2017年7月11日火曜日

<吉家流儲かる起業塾17> ココナラの売上が10万円を超えました。 ココナラ売上を晒すコーナー



 みなさんこんにちは


 

 そういえば、全然売上を晒していませんでしたが、やっとこさ総売上が10万円を超えました。


 ちなみにココナラの表示は、「手数料引き後」の金額なので、いわゆる「総売上」というよりは、




「あなた、わたしに入ってくるお金の総額」




というほうが正しいかもしれません。




 さてさて、売上10万円に到達するスピードが、遅いのはご愛嬌として、 それでも、私のやっている商材は




「在庫不要!物品不要!手間最小!」



なので、まあ、純粋に10万円貰えたと思えば、ありがたいものです(^^



 個人的には、この商品の需要が、もう少し多くて、回転数ももう少し多いのではないか?と予想していたのですが、




「注文が来るときにはバタバタっと来るのに、止まると静かになる」



傾向があるので、 このあたりは頑張ってPRしていこうと思っています。






 でも、ココナラさんには、自分でPRしなくても、ネット上のバナー広告に「あなたのココナラ商材を勝手に流してあげるよ」機能がついているので、




※詳しくは 
<吉家流儲かる起業塾11> ココナラのバナー広告がすごい! 無料であなたをCMしてくれる方法 
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html 



を読んでね。





 CMがバチッと決まれば流入が増えるのかもしれません。(解析しろよ)





 というわけで、ボチボチですが、頑張ります~。

2017年6月29日木曜日

質屋アプリ「CASH」がどうなるかは知らん!しかし、CASHトラブルに起業家にとってのヒントがあった!




 みなさんこんにちは。


 質屋アプリ「CASH」がスタート初日でコケた(審査中止に追い込まれた)ニュースは、ネット界隈を騒然とさせていますが、





質屋アプリ「CASH」
https://cash.jp/




 キャッチフレーズは「目の前のアイテムが、一瞬でキャッシュに変わる」でしたが、実際には、「目の前の3億円が、一瞬でキャッシュで出て行く」事態だったようで、運営さんも大変ですね。




 さて、この質屋アプリ、しくみをおさらいしておくと



 ■ 自分の持っている現物を写真を撮って送り、審査を受ける。


 ■ 査定され金額がわかる。


 ■ 現金が振り込まれる。


 ■ 2ヶ月後にお金を手数料を乗せて返すか、品物を送って質流れにするか選ぶ。


 ■ 金融的な一回当たりの限界値は2万円。


 ■ 手数料は2ヶ月で15%



 という流れです。








 まあ、このしくみが、金融としてはグレーなんじゃないの?とか、悪用するやつが出てくるとか、そのあたりの悲喜こもごもは、みなさんの井戸端会議に任せるとして、



「この話には、ネット起業家にとっては、実に重大なアドバイスが含まれている!」


という点は、学んでもよかろうと思います。



 質屋アプリCASHさんが、初日にして総崩れになることは、体制の不備やら、想定の弱さやら、


「そもそも資本金が600万円で、社員4人で対応できるの?」


という部分も含めて、いろいろ話が出てきている最中です(苦笑)







 しかし、賢明なる読者諸君は、運営のBANKさんのことをいろいろ批評したり、悪く言っている場合ではなく、



「この大いなるネタから、大いなる教訓を得ようではないか!」



と感じ入ってほしいところです。



 そう!このCASHの失敗には、重要なポイントが隠れていたのです。




 その大事なポイントを指摘しておられるのは、現時点ではこの人しかいません。


 シェアーズカフェオンラインの中嶋よしふみさん。



 
質屋アプリ「CASH」が一日でサービスを停止した、たった一つの理由。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/nakajimayoshifumi/20170629-00072707/



 詳しく読みたい人は、彼の記事をよく読んでください。



 この記事でいわんとするところを簡単に言えば次のようなことになります。






「ウェブサービスを成功させる唯一にして絶対の方法は、コンピュータにやらせて自分は何もしないことだ!」




 おなじことをいろいろ言い換えてみましょう。



「ネットで起業する時、一番の成功の鍵は、自分がいかにして何もしないか、ということだ」




 ほかの言い方もできます。



「ネットやウェブで成功するには、自分自身は実際のモノを扱わないことだ」




  なんとなく見えてきましたね?!




