新社会人となった人たちに、老婆心ながら「あんなことやこんなこと」をグチグチ言ってきたこのシリーズですが、基本的に
今ドキの若い人にとっては、耳障りのよくない事実
をお伝えしてきた結果、かなりネガティブなことが多くなりましたので、最後くらいは明るい話題にしたいなあ、と思っております。
というわけで、最後はこれをチョイスしました。
副業をしよう
ということ。
今、会社に入ったばかりなのに、本業にも集中しないで「何を言う!早見優!(古い)」な気がしなくもないですが、まあ聞いてみましょう。
副業といっても、ふつうに皆さんがイメージすることとは少し違います。
会社員の副業と言えば、古くは株をやって小遣いを稼いでみようとか、大きいものでは不動産投資をしてみようとか、先物取引に手を出してボロボロになってみようとか、そういうのが一般的でした。
ちょっと現代的になると「FXをやってみよう」とか「アフィリエイトを試してみたい」とか、そんなのもあります。
ちょっと肉体をつかうのになると、「本業の仕事が終わってコンビニで深夜バイト」とか、「24時間操業の工場の夜勤にもぐりこむ」とかもありますね。タフです。
いろんな種類の副業がある中で、本音を言えば「どれでもいいから、やってみたらいいんじゃない?」と思います。
本業の会社の就業規則に違反しない限りは、別にどれから手をつけてもいいと思います。
ただ、なんと言ってもこのシリーズ記事は「社会人初心者」のための記事ですから、会社の目を盗んで起業しろ、とかあまりハイレベルなテクニックを要求するわけにはいきません。
あくまでも「ふつうに、まっとうに、肩の力を抜いて」の副業をおすすめしています。
==========
どういうことか。簡単に言えば「あなたのコンテンツを販売してみてください」ということです。
肉体的な労働時間を切り売りするのも「コンテンツとしてのあなたの販売」と言えるかもしれません。しかし、まあ、そういうのはちょっと脇に置いといて。
あなたの文章でもいいし、アイデアでもいいし、何か生み出したコンテンツを、ネットなどを使って販売してみる、ということがとてもよい経験になるのです。
あなたが一から生み出した何か、それをお金に換えようとすることは、あなたが社会で生きていく中での「しっかりとしたベース」につながります。
1000円稼ぐとはどういうことか。
10000円稼ぐとはどういうことか。
10万円稼ぐとはどういうことか。
初任給で言うところの18万×12か月+ボーナスなどで、年200万~300万稼ぐとはどういうことか。
を知ってください。
1000円は、なんとなく稼げると思います。
10000円も、少しの努力でいけます。
10万円くらいから怪しくなります。
どう転んでも、年200万の副業を達成できる人は、ほんのわずかです。
なぜ、10万円~200万円を稼ぐのはこんなに大変で、毎月お給料をもらうのは、それなりに簡単なのでしょう?
その理由を考えるのが、この課題の本質です。
「会社で働くということは、あなた自身が100%の割合で何かを生み出しているのではなく、もっと大きないろんな力の集合体が、たくさんのお金を生んでいるのだ」、ということに気付くべきです。
これに気付かないと、「俺は自分でももっとやれる」と勘違いして辞めてしまったり、「俺にはもっとふさわしい仕事がある」と思ってしまったり、「俺はできる」と誤ったりするのです。
「俺はできる」と思っていいのは、副業で最低年収以上を稼げるようになった人たちだけです。
そして、そう思うだけでも、実はまだまだ甘ちゃんです。
それが可能なのならば、あなたの年収は2倍です。2倍の収入を捨てて、本業の会社をやめて独立しようとするのはアホです。
本当にできる人間は、つまり簡単。あなたの今の年収の2倍以上を副業で稼げる人間のことを言うのです。
まあ、見てください。そんな人は、ほとんどいません。
今じゃなくても、30代になって年収300万のところ600万でもいいし、40代になって年収500万のところ1000万でもいいでしょう。
たしかに、自力で年収1000万稼げる人は、たしかにこれまでの仕事をやめてもOKですね。
誰も文句言えません(笑)
==========
すこし脱線しましたが、あなたが月15万や20万や25万円の給料を自動的にもらうためには、それが可能な「売り物」と、それが自動的に売れる「仕組みやシステム」があるから可能なのです。
あなたに売れる「売り物(コンテンツ)」があっても、仕組みやシステムがなければそれは売れないし、仕組みがあっても「中身が薄ければ」それは売れません。
ぜひ、そういう社会のしくみを自分で体験してみてください。
なぜ「起業」でなくて「副業」をしろ、と言うのかは簡単です。なるべくリスクを捨てて、できるならおとなしく会社員として生きる方法も残しておかなくてはならないからです(笑)
がんばってください。
2014年6月19日木曜日
2014年6月14日土曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その9】学歴は関係する
学歴なんて関係ない、ということばは、社会人になる前に「山ほど」聞かされてきました。
就職活動において「学歴ではなく、その人の中身で採用したい」といった言説が流れていることも多々ありました。
そういうことを大々的に謳って、採用活動する企業もたくさんあると思います。
というわけで、確かに表面的には「学歴は関係ない」というポーズをこの社会は見せていることは事実です。
しかし、はっきり言っておきます。この社会においては、学歴は関係します。
もう少し、丁寧に具体的にこのことを説明したいと思います。
まず「学歴」という言葉には2つの意味があります。社会人になるにあたって、95%ぐらいの人に関係のある「学歴」ということばは、
『高卒か、大卒か』
ということを示します。
この意味での「学歴が関係する」とは、より具体的には「ずっと下働きの人材と見られるか、中堅リーダーまでの期待がかけられているか」という意味になります。
残念ですが、高卒の人材に、中堅リーダーとしてのマネジメント力を企業は求めません。単純労働力として見ます。
==========
しかし、世間一般でいうところの「学歴なんて関係ないですよ~」は別の意味ですね。そう、もうひとつの『学歴』ということばは
『偏差値の高い大学を出ているか、偏差値の低い大学を出ているか』
ということを示します。一般的にも「学歴」といえば、これを指します。
昨今、企業は「一生懸命、どの大学を出たかなんて関係ない。あなたの中身で勝負してほしい」ということを盛んに言うようになりました。
それは、たしかに、ある意味企業の本音でもあります。
それだけ、「学力だけでなく、中身の詰まった人材がほしい」ということでもあります。これは、本当にそうなのだ、と思っていただいて大丈夫です。
しかし、聞き間違えたり、読み間違えてはいけません。
「学力がなくて、中身の詰まった人材はあんまりいらない」
のです。「学力は、あってしかるべき」であり、「学力は、ないよりあったほうがいい」のです。
ということは、「学歴なんて関係ない」の言葉の正しい解釈はこうです。
「勉強ばかりできて、使えないやつはいらねえ」
ということが、もう一つの企業の本音です。だ・か・ら、大学院までいくと就職に不利なのです。
==========
もうひとつ、こちらは採用とは無関係の「学歴」の話をしておきましょう。
採用後、あなたはなんとなく気付きはじめると思いますが、大きな組織の中での力関係は
「学閥のようなもの」
にも支配されていることがわかるでしょう。
「どこそこ大学を出た人たちの、なんとなくグループがあるなあ」とか「このポジションは、どこそこ大出の人たちが占めているなあ」とか。
そういうのが企業によって確実にあります。
たとえば、JRという会社は、旧国鉄でしたから、「東京大学工学部土木科」卒の人間が、旧国鉄では最も偉い、というヒエラルキーがありました。
間違っても、「東京大学法学部」の人間じゃないところがミソです。「理工学部」でもないです。
線路を作る、ということは、そういうことなのです。そこは、偏差値ではありません。
同じように、各企業には「企業風土」というものがあります。ベンチャーではあまり関係ないですが、大手企業や古い企業ほど、こうした体質が染み付いていて、ポジションと学閥が結びついていたりしますから、それと外れている人は、それなりの身の振り方というのがあるということです。
公務員にも、この体質が残っています。
一番わかりやすい例で言いますと、学校の先生ですね。
「どこそこ商業高校」とか「ほにゃらら工業高校」
という高校があるとします。その県に3つずつ、商業高校と工業高校があると想像しましょう。
そうすると、その商業高校と工業高校の「校長先生」は、商業科を教えていた先生と工業科を教えていた先生以外なれない、というのがわかりますか?
そうです、そのポジションは、ひいては「ほにゃらら県立商科大学」とか「どこそこ県立大学工学部」とか「なんちゃら教育大学教員養成課程工業科」とか、そういう大学の卒業生で占められているということなのです。
普通科の高校もそうですよ。
「なんちゃら高校英語科」とか「ほにゃらら高校理数コース」とかがある高校は、英語の先生や理科の先生が持ち回りで校長になったりします。
逆に言えば、スーパーサイエンススクールに認定されている「ほにゃらら高校(進学校)」の校長に、書道(芸術科)の先生がなったりしたら、おかしいでしょう?
学歴なんて関係ない、という社会は、そういう人を配置する人事をするということなのです。
いやいや、どの大学を出たかは、めちゃくちゃ関係する、というのが事実です。
就職活動において「学歴ではなく、その人の中身で採用したい」といった言説が流れていることも多々ありました。
そういうことを大々的に謳って、採用活動する企業もたくさんあると思います。
というわけで、確かに表面的には「学歴は関係ない」というポーズをこの社会は見せていることは事実です。
しかし、はっきり言っておきます。この社会においては、学歴は関係します。
もう少し、丁寧に具体的にこのことを説明したいと思います。
まず「学歴」という言葉には2つの意味があります。社会人になるにあたって、95%ぐらいの人に関係のある「学歴」ということばは、
『高卒か、大卒か』
ということを示します。
この意味での「学歴が関係する」とは、より具体的には「ずっと下働きの人材と見られるか、中堅リーダーまでの期待がかけられているか」という意味になります。
残念ですが、高卒の人材に、中堅リーダーとしてのマネジメント力を企業は求めません。単純労働力として見ます。
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しかし、世間一般でいうところの「学歴なんて関係ないですよ~」は別の意味ですね。そう、もうひとつの『学歴』ということばは
『偏差値の高い大学を出ているか、偏差値の低い大学を出ているか』
ということを示します。一般的にも「学歴」といえば、これを指します。
昨今、企業は「一生懸命、どの大学を出たかなんて関係ない。あなたの中身で勝負してほしい」ということを盛んに言うようになりました。
それは、たしかに、ある意味企業の本音でもあります。
それだけ、「学力だけでなく、中身の詰まった人材がほしい」ということでもあります。これは、本当にそうなのだ、と思っていただいて大丈夫です。
しかし、聞き間違えたり、読み間違えてはいけません。
「学力がなくて、中身の詰まった人材はあんまりいらない」
のです。「学力は、あってしかるべき」であり、「学力は、ないよりあったほうがいい」のです。
ということは、「学歴なんて関係ない」の言葉の正しい解釈はこうです。
「勉強ばかりできて、使えないやつはいらねえ」
ということが、もう一つの企業の本音です。だ・か・ら、大学院までいくと就職に不利なのです。
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もうひとつ、こちらは採用とは無関係の「学歴」の話をしておきましょう。
採用後、あなたはなんとなく気付きはじめると思いますが、大きな組織の中での力関係は
「学閥のようなもの」
にも支配されていることがわかるでしょう。
「どこそこ大学を出た人たちの、なんとなくグループがあるなあ」とか「このポジションは、どこそこ大出の人たちが占めているなあ」とか。
そういうのが企業によって確実にあります。
たとえば、JRという会社は、旧国鉄でしたから、「東京大学工学部土木科」卒の人間が、旧国鉄では最も偉い、というヒエラルキーがありました。
間違っても、「東京大学法学部」の人間じゃないところがミソです。「理工学部」でもないです。
線路を作る、ということは、そういうことなのです。そこは、偏差値ではありません。
同じように、各企業には「企業風土」というものがあります。ベンチャーではあまり関係ないですが、大手企業や古い企業ほど、こうした体質が染み付いていて、ポジションと学閥が結びついていたりしますから、それと外れている人は、それなりの身の振り方というのがあるということです。
公務員にも、この体質が残っています。
一番わかりやすい例で言いますと、学校の先生ですね。
「どこそこ商業高校」とか「ほにゃらら工業高校」
という高校があるとします。その県に3つずつ、商業高校と工業高校があると想像しましょう。
そうすると、その商業高校と工業高校の「校長先生」は、商業科を教えていた先生と工業科を教えていた先生以外なれない、というのがわかりますか?
