミングクラブのコーチのように、求められているわけです。
もうこのへんで、「つまり、ジムのトレーナーくらいはできるってことだね」と民間の方はピンとくると思います。
==========
民間企業に置き換えると、教師の仕事は、ざっと挙げただけで、5つくらいのプロフェッショナル(専業職業人)と同等のレベルが要求されていることがわかります。
プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ心理学にも行動学にも長けており、どんな難題でも顧客の将来や人格形成がかかっているので失敗が許されないという不屈のメンタルを有している笑顔が素敵なスポーツマン(もしくは何か芸術のセミプロ)であること。
これが、求められている教師の姿なのです。
ええっと。こういう人材を、民間企業の採用で考えればすぐわかりますが、こんなサイボーグみたいな人間はまず存在しません。
どれか一つの規準を満たすのがやっとなくらいで、それぞれ「営業マン」であったり、「マネージャー」であったり、「スポーツトレーナー」やら「カウンセラー」などとして一人だちしてゆくわけですね。
それを5つも6つも同時に教師に要求してゆくとどうなるか。
これは簡単で「そういう仕事をしたい」という人間が激減するだけです。
その昔「デモシカ教師」なんて言葉がありましたが、昔の教師は
「コミュ障だけど、勉強だけは好きだったので教科の教師になった」
とか
「部活大好きだったので、俺もサッカー教えてえ!と教師になった」
とか
「趣味の芸術に没頭していて、教師ぐらいしかなるもんがなかった」
とか、ぶっちゃけそんなんです。サイボーグというより、何か欠けている面があったりするのが普通でした。
夏目漱石が高校の先生してましたが、
「部活指導とか、不登校児への対応とか、保護者だよりとPTAとか、クリケットの指導とかしたわけなかろう!!!!あほかー!!!」
というのがオチです(笑)
ところが、いつの間にか「完璧な指導者であるべき教師像」みたいなのがどんどん一人歩きをはじめ、
「いじめを予防できる教師」とか
「ゆとりじゃない指導ができる教師」とか
「怪我をさせたり体罰をしない教師」とか
「君が代を歌う教師」とか
いろんな要素について「全部なんでもパーフェクトにできる教師像」へと変貌してゆくわけです。
こうなると、そんなことは物理的に無理なので、一刻も早く、せめて
「どれか一つか二つに特化できたらそれでOKよ」
と教師を解放してやらないと、みんな死んでしまうに違いありません。
スポーツ指導ができる教師は、数パーセントいればいい。
生徒指導がうまい先生は、何人かいればいい。
保護者とのやりとりは、だれそれ先生が窓口が一番ね
そういうのの総体として100%の円ができれば、学校は本来よき場となるはずなのです。
まあ、残念ながらそうはならんけどね。このままじゃみんな疲弊するよ。
”まだ教職で消耗してるの?”