 そう!今回CASH陣営がやらかしたのは、最終的な末端顧客との間で、



「モノを査定する」「金を送金する」「モノを送りつけられる」などの実際の作業を担当してしまったこと



にあるのです。



 ネットでウェブですから、顧客が増えたりサービス利用が増えると、「実際の作業が膨大に膨れ上がり」ます。


 アマゾンさんじゃないのですから、物理的な倉庫や、集配システムが追いつかなければ、


「実際の作業」


なんてものは、やらないにこしたことはありません。



 質草の受け取り作業に4人しか社員がいないなんてのは、もはやネットサービスでも、ウェブでもアプリでもなく、



 永遠なる人力作業



以外の何者でもありません。





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 アマゾンなどの国際巨大企業ならともかく、個人や少人数ではじめるベンチャー的スタートアップであれば、



「パソコンが勝手に作業をしてくれ、顧客が物を実際に触る作業をやってくれるならば、手数料が黙っていても入るんだけどな」


というしくみを構築するのが、最善だと言える訳です。


 そういう意味では、ヤフオクは自分では売り買いそのものや発送をせず、「そういう場を自動化して提供しているだけ」なので、収益を上げやすいことがわかりますね。


 あるいは、個人ベースでは、「電子書籍を作って売る」なんてのは、印刷製本流通を無視して、「ファイルをコピーして送るだけ」なので、手間がほとんどかかりません。

 



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 で、吉家孝太郎ならどうするか。


 質屋アプリを作りたいなら、


■ 写真を撮ってモノを査定

■ 金額が出るが、提携先の質屋や買取ショップへ持っていけばその金額が担保される。

■ あとは質屋でどうぞ。会社はバックマージン(手数料)を得る




とか


■ 写真を撮ってモノを査定

■ ヤフオクやメルカリで売れた最高値と、ハードオフの査定金額を瞬時に表示

■ ハードオフへ走るか、メルカリで売れ!

■ 毎月定額の使用料を取る。



とか、そんなのが考えられそうですね。








2017年6月28日水曜日

phaさんという生き方について思うこと ~「高学歴ニート」や「働きたくない」はカテゴリや思想ではなく、個人の物語である~




 Phaさん、という方の生き方が、いろいろな意味で注目されているようです。


 私は、この方を存じ上げているわけでもないし、彼の業績や行動についてそれほど詳しいわけではないのですが、ネット界隈での彼への共感やら評価やらを見ていると、とても面白いことに気付いたので、さらりとまとめてみたいと思います。


 もちろん、最初に断っておきますが、私はPhaさんの生き方そのものについて、肯定も否定もしません。彼そのものを評することは、まったくありません。


 その理由は、この記事の終わりのほうで、自然と明らかになると思います。



 

 Phaさんという人を簡単に説明すると、以下のような生き方を実際に体現しているそうです。



 ■ ニートであり、(基本的には)働かない。

 ■ ネットなどから最低限の収入を得ている。

 ■ ギークハウスというシェアハウスを運営している。

 ■ 「ニートの歩き方」などの出版物を出している。

 ■ 京都大学を卒業しているが、一般の企業人生活は向かなかった。

 ■ 働きたくない、を公言している。


(細かいところが間違っていたらごめんなさい)



 さて、こういう人なので、「スーパーニート」とか「日本一有名なニート」とか、「天才ニート」とか呼ばれているわけですが、彼の



「働きたくないなあ」


という姿勢は、多くの若者の共感を呼んでおり、



「Phaさんのように生きてみたいなあ」



という一種のあこがれを産んでいるのだとか。


 なので、彼の生活がテレビで取り上げられたりすると、かなり多くのネット民が、「Phaさんの生き方、思想はありなのかなしなのか」「自分もあのように生きられるのか」など、



心をざわつかせる



のだそうで(^^




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 しかし、吉家から見ると、この現象は、いくら何十万人という「働きたくないぜ感」を抱く若者の共感を得ているとしても、


「Phaさんという生き方は、個人の物語であって、一般化はできないだろう」


と思います。そうです。


「Phaさんの考え方や思想は、Phaさん以外には再現できないだろうので、それを見聞きする者が共感するのは、実は誤認のようなものだ」


というわけです。



 たしかに、仕事上つらい思いをしていたり、日々の労働に疲れている人々から見れば、Phaさんの生き方は一種の理想郷で、共感するに値します。


 しかし、それは幻想であって、Pha的生き方というカテゴリが存在したり、Pha的思想が成立しているわけではありません。



 これは別の人物名をあてはめるとよくわかります。


「イケダハヤトさんに憧れるが、高知へ移住できるか」


とか


「与沢翼さんに憧れるが、秒速で稼げるか」


みたいな問いを挙げてみればすぐわかることで、たぶん、日東駒専卒業のニートはPhaさんのように生きられないだろうし、あなたが京大に入れたらほぼ確実にニートはしないのです。





 だから、Phaさんの生き方は理想卿でも、批判の対象でもなく、


「彼自身の、天命にも似たオリジナルストーリーであって、彼というキャラクターとともにある生き様そのもの」


なのだと言えるでしょう。





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 Phaさんは、いちおうネットの世界で小さなものづくりをしたり、本を書いたりして収入を得ています。

 そして、何かに属さず、可能な限り「好きなこと」をして生きている、という見立てができます。



 私はアラフォーですが、私と同年代の人は、彼とある意味全く真逆で、デジタル世界に縁がなく、完全にアナログでありながら、ある意味全くおなじ香りのする天才を覚えていることでしょう。





