すべての高校生といってもいいくらい、かなりの高確率で中高生が心の中で思っている事実というのがあります。
それは「自分以外はみなバカである」という思想・信条・イメージです。
なぜそんなことを考えてしまうのかと言えば、ぶっちゃけて言えば「それが普通、当たり前」だからに他なりません。
中高生にとって、今のみなさんの人生は「まだ、何者にもなっていない過程」であり、「まだ何者にもなれていない」途中の段階で大変不安定です。
職業も決まっていないし、生き方も決まっていません。すべてが曖昧であやふやな時期であり、また「成人」といった社会的な認知もされていない時期なので、本来であれば「吹けば飛ぶような小さな存在」であることは確かです。
その存在自体が「あやうい」状態の自分自身を維持するには、「自分がここに存在している」ということを自意識の上で確認せねばなりません。
そこで過剰なまでの「自己肯定」というものに頼るようになるのです。
世界の歴史を見ていると、自国があやうい立場であったり、問題を抱えている国ほど「自分の国は素晴らしい!」と過剰に宣伝したり、「自国民は優秀である!」というナショナリズムに走るようになりますが、それに似ています。
本当に先進的な国は、自国を褒めるような言動をするのではなく、むしろ「わが国の問題点はここだ」とか「こういう部分がダメだ」とまっすぐマイナスポイントを直視しているのが普通です。
しかし、高校生にとって「自分以外はバカである」病は避けては通れない通過儀礼のようなものですので、ここでは正しい「自分以外はバカである」病との付き合い方をまとめておきたいと思います。
まず、「バカ」という言葉でひとくくりにしていますが、これは知識知能に関するものだけではありません。
勉強ができる生徒は、「自分以外はみんなアホだ」と考えます。
女子で可愛い子は、「あたし以外はみんなブスだ」と考えます。中に1人くらい「あたしを超える可愛い子」がいることは認めますが、たいていのクラスの女子より「あたしはマシ」なはずです。
スポーツができる生徒は「あいつらはトロい」と考えるし、イケテる生徒は「あいつらはダサい」と考えるでしょう。
その要素や項目・ジャンルはいろいろとあるかもしれませんが、たいていの場合「自分はあいつらよりも■■の部分で上に立っている」と考えることが自然なことなのです。
中高生の時点で、こうした「優越感・自己肯定感」を抱くのは正常なことですから、逆にいえば、みなさんのような高校生の時点で
「自分は何一つダメだ」
とか
「あたしは全然可愛くないし、イケてない」
とか
「自分は一生童貞だろう、処女だろう」
とか
「友だちは一生できそうもない。なぜなら自分はキモいからだ」
といった感情に支配されている人は、はっきり言いますが、現時点で「病気」です。
何がしかの発達障害を発症している可能性が高いので、早めに手を打たないと、問題の多い、苦労する人生を送る可能性もなきにしもあらずです。
つまり、まとめておきますが、中高生の時点では、「わけもわからず、俺は偉い」と感じるのは、普通であり、むしろ健全で、それが社会に出て揉まれてゆくなかで、「そうじゃなかったんだ!俺はまだまだダメだなあ!」と思うのが正常に近い、ということです。
そして、中高生の時点の「俺はえらい」が、最後までそのままいくと「社会生活不適合」になり、仕事をコロコロ辞めざるを得なかったり、コミュニケーションがとれなかったり、一生童貞だったりすることになる、というわけです。
また、中高生の時点で「自分はどうしようもないキモさだ」と思っている人が、手を打たずにそのままいくと、やっぱり「社会不適合」になったり、重大な問題や事件を起こしてしまうこともある、というわけです。
ということは、「ふつうに成長する」というこは、実はちょっと狭き門であり、道を誤ってしまう可能性は、誰にでもあるんだ、ということでもありますね。
なまじっか勉強ができて、コミュニケーション不適合や社会不適合のまま大学や大学院まで行ってしまったりすると、もう手がつけられなくなったりするので要注意です。
ですからここまでのお話でも、「明るく元気で爽やかにできない人」は社会においてはマズい、と口をすっぱくして言っているわけです。
では、いったいどうすれば「普通の」「健康的な」「ヤバくない」成長を遂げることができるのでしょうか。
一言でいえば、健全な成長とは「ものごとを捉えるモノサシ・基準が”主観”から”客観”に変わってゆく」ということに他なりません。
こどもというのは、自分の世界観の中で「僕はなんでもできる、一人で歩けるし、おねしょもしないし、ごはんも食べられる」という万能感に支配されています。
それから小学校・中学校・高校へと進む中で「できること」が積み重ねられてゆくので、基本的に「俺は賢くて、みんなはバカだ」という世界観が形成されるのです。
ところが、大人になってゆくと、自己の限界に気付き始めます。いろいろなジャンルや要素で、「自分より賢いヤツ」「自分より明らかにカッコいいやつ」「自分よりできるやつ」に出会ったり、自分自身のスコアが伸びなくなったりして、
「あれ?これはなんか様子が変だぞ?おかしいぞ?」
と思い始めるのです。
そこから、「他者の基準で自分を判定する」という客観性が備わりはじめ、社会全体の中での自分のポジショニングを考えるようになるわけです。
そうした一連の「自分の視点からの脱却」が確率するのが、高校時代だと言ってもよいでしょう。
特に、女子の場合は中学生まではすべての心身の発達が男子に先行していますので、高校で男女の能力差が逆転します。
学力や体力面でも、いままで「できる子」とされていた女子が、急に「ふつうのレベル」になってしまい、「子供っぽかった」男子が、急に「大人びてくる」のが、高校3年間だと言うわけなのです。