そうです、そのポジションは、ひいては「ほにゃらら県立商科大学」とか「どこそこ県立大学工学部」とか「なんちゃら教育大学教員養成課程工業科」とか、そういう大学の卒業生で占められているということなのです。
普通科の高校もそうですよ。
「なんちゃら高校英語科」とか「ほにゃらら高校理数コース」とかがある高校は、英語の先生や理科の先生が持ち回りで校長になったりします。
逆に言えば、スーパーサイエンススクールに認定されている「ほにゃらら高校(進学校)」の校長に、書道(芸術科)の先生がなったりしたら、おかしいでしょう?
学歴なんて関係ない、という社会は、そういう人を配置する人事をするということなのです。
いやいや、どの大学を出たかは、めちゃくちゃ関係する、というのが事実です。
2014年5月2日金曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その6】正義を決めるのはあなたではない
小学校・中学校・高校・大学時代までの期間と、社会人になってからのこれからとを比較した時に、はっきりと一線を画して「違う」というものがいくつかあると思いますが、僕は最も重要なポイントとして次のことを挙げたいと思います。
それは、
「正義とは何か、を突きつけられるのが社会人」
だということです。
正義、だなんて大げさな、と思うかもしれませんが、これは字面がカタイからそう思うだけで、僕たち社会人は、毎日・毎時間のようにこの問題にぶち当たっています。
よりわかり易く言い直しておきましょう。
「この場合、どちらが正しいのか」
「優先すべきはどちらか」
「どちらが『良い』のか」
と書き換えれば、状況がわかり易くなるかもしれません。
学生時代までの「正義(より正しいこと、正しいと思われること、善なること)」というのは、概ねどんな学校生活を送っていても「ほとんど全国共通で、誰もが納得しそうな共通認識がある」ことが大半です。
そういう意味で、あなたはこれまで「正義に裏切られる」ことは経験していないはずです。
たとえば、
「勉強はしないよりしたほうがいい」
「足は速いほうがいいし、何か測定した結果は高いほうがいい」
「友達とは仲良くしたほうがいい」
「早寝早起きをしたほうがいい」
数え挙げればきりがないくらい、学校生活における「正しいこと」というのはわかりきっているし、決まりきっているし、そして全国の学生が共通して認識していることです。
ところが、社会人になると、そうした「正しいこと」というのは、一旦どんぶり返されます。
どういうことか。
「研修ばかり時間をかけないで、実務を早くやれ」
「お前ばかり目立つとチームがぎくしゃくするから、考えろ」
「俺の派閥に入れ、あっちの派閥とは距離を置け」
といった言葉を上司や同僚からかけられることは、おそらくしょっちゅうあります。
物理的にも、シフト制の勤務についた場合は、「通常勤務 → 昼夜逆転 → 変則勤務」を月にローテーションで組まされたりすると、「早寝早起きどころではない」ということになります。
(工場だけでなく、お医者さんや、警察官、鉄道会社など、こうした仕事はたくさんあります)
会社内だけでなく、顧客や取引先から「無理な圧力」をかけられることもたくさんあります。
「これ以上に値下げをしろ」
「うちのセールに社員を出して手伝え」
「需要が減ったから注文を半減させる」
など、正義や道理から考えて疑問符がつく要求をされることなど、日常茶飯事です。
==========
社会において、たとえば
「当初の契約どおりに履行することが正義」なのか
「状況が変わった顧客の希望を叶えるのが正義」なのか
2つの矛盾した状況に追い込まれても、どちらがより正しいのかは誰にも答えが出ません。
もっとシビアになれば
「利益が出ない案件でも、飲まなければ仕事がこない」とか、「支払いの段になってさらに値切られた」とか、「バックマージンを要求された」とか、そんなのは星の数ほど出くわすことができます。
こうした事例に出くわすことを、ボクは勝手に
「正義のゆらぎ」
と呼んでいます。
社会人になるということは、これらの「正義のゆらぎ」にたくさん出くわす、ということでもあるわけです。
この「正義のゆらぎ」は社会問題の根幹に関係します。
社会生活の上で「正義のゆらぎ」に対して耐性が少ない人は、「うつ病」になったり「離職」したりすることになるでしょう。
そして、タイトルに戻りますが、頭の片隅に置いていて欲しいのは、
「正義を決めるのはあなたではない」
ということです。
じゃあ、誰が正義を決めるのか。この答えは難しいです。そもそも「揺らいでいる正義」ですから、確定はしません。
あなたが「良かれ」と思ってやったことを、上司は違うというかもしれません。
でもさらに上の人は、また反対の評価をすることだってあります。
全ては結果論であり、明確なプロセスが無いのです。だから学校生活とは違うのです。
==========
仕事におけるベテランというのは、こうした「正義のゆらぎ」の事例を経験則として数多く持つ中で、確率統計的に
「おそらくこうしたほうが、この状況ではベターな結果になるのではないか」
と推測できる力を示します。しかし、あくまでも確率が高いだけで、確定的なものではありません。
そういう意味では、上司に相談するということは大切でもあり、そしてそれが全てでもありません。
ただ、あなたが新社会人だとするならば、
「これが正義だ」
と自分で決めてそれに全力を傾けるのは、待ったほうがいい。
常に「その反対の正義も、あるかもしれない」という視点を持って、仕事に臨んだほうが、確実に成長できると思います。
それは、
「正義とは何か、を突きつけられるのが社会人」
だということです。
正義、だなんて大げさな、と思うかもしれませんが、これは字面がカタイからそう思うだけで、僕たち社会人は、毎日・毎時間のようにこの問題にぶち当たっています。
よりわかり易く言い直しておきましょう。
「この場合、どちらが正しいのか」
「優先すべきはどちらか」
「どちらが『良い』のか」
と書き換えれば、状況がわかり易くなるかもしれません。
学生時代までの「正義(より正しいこと、正しいと思われること、善なること)」というのは、概ねどんな学校生活を送っていても「ほとんど全国共通で、誰もが納得しそうな共通認識がある」ことが大半です。
そういう意味で、あなたはこれまで「正義に裏切られる」ことは経験していないはずです。
たとえば、
「勉強はしないよりしたほうがいい」
「足は速いほうがいいし、何か測定した結果は高いほうがいい」
「友達とは仲良くしたほうがいい」
「早寝早起きをしたほうがいい」
数え挙げればきりがないくらい、学校生活における「正しいこと」というのはわかりきっているし、決まりきっているし、そして全国の学生が共通して認識していることです。
ところが、社会人になると、そうした「正しいこと」というのは、一旦どんぶり返されます。
どういうことか。
「研修ばかり時間をかけないで、実務を早くやれ」
「お前ばかり目立つとチームがぎくしゃくするから、考えろ」
「俺の派閥に入れ、あっちの派閥とは距離を置け」
といった言葉を上司や同僚からかけられることは、おそらくしょっちゅうあります。
物理的にも、シフト制の勤務についた場合は、「通常勤務 → 昼夜逆転 → 変則勤務」を月にローテーションで組まされたりすると、「早寝早起きどころではない」ということになります。
(工場だけでなく、お医者さんや、警察官、鉄道会社など、こうした仕事はたくさんあります)
会社内だけでなく、顧客や取引先から「無理な圧力」をかけられることもたくさんあります。
「これ以上に値下げをしろ」
「うちのセールに社員を出して手伝え」
「需要が減ったから注文を半減させる」
など、正義や道理から考えて疑問符がつく要求をされることなど、日常茶飯事です。
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社会において、たとえば
「当初の契約どおりに履行することが正義」なのか
「状況が変わった顧客の希望を叶えるのが正義」なのか
2つの矛盾した状況に追い込まれても、どちらがより正しいのかは誰にも答えが出ません。
もっとシビアになれば
「利益が出ない案件でも、飲まなければ仕事がこない」とか、「支払いの段になってさらに値切られた」とか、「バックマージンを要求された」とか、そんなのは星の数ほど出くわすことができます。
こうした事例に出くわすことを、ボクは勝手に
「正義のゆらぎ」
と呼んでいます。
社会人になるということは、これらの「正義のゆらぎ」にたくさん出くわす、ということでもあるわけです。
この「正義のゆらぎ」は社会問題の根幹に関係します。
社会生活の上で「正義のゆらぎ」に対して耐性が少ない人は、「うつ病」になったり「離職」したりすることになるでしょう。
そして、タイトルに戻りますが、頭の片隅に置いていて欲しいのは、
「正義を決めるのはあなたではない」
ということです。
じゃあ、誰が正義を決めるのか。この答えは難しいです。そもそも「揺らいでいる正義」ですから、確定はしません。
あなたが「良かれ」と思ってやったことを、上司は違うというかもしれません。
でもさらに上の人は、また反対の評価をすることだってあります。
全ては結果論であり、明確なプロセスが無いのです。だから学校生活とは違うのです。
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仕事におけるベテランというのは、こうした「正義のゆらぎ」の事例を経験則として数多く持つ中で、確率統計的に
「おそらくこうしたほうが、この状況ではベターな結果になるのではないか」
と推測できる力を示します。しかし、あくまでも確率が高いだけで、確定的なものではありません。
そういう意味では、上司に相談するということは大切でもあり、そしてそれが全てでもありません。
ただ、あなたが新社会人だとするならば、
「これが正義だ」
と自分で決めてそれに全力を傾けるのは、待ったほうがいい。
常に「その反対の正義も、あるかもしれない」という視点を持って、仕事に臨んだほうが、確実に成長できると思います。
2014年4月26日土曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その5】人はひとりぼっちである
うちの奥さんが僕と結婚したときに驚いたのは「それはもう、なんという友達のいなさ」ということでした。
なので、小学校以来の友人に出会ったりしている僕の姿を見て、「あんたにも友達がいたんや!」とさらに重ねて二重の意味で驚いたそうです。
さて、最初に申し添えて起きますが、上記のとおり、僕には友達がほとんどいません。
というより「友達は要りません」と考えているほうに近いと思います(笑)
なので、今のようにSNSが全盛になり、FacebookがどうたらとかLINEがどうたらとか、セケンでは盛り上がっているようですが、あまり僕は影響を受けていないと思われます。