 その人物の名前は、




 中島らも



と言います。


 彼が職業作家であったかと言えば、苦笑する人が大半だと思います。


 好きなことを心を研ぎ澄ましながら書き綴り、好きなことを好きなようにやり、ギークハウスならぬ自宅は、薬物中毒の謎の友達たちで溢れ、そして飲んだくれて飲んだくれて、飲んだくれて亡くなったらもさん。


 彼は著述家ではありました。しかし、その仕事ぶりは、旧来の「作家というカテゴリがなんとか存在していた時代であったから作家」なのであって、現代にもしらもさんが生まれ変わってきたなら、


「絶対にニートになる」


と彼は喜んで日本一のニート著述家になったかもしれません。



 ちなみに中島らもさんは、灘中・灘高へ通っていた賢い人です。(大学は大阪芸大へ進学しましたが)





 そして繰り返しますが、らもさんと同時代の人は、


「中島らもは天才であった」


という点については万人が認めるところながら、



「中島らもに、自分もなりたい」


と思う人間は、たぶん一人もいない、という点で、彼は完全にオリジナルな存在だったことがわかるのです。




 中島らもが超絶空前絶後の個人であったように、Phaさんも、ニートというタグをつけたオリジナルな個人です。



 だから、Phaさんを見る人たちには、2つのポイントが求められるのだと思います。



一つ目は、


「Phaさんへの共感は大事にして、多いに感じ入ること」


そして、二つ目は、


「ひるがえって、 自分はどんなオリジナルの人生を生きるのか、自分だけの物語を生きること」


この2つです。



 中島らもに魅せられた多くの若者が、中島らものコピーになれず、その後の人生を時には大笑いしたり、大泣きしたり、あるいはたまに飲んだくれたりしながら、今も生きているように。
























 












 



 

2017年6月6日火曜日

<実国学を考える21> まだ東京で絶滅してるの? つづきです!機会の平等か結果の平等か。




 前回の記事、


 「幸せなる人生というやつが、だいたいわかった件。 ~まだ東京で絶滅してるの?~」
 https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2017/05/blog-post_31.html



は、数多くの方に読んでいただき、また敬愛するニャートさまにもツイッターでご紹介いただいたので、心より感謝申し上げます。



 で、これまで



■ 今現存している日本人のうち、3分の2は子孫が絶滅する。

■ これまで、子や孫は増えてゆくものだと思っていたけど、長男が一人代々続くのみ。

■ 都市生活者は、一人身で絶滅してゆくものが多い。



ということを明らかにしてきたわけですが、 元ネタとして引用した森田先生のお話に続きが掲載されていました。






THE PAGE
「7歳までは神のうち」 明治中期、農村で大人になれた子供は10人中7人
https://thepage.jp/detail/20170605-00000003-wordleaf






 江戸時代の都市生活者は子孫を残さず死んだ、というショッキングな話のつづきで、今度は農村に目を向けると、たしかに農村では子沢山だったかもしれないけれど、


「だいたい5、6人子供を産んだけど、大人になれたのは2、3人」


という事実が浮かびあがってきたわけですね。



 この理由は、もちろん、当時の医療水準が高くなかったからで、幼子も何割か死ぬし、もっと酷いことに、妊娠したお母さんも産中産後に、何割かが死んでいたことがわかります。



 では、このことを踏まえて、明治時代のような人口になっているはずの100年後を想像してみましょう。


 医療水準は格段に進歩し、食料水準も私がデブになるほど進歩しているわけですが、赤子の生き残り率はどうなっているでしょう。



 内閣府のデータでは

http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2015/27webgaiyoh/html/gb1_s1-1.html


2000年から最近までの出生数が年間100万人程度だということがわかります。

2016年に100万人を割り込んだので、そのニュースを覚えておられる方も多いかもしれません。





さて、その出生数に対して、人工妊娠中絶の数を拾うと、



平成25年度衛生行政報告例の概況

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/13/dl/gaikyo.pdf



 中絶数が、年間20万人程度だということもわかってきます。

(統計に出てない数がもっと多いという説もあります)



 日本人の死因のナンバーワンは、ガンでも脳卒中でもなく「中絶」だという問題提起は、最近

沖田×華さんの「透明なゆりかご」

でなされたばかりなので、記憶に新しい方も多いでしょう。




 また、これとは別に自然中絶(流産)の件数を拾うと、これまた、


 流産数は年間18、19万人くらいという推計もあります。




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 自然に起きてしまう流産は、江戸時代や明治時代にもあったでしょうからこれをカウントするのはフェアかどうか微妙なので除外するとして、平成に入っての現状をデータとしてみると


 120万人が生まれてくる可能性があったとして、生まれる前に殺されているのが20万人なので、




 平成時代、日本で大人になれた子供は10人中8人



ということになりますね。ここから、若年死亡者数や、若年自殺者数をひけば



 なんだ、明治時代とそれほど変わってないじゃん!



ということが見えてきます。荒っぽい推計けどね。




 そうなのです。衛生事情や食料事情が良くなって、コンドームまで発明されているのに、



「大人になれないぼくら」


の数は、ちっとも変わらんのですたい!!!