最後に、現時点で「自己肯定感」が得られていない人(自分はダメだと思い込んでいる人)へのアドバイスですが、たいていの場合、それは「何者かによってそう思い込まされるような事象に支配されている」ことが多いので、その解決を急がねばなりません。
こじらせる前に、適切なサポーターに「助けてほしいこと」を意思表示しなくてはいけないと思います。自分ひとりで解決できることは、まずありません。
なぜなら、あなたが今持っている「モノサシそのもの」の目盛りや基準がすでに正しいものではないからです。
まちがったモノサシをなんど当てて測っても、正しい数字はけして出てきません。
2014年10月30日木曜日
2014年10月26日日曜日
【高校生のための”人生”の教科書19】 友だち付き合いは、難しい
さて、前回は「友だち・知り合い・人間関係」の根っこの部分についてお話しましたが、みなさんは日々学校生活を送っている中で、友だち付き合いについて心を悩ませていることと思います。
どんな問題が起きているか、どんな悩みがあるのかは、私は知りません。はっきり言いますが、全ての人が多用な問題を抱えているので、それぞれ個別の出来事については、すべて解決するような方法はないからです。
しかし、誰にでも通用する大きなヒントがいくつかあります。それはあなたの人生を・人生観を大きく変えるヒントになるはずです。
① 正義を捨てなさい。そうすれば、あなたは幸せになれます。
正義を捨てる、という言い方をすると「じゃあ、悪になれというのか」と思ってしまいがちですが、そうではありません。「これが正しい」とか「これが良い」とか「こうすべきだ」という「正義・善」の感覚を、一旦
「保留」
するくせをつければ、あなたの人生や友だち付き合いは、かなり楽になると思います。
ものすごくわかりやすい例をお話しましょう。あなたのクラスに、ある生徒がいて、彼か彼女かは、クラスの中で友だちのものを盗んだとしましょう。
そう、クラスの中で窃盗事件を起こしたのです。
あなたや、クラスの人たちはどのように彼・彼女に接するべきでしょうか。
・・・これも結論を先に言いますが、「わかりません」。正解はありません。彼・彼女に窃盗癖があるのであれば、あなたも彼がいる空間では持ち物に気をつけなくてはなりません。
心から彼・彼女と笑いあうことはもうできないでしょう。
彼や彼女をどういう形であれ、クラス全員が距離を置くことになりますが、それは「いじめ」とどこが違うのでしょうか?
「悪いことを起こしたものは、多少いじめられても(排除・距離を置かれても)仕方ない」と考える人もいます。
では、「掃除をサボったからあいつはいじめていい」「悪口を言ったらしいからあいつはいじめていい」ということですね?
すべての「いじめ」はそのように「彼・彼女のささいな悪」をことさらに取り上げながら進行してゆきます。
さあ、「窃盗したクラスメイトは、いじめていいのか、いけないのか」どっちなんだ!
・・・これはとても難しいことで、「いじめはいけない」という善悪と「窃盗はいけない」という善悪はこんな風にすぐに矛盾を起こすのです。
学校現場では、こうした事例が起こると、多くの場合、彼や彼女を転校させることで解決を図ります。前回「土地を離れれば人間関係はリセットできる」という話をしましたが、その手を学校が使うわけです。
あなたの学校という物理的空間から、彼や彼女を移動させることで、別の土地でやり直すことができる、というわけです。
それはともかく、ここから学べる事柄は「善悪」という判断を一旦保留して、いろいろな角度で物事を見よう、ということです。
「あいつが何々したから嫌いだ」とか、「誰それに何々された」という状況を、あなたの目線だけでなく、別の目線でも考えてみることが、大切だと思います。
② プライドをコントロールしなさい。そうすればあなたは幸せになれます。
中学生・高校生にとって、もっと大きな壁・試練はこれだと思います。大人になると、自分の人生における「立ち位置とかレベル・ランク・身分」といったものはなんとなくわかるようになるので、しょーもないプライドからは自由になれることが多いのですが、中高生のうちは、まだまだ「わけのわからないプライド」に包まれています。
面白いことに、これはヒトに生物学的に埋め込まれた「本能」のようなものらしく、これをコントロールするのは、とても難しいことではあるかもしれません。
私が1歳の小さな赤ん坊を観察していると、面白いことに1歳児にも「なんだかわけのわからないプライド」があるらしく、
「親が1歳児に対して『ダメ』と制止すると、逆切れして怒る」
とか
「きょうだいが、1歳児の持っていたものを取ろうとすると、切れて怒る」
とか
そういう行動がしょっちゅう見られます。1歳児は
「ボクは、まだまだひよっこでダメ人間ですから、みなさんのおっしゃるとおりにいたします」
なんてことは全く考えず、いっちょまえに激怒するのです。(ちなみに激怒を通り越すと泣き出します)
面白いですよね?赤ちゃんの時から、「自分の領域を否定されたり、非難されるとヒトは怒る」のです。
そういうことが、あなたの「プライド」を形成してゆき、今の状態になっています。
中高生のすごいところは、(赤ちゃんもそうなのですが)「今、自分がどのレベルにあって、どういう状況でそうなっているのか」について、考えないところです。ある意味、そうしたことを考えないがために、人生は豊かに生きることができるのですが、逆にそれがあなたを苦しめることになります。
もし、プライドがなければ、高校生は
「ははーっ、いつもご飯をタダで提供いただき、家も服も与えていただいで誠にありがたき幸せ!この恩を一生忘れず、ご両親さまのために身を粉にして勉強する所存であります!どうか私を、このセケンの荒波に投げ出したりせず、せめてあと3年くらいは暖房も冷房も、部活のユニフォームも、マンガも提供いただきますよう、心からお願い申し上げます」
というキモチになるはずです。でも、そんなのはおかしいですよね?