教師になりたい、という人間がおそらく減少し始めていて、そして今後も激減するであろうことは簡単に予想がつくわけですが、その理由をまとめてみると、大変興味深いことに気付きます。
そう!もはや教師というのは人間が到達できるレベルではないほどの「サイボーグ兵士」とか、「ミッションインポシブル・スパイ」くらいの超絶した職務能力が求められているからです。
ちなみに、ヨシイエは個人的には「そこらへんのおっちゃん、おばちゃんであっても、ちょっとお勉強ができれば勤まるくらいの仕事」が教師の実像であるのが望ましいと考えていますが、それは実際には真逆の方向へコトが進んでいるようで。
では、現在の教師にはどんなことが求められているのか、一つ一つ冷静に考えてみましょう。
【1】 教科の指導がきちんとできること。
ふた昔前には、授業でギターを弾くとか、ただ怖いだけの先生とか、そういうのでも存在価値が認められていましたが、現在の学校では「脱ゆとり教育」「高度な人材育成」が求められているため、教科指導がきちんとできることは大前提です。
それも、わかりやすく訴えかけるプレゼンテーション能力が高く、かつ、覚えやすいドキュメンテーション作成能力があり、なおかつ、一人一人の様子を観察し、的確に補助することのできる教科指導教員が求められているのです。
もう、これだけで「お、なかなか使えそうな営業マンってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【2】 保護者との的確なコミュニケーションがとれること。
ふた昔前には、連絡帳と学級通信ぐらいでよかった保護者との情報交換は、「今日どんなことがあったか」「メンタルはどうか」「学業の進行具合はどうか」など、多岐にわたりかつ個別の連絡が求められている昨今の教師です。
トラブルなどがあれば個別の面談や家庭訪問などを行うのはもちろん、朝の会(ホームルーム)や、放課後の様子なども含めて、気配りし、かつその様子をきちんと伝達できることが望まれています。
PTA活動も保護者と協力して行い、円滑な学校教育を遂行するわけです。
もう、このへんで「お、なかなか優秀なマネージャーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【3】子供の問題行動や家庭の環境などにも配慮できること。
鬱や中ニ病、メンヘラ、リスカ、援助交際、不純異性交遊、暴力行為、万引きなど、ありとあらゆる犯罪行為や、精神的トラブルにも、適切な援助ができ、かつそれに気付くアンテナ能力が求められている教師の仕事です。
実際に、校外での指導を伴う場合もあるし、校内でも人間関係のトラブル、部活動内でのトラブルなどをいち早く察知する必要があります。
これをおろそかにして「いじめ」などに発展してしまうと、教師生命を脅かします。
もうこのへんで、「お、とても有能な臨床心理士もしくはカウンセラーってことだな」と民間の方はピンとくると思います。
【4】 次々に襲い掛かる難問に対して、不屈のメンタルを持っていること。
教科上の課題、生活上の課題、心身の発達の課題、部活動の成果、家庭問題などなど、子供達が成長しなくてはならない課題は山積しており、それらのすべての面×35人~40人の対応をしなくてはならない教師は、自分がメンタルをやられている暇はありません。
生徒同士ではセックスをして妊娠をしたり、パンチラがそこらへんに転がったりしていますが、男性教師は間違っても、そうした性的なあんなことやこんなことに心がふらついてはいけません。
女性教師は、男性教諭や男性生徒からあらゆる面でセクハラ的態度をぶつけられることが多いのですが、けしてめげてはいけません。
担任教師が、一時の気のゆるみで、「学級崩壊」なんかを起こしては、末代まで祟られます。
もう、このへんで「24時間戦えるリゲインビジネスマンだね」と民間の方はピンとくると思います。
【5】 やったこともないスポーツでも、勝利へ導けるくらい指導できること。
バスケでもサッカーでも、吹奏楽でも、バレーボールでも・・・。なんかよくわからないけれど、やったこともないスポーツにおいて子供たちを指導することが求められています。
毎日練習を組み立てるのみならず、子供たちや保護者からは「試合に勝つ」ということを望まれています。これを、まるで地域のスポーツチームの指導者のように、あるいは、スイミングクラブのコーチのように、求められているわけです。
もうこのへんで、「つまり、ジムのトレーナーくらいはできるってことだね」と民間の方はピンとくると思います。