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 なので、表題の通りの疑問が浮かびます。



 子供を産んで淘汰させるほうがいいのか、最初から産まずに殺すほうがいいのか。


 チャンスの平等か、結果の平等か。




 生き残れるかわからないけど、産むだけうんで頑張れ。のほうがいいのか。


 こんな時代に生まれるくらいなら、生まれないほうが幸せなのか。




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 都市生活者のみなさんも、田舎暮らしの人も、自分や兄弟の子孫があと何代生き残れるのか。


 幸せなら生き残ったほうがよくて、不幸なら死んだほうがいいのか。


 絶滅した恐竜と、生き残ったゴキブリのどちらが幸せか。


 「シーラカンスとなるとも、三葉虫となるなかれ」なのか。




 いろいろ考えてみたらいいと思います。

 



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 おまけ。絶滅するあなたへの応援歌、書いてみました。高村光太郎さんの「道程」より。



 「童貞」

僕の前に道はあった
僕の後ろに道はない。
ああ先祖よ
父よ
僕を生み出してくれた広大な父や先祖よ
僕はあなたから離れ、守ることができない
常なる先人の血筋は僕で途切れた
この疎い童貞のため
この疎い童貞のため







(オリジナル 「道程」)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


















2017年5月31日水曜日

<実国学を考える20> 幸せなる人生というやつが、だいたいわかった件。 ~まだ東京で絶滅してるの?~






 人生とは一体何なのか。


 この疑問は人類共通の問いだと思いますが、残念ながら「おおむね答えが出てしまい」ました。


 そんな悟りを開いたようなヨシイエのヨタ話に、しばしお付き合いくださいませ。


 哀しいかな、今日のお話は、あまりに救いがないので、万人に読まれるべきものではないと思いますが、ヨシイエの数少ないファンの方には、お話してみようと思う次第です。




 さて、吉家は自称「実国学者」を名乗っています。国学というのは「日本のあり方、ありよう」をじっくり検討する学問ですが、


 万葉集の時代が良かったなあ!
 (荷田春満)


という考え方から国学を構築した先輩もいれば、


 やっぱり神道の精神だよねえ!
 (平田篤胤)


という考え方から国学を立てた先輩もいます。


 国学の流れについては

https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/01/blog-post_23.html

にまとめてあるのでそっちから読んでくださいね。





~~~~~~~~~~




 さて、そんな国学の流れを念頭に置きながら、「この日本はどのように生きながらえ続けてきたのか」を実際の実像に迫りながら考えるのが実国学なる視点なのですが、今日はなんと



”実国学的に考える、日本人の幸せな人生”


について、あらかた答えが出てしまった、という恐ろしい話です。





 その前に、以前このブログで取り上げた、


『若い女性が貧困で風俗嬢になるしかないのと、妾・側室になるのとどっちが良いか』
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html


を予習がてら読んでおいてください。


 ここで何を頭の片隅において欲しいか、というと。


”江戸時代から明治頃までの女の人は、どういう暮らし方をしたのか”

”上流階級数パーセントの人はどうだったか。中流の数十パーセントの人はどうか。庶貧民の数十パーセントはどうだったか”


の2つの問いです。



 そして、このことを覚えておきながら、次の文章を読んでくださいね。





 THE PAGE より

商人は華やかだが、つらい仕事 明治期の彩色写真に記録された呉服屋の実態」
https://thepage.jp/detail/20170529-00000006-wordleaf 





 社会思想と哲学をやっておられる森田先生という方の文章です。簡単に言えば、江戸時代の男はどのように生きたか。というお話。


 たとえば、どこそこの藩主の話や「武士の家計簿」などで、なんとなくですが「上流~中流」の江戸の男子の生き方は想像がつくようになっている昨今ですが、


「中流~下流(つまり当時の日本の数十パーセントの人たち)の男子の暮らし」


というのが、この記事からわかるようになっています。



 先に女の子バージョンの「奉公人から家事手伝いまでの暮らし」について考えたのと、対になっています。





~~~~~~~~~~




 上の記事には、実は重要な「答え」が書いてあって、そこがまさに実国学的にはツボだったりします。



 それはどんなことかといえば、



「長男は、子供を産んで育てることができるが、そこからいかに子供が増えようとも、その長男以外は子孫を残していない。なので、日本の総人口は変わっていない」


ということです。江戸時代末(そしておそらく明治頃)まではね。


 それを目に見える生活レベルで描いて下さっているわけですが、一言でいえば


「都市生活者は男女とも子孫を残せないだろう」


ということです。年であれば商家の主人クラスか、地方であれば土地持ち地主クラス以外は、子孫を残すことができず、残せたとしても長男の直系(養子など含む)だけが続いてゆく感じ、なのです。