そう、「俺は親に無償で全てを提供されても当たり前なんじゃい!」という、わけのわからないプライドがあるからこそ、子供はこどもらしくのびのびと成長できるわけです。
大人になると、上のセリフを毎日実行しなくてはいけません。
「会社に毎日遅刻せずに行くのは、ありがたい給料をいただくため」
「取引先に頭を下げて怒鳴られても耐えるのも、ありがたい給料をいただくため」
です。誰1人として、「会社はタダで俺に給料を提供すべきだ」と思っている人はいません。
ということは、「プライド」をコントロールできるようになれば、人間関係もかなり良くなるはずだと思いませんか?
「いじめられてても、親に言えない」のは、プライドのせいです。
「親方様!敵が、敵が攻めて参りました!当方はすでにズダボロでございます!援軍を!援軍を出してください!」
と叫んでいる戦国武将を想像してみてください。別に何もおかしくないですよね?やられているので、大名に助けを求めているだけです。
でも、
「うーむ、すでに当軍は兵糧を奪い去られ(カツアゲ)、すでに兵の大半が戦死(殴られた)したか・・・。でも、親方様には言えない」
というのが「いじめられて黙っている人の心理」です。変ですね?どうして、やられていることを親方様に報告できないのか。
そこが「わけのわからんプライド」というもののやっかいさ、なのです。「いじめられているなんて状況を認めたくない」という心理、自分が「負けているということを認めたくない」心理が邪魔をするのです。
武将になってみましょう。
「うぬぬ、敵が優勢とは!しかし、しかしまだこのわしは戦えるんじゃ!半数が戦死?いやいや、残りの者すべてで最後まで撃って出るのじゃ!」
という状況が、いじめを黙っている人の心理と同じです。武将は意地(プライド)だけで戦おうとしているのです。討ち死にする確率が高いのに。
まあ、ざっくりと説明しましたが、「プライド」はやっかいなものです。それを適切にコントロールして、「自信を持ちながら、かつ自意識過剰にならない」ということは、難問には違いありません。
しかし、それを無事に成し遂げたときに、人生は豊かになるのかもしれません。
どんな問題が起きているか、どんな悩みがあるのかは、私は知りません。はっきり言いますが、全ての人が多用な問題を抱えているので、それぞれ個別の出来事については、すべて解決するような方法はないからです。
しかし、誰にでも通用する大きなヒントがいくつかあります。それはあなたの人生を・人生観を大きく変えるヒントになるはずです。
① 正義を捨てなさい。そうすれば、あなたは幸せになれます。
正義を捨てる、という言い方をすると「じゃあ、悪になれというのか」と思ってしまいがちですが、そうではありません。「これが正しい」とか「これが良い」とか「こうすべきだ」という「正義・善」の感覚を、一旦
「保留」
するくせをつければ、あなたの人生や友だち付き合いは、かなり楽になると思います。
ものすごくわかりやすい例をお話しましょう。あなたのクラスに、ある生徒がいて、彼か彼女かは、クラスの中で友だちのものを盗んだとしましょう。
そう、クラスの中で窃盗事件を起こしたのです。
あなたや、クラスの人たちはどのように彼・彼女に接するべきでしょうか。
・・・これも結論を先に言いますが、「わかりません」。正解はありません。彼・彼女に窃盗癖があるのであれば、あなたも彼がいる空間では持ち物に気をつけなくてはなりません。
心から彼・彼女と笑いあうことはもうできないでしょう。
彼や彼女をどういう形であれ、クラス全員が距離を置くことになりますが、それは「いじめ」とどこが違うのでしょうか?
「悪いことを起こしたものは、多少いじめられても(排除・距離を置かれても)仕方ない」と考える人もいます。
では、「掃除をサボったからあいつはいじめていい」「悪口を言ったらしいからあいつはいじめていい」ということですね?
すべての「いじめ」はそのように「彼・彼女のささいな悪」をことさらに取り上げながら進行してゆきます。
さあ、「窃盗したクラスメイトは、いじめていいのか、いけないのか」どっちなんだ!