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民間企業に置き換えると、教師の仕事は、ざっと挙げただけで、5つくらいのプロフェッショナル(専業職業人)と同等のレベルが要求されていることがわかります。
プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ心理学にも行動学にも長けており、どんな難題でも顧客の将来や人格形成がかかっているので失敗が許されないという不屈のメンタルを有している笑顔が素敵なスポーツマン(もしくは何か芸術のセミプロ)であること。
これが、求められている教師の姿なのです。
ええっと。こういう人材を、民間企業の採用で考えればすぐわかりますが、こんなサイボーグみたいな人間はまず存在しません。
どれか一つの規準を満たすのがやっとなくらいで、それぞれ「営業マン」であったり、「マネージャー」であったり、「スポーツトレーナー」やら「カウンセラー」などとして一人だちしてゆくわけですね。
それを5つも6つも同時に教師に要求してゆくとどうなるか。
これは簡単で「そういう仕事をしたい」という人間が激減するだけです。
その昔「デモシカ教師」なんて言葉がありましたが、昔の教師は
「コミュ障だけど、勉強だけは好きだったので教科の教師になった」
とか
「部活大好きだったので、俺もサッカー教えてえ!と教師になった」
とか
「趣味の芸術に没頭していて、教師ぐらいしかなるもんがなかった」
とか、ぶっちゃけそんなんです。サイボーグというより、何か欠けている面があったりするのが普通でした。
夏目漱石が高校の先生してましたが、
「部活指導とか、不登校児への対応とか、保護者だよりとPTAとか、クリケットの指導とかしたわけなかろう!!!!あほかー!!!」
というのがオチです(笑)
ところが、いつの間にか「完璧な指導者であるべき教師像」みたいなのがどんどん一人歩きをはじめ、
「いじめを予防できる教師」とか
「ゆとりじゃない指導ができる教師」とか
「怪我をさせたり体罰をしない教師」とか
「君が代を歌う教師」とか
いろんな要素について「全部なんでもパーフェクトにできる教師像」へと変貌してゆくわけです。
こうなると、そんなことは物理的に無理なので、一刻も早く、せめて
「どれか一つか二つに特化できたらそれでOKよ」
と教師を解放してやらないと、みんな死んでしまうに違いありません。
スポーツ指導ができる教師は、数パーセントいればいい。
生徒指導がうまい先生は、何人かいればいい。
保護者とのやりとりは、だれそれ先生が窓口が一番ね
そういうのの総体として100%の円ができれば、学校は本来よき場となるはずなのです。
まあ、残念ながらそうはならんけどね。このままじゃみんな疲弊するよ。
2017年8月3日木曜日
教員志望者、またすべての教師が知っておくべき 「校長とはなにか」ということ
前回の記事、
「教員の部活動問題が、本音と建前で180度違う理由」
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2017/07/blog-post_29.html
は、多数の方に読んでいただき、またツイッターなどでは多くのRTを頂いて感謝しています。
部活動が、職務なのか、ボランティアなのか。あるいは、建前上はこうなっているけれど、本音ではこうだ、という点を「校長」という視点を通して書いたものですが、いまだに現役教師や、教師志望の方のツイッターやネットでの議論においては
「校長とはどういう存在か」
をよく把握していないものが多いので、今回は老婆心ながらそのあたりを書いておきたいと思います。
一般論としての校長職のイメージは
■ 学校の一番の管理者である。
■ 学校を統括するものである。
■ 教育内容と、職務内容について責任をもつ立場である。
■ 指導要領どおりの教育が行われていることと、職員が健康安全に勤められる事について責任をもつ立場である。
などがあろうかと思います。これはこれでOK。まったくその通りです。
しかし、現職の教員でもよく理解していない部分があるとすれば以下のようなことが挙げられるでしょう。
■ 校長は、行政官であり、教育を行う職分ではない。
■ 校長の権限は、高校ではお金を独自に扱うことができ、中小では独自に扱うことはできない。
■ 校長には、教員免許は不要である。
■ 校長は、校内の業務については、独自に物事を進めることができる。