(もっと恐ろしいことに、記事によると独身で人生を終わるどころか「途中で死ぬ」と書いてある)



~~~~~~~~~~


 ここで、恐ろしい話の核となる人口推計を挙げておきます。



 すごく荒っぽいので、詳しい数字が知りたい人はググッてください。

 簡単に言えば、こういうことです。

 鎌倉時代の日本の人口は700万。室町で800万。江戸幕府が出来た1600年で1200万。

 日露戦争で4700万。1900年ごろのお話。


 そこから2000年にかけて100年で日本の人口は1億2千~3千近くまで行くわけです。


 単純に約2.7倍に増えるわけですが、この間


「お父さんとお母さんから子供が3人~5にんぐらい出来て、みんな成人してそれぞれ孫を作って、孫が5人~15人ぐらいになったよね」

 というおじいちゃんおばあちゃんが存在したということです。


 ところが少子高齢化にすでになっており、このままいくと人口推計は、次の100年~で元に戻るとされています。

 2100年時点で、推計は6500万~8000万くらい。


 この時のおじいちゃんおばあちゃんは、


「お父さんとお母さんから子供が2人くらい出来て、子供のうち一人は結婚したけど一人は独身のままで、一人だけ孫が一人出来て、 その孫一人きりだねえ」


という人が大半だということです。


 これが、江戸時代に起きていた「長男の家系だけが存続する」というやつです。



 となると、単純計算で、日露戦争ごろに存在していた家系は、今3倍くらいに膨れ上がっているけれど、元にもどるわけだから、3分の2の今の人たちの子孫は、100年後にはいない、ということになります。


 荒っぽいけど、今存在している日本人のうち、6割7割は、「自分は絶滅しないけど、子孫はかならず絶滅する」ということになります。



 現存している日本人のうち、100年後も子孫が続くのは4割以下だと思われます。


 あなたがどんなに頑張って人生を送っても、3人に2人はどこかで絶滅がやってくるというわけです。


 スーパーマリオの2面で終わるか3面で終わるかぐらいのことで、ほとんどの人はそこら辺で終わってしまうのです。


 あなたがすっごい頑張っていい人生を送っても、息子や娘が「クソみたいな人生を送るのを見る」可能性のほうが高いかもしれないという恐ろしい話です。






~~~~~~~~~~




 とすれば、逆にこの4割はどういう人たちが生き残るというのか。


 まずは、ベタですが、


「子供がいる人」


です。この際、結婚してなくてもいい。子供がいれば子孫はつながる可能性があります。


それから、子供ができてもそこで潰えてしまってはどうしようもないので、


「子供の代でも、その次の子供が作れる家庭を持てる人」


が、さらなる条件になります。


そのためには、


「ひ孫くらいまで、なんらかの形で資産を継承できる人」



が、重要ポイントになります。港区にタワーマンションを持っていてもダメです。孫の代に関東大震災が来て倒壊していたり、タワマンブームが終わっていたりしたらダメだし、孫がアホで定職につけなくてもダメです。


 そうすると、日本全体を見回すと、はるか昔からこれに該当しそうで、これからもこれに該当しそうな人種がいることに気付きます。




① 田舎や地方都市で、昔は庄屋さんだったのよなんて言われながら、

② なんだかんだいって田んぼやら畑を持っていて、それがいま不動産賃貸とかになってて

③ 駐車場とかアパートとか、ちょびっとだけある感じの。

④ お父さんは役場の人で、おかあさんが地域のケアマネージャーとかやってる。

⑤ 大学は都会へ出してもらったけど先祖代々の土地とかあるから、帰ってきて役場に入った息子がいる。

⑥ そんな家柄の長男とか。



なら、あと3代くらい今の暮らしを継承してゆけば持ちそうですね。



 大都会へ出て、大企業へ入り、「全国・海外を飛び回るぜー」とか行ってた人は、これからの100年で激減しますから、それが「勝ち組」になるかどうかはわかりません。


 そういう人は、みな中国人とかインド人になってしまい、日本人ではなくなる可能性が大で、日本人は

「海外じゃなくて内需だぜ」

とかその頃言い出してます。


 地方の役場は、なかなか無くなりません。無くなっても合併で生き残りますから、イスは徐々にしか減りません。




 日本の人口が、江戸時代やら戦国時代に戻るということは、「江戸時代やら戦国時代に領主層として生きていた人たちのスタイル」を実践するものが生き残るということです。


 それ以外は、都市へ出ても独身のまま途絶えるということです。



 ならば、日本人にとっての100年後の幸せは、もはやはっきりしています。


 地方の領主になること。イケダハヤトさんではないですが



 まだ東京で絶滅してるの?



です(苦笑)



 それも、江戸時代に「藩」があった中心地域などに根ざしてゆくことが大事です。そういう場所は、経済や政治においても、なかなか「削減」の対象にならないからです。


 間違っても「ど田舎村の僻地」へ行ったりしてはいけませんよ!





