・・・これはとても難しいことで、「いじめはいけない」という善悪と「窃盗はいけない」という善悪はこんな風にすぐに矛盾を起こすのです。
学校現場では、こうした事例が起こると、多くの場合、彼や彼女を転校させることで解決を図ります。前回「土地を離れれば人間関係はリセットできる」という話をしましたが、その手を学校が使うわけです。
あなたの学校という物理的空間から、彼や彼女を移動させることで、別の土地でやり直すことができる、というわけです。
それはともかく、ここから学べる事柄は「善悪」という判断を一旦保留して、いろいろな角度で物事を見よう、ということです。
「あいつが何々したから嫌いだ」とか、「誰それに何々された」という状況を、あなたの目線だけでなく、別の目線でも考えてみることが、大切だと思います。
② プライドをコントロールしなさい。そうすればあなたは幸せになれます。
中学生・高校生にとって、もっと大きな壁・試練はこれだと思います。大人になると、自分の人生における「立ち位置とかレベル・ランク・身分」といったものはなんとなくわかるようになるので、しょーもないプライドからは自由になれることが多いのですが、中高生のうちは、まだまだ「わけのわからないプライド」に包まれています。
面白いことに、これはヒトに生物学的に埋め込まれた「本能」のようなものらしく、これをコントロールするのは、とても難しいことではあるかもしれません。
私が1歳の小さな赤ん坊を観察していると、面白いことに1歳児にも「なんだかわけのわからないプライド」があるらしく、
「親が1歳児に対して『ダメ』と制止すると、逆切れして怒る」
とか
「きょうだいが、1歳児の持っていたものを取ろうとすると、切れて怒る」
とか
そういう行動がしょっちゅう見られます。1歳児は
「ボクは、まだまだひよっこでダメ人間ですから、みなさんのおっしゃるとおりにいたします」
なんてことは全く考えず、いっちょまえに激怒するのです。(ちなみに激怒を通り越すと泣き出します)
面白いですよね?赤ちゃんの時から、「自分の領域を否定されたり、非難されるとヒトは怒る」のです。
そういうことが、あなたの「プライド」を形成してゆき、今の状態になっています。
中高生のすごいところは、(赤ちゃんもそうなのですが)「今、自分がどのレベルにあって、どういう状況でそうなっているのか」について、考えないところです。ある意味、そうしたことを考えないがために、人生は豊かに生きることができるのですが、逆にそれがあなたを苦しめることになります。
もし、プライドがなければ、高校生は
「ははーっ、いつもご飯をタダで提供いただき、家も服も与えていただいで誠にありがたき幸せ!この恩を一生忘れず、ご両親さまのために身を粉にして勉強する所存であります!どうか私を、このセケンの荒波に投げ出したりせず、せめてあと3年くらいは暖房も冷房も、部活のユニフォームも、マンガも提供いただきますよう、心からお願い申し上げます」
というキモチになるはずです。でも、そんなのはおかしいですよね?
そう、「俺は親に無償で全てを提供されても当たり前なんじゃい!」という、わけのわからないプライドがあるからこそ、子供はこどもらしくのびのびと成長できるわけです。
大人になると、上のセリフを毎日実行しなくてはいけません。
「会社に毎日遅刻せずに行くのは、ありがたい給料をいただくため」
「取引先に頭を下げて怒鳴られても耐えるのも、ありがたい給料をいただくため」
です。誰1人として、「会社はタダで俺に給料を提供すべきだ」と思っている人はいません。
ということは、「プライド」をコントロールできるようになれば、人間関係もかなり良くなるはずだと思いませんか?
「いじめられてても、親に言えない」のは、プライドのせいです。
「親方様!敵が、敵が攻めて参りました!当方はすでにズダボロでございます!援軍を!援軍を出してください!」
と叫んでいる戦国武将を想像してみてください。別に何もおかしくないですよね?やられているので、大名に助けを求めているだけです。
でも、
「うーむ、すでに当軍は兵糧を奪い去られ(カツアゲ)、すでに兵の大半が戦死(殴られた)したか・・・。でも、親方様には言えない」
というのが「いじめられて黙っている人の心理」です。変ですね?どうして、やられていることを親方様に報告できないのか。
そこが「わけのわからんプライド」というもののやっかいさ、なのです。「いじめられているなんて状況を認めたくない」という心理、自分が「負けているということを認めたくない」心理が邪魔をするのです。
武将になってみましょう。
「うぬぬ、敵が優勢とは!しかし、しかしまだこのわしは戦えるんじゃ!半数が戦死?いやいや、残りの者すべてで最後まで撃って出るのじゃ!」
という状況が、いじめを黙っている人の心理と同じです。武将は意地(プライド)だけで戦おうとしているのです。討ち死にする確率が高いのに。
まあ、ざっくりと説明しましたが、「プライド」はやっかいなものです。それを適切にコントロールして、「自信を持ちながら、かつ自意識過剰にならない」ということは、難問には違いありません。
しかし、それを無事に成し遂げたときに、人生は豊かになるのかもしれません。
2014年10月25日土曜日
【高校生のための”人生”の教科書18】第四章 友だちを巡る諸問題
学校生活だけでなく、これからのあなたの人生において、いい意味でも悪い意味でも大きなウエイトを占めるに違いない、
「ともだち」
を巡るたくさんの事象について、この章ではお話をしておきたいと思います。
一般論として、友だちや友人、仲間、知り合いと親しく仲良くすることは、大切なことだと信じられていますし、またそのように多くの人は行動しています。