ところが、僕は友達は全くいないのですが、仕事では最終的に数百人に上る顧客や関係者と毎日にこやかに関わりを持っているし、別にやっている某趣味兼実益のほうでは、毎年何人も全国から「僕に会いたい、僕に▲▲を教わりたい!」という奇特な人がいらっしゃるので、喜んで出会ったりしています。
ちなみに、僕の技術を伝達伝承した人は、すでに1000名以上に上ります。
というわけで、僕のことを「社会性」の面から知っている人は
「ああ、ヨシイエさんはいろんな人と繋がりがあるなあ」とか
「ああ、ヨシイエさんこの活動にも顔出してるの?」とか
「ヨシイエさん(本名で)また、こないだ新聞に載ってたね」とか
そんな風に「社交的な人だ」と誤解しているに違いありません。
断じて言っておきます。間違いです。僕は精神的には引きこもりに近い「孤独を愛するナイーブな」青年なのです。
==========
僕が一見社交的に見え、いろんな活動の場を持っていることは、僕の「本質・心の中身」とは何の関係もありません。
ショップの店員さんがいつも笑顔であるとか、女優さんが今日もにこやかにひな壇に座っているとか、そういうのと同じで、
自分の役回りをポジティブに遂行している
ということに過ぎません。それを演じている、とまで言うのは、ちょっと極論かもしれませんが。
なので、僕自身は「自分は基本ひとりぼっちであってよいし、それで十分気に入っている」というところに軸足を置いて、かつ、社会生活の上では
のびのび自由に
やっているのです。
ベースの部分で、世間や社会やそれこそ友達に期待していないし、そこに必要以上の重きをはなから置いていないので、真の意味で自由です。
誰にも振り回されることなく、自分の基準・規範・考え方を持つことが出来ています。
==========
ところが、昨今では、SNS上での「友達の数」を競ったり、「いいね」をもらうことに気を揉んだり、「リアルが充実」していないと不安になったりする人たちが多いようですね。
そういう意味では、新社会人のみなさんが歩んできた社会の雰囲気として「多くの人に愛され、認められているべき」であるというオーラが、そこかしこに漂っていると言ってよいでしょう。
しかし、それらが幻想に近いものであることに、いち早く気付いて欲しいと思います。
では、ここからは「なぜ人はひとりぼっちである」ということを知っておく必要があるのか、ということをお話します。
キンパチ先生も言っているように「人は、互いに支えあって生きている」ということは、その通りだと思います。ひとりぼっちではなく、互いに手と手を取り合っている社会は、たしかに「良い」ものではあるでしょう。
しかし、この社会では、「それが良いことである」という一般的な認識があっても、「それを社会は自分に施してくれる」という期待を抱いてはいけません。
この社会のルールは、たいていの場合
■ 自分の行動については自分でケツを拭け(自己責任)
■ 困難は自分で対処せよ
■ 誰も、他人のやっかいごとに巻き込まれたくない
■ 誰も、あなたのために謝ってはくれない
ということが「最初のスタートアップ」であることが多いからです。
それを忘れて、「誰かが自分を助けてくれるべきだ」と誤解をすると、ひどい目に合います。
東北の震災の時に「てんでんこ」という言葉があることを知りました。津波からは、自分ひとりの力で逃げなくてはいけない。自分で判断しろ。という教訓です。
そう、社会においては、あなたが身につけておくべきルールは、まず「てんでんこ」なのです。
==========
ところが、「自力で、自分の力で戦っている」者を見ると、人間には逆にいいところもあって、周りにその真剣さが伝わり「サポートしたい・協力したい・アドバイスしたい」という気持ちが生まれるのもこれまた事実です。
そこから、仲間・友達・同僚の力は、少しずつ結集してゆくことも確かにあります。。
しかし、そうした仲間の力は、「あなた自身が自ら立ち向かっている姿」があってはじめて成立するのだということを忘れてはなりません。
人はひとりぼっちである、という厳しさを知る者には、おかしなことに周囲が放っておかないものです。
しかし、常に誰かに支えて欲しがっている甘っちょろい輩を見ると、悲しいかな人は「そんなん自分でやれや」と冷たい気持ちになるのです。
「誰かに支えて欲しい」という台詞を言っていいのは、ベッドの中の女性だけかもしれません(苦笑)
なので、小学校以来の友人に出会ったりしている僕の姿を見て、「あんたにも友達がいたんや!」とさらに重ねて二重の意味で驚いたそうです。
さて、最初に申し添えて起きますが、上記のとおり、僕には友達がほとんどいません。
というより「友達は要りません」と考えているほうに近いと思います(笑)
なので、今のようにSNSが全盛になり、FacebookがどうたらとかLINEがどうたらとか、セケンでは盛り上がっているようですが、あまり僕は影響を受けていないと思われます。
ところが、僕は友達は全くいないのですが、仕事では最終的に数百人に上る顧客や関係者と毎日にこやかに関わりを持っているし、別にやっている某趣味兼実益のほうでは、毎年何人も全国から「僕に会いたい、僕に▲▲を教わりたい!」という奇特な人がいらっしゃるので、喜んで出会ったりしています。
ちなみに、僕の技術を伝達伝承した人は、すでに1000名以上に上ります。
というわけで、僕のことを「社会性」の面から知っている人は
「ああ、ヨシイエさんはいろんな人と繋がりがあるなあ」とか
「ああ、ヨシイエさんこの活動にも顔出してるの?」とか
「ヨシイエさん(本名で)また、こないだ新聞に載ってたね」とか
そんな風に「社交的な人だ」と誤解しているに違いありません。
断じて言っておきます。間違いです。僕は精神的には引きこもりに近い「孤独を愛するナイーブな」青年なのです。
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僕が一見社交的に見え、いろんな活動の場を持っていることは、僕の「本質・心の中身」とは何の関係もありません。
ショップの店員さんがいつも笑顔であるとか、女優さんが今日もにこやかにひな壇に座っているとか、そういうのと同じで、
自分の役回りをポジティブに遂行している
ということに過ぎません。それを演じている、とまで言うのは、ちょっと極論かもしれませんが。
なので、僕自身は「自分は基本ひとりぼっちであってよいし、それで十分気に入っている」というところに軸足を置いて、かつ、社会生活の上では
のびのび自由に
やっているのです。
ベースの部分で、世間や社会やそれこそ友達に期待していないし、そこに必要以上の重きをはなから置いていないので、真の意味で自由です。
誰にも振り回されることなく、自分の基準・規範・考え方を持つことが出来ています。
==========
ところが、昨今では、SNS上での「友達の数」を競ったり、「いいね」をもらうことに気を揉んだり、「リアルが充実」していないと不安になったりする人たちが多いようですね。
そういう意味では、新社会人のみなさんが歩んできた社会の雰囲気として「多くの人に愛され、認められているべき」であるというオーラが、そこかしこに漂っていると言ってよいでしょう。
しかし、それらが幻想に近いものであることに、いち早く気付いて欲しいと思います。
では、ここからは「なぜ人はひとりぼっちである」ということを知っておく必要があるのか、ということをお話します。
キンパチ先生も言っているように「人は、互いに支えあって生きている」ということは、その通りだと思います。ひとりぼっちではなく、互いに手と手を取り合っている社会は、たしかに「良い」ものではあるでしょう。
しかし、この社会では、「それが良いことである」という一般的な認識があっても、「それを社会は自分に施してくれる」という期待を抱いてはいけません。
この社会のルールは、たいていの場合
■ 自分の行動については自分でケツを拭け(自己責任)
■ 困難は自分で対処せよ
■ 誰も、他人のやっかいごとに巻き込まれたくない
■ 誰も、あなたのために謝ってはくれない
ということが「最初のスタートアップ」であることが多いからです。
それを忘れて、「誰かが自分を助けてくれるべきだ」と誤解をすると、ひどい目に合います。
東北の震災の時に「てんでんこ」という言葉があることを知りました。津波からは、自分ひとりの力で逃げなくてはいけない。自分で判断しろ。という教訓です。
そう、社会においては、あなたが身につけておくべきルールは、まず「てんでんこ」なのです。
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ところが、「自力で、自分の力で戦っている」者を見ると、人間には逆にいいところもあって、周りにその真剣さが伝わり「サポートしたい・協力したい・アドバイスしたい」という気持ちが生まれるのもこれまた事実です。
そこから、仲間・友達・同僚の力は、少しずつ結集してゆくことも確かにあります。。
しかし、そうした仲間の力は、「あなた自身が自ら立ち向かっている姿」があってはじめて成立するのだということを忘れてはなりません。
人はひとりぼっちである、という厳しさを知る者には、おかしなことに周囲が放っておかないものです。
しかし、常に誰かに支えて欲しがっている甘っちょろい輩を見ると、悲しいかな人は「そんなん自分でやれや」と冷たい気持ちになるのです。
「誰かに支えて欲しい」という台詞を言っていいのは、ベッドの中の女性だけかもしれません(苦笑)
2014年4月21日月曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その4】「怒り」は捨てなさい
ボクのしょーもない40年の人生の中で、「ああ、この人の人生はもったいないなあ」と思う場面にいくつか出会ったことがあるのですが、それらに共通して言えることがいくつかあります。
それは「こだわりを捨てない人は損をする」ということです。
こだわり、という言葉は難しいもので、本来は「全くもってマイナスの意味の言葉」なのですが、現代では
「こだわりの名品」
「こだわって仕事をする」
などのプラスの意味で使われることも多く、誤解を生みますね。
辞書における「こだわる」の意味はこうです。
★ 小さなことを気にする。捉われる。
★ つかえたりひっかかったりする。
★ 難癖をつける。けちをつける。
★ 自由に考えることができなくなる。
★ 差し障る。
あれまあ!本当に悪い意味ばかりですね。
職業人・社会人の中には「自分はこの件・この分野にはこだわりがある」「こだわって仕事をしている」という人が確かにいます。
しかし、そうした人たちは、仕事の回転がうまくいってるうちこそ、そうした「こだわり」を自慢していますが、ちょっと流れが悪くなったり需要が減ると、人知れず消えていくことが多いです。
大切なのは、こだわりではなく「柔軟に対応できること」だと思います。いかなる時においても。
==========
しかし、大半の人は、上記のように「こだわりを捨てて、柔軟に対応しなさい」ということを言葉で言われても、真の意味で理解しません。