2017年5月7日日曜日

「非正規雇用者のサイレント革命」(byニャート氏)を読んで



 以前に、このブログでも少し紹介したニャートさんのブログに興味深い記事が載っていたのでその感想を書こうと思います。




 非正規雇用者のサイレント革命
 http://nyaaat.hatenablog.com/entry/silent-revolution-01




 吉家は、常々このブログでも公言している通り「実国学者」なので、現代日本の様相も「国学」的視点で読み解こうとしてしまうのだけれど、簡単に言えば



 歴史を通観しながら考えるとどうなるか



という視点は、忘れないようにしようと思っています。




 さて、ニャートさんの論は、2つの軸があり、その軸が微妙に交差しているので、まずはそこを切り分けてみたいと思います。






 ひとつめの軸は、「就職氷河期世代」という限定的な世代の軸です。 これは、現代日本における30代から40代の世代のことで、いわゆる失われた二十年の間に、それまでの新卒正規雇用の枠組みを適用してもらうことが困難だった世代を指します。


 この軸において、偶然であり、かつ残念なことに非正規のループに落ちてしまった若者が一定数いるとして、彼らがどのように生きれば


「多少楽に生きられるか」


という課題は、軸として大事な視点だと思います。



 しかし、国学的視点で見れば、この軸については、たとえば


「戦国時代に名のある武将となれずに、たくさんの雑兵の若者が戦で何万人、何千万人と死んだが、彼らはいかに生きれば幸せだったのか」


という論を立てるのに似ています。



 武将として正規雇用された者は、生きがいやら死にがいやら、あるいは相応の領地やら石高やらをもらって、あるいは結婚して側室を貰ってなんとしても跡継ぎを生んで、家族は幸せに暮らしましたとさ。たまに、お父さんは戦で死ぬけど子孫は安泰だもんね。



という正規武将の話と、非正規足軽の話を比較した時、そもそも



「非正規足軽の話は、歴史書にもほとんど残っていないし子孫がどうなったとかわからないし、独身で死んでいったんじゃない?」


ということになってしまうわけですね。



 そうすると、非正規足軽の話は、いくら社会的に取り上げようとしても、「可哀想だった農民」とか「戦でなんぼでも死んだ雑兵」の話になってしまい、



 ほとんど無視



されることになります。悲しいかな。 教科書に載っても、一行です。一行。


 ましてや、ニャートさんの言うように、その後の世代が人手不足によって再び正規雇用される確率が上がるのであれば、


 彼らは偶然に不運だった人たちで、可哀想だけれど仕方ないし、ちょっとした時代のボタンのかけちがいだったよね


で処理されてしまうのです。





 そうすると、後に残るのは、非正規の足軽雑兵たちが、個人として「いかに、せめて充実して生きたか」がポイントになります。彼らは社会的にはほぼ抹殺されるのだから、社会的に取り上げてよ!という運動は徒労です。


 それよりも、個人の幸せを考えた方がいい。



Aという足軽雑兵は、独身で城攻めの時に、堀に落ちて死んだ。

Bという足軽雑兵は、 故郷の村に好いたおなごはいたが、籠城して飢え死にした。

Cという足軽雑兵は、妻子を残して戦に参加し、名のある武将の左足を刺したが切られて死んだ。



 さあ、どれがいい?というのと同じです。


 そりゃ、なんかよくわからんけど、仕事らしい仕事をしたのはCかなあ。で、子供もいるし、未来につながるだけいいじゃんね。



と誰もが思うでしょう。実際、戦国時代から江戸時代にかけては「武功書」というのが盛んに作られます。

 これは、一般の足軽側からも作るし、藩の偉い人側からも作るのですが、


「うちの先祖はどこそこの戦いの時にこんな武功を挙げたので、なので子孫である私にいい地位をください」


とか


「うちは殿様を守るためにこれだけ頑張った先祖がいるので、なので今の地位は正当なのです」


とか、そういうことをお互いに主張したり確認したりするわけですね。



 そして恐ろしいことに、江戸時代には戦が無くなったので、ある藩に属する人物の位は、この時に決まった評価がベースで260年間その子孫に対して有効に作用するのです。

 だって、それが封建社会だから!!!





 現代は封建社会ではないので、子孫まで影響力が続くわけではないですが、これが歴史からみた個人の事実なのだとしたら、就職氷河期の人たちは、


「世代の不遇は仕方ないとして、あとは個人としていかに幸せになるかを考えろ!」

「今は足軽雑兵かもしれないけれど、秀吉みたいにちょっとでもなり上がればチャンスはあるのだから、個人として頑張れ!どうせ死ぬのだから死ぬ気で行け!」


というオチになってしまうのですが、いかがでしょう(^^;






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  さて、もうひとつの軸について考えます。それは世代関係なく