しかし、また一方で、友だちや友人、知り合いというもののせいで、大小のトラブルに巻き込まれたり、人間関係に色々な「こじれ」を生じさせることがあるのも事実です。
では、高校生活・またその先の社会生活において、「他者との関わり」をどのように過ごしてゆけば、人生は豊かになるのでしょうか。
いつものように、世代を見ながら話をしてゆこうと思いますが、あなたのお父さん・おじいさん・ひいおじいさんを含めた4世代に渡って、あなたの先輩たちはほぼ似たような「友だちづきあい」をしてきました。
また、一番最初にお話した「土地を持っているか・いないか」が、人間関係にも大いに影響していることも、覚えておきたいと思います。
あなたのお父さんや、おじいさんや、ひいおじいさんが「主に長男の家系で、土地を持っていて、ずっと地元に根ざして生活していた場合」には、人間関係は小学校・中学校・高校・大学・そして社会人のすべてにおいて
「地元で連続した友だち関係を維持する」
ことになります。わかりやすく言い換えれば、小学校のときの「友だち」が、大人になっても近くに住んでいるとか、同級生の知り合いが、そこらじゅうにいる、という状況が死ぬまで続くということです。
あなたのお父さんやおじいさん、ひいおじいさんの生き方を思い出してください。今お話したように常に地元で生活している人は、多かれ少なかれ「難しい問題や、不条理なことがあっても、基本的に事を荒げずに、和睦しながら生活している」ことが多いはずです。
たとえば、地域に問題があったりしたときに、あなたのお父さんだけが「猛烈に反対」とか「猛烈に主張」とかをしているならば、すでにあなたも気付いている通り、あなたの家族は地域で「浮いている」存在になっているはずです。
しかし、こうした状況になっている人はごくごく一部で、おじいさんやひいおじいさんの代からその土地に住んでいる人は、「なんとなく平和主義で、なんとなく自己主張がなく、なんとなく頼りない」くらいの暮らしぶりにならざるを得ません。
それは、そういう生き方をして、「ずっと同じ場所に長年生活している友達や知り合いの軋轢」が生まれないように調整しているからです。
地元の企業に勤めている友達や知り合い、地元の市役所に勤めている友達や知り合い、地元で農家をしている友達や知り合い、といった
「その地域を中心とした、人間関係」
がある限り、それを維持するためには、全体的に和睦していなければいけないからです。
それに対して、「土地がないので、別の地域に出て行った」人たちもたくさんいます。日本型社会では、先祖の土地は「長男が全部相続する」というスタイルが一般的ですので、次男以降は別の土地へでてゆかざるを得ない場合が大半で、また女性はどこかへお嫁に行ってしまい、これまた元の家には住んでいないことが多いわけです。
そのため、「友だち」の話で言えば、これらの人生を送る人たちは「友だち・知り合い」が、実際には途切れ途切れで限られた期間だけであることが多いのです。
小学校・中学校くらいまでは、みなが同じ地域で暮らしていますが、中には中学校から私立の学校にいく友だちがいたりして、変動があります。高校になるとその地域の領域が広くなり、大学では完全に別々の人生を歩むことになります。
社会人になるころには、小学校時代の友達は、ほぼ大半がてんでバラバラの地域に住んでいることになります。
こういう人生を送ると、学生時代の友達なんてものは「同窓会で10年ごとに会えるか会えないか」とか「そもそも、あいつどうなったか誰も知らない」という状況になりますので、あなたがこの高校3年間で付き合う友だち・知り合いも基本的には「3年間限定の付き合い」だということになるでしょう。
人間関係に問題を抱えている人は、「3年過ぎればおさらばだぜ」と思って大丈夫だし、友だち付き合いを大切にしている人は「3年しか一緒にいられないのだから大事に過ごそう」と思って大丈夫です。
繰り返しますが、あなたの友だち付き合いは、基本3年後にはリセットされるわけです。
私も、親が土地を持っていなかったために、外の地域に出てゆく人生を選び・選ばされました。ですので、小学校の時の友だちで、現在でも交流があるのは
「たった一人」
です。
中学・高校時代の友達・知り合いについては、「どこで何をしているのかさっぱりわからない」状態です。
それは、私自身が、生まれ育った土地と異なる土地にいるからです。
以前の章で、学校はRPGのようなものだとお話しましたが、高校生のあなたにとって、「友だちづきあい・人付き合い」は、もし万一うまく行かなくても、数年後にはリセットできることを覚えておきましょう。
ただし、ずっとその土地で生活し続けなくてはいけない人は、その限りではありません。あなたがその土地で人生を過ごす限り、その周囲の人間関係もずっと継続します。ですから、嫌でも、周囲と「良好な人間関係を築く」努力を強いられることになります。
はっきり言っておきます。それは「土地のせい」です。あなたがその生活を強いられるのは「土地のせい」なのです。
ですから、裏ワザですが、あなたがその土地を離れれば、「あなたが受けている苦しみ」の多くは解決します。
人間関係をリセットするには、その土地を離れることが一番の解決方法なのです。
「ともだち」
を巡るたくさんの事象について、この章ではお話をしておきたいと思います。
一般論として、友だちや友人、仲間、知り合いと親しく仲良くすることは、大切なことだと信じられていますし、またそのように多くの人は行動しています。
しかし、また一方で、友だちや友人、知り合いというもののせいで、大小のトラブルに巻き込まれたり、人間関係に色々な「こじれ」を生じさせることがあるのも事実です。
では、高校生活・またその先の社会生活において、「他者との関わり」をどのように過ごしてゆけば、人生は豊かになるのでしょうか。