むしろ「俺は柔軟だ!」と頑なに主張したりしますので、ここではよりわかり易い言葉に改めたいと思います。
新社会人のみなさん。 怒りを捨てなさい。怒るな。
と。
このほうが数倍わかり易い金言だと思います。そう。社会生活、サラリーマン生活、あるいは仕事生活の上で最もに近いぐらい大事なこと、それは
怒るな
です。
残念なことですが、現代の日本社会は、たとえば「会社の不正を発見し、それを正義に基づいて訴えても自らも損し、会社も損する」社会です。
このことは、それこそネット社会ですから、「内部通報者」がどのような処遇になり、そして会社がどうなったかの事例がたくさんありますから検索してみてください。
繰り返し残念なことですが、「内部通報者が正義の名において良い結果になった事例」がほとんどなく、「それによって会社が改善された事例」がほとんどないことに気付くでしょう。せいぜいその会社がつぶれるくらいです。
これは、日本社会の成熟度が、正義の意味においてそこまで到達していない、という証でもあるので、重ねて残念なことですが、所詮その程度のレベルなのです。わが国は。
ということは、新社会人の諸君が、「これは正義の名において間違っている!断じて正さなくてはいけない!」という正義の怒りを覚えたところで、それは改善もされず、そして、その怒りによってあなたは生きづらくなることを示します。
だったら、社会人であれば別の方策を模索したほうがよほど健全です。生き延びてください。
昔、山口さんという裁判官が「闇市の食料を買わない」と決めて餓死したことがありましたが、それほどまでに正義を貫くよりも、ボクはあなたに「生きろ!生き延びろ」と伝えたいと思います。
ウィキペディアより 山口良忠
そして、あなたの生きる会社がそれほどまでに「正義」を失っているのであれば、遠慮なく
「辞めろ!辞めてしまえ!」
と伝えたいと思います。
==========
とまあ、ここまでは一応「正義感に基づいて」会社が善ではないと感じた時のお話ですが、まあたいていの場合は、新社会人のあなたの感じる
「怒り」
というのは、貴様の小さなプライドを傷つけただけの屁みたいなもん、に過ぎません。
その怒りの源泉は、ゴミやカスレベルであり、それごときで怒りを覚えるあなたも同レベルです。
そう、最初の話に繋がります。「その怒りをもらたした、あなたのプライドやこだわりなど、取るに足りない」ということです。
社会で生活していると、いろいろなことであなたのプライドは傷つけられます。怒りを覚えることが多々あるでしょう。しかし、社会生活や会社人として生きるうえで、そうしたプライドは完全に不要です。
それと同時に、相手があなたにぶつけてくる、これまた「怒りやいいがかり」についても、全く気にする必要はありません。それもカスのようなものです。
たとえばこんな場面を考えます。
あなたは顧客に大声で怒鳴られたとしましょう。あなたが本当に悪くても、本当はあなたは悪くなくても、顧客は大声で怒鳴りつけます。
「なんでそこまで言われなあかんねん!」
と内心怒りを覚えることでしょう。
しかし、ここで考えてください。なぜ、顧客は怒鳴るのか。
「そりゃ、俺が悪いと思っているからやろ」
と単純に考える人が多いと思います。たしかにそうですが、それは表面的なことです。
本当は「顧客があなたに怒ることによって、自分のほうが偉いんだという感覚に陥ることができる」というのが心理的な理由です。
人は、他者より優れていると思うことにものすごく快感を覚えます。自分は勝者だと、盛り上がります。自分は正義の鉄槌を下している「正しい者だ」と思うからです。
そして、あなたの方は、「そこまで怒ることや、威圧的態度で接する者は悪だ」と内心思っています。
なので、向こうも「自分は正義だ」と心の中で感じ、あなたも「本当は自分が正義でむこうが悪だ」と感じていることになります。
つまり、どちらも同じレベルなのです。
同レベルの怒りがぶつかりあっているだけで、何も建設的なことは生まれていません。
だとすれば、今こそ怒りを捨てましょう。
怒りを捨てるということは、正しい判断をするということです。
つまり、本当にあなたが悪いことをしたのでそうなったのであれば、心から誠意を尽くして謝ることで、逆にあなたは悪くないのに怒鳴られているのであれば
「ああ、この人は私の優位に立つことで、小さな虚栄心を満足させている可哀想な人だ」
と思うことです。だとすれば、哀れみこそ生まれても、怒りは消えます。
怒りが消えれば、適切な結果を導くことができます。
心から謝罪することもできるし、相手の小さな虚栄心を満足させるしたたかな態度を取ることだってできるのです。
いずれにしても「怒りは不要」です。
2014年4月19日土曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その3】公平で平等な世界は、既に終わった
卒業おめでとうございます。そして、新社会人になっておめでとうございます。
4月ももう後半に差し掛かり、社会での生活もいよいよ本格的に動き出したことでしょう。
今回の金言は、そんなみなさんに送る真実のことば、
「公平で平等な世界よありがとうさようなら、そして不公平で不平等な世界よこんにちは」
です。
学校生活を終えたみなさんにとって、「公平で平等な世界」は既に終わりました。ここからはガチで不平等な社会です。
学校、とくに公立の学校というところは、とても「公平で平等」であるように構築されています。もちろん、日本の社会において「公平で平等」に何かが運営されることは基本的にはとてもいいことで、そうあってほしいものなのですが、実際の運用レベルでもそれが守られているところ、というのは実は学校ぐらいしかありません。
もし、学校で公平じゃない部分があるとしたら、「不良が先生に嫌われている」とか「成績のいい誰それちゃんはえこひいきされている」ぐらいのことで、そんなのはゴミカスレベルでどうでもいいことです。
むしろ、たいていの学校の教師は、不良であっても比較的手厚くどうにかしたいと考えており、成績のいい誰それちゃんがいくら素晴らしくても、通知表を書き換えて上位の学校に推薦できるほど度胸はありません。
つまり、教師という人たちは、基本的には善良な考え方で行動していて、かつ生徒の人生における結果を左右できるほどの決裁権は持っていないということです。
==========
それに引き換え、これからの世界は「完全に不平等」です。これまでは、学校の勉強さえしていれば、とりあえず「良い成績」を貰えましたが、何をしてもよい成果をもらえない企業人は山ほどいます。
努力をしたら成果が出る世界から、努力をしても給与は上がらないかもしれない世界へようこそ、というわけです。
それを簡単に証明してみましょう。
「あなたは電機メーカーに就職しました。ウォークマンやipodに匹敵するような音楽再生機を開発してヒットを飛ばしてください」
そんな課題を与えられて、クリアできますか?
僕にはできるかどうかわかりません。クリアできないのを前提に、それでもやってみなくてはなりません。成果なんて、出るかどうかわからないし、努力が報われるのならシャープやサンヨーはあんなことにはなっていません。
それが社会です。セカイの成り立ちが根本的に違うのです。
しかし、学校の勉強では、時間さえかければどんな課題もクリアできたはずです。どんな問題もいつか解けたはずです。
でも、このセカイにつきつけられた課題は、解けるかどうかもわからないのです。
==========
では、不公平で不平等なセカイを生き延びるために、世のお父さんたちはどのように頑張っているのでしょうか。
いろいろなテクニックがありますが、それらの中からいくつか紹介しておきましょう。
①いつかのラッキーを手に入れるために、数を打ってみる。
メーカー系ではよくある作戦です。新商品をいろいろ策を練りながら次々に投入します。いつか当たるかもしれません。(最後まで当たらないかもしれませんが)
②自分の立ち位置を確立する。
美人が求められる部署に、いくら努力してもブサイクは配置されません。残念ですが。なので、顔に関係のない能力をどこで生かせるか試行錯誤すればいいのです。
③とりあえず、上司に従順になってみる。
実力がない人には、とりあえず効果があります。「あいつは可愛いやつだ」と思ってもらえることは、かなり効果的です。
④誰かとつるむ。
自分だけでは戦えない時には、だれかとつるんで密談をする場合があるでしょう。利害関係者と裏で話を合わせたり、あるいは誰かに便宜を図ったり・・・。
⑤抜け駆けをする。
「ずるっこ」することでなんとか体制を持ちこたえさせることが多々あります。地域最安値を打ち出して他社を出し抜いたり、「他のところではこの値段だよ」「じゃあ、それより安くします」とか。
あるいはうちへ変わってくれたら現金をあげますとか。
・・・・だんだんレベルが落ちていくので、このへんで。
もし、あなたがどうしても「社会の不平等」に耐えられなくて、死にそうになったら、まずは僕にメールをください。
いくらでも話を聞くだけ聞いてあげます。
4月ももう後半に差し掛かり、社会での生活もいよいよ本格的に動き出したことでしょう。
今回の金言は、そんなみなさんに送る真実のことば、
「公平で平等な世界よありがとうさようなら、そして不公平で不平等な世界よこんにちは」
です。
学校生活を終えたみなさんにとって、「公平で平等な世界」は既に終わりました。ここからはガチで不平等な社会です。
学校、とくに公立の学校というところは、とても「公平で平等」であるように構築されています。もちろん、日本の社会において「公平で平等」に何かが運営されることは基本的にはとてもいいことで、そうあってほしいものなのですが、実際の運用レベルでもそれが守られているところ、というのは実は学校ぐらいしかありません。
もし、学校で公平じゃない部分があるとしたら、「不良が先生に嫌われている」とか「成績のいい誰それちゃんはえこひいきされている」ぐらいのことで、そんなのはゴミカスレベルでどうでもいいことです。
むしろ、たいていの学校の教師は、不良であっても比較的手厚くどうにかしたいと考えており、成績のいい誰それちゃんがいくら素晴らしくても、通知表を書き換えて上位の学校に推薦できるほど度胸はありません。
つまり、教師という人たちは、基本的には善良な考え方で行動していて、かつ生徒の人生における結果を左右できるほどの決裁権は持っていないということです。
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それに引き換え、これからの世界は「完全に不平等」です。これまでは、学校の勉強さえしていれば、とりあえず「良い成績」を貰えましたが、何をしてもよい成果をもらえない企業人は山ほどいます。
努力をしたら成果が出る世界から、努力をしても給与は上がらないかもしれない世界へようこそ、というわけです。
それを簡単に証明してみましょう。
「あなたは電機メーカーに就職しました。ウォークマンやipodに匹敵するような音楽再生機を開発してヒットを飛ばしてください」
そんな課題を与えられて、クリアできますか?