「会社組織に属さずに、非正規として生きる」


という生き方そのものについてです。あるいは、田舎などの「経済のみに依拠しない地域」を利用しながら、


「お金と地位をベースにしない生き方を選択する」


というスタイルの軸です。



 ニャートさんは、「自給自足」や「小さな経済」「物々交換」などのしくみを用いながら、そうした経済圏を回すことができれば、



 強者の論理で回っている日本経済に対してのアンチテーゼ



になるのではないか?と考えておられます。



 これは大変におもしろいし、言いたいことはわかります。 ただ、一点だけ懸念がある。


 国学者としての吉家が声を大にして言いたいのは、次のことです。



 もし、ニャートさんの考えるような小さな経済や小さな社会が成立したとして、


「この生き方をチョイスする人が、子供を生み育て、その子供たちがおなじ循環で生きられないのだとすれば、その世界はすぐに消えて、存在を否定されるよ」



ということです。



 国学視点では、今30歳の人が60なり70までのみ成立する経済圏があったとして、その次の世代がまったく成立しないのであれば、


 それは単なる何かの食いつぶしであって、破綻する。


と考えます。



 つまり、その経済圏は、歴史教科書に「失敗例として1行載るだけだよ」ということです。


 共産主義がいいんじゃないか?とか、ソフホーズやコルホーズがいいのでは?とか、文化大革命をやってみようかとか、それと同じレベルで、


「ミニマム経済圏みたいなのはどう?」


というのであれば、そのオチはたいへんに酷いことになってしまう。


 だから国学的には、「その社会は、どのように何世代も持続し続けるか」を第一義的に見ようとするのです。






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 批判的言説のように聞こえては申し訳ないので、実例を挙げて説明をします。



 私は大阪から約一時間の某所に住んでいて、自分の家は1000万円でオール電化一戸建て庭付き二階建て築20年を買いました。駅まで歩けて、特急も止まるので実際に大阪に通勤している人が千人以上もいるような地域です。


 住宅ローン返済額は、15年返済で月6万円。アパートを借りてもまったく同じくらいです。


 それで50歳には完済できるようになっています。


 うちの会社はいくつかの小さな会社が集まっていますが、オーナーは地元の中小企業のボスです。

 分社しているAのトップの年収は1000万あります。従業員は10人程度。

 私は分社しているBのトップですが、役員ではなく従業員扱いなので、年収は△00万円です。従業員は4人です。


 一般従業員は正規職員なので、年収は300万円台の子もいますが、福利厚生は全部あり、中小企業向け退職金制度にも加盟しています。



 ちょっとだけ地方に目をむければ、こんな条件の会社や、いわゆる『一昔前に、みんなそうだった家族のスタイル』を実現できる職場は山ほどあります。


 ただ、ひとつだけポイントがあって、


「そうした会社のイスは、何万人もの潜在的希望者に対して、地方ごとに細分化して、数席しかない」


ということです。


 うちの会社で言えば、3社中、オーナー親族ではない者が座れる上席はたった2席しかない、ということです。



 しかし、その2席は、日本中に山ほどあって、東京にいる人はその席が存在していることをまったく見ていない、ということです。


(ちなみにうちの会社の前任者は女性だったので、男女はたまたまうちの会社では関係ありませんでした)



 なぜ私が国学目線を繰り返して言っているかと言えば、うちの会社のオーナーもそうですが、



彼らは、戦国武将の末裔であり、名主や庄屋の子孫として、長年地場での人間関係や農地支配を掌握していて、現代でもその名残りは続いている



ことがわかってきたからです。





 これから、日本社会は「座れるイスがどんどん縮小する」ことは間違いありません。


 
  これまでの生き方論の有りようでは、


「優秀たるものは、都会へ出て、大きな会社に寄って、そこで世界的な働きをするべきだ」


というものでしたが、これからは、日本が世界で果たすべき役割の意味も変わってくるし、何より人口が減り、優秀たる者が座れる椅子の数が減ってくるわけですから、



「優秀たるものは、いち早く地方の領主や主君と出会いながら、地域地方において独自の働きをせよ」


というスタイルへと変わっていくのが理想なのかもしれません。



 では逆に弱者はどうすればいいのか。


 現状では弱者は都市へいけば何か仕事にありつけるのではないか?と都市への流入を続けていますが、果たしてそれがいつまで成立するのでしょうか?


 大阪にはあいりん地区という日雇いの町がありますが、高度成長期には、日雇いの仕事はものすごくたくさんあって、


「数週間働いてたんまり稼いで、残り半分はだらだらする」


という生活を実践する労働者もたくさんいました。特に鳶職などは手当てがいいので、建設労働が盛んなりし頃は、それでも充分生きていけたわけです。



 ところが、日雇い仕事が減少し始めると、日雇いの町は当初は無縁だった「貧困」の影がチラつきはじめます。


 これからの東京や都市も同じで、かつてのイメージで「仕事を求めて流入は続く」ものの、実際には「いい仕事や安定した仕事のイス取りゲームのイスは減っている」わけですから、残った仕事はもはや言うまでもない、ということになりつつあろうと思います。


 とすれば弱者にできることは


「イスがたくさんありそうなところに、人数以上に群がる」


ことではなく、


「空いているイスを、周囲に惑わされずに、地道に探す」


ことなのかもしれないとも思います。





 私は、今後、イス取りゲームの悪化と戦国時代化はいっそう進むと考えています。


















  
  





















 