いつものように、世代を見ながら話をしてゆこうと思いますが、あなたのお父さん・おじいさん・ひいおじいさんを含めた4世代に渡って、あなたの先輩たちはほぼ似たような「友だちづきあい」をしてきました。
また、一番最初にお話した「土地を持っているか・いないか」が、人間関係にも大いに影響していることも、覚えておきたいと思います。
あなたのお父さんや、おじいさんや、ひいおじいさんが「主に長男の家系で、土地を持っていて、ずっと地元に根ざして生活していた場合」には、人間関係は小学校・中学校・高校・大学・そして社会人のすべてにおいて
「地元で連続した友だち関係を維持する」
ことになります。わかりやすく言い換えれば、小学校のときの「友だち」が、大人になっても近くに住んでいるとか、同級生の知り合いが、そこらじゅうにいる、という状況が死ぬまで続くということです。
あなたのお父さんやおじいさん、ひいおじいさんの生き方を思い出してください。今お話したように常に地元で生活している人は、多かれ少なかれ「難しい問題や、不条理なことがあっても、基本的に事を荒げずに、和睦しながら生活している」ことが多いはずです。
たとえば、地域に問題があったりしたときに、あなたのお父さんだけが「猛烈に反対」とか「猛烈に主張」とかをしているならば、すでにあなたも気付いている通り、あなたの家族は地域で「浮いている」存在になっているはずです。
しかし、こうした状況になっている人はごくごく一部で、おじいさんやひいおじいさんの代からその土地に住んでいる人は、「なんとなく平和主義で、なんとなく自己主張がなく、なんとなく頼りない」くらいの暮らしぶりにならざるを得ません。
それは、そういう生き方をして、「ずっと同じ場所に長年生活している友達や知り合いの軋轢」が生まれないように調整しているからです。
地元の企業に勤めている友達や知り合い、地元の市役所に勤めている友達や知り合い、地元で農家をしている友達や知り合い、といった
「その地域を中心とした、人間関係」
がある限り、それを維持するためには、全体的に和睦していなければいけないからです。
それに対して、「土地がないので、別の地域に出て行った」人たちもたくさんいます。日本型社会では、先祖の土地は「長男が全部相続する」というスタイルが一般的ですので、次男以降は別の土地へでてゆかざるを得ない場合が大半で、また女性はどこかへお嫁に行ってしまい、これまた元の家には住んでいないことが多いわけです。
そのため、「友だち」の話で言えば、これらの人生を送る人たちは「友だち・知り合い」が、実際には途切れ途切れで限られた期間だけであることが多いのです。
小学校・中学校くらいまでは、みなが同じ地域で暮らしていますが、中には中学校から私立の学校にいく友だちがいたりして、変動があります。高校になるとその地域の領域が広くなり、大学では完全に別々の人生を歩むことになります。
社会人になるころには、小学校時代の友達は、ほぼ大半がてんでバラバラの地域に住んでいることになります。
こういう人生を送ると、学生時代の友達なんてものは「同窓会で10年ごとに会えるか会えないか」とか「そもそも、あいつどうなったか誰も知らない」という状況になりますので、あなたがこの高校3年間で付き合う友だち・知り合いも基本的には「3年間限定の付き合い」だということになるでしょう。
人間関係に問題を抱えている人は、「3年過ぎればおさらばだぜ」と思って大丈夫だし、友だち付き合いを大切にしている人は「3年しか一緒にいられないのだから大事に過ごそう」と思って大丈夫です。
繰り返しますが、あなたの友だち付き合いは、基本3年後にはリセットされるわけです。
私も、親が土地を持っていなかったために、外の地域に出てゆく人生を選び・選ばされました。ですので、小学校の時の友だちで、現在でも交流があるのは
「たった一人」
です。
中学・高校時代の友達・知り合いについては、「どこで何をしているのかさっぱりわからない」状態です。
それは、私自身が、生まれ育った土地と異なる土地にいるからです。
以前の章で、学校はRPGのようなものだとお話しましたが、高校生のあなたにとって、「友だちづきあい・人付き合い」は、もし万一うまく行かなくても、数年後にはリセットできることを覚えておきましょう。
ただし、ずっとその土地で生活し続けなくてはいけない人は、その限りではありません。あなたがその土地で人生を過ごす限り、その周囲の人間関係もずっと継続します。ですから、嫌でも、周囲と「良好な人間関係を築く」努力を強いられることになります。
はっきり言っておきます。それは「土地のせい」です。あなたがその生活を強いられるのは「土地のせい」なのです。
ですから、裏ワザですが、あなたがその土地を離れれば、「あなたが受けている苦しみ」の多くは解決します。
人間関係をリセットするには、その土地を離れることが一番の解決方法なのです。
2014年10月23日木曜日
【高校生のための”人生”の教科書17】あなたの進路の選び方
この章では、高校生にとっての「学校」に関するお話を集めながらまとめてきましたが、最後に「進路」について説明しておきたいと思います。
戦前までの日本人の「学生から卒業しての進路」については、個人の意見よりも「親の意見」や「家の仕事」など、ある程度他の人から指針を示され、それに従ってゆく人生を選ぶ人が多かったのですが、現在はそうではありません。
世代で言えば、あなたのおじいさんぐらいの世代から(つまり、戦後生まれの世代から)、「自由に仕事や進路を選んでもいいよ」と言われることが多くなり、またそのように人生を送ってきた人が増加しました。
みなさんの世代では「自分が何になりたいか」を考えることは、当たり前のことであるかのような教育を受けてきたと思います。「何になれるか」は誰にもわからないのですが、とりあえず「何になりたいか、という希望くらいは、聞いてもらえる」ようになりました。