僕にはできるかどうかわかりません。クリアできないのを前提に、それでもやってみなくてはなりません。成果なんて、出るかどうかわからないし、努力が報われるのならシャープやサンヨーはあんなことにはなっていません。
それが社会です。セカイの成り立ちが根本的に違うのです。
しかし、学校の勉強では、時間さえかければどんな課題もクリアできたはずです。どんな問題もいつか解けたはずです。
でも、このセカイにつきつけられた課題は、解けるかどうかもわからないのです。
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では、不公平で不平等なセカイを生き延びるために、世のお父さんたちはどのように頑張っているのでしょうか。
いろいろなテクニックがありますが、それらの中からいくつか紹介しておきましょう。
①いつかのラッキーを手に入れるために、数を打ってみる。
メーカー系ではよくある作戦です。新商品をいろいろ策を練りながら次々に投入します。いつか当たるかもしれません。(最後まで当たらないかもしれませんが)
②自分の立ち位置を確立する。
美人が求められる部署に、いくら努力してもブサイクは配置されません。残念ですが。なので、顔に関係のない能力をどこで生かせるか試行錯誤すればいいのです。
③とりあえず、上司に従順になってみる。
実力がない人には、とりあえず効果があります。「あいつは可愛いやつだ」と思ってもらえることは、かなり効果的です。
④誰かとつるむ。
自分だけでは戦えない時には、だれかとつるんで密談をする場合があるでしょう。利害関係者と裏で話を合わせたり、あるいは誰かに便宜を図ったり・・・。
⑤抜け駆けをする。
「ずるっこ」することでなんとか体制を持ちこたえさせることが多々あります。地域最安値を打ち出して他社を出し抜いたり、「他のところではこの値段だよ」「じゃあ、それより安くします」とか。
あるいはうちへ変わってくれたら現金をあげますとか。
・・・・だんだんレベルが落ちていくので、このへんで。
いくらでも話を聞くだけ聞いてあげます。
2014年4月18日金曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その2】実力主義・成果主義を信じるな
今年、40歳になる僕が、いわゆる社会人として世の中に出ていた期間は18年です。それを長いと見るか短いと見るかは、いろんな考え方があるとは思いますが、僕のこの「18年間」で学び知ったことを今回もお届けしましょう。
新社会人の人に覚えておいてほしいことの2つ目は、
「成果主義や実力主義の言説に惑わされるな」
ということです。
海外型の働き方が日本に入ってきたり、企業の査定の上で成果を重視した評価が導入されたりした結果、「成果主義」「実力主義」なるものが一定度合い「当たり前」のようになっている昨今ですが、こうした考え方に惑わされないように、少しだけ留意しておいてください。
これらの「成果主義」や「実力主義」なる言葉は、特に上昇志向の若者の心をくすぐります。
「実力のあるものが高い収入を得て、成果を出したものは評価されるべきだ」
という考え方は一見正論のように見えます。
なので、若者からすれば「あまり働いていないように見える上司やオヤジ」や、「地位にあぐらをかいている年配者」に対して、批判したい気持ちが生まれるのもわかります。
==========
しかし、「力のあるものが評価されるべき」という論理がいかに理屈の上で正しくても、実際の運用においては恣意的なすり替えが行われていることのほうが多いのです。
そもそも、まず「実力主義、成果主義」を計るものさしを考えた時に、それが正確に機能するためには、金額ベースの売り上げもしくは、数量ベースの出荷数などの
「数字」で計測する
以外に方法はありません。ということは、実力があるものとそうでないものを測りつつ、それを給与や待遇に反映させるためには
「完全歩合制の仕事」
でなくてはならない、ということになります。
完全歩合制の仕事であれば、当然出荷量もしくは売上高でその人の実力を測ることができます。しかし、おそらく、このブログを読んでいる人の95%以上の人は
完全歩合制では働いていない
と思います。
となると、いわゆるふつうの月給制の仕事において「あいつは実力がある」「俺には実力がある」ということを正確に計測できる職種というのは、とても少ないことに気付きます。
例えば営業職であれば「月給基本給+歩合制」というところもあります。そういう給与体系の人は、既に実力主義でかまいませんが、それ以外の人の能力をどうやって計測すればいいのでしょうか。
たいていの場合、それが企画職であれ、事務職であれ、あるいは現場サイドの仕事であれ、その人の仕事の評価は
上司が体験的に判断している
ことがほとんどです。
なぜなら、上司は数量的に計測できないので、体験的に「雰囲気・イメージ」を加味しながら判断せざるを得ないのです。
もう、この時点で「実力主義・成果主義」なるものが怪しくなってきていることに、賢明なあなたなら気付くことでしょう。
「なあんだ、つまり実力とは『上司に気に入られる力』なのか」
と。
そうです。そして、上司は気に入ったものに、「成果の出る仕事」を与えます。
嫌いなヤツに「大きなプロジェクトを任せる」ことはしません。
ということは、「気に入られた部下は、成果が出るプロジェクトにつくことができ、成果を出すことができる」というプロセスが存在していることがわかりますね。
こうして、結果として、「あいつは実力がないのに、なぜ俺より評価が上なんだ!」という問題が生まれるわけです。
==========
この社会においては、「実力」とは「販売力・提案力・企画力・実行力」だけを指すわけではありません。
それより価値があるのは「媚びる力・従う力・耐える力・甘んずる力・捧げる力」だったりします。そう、これらも社会における実力の一部なのです。
こうしたことを知っているか知らないかは、大きく人生を左右します。
そういうもんだ。社会にはそうした変な側面がある。社会はちょっと(性的な意味じゃなくて)やらしいところがある。
という前提に立って仕事をすれば、気がかなり楽になり、のびのび仕事できるはずです。
しかし、社会は表立って「媚びろ!従え!耐えろ!甘んじろ!捧げろ!」という要求を口に出してしません。
そのあたりを大人は「空気を読めよ」とわざと黙っているのです。そう、あなたたちの好きなKYの話です。
空気をよめ!と思っているのは大人だって若者だって同じなのです。空気を読めないヤツは、疎まれる。それは大人も子供も同じです。
==========
もう少し他の側面から、「実力なるもの」を検証してみましょう。
とある会社の営業部に配属された新人君から見ると、おなじ営業部の先輩あるいはプチ上司の係長や課長と自分を比較して、ある事実に気付きます。
先輩は、あまり努力をしなくても、勝手に顧客が注文をくれるのに対して、自分は新規顧客を獲得するために走り回らなくてはなりません。これってどうなんだ?なんだか不公平な気がする!と思うのです。
先輩は、既に100の顧客を有しているため、努力をしなくても売上目標を達成できます。そして、売上高も高く、査定の結果高い給与を維持しています。
新人君は、10の顧客をあてがわれたものの、それ以上の顧客を探さなくてはならないため、当然売り上げ目標に到達しません。そして、給与は低いままです。
こうした状況を見て、「悶々」とする若者はたくさんいるでしょう。
会社にとって「実力がある」のは先輩で、新人君は実力がありませんので、低い評価となります。
この状態で「成果主義が大事だ!」「実力主義がいいんだ!」と誰かが唱えれば、
「ああ、これじゃぜってえ俺たちは先輩に勝てないじゃん」
ということに気付くと思います。
そうです。実力主義を叫ぶということは「既得権益を守る」ことを示す場合もあるのです。
この場合は、実力という言葉の裏に「経験や年数」が隠れていることに気付かなくてはなりません。
もちろん、僕はこうした上司や先輩を批判しません。彼らは若いときに同様の経験、一からのスタートをして、そうした100の顧客を勝ち取ってきたという歴史があると思うからです。それは尊重に値することです。
「今楽そうにしている人たちは、かつてバリバリ戦っていた」ことはよくある話です。
しかし、本当に実力主義だらけの世の中になると「バリバリ働けなくなった瞬間に脱落する」という社会が訪れるということですから、大人たちは、あなたが思うのと同様
「そんな社会は嫌だ」
と今の楽な身分を失いたくないのです。従って、努力は常に若者にあてがわれるわけです。
==========
新社会人にとって、これからの世界は理不尽なことや怪しいことがたくさんまかり通っていると思いますが、そこにはかならず理由があります。
逆説的に言えば「実力主義・成果主義」を推し進める言説があるとすれば、そこにどんな「裏の意図」があるのかもちょっと考えたほうがいいかもしれません。
いちばんアホなのは、「自分には実力があるのに、評価されない」と思い込んでフリーランスになることです。
そういう人は、実力がないことがほとんどです。残念ながら。
本当に実力があって独立する人は、そこに至るまでに周到な根回しをします。それは、やっぱり
「媚びるフリ・従うフリ・耐えるフリ・甘んずるフリ・捧げるフリ」を着実に遂行できる人だということなのです。
新社会人の人に覚えておいてほしいことの2つ目は、
「成果主義や実力主義の言説に惑わされるな」
ということです。
海外型の働き方が日本に入ってきたり、企業の査定の上で成果を重視した評価が導入されたりした結果、「成果主義」「実力主義」なるものが一定度合い「当たり前」のようになっている昨今ですが、こうした考え方に惑わされないように、少しだけ留意しておいてください。
これらの「成果主義」や「実力主義」なる言葉は、特に上昇志向の若者の心をくすぐります。
「実力のあるものが高い収入を得て、成果を出したものは評価されるべきだ」
という考え方は一見正論のように見えます。
なので、若者からすれば「あまり働いていないように見える上司やオヤジ」や、「地位にあぐらをかいている年配者」に対して、批判したい気持ちが生まれるのもわかります。
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しかし、「力のあるものが評価されるべき」という論理がいかに理屈の上で正しくても、実際の運用においては恣意的なすり替えが行われていることのほうが多いのです。
そもそも、まず「実力主義、成果主義」を計るものさしを考えた時に、それが正確に機能するためには、金額ベースの売り上げもしくは、数量ベースの出荷数などの
「数字」で計測する
以外に方法はありません。ということは、実力があるものとそうでないものを測りつつ、それを給与や待遇に反映させるためには
「完全歩合制の仕事」
でなくてはならない、ということになります。
完全歩合制の仕事であれば、当然出荷量もしくは売上高でその人の実力を測ることができます。しかし、おそらく、このブログを読んでいる人の95%以上の人は
完全歩合制では働いていない
と思います。
となると、いわゆるふつうの月給制の仕事において「あいつは実力がある」「俺には実力がある」ということを正確に計測できる職種というのは、とても少ないことに気付きます。
例えば営業職であれば「月給基本給+歩合制」というところもあります。そういう給与体系の人は、既に実力主義でかまいませんが、それ以外の人の能力をどうやって計測すればいいのでしょうか。
たいていの場合、それが企画職であれ、事務職であれ、あるいは現場サイドの仕事であれ、その人の仕事の評価は
上司が体験的に判断している
ことがほとんどです。
なぜなら、上司は数量的に計測できないので、体験的に「雰囲気・イメージ」を加味しながら判断せざるを得ないのです。
もう、この時点で「実力主義・成果主義」なるものが怪しくなってきていることに、賢明なあなたなら気付くことでしょう。
「なあんだ、つまり実力とは『上司に気に入られる力』なのか」
と。
そうです。そして、上司は気に入ったものに、「成果の出る仕事」を与えます。