2017年3月28日火曜日

”Fランク大学の学生を採用したらこうなった”が面白かった件



 今日のヤホーで配信されていた「Fランク大学の学生を採用したらこうなった」がめちゃくちゃ面白かったので、ついついコメントしてしまいそうです。



 やほー版 「Fランク大学の学生を採用したらこうなった」
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170327-00010000-storys-life



 元ネタ STORYS版 「学歴フェイルターを無視してFラン大学の学生に内定を出した話」
 http://storys.jp/story/7242



 簡単に言えば、人事担当者が、上司の「一定の学力がある大学の学生以外は取るな」という指示に逆らいながら、それでも偶然下の大学から上ってきたA君を採用する、というお話です。



 オチまでぜひ読んでほしいのですが、結果「A君は5日で辞めた」のだとか!(苦笑)





 「学力と能力は比例するのか」とか「それでも中にはレベルの低い大学にも良き人材がいるのではないか」とか、その手の話はもはや巷に出回りすぎていて、


「学歴フィルターなるもの」も、一種の都市伝説で、逆に「Fラン大学から出てきた逸材」も一種の都市伝説なのではないか、みたいな話になってきているように思います。





 ヨシイエから見ると、ヨシイエは一応教育の専門家でしたので、



「えーっと、みなさん『できる人材がいるのではないか』とか、『意欲や能力が高い人材が、Fランク大学に紛れているはず』とか、どちらかというと



 個人の事象を焦点に当てた話しぶり


をしてはりますけど、この内容は、実はズバリ



 確率論



だったりするのよ」


と断言できます。



 そうなんです。これはズバリ、確率論のお話で、


「良いとされている大学には、良いとされる人材が確率的に多い」


「悪いとされている大学には、良いとされる人材が確率的に少ない」

 
ということなのです。







 だから学力と能力の「相関関係」についても、実際にどのように関係が結ばれており、どのような関係が発現するのかをちまちま論じているよりも、


「結果として、確率的にはどうなん?」


ということのほうが、オチが早くなってしまうというわけなのです。



 ”良い大学を出たものは、良い能力があると推定される”という永遠のテーマは、教育かいわいでも「ラベリング理論」として、すでに有名です。


 また、それに反論するならば、「ある一定の能力(学力)と別の能力(たとえば体力)は、脳の領域固有性により、連動するとは限らない」ということも、脳科学のかいわいではすでに有名です。



 しかし、それも個別のお話で、それらの人材を「層」「かたまり」「群」でみてゆくと、



「確率的に、よい大学にはよいとされる人材が多い」


ということは言えるでしょう。なぜなら、よい大学に入るためには「いくつかの選別作業が行われている」からです。



 日常的に、勤勉に学習すること。日常的に基本的な生活習慣があること。逆に、一発勝負の試験にもあるていど強いこと。他者との競争において、結果を出せること。


などなど。


 良いとされる大学の学生は、上記のような選別を受けていますので、当然「確率的に良く」なります。



 逆にFランク大学生は、必要な選別作業を受けていません。なので、確率的には、その中に良いと推定される人材が存在する確率が低いのです。




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 話は簡単です。これはみかんなのです。



 MサイズとLサイズに選別されたみかんが箱に100個入っているとして、もう片方には完全無選別のみかんが箱に100個入っているとしましょう。


 無選別の箱にも、かならずLサイズのみかんは入っています。


 そこで、どちらの箱からも「1分間だけ手探りでみかんを手で面接してなでまわすことができるとして、ひとつだけ取り出してみなさい」という作業を面接官に与えます。


 この場合、Lサイズのみかんを採用できる確率はどちらが高いですか?


ということなのです。


 MLサイズの箱から、Mサイズのみかんを選んでしまうことはあるかもしれません。しかし、もう一つは無選別ですから、Lサイズのみかんをチョイスするのは至難のワザです。



 この時に、面接官Aが「自分なら無選別の中からLを見極められるぜ」と豪語したとします。


 そこにもう一人の面接官Bが「じゃあ、MLサイズの箱から僕はなんにも考えずに一個取り出しますね」と言ったとします。


 その時に、面接官Aが優秀なLサイズを探り当てるのか、それとも面接官BがLサイズを探り当てるのかどちらだと思いますか?


 賢明なるみなさんは、もうお分かりですね。


 「それは実は単なる確率論やな」


と。そういうことなのです。




 採用現場もそうなのでしょうが、実は送り出す側の学校の人間も、実は若者たちを「個人個人」では捉えていません。もちろん、個別の指導はしますが、ベースになるのはあくまでも



層・群


です。


 高校の段階ですら、「これくらいの層は、こういう上級学校へ進学する」とか「こういう層は、就職に強いだの弱いだの」ということは、確率的にデータを持っているのです。



 そのことを知っている者たちからすれば、今回のような議論は不毛です。もう答えは出ているのですから。



 確率論だということは



「面接官である君が、一生懸命一人の人材を選んだとしても、確率的に高い箱から引けるのであれば、わたしが無作為に抽出した人材のほうが、結果的に能力は高いことになる」


ということがオチなのです。くわばらくわばら。