高校生活の3年間で、人はみな「何になりたいか、そのためにどんな進路を選べばよいのか」というチョイスをさせられるようになります。早い人だと、商業高校や工業高校などに入学することで、すでにおおまかなチョイスを済ませている人もいるでしょう。
そのとき、将来の「職業別」で進路を決定させることが、これまで多くの学校で行われてきました。「家を建てる建築家になりたいので、そういう大学や学校に行く」とか、「弁護士や検事を目指して、法学部に行く」とか、「音楽で食べてゆきたいので、芸術の学校に行く」とか、そういう選択方法です。
それも一つのチョイスの方法ですが、みなさんに知っておいてほしいのは、上のような「職業」の希望で進路を選ぶ時代は、そろそろ破綻するということです。
職業を選ぶことができるというのは、「どの職業に行っても、とりあえずお金をある程度稼ぐことができる」という前提に立っています。平たく言えば、まあ食っていける、ということです。
ところが、既にそうなりつつありますが、「お金を稼ぐこと」と「職業選択」がいろいろな意味で合致しなくなってきているので、考え方を改めなくてはいけなくなっているのです。
「弁護士」でも食える人と食えない人が出てきている。「大学の先生」でも貧富の差が激しい。「音楽で食べて行ける」のは、ほんのほんの一握り。
おなじ労働をしていても、正社員と派遣では、給与も待遇も違う。などなど。
そのため、みなさんが大人になる頃には、「どんな仕事をしているか」ということと同時に、「今、そして未来に食えているか、食えるのか」ということが重要になっていると断言できます。
つまり、発想を大きく変えて、「自分は食っていくために、どうするのか」ということを、早いうちから考える必要があるというわけです。
食える音楽家になるにはどうしたらいいのか。
食えるサラリーマンになるにはどうしたらいいのか。
食えるためには、どの道へいけばいいのか。
たとえば、音楽家で考えてみます。
食える音楽家になるには、もしかしたら今ネットで何か曲を発表してみることがスタートになるかもしれません。
日本中のオーケストラの団員が何人くらいで、あなたはせめて全国の楽器奏者のうち「何番」くらいになれば雇ってもらえそうか調べておくのも悪くないでしょう。
音楽の先生になるか、あるいは音楽教室の先生になって食っていくのか。それにはどれくらいの「イス取りゲームのイスがあるのか」を知っておくとよいでしょう。
もっともっと調べるべきことはありそうですね。つまり、こういうことです。「進路」とは大学を選ぶことではなく、大学卒業後の出口と、あなたが死ぬまでの食べていく方法を考えることでもあるのです。
個人的な話をすれば、私が高校の時「なりたかった職業」は、現在では食べてゆける職業ではなくなっています。ですから、私はその仕事についていません。
もちろん、ほんの一握りの人は、その職業で食べていっていますが、食べてゆける人数の順位に、私のレベルではなかなか入れないことも、気付いてしまいました(苦笑)
なので、私は、まったく違う分野の仕事を本業にして、副業で「なりたかった仕事」をしています。
お金を稼ぐ金額は、本業とは雲泥の差がありますが、副業のほうの「なりたかった仕事」は半分趣味と実益を兼ねてやっていますので「やりたかった仕事」ができてとても嬉しい気持ちです。
ただ、嬉しい気持ちだけでは、私もあなたも食べてゆけないのです。残念ながら。
私は、いくつもの名前を使い分けて活動していますので、本業以外にそうした「副業」のようなものをたくさん同時にやっています。吉家孝太郎、という名前はそのうちのたった一つです。
そういう意味では、みなさんの人生はちょっと明るい希望に満ちているかもしれません。「職業」と「食べてゆくこと」が切り離れている生活が当たり前になれば、あなたは「なりたかった仕事」「やりたかった仕事」を(本業ではなく)、自由にチョイスできるようになることでもあるからです。
多岐に渡る仕事の内容を、それぞれの分野で時間を分けて関わることができるならば、それは幸せなことかもしれません。
本業はサラリーマンで、趣味で絵を書いていてそれがネットでお金になったり、あるいは依頼されてイラストを書いて報酬をもらう、とかそういうことは既に当たり前になりつつあります。
私の知っているある人は、ふだんは鬼瓦を作るメーカーで働いていて、別に個人としてアニメのフィギュアの原型を作って東京の会社に提供している人がいます。
彼なんかは、いちおう同じジャンルで活動しているほうですが、別にジャンルが違っていても全然かまわないわけです。
私は今このブログなど、文筆を中心にこの名前では活動していますが、別の名前では音楽家でもあります。
3年間という長いようで短い期間に、ぜひあなたの進路のその先で「食べてゆく方法」を考えてみてください。時間はたっぷりありますが、あっという間にその日はやってきます。
追伸:女性のみなさんへ
女性の場合は、以前にもお話しましたが20代から30代の約10年~15年の間という短い期間に、妊娠と出産をどうするのか、ということが大きく関わります。
ですので、あなたの進路のその先に、「結婚はしてもしなくてもいいけれど、妊娠と出産はどうスケジュールに組み込むか」をずっと頭の片隅に置いておくことが重要です。
こどもの世話をするのは、男性にもできますが、妊娠と出産は女性にしかできません。ですから子育てのことはパートナーと協力するにしても、安全で健康的に妊娠できる期間については、忘れてはいけないことです。
ですから重ねて言いますが、女性のみなさんにとっても「なりたい職業」も大切ですが、「自分がどう生きて、妊娠出産の期間の前にどんな仕事に就くのか、そして子育て後にどんな仕事をするのか」という長いスパンの目線が必要なのです。