嫌いなヤツに「大きなプロジェクトを任せる」ことはしません。
ということは、「気に入られた部下は、成果が出るプロジェクトにつくことができ、成果を出すことができる」というプロセスが存在していることがわかりますね。
こうして、結果として、「あいつは実力がないのに、なぜ俺より評価が上なんだ!」という問題が生まれるわけです。
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この社会においては、「実力」とは「販売力・提案力・企画力・実行力」だけを指すわけではありません。
それより価値があるのは「媚びる力・従う力・耐える力・甘んずる力・捧げる力」だったりします。そう、これらも社会における実力の一部なのです。
こうしたことを知っているか知らないかは、大きく人生を左右します。
そういうもんだ。社会にはそうした変な側面がある。社会はちょっと(性的な意味じゃなくて)やらしいところがある。
という前提に立って仕事をすれば、気がかなり楽になり、のびのび仕事できるはずです。
しかし、社会は表立って「媚びろ!従え!耐えろ!甘んじろ!捧げろ!」という要求を口に出してしません。
そのあたりを大人は「空気を読めよ」とわざと黙っているのです。そう、あなたたちの好きなKYの話です。
空気をよめ!と思っているのは大人だって若者だって同じなのです。空気を読めないヤツは、疎まれる。それは大人も子供も同じです。
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もう少し他の側面から、「実力なるもの」を検証してみましょう。
とある会社の営業部に配属された新人君から見ると、おなじ営業部の先輩あるいはプチ上司の係長や課長と自分を比較して、ある事実に気付きます。
先輩は、あまり努力をしなくても、勝手に顧客が注文をくれるのに対して、自分は新規顧客を獲得するために走り回らなくてはなりません。これってどうなんだ?なんだか不公平な気がする!と思うのです。
先輩は、既に100の顧客を有しているため、努力をしなくても売上目標を達成できます。そして、売上高も高く、査定の結果高い給与を維持しています。
新人君は、10の顧客をあてがわれたものの、それ以上の顧客を探さなくてはならないため、当然売り上げ目標に到達しません。そして、給与は低いままです。
こうした状況を見て、「悶々」とする若者はたくさんいるでしょう。
会社にとって「実力がある」のは先輩で、新人君は実力がありませんので、低い評価となります。
この状態で「成果主義が大事だ!」「実力主義がいいんだ!」と誰かが唱えれば、
「ああ、これじゃぜってえ俺たちは先輩に勝てないじゃん」
ということに気付くと思います。
そうです。実力主義を叫ぶということは「既得権益を守る」ことを示す場合もあるのです。
この場合は、実力という言葉の裏に「経験や年数」が隠れていることに気付かなくてはなりません。
もちろん、僕はこうした上司や先輩を批判しません。彼らは若いときに同様の経験、一からのスタートをして、そうした100の顧客を勝ち取ってきたという歴史があると思うからです。それは尊重に値することです。
「今楽そうにしている人たちは、かつてバリバリ戦っていた」ことはよくある話です。
しかし、本当に実力主義だらけの世の中になると「バリバリ働けなくなった瞬間に脱落する」という社会が訪れるということですから、大人たちは、あなたが思うのと同様
「そんな社会は嫌だ」
と今の楽な身分を失いたくないのです。従って、努力は常に若者にあてがわれるわけです。
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新社会人にとって、これからの世界は理不尽なことや怪しいことがたくさんまかり通っていると思いますが、そこにはかならず理由があります。
逆説的に言えば「実力主義・成果主義」を推し進める言説があるとすれば、そこにどんな「裏の意図」があるのかもちょっと考えたほうがいいかもしれません。
いちばんアホなのは、「自分には実力があるのに、評価されない」と思い込んでフリーランスになることです。
そういう人は、実力がないことがほとんどです。残念ながら。
本当に実力があって独立する人は、そこに至るまでに周到な根回しをします。それは、やっぱり
「媚びるフリ・従うフリ・耐えるフリ・甘んずるフリ・捧げるフリ」を着実に遂行できる人だということなのです。
2014年3月28日金曜日
■【新社会人に贈る10の金言 その1】話し合いで物事は解決しない
春なので、前回から引き続いて「新社会人に贈る10の金言」なるシリーズを勝手に立ち上げてみました。
前回が「概論」みたいな感じだとすると、いよいよここからが本題になります。
その前にお前自身が社会人としてどうやねん!と突っ込まれるかもしれませんが、そうですね。確かに僕なんかまだまだの若輩者だと思います。日々勉強の最中だと思っています。
まあ、そんな中でも、とりあえず公務員と民間と、それから起業というほどもないプチビジネスと、もちろん、アルバイトも(笑)織り交ぜながらいろんな仕事を経験した中で、社会人として知りえたことを小出しにしてみたいと思っています。
新卒のみなさんは、ぜひご一読ください。
本編第一回は、「話し合いで物事は解決しない」ということを知っておいて欲しいと思います。
これは、たとえば国と国の問題などでもそうなのですが、大きいネタから小さいネタに至るまで「話し合いで物事は絶対に解決」しません。
それを肝に銘じて仕事に当たるかどうかは、人生をも大きく左右する重大なツボだと思ってください。
ここまで読んで、「ん?僕らは子供時代から、戦争やケンカではなく話し合いで解決するように指導を受けている」とか「世界平和は話し合いで実現するべきものなんじゃないの?」と思われる方が大半だと思います。
そうですね。その言説は、一見当たっていますし、確かに僕らはそういう風に大人たちから聞いて育ってきています。
しかし、そこには大きな解釈の齟齬があります。だから勘違いが生まれ易いのです。
==========
まず、きちんと定義しておきましょう。
「話し合いで物事は解決しない」の裏には、こんな事実があります。
「物事を解決するのは『力(ちから)=フォース』である」
ということが真実です。
ここで、早まってはいけません。力(ちから)、フォースとは物理的な力(戦争や暴力)を指しているのではなく、バックグラウンドの力関係や、無言の圧力、上位と下位などのすべての「力関係」を示しているということを覚えていてください。
学生のみなさんが、よく誤解しているのは「話し合いで物事は解決するはずだから、いつか粘り強く説得すれば、自分の意を汲んでもらえる」ということです。
それは違います。
丁寧な説明をすることによって、相手方が気付いていなかったメリットを伝えることができて、その結果自分の意図した方向に物事が進むことは確かにあります。
しかし、完全に力関係が均衡していれば、「物事は話し合いで解決するのではなく、新しい力関係の創出によってのみ解決する」ことを知っておくべきです。
もっと、平たく言いましょう。みなさんが社会人になって知ることは、「力関係が弱い立場の者は、確実に争わずして負ける」ということです。
もっと具体例を言いましょう。
商売において、売り手と買い手はにあっては、売り手のほうが基本的には不利です。なので価格交渉などでは、基本的に売り手が買い手の要求を飲む場面が多いです。
その場合、話し合いで解決するとはつまり「相手の言いなりにならざるを得ず、妥協する」ということになります。
上司と部下にあっては、上司の方が有利です。フォースを持っているからです。なので、上司に対する提案で「話し合いで解決する」とは、上司そのものに対してメリットがあることで、上司がそのメリットに気付いた時にはじめて提案は受け入れられる、ということになります。
A案とB案と、どちらが成果を挙げるかまったく予想できない場合、A案とB案のよさをそれぞれ支持する者は山ほど列挙するかもしれません。しかし、それが本当に拮抗している場合は、力を持っているほうが選択した案が善になります。
もし、その案を選択して結果が悪かったとしても、「ほらやっぱりB案を選べばよかったんじゃん」とは社会ではなりません。
「A案を実現するのに、全員が協力しなかったからだ」くらいのことは平気で言われます。
==========
社会や仕事において、このように「力によって何かが決定される」ことがおそらく95%ぐらいの確率で起こると思っていてください。
ところが、確かに5%くらいは、それを裏切るようなウルトラCの展開が起きることがあります。
「力関係の弱かった方が、力を持つ方に提案を受け入れてもらえた(成果を挙げた)」とか
「絶対に実現無理そうな意見を目に留めてもらえた」とか
そういうビジネスにおける美談みたいなものが生まれることが実際に起きるのです。
その時に、その事件の当事者は「熱意をもって望んだのでそれがわかってもらえた」とか、「全力で事に当たったので成果が挙がった」とか、いろんな物語をくっつけますが、残念ながらそれはあまり信用なりません。
「熱意を持って望んでも95%の失敗はある」し「全力で当たっても95%は撃沈」することが多々あるからです。
==========
なので、逆にみなさんに言っておきますが、「話し合いに負けても、フォースに打ちのめされても」そんなもんだ、と思っていてください。
けして腐る必要はありません。だって社会はそんなもんなのですから。
最後に、話し合いで物事が解決しない実例をみなさんにも考えてもらってこの節を終わります。
----------------
とある高校の職員会議で、教師たちに2つの意見が出た。
ある先生たちは「高校生はこれから社会に出るのだから、社会のルールを厳格に適用して社会の厳しさを教えなくてはいけない」と考えて、厳しい生活指導をするべきだ、と言った。
ある先生たちは「高校生はこのあと社会に出るのだから、自由を謳歌できるのはこれが最後の期間なので大目に見るべきだ」と言った。
前者の先生たちは、服装頭髪をはじめ、すべてのルールを明確に定めて厳格に運用しようとした。
後者の先生たちは、そうしたルールは必要なく、学習指導にのみ徹しようとした。
もちろん、どちらの教師たちも高い技量と知識を持っていて、いずれもまったく悪意がない。前者の先生たちは、立派な社会人を作ることを心から目指しており、後者の先生たちは、心豊かなのびのびとした人格を本当に育てたいと願っている。
さて、この学校は、どうしたらいいか。解決してほしい。
----------------
この2つの意見を持つ教師たちについて、話し合いで解決すると思いますか?また、どうしたらこの学校の方針が決定できるでしょうか。
解決そのものは簡単です。でも、その方法はおそらく「何かフォース」を使うことになると思います。そのとき、あなたは気付くのです。
ああ、話し合いが解決したのではなく、フォースが決めたのだ、ということに。
前回が「概論」みたいな感じだとすると、いよいよここからが本題になります。
その前にお前自身が社会人としてどうやねん!と突っ込まれるかもしれませんが、そうですね。確かに僕なんかまだまだの若輩者だと思います。日々勉強の最中だと思っています。
まあ、そんな中でも、とりあえず公務員と民間と、それから起業というほどもないプチビジネスと、もちろん、アルバイトも(笑)織り交ぜながらいろんな仕事を経験した中で、社会人として知りえたことを小出しにしてみたいと思っています。
新卒のみなさんは、ぜひご一読ください。
本編第一回は、「話し合いで物事は解決しない」ということを知っておいて欲しいと思います。
これは、たとえば国と国の問題などでもそうなのですが、大きいネタから小さいネタに至るまで「話し合いで物事は絶対に解決」しません。
それを肝に銘じて仕事に当たるかどうかは、人生をも大きく左右する重大なツボだと思ってください。
ここまで読んで、「ん?僕らは子供時代から、戦争やケンカではなく話し合いで解決するように指導を受けている」とか「世界平和は話し合いで実現するべきものなんじゃないの?」と思われる方が大半だと思います。