■ 校長は、教員に対しての校外における人事権を持つ。
ちょっとわかりにくい点もありますが、やさしく解説します。
まず、校長は教師の延長線上にあるのではなく、教育を行う施設を管理監督しています。ですから、教育者である必要はなく、「管理者」であればよい、というわけです。
なので、教師から校長へと出世の階段を登る人が多いことは事実ですが、事務長から校長になる人もいるし、教育委員会の事務方の施設課などから校長になることだって可能です。
つまり、彼らは「教育者である」必要はないのです。
その権限は、小中義務校と高校では少し異なるのですが、小中義務校は、ほんのささいなお金の使い方にも教育委員会事務局が「やいやい言う」のが普通です。校長には、あまり現場サイドでお金を動かすことができません。
ところが、高校の校長は権力が大きく、「自分の裁量でお金を動かす」ことができます。
仮に「この教育内容が必要なので、生徒全員バスに乗せてどこそこへ連れて行く!バス代使うぞ!」という思い付きのようなことが突然ひらめいても、それを実行するだけの権限があるということです。
(極論ですが)
また、人事面でもお金が使えるので、「こういう教師・講師を追加で投入するぞ!」ということを本気で考えた場合、教育委員会と調整の上ではありますが、ひっぱってくることもできます。
また、近年よく知られるようになりましたが、「職員会議」は、法的決定権を持ちませんから、すべての現場の教師が反対しても、校長は独断で物事を決定し、遂行することができます。
しかし、校長といえども、法の下にありますので、「違法な労働活動を命令する」ことはできません。これは重要なポイントですね。
校長が行政官であるということは、現場の教師とは視点がまったく違う、ということでもあります。
たとえば、ある高校に「無茶苦茶悪い生徒」がいて、他の生徒に影響を及ぼすなど、問題行動が多かったとします。
現場の教師の視点では、「こういう生徒は置いておけないので懲戒なり退学なり、断固とした措置を取るべきだ」なんて職員会議で意見が出たりしますよね。
その時、校長がそれに同意するかどうかは、校長の視点によって大きく異なります。
「その生徒が、外部に出て、治安に大きな影響を与えるような育ち方をするのであれば、最終的に警察や司法のお世話になるようなことがあるだろう。そうなる前に、学校としてその子を正せるところまで教育するのが我々公務員の責務である」
と実際にある校長先生は言いました。つまり、警察・司法・学校という行政組織の一として、どの場面でどの人間に当たるべきか、という話です。
これが行政官の考え方です。
こうした考え方がベースにあるので、教育困難校(高校)で定員割れした場合、どんな生徒でもまずは受け入れろ、という校長が多いのは、そのような行政官としての訓練を受けているからにほかなりません。
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さて、最後にみなさんの立場に関係ある話をしておきましょう。
校長は、実はそれなりに強大な権力を持っていますが、校内で起きる出来事については、教頭や副校長、そしてその学校に長くいる古参の教師とある程度仲良くやっていきたいと考えていますから、それらの権力を振りかざすことはあまりしません。
しかし、校長が本気になれば、一つだけ「完全無欠の、誰にも逆らえない武器」を使うことが許されています。それが校外の人事権です。
これは、簡単にひとことで言えば、教師であるあなたを
「どこへ飛ばすか、好き放題にできる」
ということです。逆に言えば、校長が教諭に対して持っている武器はたったひとつこれだけです。
もし、校長の考えにそぐわない教師が校内にいるとします。そのままでは別に何もおきません。それだけで飛ばされることはないです。
ただし、校長に対して面と向かって考えが異なることを主張し、彼が大人気なく怒りを抱いたら、その教師は
「離島でも郡部でも、義務校なら中学から小学校へでも、好き勝手に飛ばされる」
ことだけは覚悟しなくてはなりません。
教師というのは、どこにいても教師であり、子供たちはどこにいたって教育を受けるべき可愛いこどもたちです。
↑この大前提の理論を悪用すれば、ある先生が「どの学校がふさわしくて、どの学校がふさわしくない」なんてことは全く無く、何処へ行っても教師たる職分を果たすべきである、ということを振りかざすことができるのです。
(この話は、実際に私のかつての同期が、離島へ飛ばされた事実をもとに書いています。そして、彼は帰してもらえず退職しました。)
組合活動などが盛んな地域だと、「校長に食ってかかるのはかっこいい」みたいな間違った風潮がある場合も見受けられますが、校長とはそういう存在だと正しく理解して、きちんと誠実に話をするのがもっともよいと思います。
校長とて人間ですから、誠実できちんと話ができれば、逆にさまざまな意味であなたの意見や気持ちを認めてもらうこともできるのですから。
2017年7月29日土曜日
教員の部活動問題が、本音と建前で180度違う理由
ここのところ教員の部活動問題が、教育界の内外で話題になっておりますが。
簡単に言えば、部活動の指導はボランティアであるのに、それが半ば義務化されているのが実態で教員のブラック労働の温床になっている、という話です。
そこで、一部の志ある若い教師からは、
「労働としてきちんと手当てされていないものであるならば、部活動を指導するしないの選択権を持てるなど、何がしかきちんとした体制がほしい」
という要望が上がっているわけで、逆にまた
「部活動の指導が労働の一部であるならば、給与面や労働時間についてきちんとした体制がほしい」
とも言っているわけで、これは確かにまったくもってその通りで、部活問題が「労働問題」として議論されることは
大いに正しい
と私も同感します。
ところが一方で、部活動にどう当たるべきか、という現実の現場サイドでの話で言えば、上記のようにきちんと体制が作られているわけではなく、
「先生方に置かれましては、部活動は労働ではないのですが、そこはうまく対応して、なんとか指導に当たっていただきたい」
という校長からの、お願いだか命令だかよくわからないままの無言の圧力によって、今日も明日もすぐには変革されず部活が続いていることは、みなさんご承知の通り。
そんななか、ちょっと面白い記事がツイッターに上がっていて、
ソラさんのツイート
https://twitter.com/SoraEduJapanese/status/890923567495249920
これはかなりRTされているツイートなのですが、要するに
大学で教員志望を指導している元校長が、
『部活動の職務は、教員の職務なんだから、やれったらやれ』
『勤務時間後の部活指導は、校長によるお願いによって、教員が分担してするものだ』
『わしらも若い頃からずっとやってきたので、たぶん変わらんよ』
という旨の指導をしたという話です。
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勤務なのか、ボランティアなのか。勤務時間と部活指導時間はどのように労働時間として扱うか。
上記のような議論は、おそらく労働基準法に基づいて精査すれば、おのずと答えは出ます。
ところが、そうならないのは、建前はともかく教員の世界にはいろいろなウラ事情があるからです。
そのウラ事情として
(『なぜ教師は部活動を辞められないのか』
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/01.html
の中で、「部活動の指導実績が評価に直結するから」ということを説明しました。
今回は、この補足事項を「校長目線」でお話したいと思います。
学校の教師が、どのように評価されるのかは、上の記事でもある程度書いています。しかし、現実には、勤務年数によって、実際の評価はある程度横並びですから、教師が現実問題としてどのように評価されるかは
どの勤務校へ移動できるか
以外にはありません。あとは、指導主事になって教頭になるとか、そういう出世の話は別ルートです。
そうすると、教師がどの学校へ次移動するかは、教育委員会とやらが決めるわけではなく、
「各学校のトップである校長たちが合議して決める」
のです。
つまり、教職員一覧表がまず存在し、そこからある学校で、どの教科やどのポジションの教師が抜けるのか(異動対象になっているか)を検討するわけです。
今度は、抜ける側の校長からするとはないちもんめがはじまるわけで
「あのこが欲しい あのこじゃわからん ♪ 相談しよう そうしよう ♪」
というそれぞれの教師というコマのやりとりをすることになるのです。
その異動させ、動かし、ぐるぐる回すコマには、要素があります。
第一の要素は、もちろん中高教師では「教科」です。年齢はあまり関係ないです。
(基本的には、年齢が高い教師は、いわゆるいい学校や都市部へいける可能性は高いが、『田舎・郡部校のリーダー的存在として行ってくれ』ということも多々あるので年寄りでもOK)