そうですね。その言説は、一見当たっていますし、確かに僕らはそういう風に大人たちから聞いて育ってきています。
しかし、そこには大きな解釈の齟齬があります。だから勘違いが生まれ易いのです。
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まず、きちんと定義しておきましょう。
「話し合いで物事は解決しない」の裏には、こんな事実があります。
「物事を解決するのは『力(ちから)=フォース』である」
ということが真実です。
ここで、早まってはいけません。力(ちから)、フォースとは物理的な力(戦争や暴力)を指しているのではなく、バックグラウンドの力関係や、無言の圧力、上位と下位などのすべての「力関係」を示しているということを覚えていてください。
学生のみなさんが、よく誤解しているのは「話し合いで物事は解決するはずだから、いつか粘り強く説得すれば、自分の意を汲んでもらえる」ということです。
それは違います。
丁寧な説明をすることによって、相手方が気付いていなかったメリットを伝えることができて、その結果自分の意図した方向に物事が進むことは確かにあります。
しかし、完全に力関係が均衡していれば、「物事は話し合いで解決するのではなく、新しい力関係の創出によってのみ解決する」ことを知っておくべきです。
もっと、平たく言いましょう。みなさんが社会人になって知ることは、「力関係が弱い立場の者は、確実に争わずして負ける」ということです。
もっと具体例を言いましょう。
商売において、売り手と買い手はにあっては、売り手のほうが基本的には不利です。なので価格交渉などでは、基本的に売り手が買い手の要求を飲む場面が多いです。
その場合、話し合いで解決するとはつまり「相手の言いなりにならざるを得ず、妥協する」ということになります。
上司と部下にあっては、上司の方が有利です。フォースを持っているからです。なので、上司に対する提案で「話し合いで解決する」とは、上司そのものに対してメリットがあることで、上司がそのメリットに気付いた時にはじめて提案は受け入れられる、ということになります。
A案とB案と、どちらが成果を挙げるかまったく予想できない場合、A案とB案のよさをそれぞれ支持する者は山ほど列挙するかもしれません。しかし、それが本当に拮抗している場合は、力を持っているほうが選択した案が善になります。
もし、その案を選択して結果が悪かったとしても、「ほらやっぱりB案を選べばよかったんじゃん」とは社会ではなりません。
「A案を実現するのに、全員が協力しなかったからだ」くらいのことは平気で言われます。
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社会や仕事において、このように「力によって何かが決定される」ことがおそらく95%ぐらいの確率で起こると思っていてください。
ところが、確かに5%くらいは、それを裏切るようなウルトラCの展開が起きることがあります。
「力関係の弱かった方が、力を持つ方に提案を受け入れてもらえた(成果を挙げた)」とか
「絶対に実現無理そうな意見を目に留めてもらえた」とか
そういうビジネスにおける美談みたいなものが生まれることが実際に起きるのです。
その時に、その事件の当事者は「熱意をもって望んだのでそれがわかってもらえた」とか、「全力で事に当たったので成果が挙がった」とか、いろんな物語をくっつけますが、残念ながらそれはあまり信用なりません。
「熱意を持って望んでも95%の失敗はある」し「全力で当たっても95%は撃沈」することが多々あるからです。
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なので、逆にみなさんに言っておきますが、「話し合いに負けても、フォースに打ちのめされても」そんなもんだ、と思っていてください。
けして腐る必要はありません。だって社会はそんなもんなのですから。
最後に、話し合いで物事が解決しない実例をみなさんにも考えてもらってこの節を終わります。
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とある高校の職員会議で、教師たちに2つの意見が出た。
ある先生たちは「高校生はこれから社会に出るのだから、社会のルールを厳格に適用して社会の厳しさを教えなくてはいけない」と考えて、厳しい生活指導をするべきだ、と言った。
ある先生たちは「高校生はこのあと社会に出るのだから、自由を謳歌できるのはこれが最後の期間なので大目に見るべきだ」と言った。
前者の先生たちは、服装頭髪をはじめ、すべてのルールを明確に定めて厳格に運用しようとした。
後者の先生たちは、そうしたルールは必要なく、学習指導にのみ徹しようとした。
もちろん、どちらの教師たちも高い技量と知識を持っていて、いずれもまったく悪意がない。前者の先生たちは、立派な社会人を作ることを心から目指しており、後者の先生たちは、心豊かなのびのびとした人格を本当に育てたいと願っている。
さて、この学校は、どうしたらいいか。解決してほしい。
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この2つの意見を持つ教師たちについて、話し合いで解決すると思いますか?また、どうしたらこの学校の方針が決定できるでしょうか。
解決そのものは簡単です。でも、その方法はおそらく「何かフォース」を使うことになると思います。そのとき、あなたは気付くのです。
ああ、話し合いが解決したのではなく、フォースが決めたのだ、ということに。
2014年3月27日木曜日
■【新社会人に贈る10の金言 概論】 ~就活をしている君に知られたくないこと~
早いものでもうすぐそこに3月末がやって来ています。おかげさまで僕個人は、消費税増税前の超忙しさで、仕事にバタバタしていますが、「そういえば4月といえば新年度なんだなあ」とふいに思い出してしまったり。
そんな折、新社会人が春からいよいよいろんなところでデビューするわけで、気になる記事を見つけたのでレポしてみたいと思います。
学生フリー編集者、就活で「働く」を見失い、「俺を見てくれ」と叫ぶ!(現代ビジネスさんより)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38765
記事は、現在大学3年生にして、フリーで編集っぽい仕事をいくつかやっているという小川未来さんのもので、いろんな意味で面白い記事です。
いろんな意味、というのは、文字通り多様な側面を内包しています。学生時代から見た社会人生活や、社会への期待ならびに理想のようなものの観点も面白いし、逆に現社会人の我々からみたツッコミどころ、という意味でも面白いです。
まあ、今回は、さらりと小川さんの文章から「いろんなこと」を紐解いてゆこうと思います。
<採用試験とは何か>
”ジャネット・イエレンについて説明せよ”という試験問題を突きつけられて「なんだこれは」と思った小川さんの話。思わずニコニコして読んでしまいました。
そう、そうなんですよ。就職試験というのは、こういうもんなんです(笑)。僕にだって、これと同じような経験がある。
とある就職試験をうけて「芸術における○○について論述せよ」という問題を突きつけられて撃沈した記憶が、私にもあります。(当然落ちた)
そこで、小川さんは当惑して怒りを覚えておられます。”こんな問題出すのか”とか”なぜ知識を問うのか”とか、いろんな気持ちが錯綜して、わさわさしておられる感がひしひしと伝わるから、面白い(失礼)のです。
今年40歳になる僕は、今では当時の某就職試験の答えを知っています。いいですか?小川さん、そしてみなさん。試験とはどういうものなのか。
そのネタが”ジャネット・イエレン”であるかどうかは、実はどうでもいいかもしれない。出題した当人が、「そんなもん答えられるわけない」とわかっていて出している場合もあります。
その「ふつうなら回答不可能な設問に、どう答えて書き込むのかを知りたい」という出題者がいるかもしれません。
あるいは、そもそも採用予定者が内密に決まっている場合もあるかもしれません。その人物が知っていそうなテーマ、範囲に出題することで「ほら、この人が回答できたでしょ」と理由付けに使っていることだってありえます。
もしかしたら、本当に設問に正しく回答できた人だけをピックアップするための試験かもしれません。それが出題者の意図だとすれば、回答できない人はまさしく「不要」だと思われているわけです。
そして恐らく、その試験の目的は「たいていの人を合理的にふるい落とすための設問」だったのかもしれません。
・・・・・・そうです。就職試験とは、そういう意図のある試験なのです。だから、そもそも設問は公平ではないし、その意図は万人に正義ではないかもしれない。
いいですか?ある会社にとって、採用したい人物というのは「恣意的」な存在です。つまり、多くの受験者にとって、その基準はそもそもゆがんでみえるものなのです。
だから「こんな問題出すのか」の問いには、こう答えられます。「だってわざと出してるもん」
「なぜ知識を問うのか」には、こう答えましょう。「だって知識を問うふりをすれば公平に見えるでしょ」と。
社会に出るというのは、「ああ、社会にはそういう恣意的な意図があるのだ」ということを知る側に回る、ということでもあります。
だから、社会人は、心の中では学生を「ほほえましく」思うのです。「ああ、自分も知らなかった純粋な時代があったのだ」と懐かしんで。
<学生兼フリー編集者として>
インターネット時代になって、この点だけは同感できることが多いのでさらに「面白く」読んでしまったのが「仕事を経験している学生」という項目です。
学生時代に起業したり、何がしかの経営をしている学生というのは、これまでにはあまり存在しなかった人種であるため、「就職」という点において、新しい時代に入っていることは確かです。
だって、僕自身が、会社員でありながらちっぽけですが別にビジネスもしているし、いろんな「顔」を使い分けて生きているわけですから、就職前からそういう活動をしている学生が増えても全然おかしくはありません。
ただ、そのことの受け止め方が、「会社員+起業家」である僕と、「学生+起業家」である小川さんとでは全く逆であることがさらに面白いのです。
小川さんの思考ベクトルでは、「自分で企画できる・活動できる・マネタイズして収入になっている」事実が、とても生き生きと受け止められていますが、僕の場合は全然違うところに着眼点を持っています。
それはつまり、自分で起業したからこそ、「自分の力ではなく、会社という組織や環境が、どれほどすばらしいか」ということを有りがたく感じる、という点です。
「バリバリやれそうな自分」を感じるのではなく「会社員であることのありがたさ」や「組織・環境・しくみ」の素晴らしさを再確認する、というのがプチ起業家としての僕が毎日感じることです。
それは、年収で比較するとわかります。年収100万円起業で稼ぐのは簡単です。しかし、年収500万円起業で稼ぐのは、どれほど骨身を削る必要があるか、ということ。
僕の場合は、年収数百万円をいただけているからこそ、その余力を自分のネタに使えることを心から感謝しています。(同時に会社が理解して下さっていることにも心から感謝しています)
==========
少し話はずれますが、僕の会社、あるいは業界の方で先輩に当たる人たちがこれまで「これなら自分でやれそう」と勘違いをして独立・あるいは新規立ち上げをして、おなじ業界で仕事をやりかけた人をたくさん知っています。
ところが、彼らは現在全員破産もしくは自殺しています。いろんな悪い意味で(苦笑)
僕が今やっている仕事は、「一見自分でやれそう」に見えます。しかし、実は「組織や環境や資金や、バックグラウンド」にあるものは、会社に積み上げられているものです。そこを理解しないと、確実に過ちを犯すことになるわけです。
そういう意味では、起業や兼業は、昔よりはるかに「やりやすい」状況にあると思います。しかし、本質を見失うと、そこにあるのは滅びなのです。
<忍耐力と忠誠心>
会社が求めるのは、忍耐力と忠誠心です。なぜ、それを求めるのかわかりますか?