第二の要素は、ある程度の「経験」です。学年主任をやったのか、生徒指導部長などの分掌のリーダーを経験したか、などですね。
そして、第三の要素は、「部活動の指導実績」なのです。だから、校長からすれば、人事異動でどの教師をひっぱってくるか、あるいは放出するかの重要なファクターになるため、この切り札が使えなくなることは非常にマズいことになります。
従って、校長経験者であればあるほど「部活動の指導は重要な仕事なので、文句を言わずにやりなさい(→それがあなたの将来のためなのです)」と言わざるを得ないのです。
校長同士も実はマウントしあっていますから「どの学校で校長をしたか」はものすごく大きな人生のテーマだったりします。
そして、校長としての一番の腕の見せ所は「人事異動」なので、
「どの分掌のベテランや力のある教師を引っ張ってこれたか」
「どの部活動のベテランや力のある教師を引っ張ってこれたか」
によって、校長としての実力が左右される、ということになっています。
間違ってはいけないのは、校長は学校内の「内部の人事」については、基本的には「教頭もしくは副校長の意見を最大限尊重」します。
そこに口を出す校長は、「懐がせまい」と思われるので、校長は「校外との人事」に全力を傾けます。
こういう事情をしっておくと、どうして部活動問題が本音と建前でぐちゃぐちゃになるのかがよく理解できると思います。
2017年7月24日月曜日
<吉家流儲かる起業塾18> ココナラTVCMの効果は?! 大量CM投下は、仕事を生んだのか?
2017年7月15日から30日までの予定で、テレビCMを投入しているココナラさんですが、かくいう私も、いちおうココナラユーザーです。
みんなの得意を売り買い ココナラ
https://coconala.com/
ちなみに吉家孝太郎は、ココナラでどんなサービスを提供しているのか、このブログでは一切告知しておりませんし、名前も違います(笑)
それは秘密ということで。そのおかげで客観的なココナラ批評ができると考えております。
ステマっぽい告知とか嫌いなので(^^;;;
というわけで、ココナラのスタッフにすれば、ここ半月のテレビCMの効果についてはやきもきしているところでしょうが、ヨシイエの体感でいえば
ココナラのテレビCMが入っても、依頼や顧客はあんまり増えていない!
というのが、ひとつの真実ではないかと(苦笑)
その原因を探ってみると、いろんなことが思い浮かびます。
■ ココナラテレビCMは、「ココナラというサービスの認知度を上げた」
テレビCMの投入によって、「あ、ココナラというプラットフォームがあるんだ」という告知はできたんだと思います。そのことによって「売るほう、買うほう」の知らなかったユーザーの掘り起こしはたぶんできたのだと。
■ ココナラテレビCMでは、「サービス提供者の内容までは到達できない」
出品希望者から見ると「ココナラというサービスに自分のスキルをアップしてみよう」と思うきっかけにはなりますが、既存のサービス提供者からすれば、
テレビCMが即、既出サービスへのつなぎにはならない
可能性があります。 ぶっちゃけ、この機能でいえば、既に実行されているココナラのネットバナー広告のほうが、ダイレクトに顧客の希望している内容へとリンクするので有利です。
■ ココナラテレビCMは、ワオミーなどの「後発勢力」へのけん制か?
ネット上でのスキルの売り買いサービスは、実は後発組が少しずつ増えています。
ランサーズストア
http://www.lancers.jp/store
ワオミー
https://wowme.jp/
いずれのプラットフォームも、できることは似ているので、ココナラさんとしては先行者利益を最大にしたいので、まずはユーザーの囲い込みに走りたいところ。
そこで、ネットの世界から現実世界へと移動してのテレビCM投入、ということになったのでしょう。
~~~~~~~~~~
しかし、ココナラの経営上のポイントは、「とにかくたくさんのサービスを使ってもらって、手数料をかせぐ」ことなのですが、逆説的ながら、サービス提供者からすると
「提供側ユーザーが増えれば増えるほど、自分の商品は多勢にかすんでゆくので不利になる」
という一面もあります。要するに、ライバルが増えると、一サービスあたりの個性は消えてゆく、というわけですね。
このへんのバランスをしっかりコントロールできないと、アタリショックのようなことが起きてしまいます。
起業者としては、このあたりの「たづなの引き具合」を勉強材料としてしっかり見てゆきたいものですね!