商売をする以上、これは忘れてはなりません。
すなわち顧客は、忍耐力と忠誠心をあなたに求める、ということです。
学生には一見「会社」がそうさせていると見えるかもしれません。しかし、実際には違います。
「忍耐力と忠誠心を求めているのは、お金を払う者たち」
なのです。
だから廻り廻って、会社がそれを社員に求めるし、上司がそれを部下に求めるのです。
これが嫌だ、という場合は、マネタイズを根底から考え直す必要があります。
つまり、「どうだ、俺様のこれが欲しいだろう。お金を出せば売ってやるよ」という商品を提示する以外にありません。
これはかなり特殊な、技術や頭脳やアイデアを伴う「一部の人たち」にしかできないことです。
そして、ここからはぶっちゃけ話です。
とはいえ、世間の社会人やビジネスマンたちは、そこまで「忍耐力や忠誠心」があるわけではありません。みんな普通の人間だし、生きている限りいろんな感情を持っているからです。
だから、裏ワザを使います。
「忍耐力や忠誠心があるフリをする」
のです。
「クソ上司が!」と思いながら耐えたり、「自分のことばっかり言いやがって」を思いながら顧客に頭を下げるフリをするのです。
だから、会社は「そのフリすらできない人材は、いらない」と考えます。どうせフリです。でも、そのフリすら無理なら、それは社会人として使えないのです。
==========
そんな風に考えると、「上司や先輩やお父さんたちは、めっちゃくちゃ大変だし、世知辛いなあ」と思うかもしれません。
その通りです。なので、そっち側の人間になると、この点については涙をながして共感してくれると思います。
それが無理な人たちは、独立自営をはじめるか引きこもるかの二つに一つですね。ちゃんちゃん。
そんな折、新社会人が春からいよいよいろんなところでデビューするわけで、気になる記事を見つけたのでレポしてみたいと思います。
学生フリー編集者、就活で「働く」を見失い、「俺を見てくれ」と叫ぶ!(現代ビジネスさんより)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38765
記事は、現在大学3年生にして、フリーで編集っぽい仕事をいくつかやっているという小川未来さんのもので、いろんな意味で面白い記事です。
いろんな意味、というのは、文字通り多様な側面を内包しています。学生時代から見た社会人生活や、社会への期待ならびに理想のようなものの観点も面白いし、逆に現社会人の我々からみたツッコミどころ、という意味でも面白いです。
まあ、今回は、さらりと小川さんの文章から「いろんなこと」を紐解いてゆこうと思います。
<採用試験とは何か>
”ジャネット・イエレンについて説明せよ”という試験問題を突きつけられて「なんだこれは」と思った小川さんの話。思わずニコニコして読んでしまいました。
そう、そうなんですよ。就職試験というのは、こういうもんなんです(笑)。僕にだって、これと同じような経験がある。
とある就職試験をうけて「芸術における○○について論述せよ」という問題を突きつけられて撃沈した記憶が、私にもあります。(当然落ちた)
そこで、小川さんは当惑して怒りを覚えておられます。”こんな問題出すのか”とか”なぜ知識を問うのか”とか、いろんな気持ちが錯綜して、わさわさしておられる感がひしひしと伝わるから、面白い(失礼)のです。
今年40歳になる僕は、今では当時の某就職試験の答えを知っています。いいですか?小川さん、そしてみなさん。試験とはどういうものなのか。
そのネタが”ジャネット・イエレン”であるかどうかは、実はどうでもいいかもしれない。出題した当人が、「そんなもん答えられるわけない」とわかっていて出している場合もあります。
その「ふつうなら回答不可能な設問に、どう答えて書き込むのかを知りたい」という出題者がいるかもしれません。
あるいは、そもそも採用予定者が内密に決まっている場合もあるかもしれません。その人物が知っていそうなテーマ、範囲に出題することで「ほら、この人が回答できたでしょ」と理由付けに使っていることだってありえます。
もしかしたら、本当に設問に正しく回答できた人だけをピックアップするための試験かもしれません。それが出題者の意図だとすれば、回答できない人はまさしく「不要」だと思われているわけです。
そして恐らく、その試験の目的は「たいていの人を合理的にふるい落とすための設問」だったのかもしれません。
・・・・・・そうです。就職試験とは、そういう意図のある試験なのです。だから、そもそも設問は公平ではないし、その意図は万人に正義ではないかもしれない。
いいですか?ある会社にとって、採用したい人物というのは「恣意的」な存在です。つまり、多くの受験者にとって、その基準はそもそもゆがんでみえるものなのです。
だから「こんな問題出すのか」の問いには、こう答えられます。「だってわざと出してるもん」
「なぜ知識を問うのか」には、こう答えましょう。「だって知識を問うふりをすれば公平に見えるでしょ」と。
社会に出るというのは、「ああ、社会にはそういう恣意的な意図があるのだ」ということを知る側に回る、ということでもあります。
だから、社会人は、心の中では学生を「ほほえましく」思うのです。「ああ、自分も知らなかった純粋な時代があったのだ」と懐かしんで。
<学生兼フリー編集者として>
インターネット時代になって、この点だけは同感できることが多いのでさらに「面白く」読んでしまったのが「仕事を経験している学生」という項目です。
学生時代に起業したり、何がしかの経営をしている学生というのは、これまでにはあまり存在しなかった人種であるため、「就職」という点において、新しい時代に入っていることは確かです。
だって、僕自身が、会社員でありながらちっぽけですが別にビジネスもしているし、いろんな「顔」を使い分けて生きているわけですから、就職前からそういう活動をしている学生が増えても全然おかしくはありません。
ただ、そのことの受け止め方が、「会社員+起業家」である僕と、「学生+起業家」である小川さんとでは全く逆であることがさらに面白いのです。
小川さんの思考ベクトルでは、「自分で企画できる・活動できる・マネタイズして収入になっている」事実が、とても生き生きと受け止められていますが、僕の場合は全然違うところに着眼点を持っています。
それはつまり、自分で起業したからこそ、「自分の力ではなく、会社という組織や環境が、どれほどすばらしいか」ということを有りがたく感じる、という点です。
「バリバリやれそうな自分」を感じるのではなく「会社員であることのありがたさ」や「組織・環境・しくみ」の素晴らしさを再確認する、というのがプチ起業家としての僕が毎日感じることです。
それは、年収で比較するとわかります。年収100万円起業で稼ぐのは簡単です。しかし、年収500万円起業で稼ぐのは、どれほど骨身を削る必要があるか、ということ。
僕の場合は、年収数百万円をいただけているからこそ、その余力を自分のネタに使えることを心から感謝しています。(同時に会社が理解して下さっていることにも心から感謝しています)
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少し話はずれますが、僕の会社、あるいは業界の方で先輩に当たる人たちがこれまで「これなら自分でやれそう」と勘違いをして独立・あるいは新規立ち上げをして、おなじ業界で仕事をやりかけた人をたくさん知っています。
ところが、彼らは現在全員破産もしくは自殺しています。いろんな悪い意味で(苦笑)
僕が今やっている仕事は、「一見自分でやれそう」に見えます。しかし、実は「組織や環境や資金や、バックグラウンド」にあるものは、会社に積み上げられているものです。そこを理解しないと、確実に過ちを犯すことになるわけです。
そういう意味では、起業や兼業は、昔よりはるかに「やりやすい」状況にあると思います。しかし、本質を見失うと、そこにあるのは滅びなのです。
<忍耐力と忠誠心>
会社が求めるのは、忍耐力と忠誠心です。なぜ、それを求めるのかわかりますか?
商売をする以上、これは忘れてはなりません。
すなわち顧客は、忍耐力と忠誠心をあなたに求める、ということです。
学生には一見「会社」がそうさせていると見えるかもしれません。しかし、実際には違います。
「忍耐力と忠誠心を求めているのは、お金を払う者たち」
なのです。
だから廻り廻って、会社がそれを社員に求めるし、上司がそれを部下に求めるのです。
これが嫌だ、という場合は、マネタイズを根底から考え直す必要があります。
つまり、「どうだ、俺様のこれが欲しいだろう。お金を出せば売ってやるよ」という商品を提示する以外にありません。
これはかなり特殊な、技術や頭脳やアイデアを伴う「一部の人たち」にしかできないことです。
そして、ここからはぶっちゃけ話です。
とはいえ、世間の社会人やビジネスマンたちは、そこまで「忍耐力や忠誠心」があるわけではありません。みんな普通の人間だし、生きている限りいろんな感情を持っているからです。
だから、裏ワザを使います。
「忍耐力や忠誠心があるフリをする」
のです。
「クソ上司が!」と思いながら耐えたり、「自分のことばっかり言いやがって」を思いながら顧客に頭を下げるフリをするのです。
だから、会社は「そのフリすらできない人材は、いらない」と考えます。どうせフリです。でも、そのフリすら無理なら、それは社会人として使えないのです。
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そんな風に考えると、「上司や先輩やお父さんたちは、めっちゃくちゃ大変だし、世知辛いなあ」と思うかもしれません。
その通りです。なので、そっち側の人間になると、この点については涙をながして共感してくれると思います。
それが無理な人たちは、独立自営をはじめるか引きこもるかの二つに一つですね。ちゃんちゃん。
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