2017年7月12日水曜日
子育てママにピッタリ? トヨタ新型ルーミー・タンク/ダイハツ新型トール/スバル新型ジャスティ を徹底解剖!
(画像はトヨタさんのサイトからの引用です)
みなさんこんにちは。
ふだんはホンダ・フリード乗りの吉家孝太郎ですが、うちの奥さんのママ友さんから
「新しく出たトヨタのソリオみたいなやつ!ってどうなの?」
と尋ねられたので、 子育てママ目線での
トヨタ ルーミー・タンク
ダイハツ トール
スバル ジャスティ
(この4車種は、ぜんぶ兄弟車)
の良しあしについて、つっこみを入れてみよう!という記事でございます。
ちなみにママともさん、「ソリオはスズキなので、そこんとこよろしく!!」
でも、そんな間違いをするくらい、このサイズのミニミニミニバンは、スズキのソリオが、かなり有名になっていることはたしかです。
スズキソリオは、簡単に言えば「軽自動車のワゴンRがでっかくなっちゃった、もの」だと思ってください。
なので、初代はソリオじゃなくて、「ワゴンR+(プラス)」という名前でしたね。
ということは、ソリオのライバルとして登場した「ルーミー・タンク・ダイハツ・ジャスティ」も、厳密に言えば
ミニバンが小さくなったものではなく、ダイハツさんが作っている軽自動車がでっかくなったもの
と考えることができます。
なので、たとえばホンダのフリードや、トヨタのシエンタのように
「ミニバンをコンパクトにしたもの」
とは、ちょっと考え方が違うと、覚えておきましょう。
従って、後席がスライドドアなのは、上記のミニバンとも同じなのですが、たとえば、フリードやシエンタは、6人、7人乗りができますが、ソリオやルーミー・タンク・トール・ジャスティは
「あくまでも5人乗りサイズ・おまけにコンパクト」
を目指しています。
このことがはっきりわかる証拠があります。
新型ルーミーなど 全幅1670
新型ソリオ 全幅1625
新型フリード 全幅1695
新型シエンタ 全幅1695
ほら、車体の幅は、ルーミーやソリオのほうが、明らかに小さいんですね。
このことは、当然、子育てママにとっては「コンパクトで取り回しがよい」 ことに繋がります。
新型ルーミーなど 最小回転半径4.6~4.7m
新型ソリオ 最小回転半径4.8m
新型フリード 最小回転半径5.2m
新型シエンタ 最小回転半径5.2m
ね!曲がりやすいのは圧倒的にルーミーやソリオでしょ?
ところが、子育てママ目線で見ると、たしかに買い物やスーパーには行きやすいんですが、ひとつだけ
ここだけはしっかり確認!
しておかなくてはいけないことがあるのです。
それは、ご家庭のお子さんの人数!!!
幅が小さいということは、言い換えれば、「後ろのイスも狭い」ということなのです。
ルーミーやソリオは、5人乗りなので、後席は3人掛けであることは間違いないのだけれど、後席がどうかなーと見てみると。
新型ルーミーなど 室内幅1480
新型ソリオ 室内幅1420
新型フリード 室内幅1455
新型シエンタ 室内幅1470
ん??
んんん??
ソリオはたしかに狭いけど、
ルーミー頑張ってるじゃん!!!
ということで、ソリオは、ちょっと5人しっかり乗るにはしんどいけど、
新型ルーミー・タンク・トール・ジャスティは子育てママでも安心!!
ということがわかりました。 買いだぜ!
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