現代を生きている女性で、「どんな仕事に就くのか、どんな仕事をするのか」だけを見て職業選択をしてしまい、妊娠と出産の適齢期を逃して後悔している方がたくさんいます。
彼女たちは、当時このブログを見られなかったし、誰もそんなアドバイスをしてくれなかったので、そうなってしまいました。
みなさんには、事前に警告することができます。妊娠と出産をどうしたいか、はとても大切なテーマです。
後で後悔するくらいなら、今のうちに考えておくと良いと思います。
戦前までの日本人の「学生から卒業しての進路」については、個人の意見よりも「親の意見」や「家の仕事」など、ある程度他の人から指針を示され、それに従ってゆく人生を選ぶ人が多かったのですが、現在はそうではありません。
世代で言えば、あなたのおじいさんぐらいの世代から(つまり、戦後生まれの世代から)、「自由に仕事や進路を選んでもいいよ」と言われることが多くなり、またそのように人生を送ってきた人が増加しました。
みなさんの世代では「自分が何になりたいか」を考えることは、当たり前のことであるかのような教育を受けてきたと思います。「何になれるか」は誰にもわからないのですが、とりあえず「何になりたいか、という希望くらいは、聞いてもらえる」ようになりました。
高校生活の3年間で、人はみな「何になりたいか、そのためにどんな進路を選べばよいのか」というチョイスをさせられるようになります。早い人だと、商業高校や工業高校などに入学することで、すでにおおまかなチョイスを済ませている人もいるでしょう。
そのとき、将来の「職業別」で進路を決定させることが、これまで多くの学校で行われてきました。「家を建てる建築家になりたいので、そういう大学や学校に行く」とか、「弁護士や検事を目指して、法学部に行く」とか、「音楽で食べてゆきたいので、芸術の学校に行く」とか、そういう選択方法です。
それも一つのチョイスの方法ですが、みなさんに知っておいてほしいのは、上のような「職業」の希望で進路を選ぶ時代は、そろそろ破綻するということです。
職業を選ぶことができるというのは、「どの職業に行っても、とりあえずお金をある程度稼ぐことができる」という前提に立っています。平たく言えば、まあ食っていける、ということです。
ところが、既にそうなりつつありますが、「お金を稼ぐこと」と「職業選択」がいろいろな意味で合致しなくなってきているので、考え方を改めなくてはいけなくなっているのです。
「弁護士」でも食える人と食えない人が出てきている。「大学の先生」でも貧富の差が激しい。「音楽で食べて行ける」のは、ほんのほんの一握り。
おなじ労働をしていても、正社員と派遣では、給与も待遇も違う。などなど。
そのため、みなさんが大人になる頃には、「どんな仕事をしているか」ということと同時に、「今、そして未来に食えているか、食えるのか」ということが重要になっていると断言できます。
つまり、発想を大きく変えて、「自分は食っていくために、どうするのか」ということを、早いうちから考える必要があるというわけです。
食える音楽家になるにはどうしたらいいのか。
食えるサラリーマンになるにはどうしたらいいのか。
食えるためには、どの道へいけばいいのか。
たとえば、音楽家で考えてみます。
食える音楽家になるには、もしかしたら今ネットで何か曲を発表してみることがスタートになるかもしれません。
日本中のオーケストラの団員が何人くらいで、あなたはせめて全国の楽器奏者のうち「何番」くらいになれば雇ってもらえそうか調べておくのも悪くないでしょう。
音楽の先生になるか、あるいは音楽教室の先生になって食っていくのか。それにはどれくらいの「イス取りゲームのイスがあるのか」を知っておくとよいでしょう。
もっともっと調べるべきことはありそうですね。つまり、こういうことです。「進路」とは大学を選ぶことではなく、大学卒業後の出口と、あなたが死ぬまでの食べていく方法を考えることでもあるのです。
個人的な話をすれば、私が高校の時「なりたかった職業」は、現在では食べてゆける職業ではなくなっています。ですから、私はその仕事についていません。
もちろん、ほんの一握りの人は、その職業で食べていっていますが、食べてゆける人数の順位に、私のレベルではなかなか入れないことも、気付いてしまいました(苦笑)
なので、私は、まったく違う分野の仕事を本業にして、副業で「なりたかった仕事」をしています。
お金を稼ぐ金額は、本業とは雲泥の差がありますが、副業のほうの「なりたかった仕事」は半分趣味と実益を兼ねてやっていますので「やりたかった仕事」ができてとても嬉しい気持ちです。
ただ、嬉しい気持ちだけでは、私もあなたも食べてゆけないのです。残念ながら。
私は、いくつもの名前を使い分けて活動していますので、本業以外にそうした「副業」のようなものをたくさん同時にやっています。吉家孝太郎、という名前はそのうちのたった一つです。
そういう意味では、みなさんの人生はちょっと明るい希望に満ちているかもしれません。「職業」と「食べてゆくこと」が切り離れている生活が当たり前になれば、あなたは「なりたかった仕事」「やりたかった仕事」を(本業ではなく)、自由にチョイスできるようになることでもあるからです。
多岐に渡る仕事の内容を、それぞれの分野で時間を分けて関わることができるならば、それは幸せなことかもしれません。
本業はサラリーマンで、趣味で絵を書いていてそれがネットでお金になったり、あるいは依頼されてイラストを書いて報酬をもらう、とかそういうことは既に当たり前になりつつあります。
私の知っているある人は、ふだんは鬼瓦を作るメーカーで働いていて、別に個人としてアニメのフィギュアの原型を作って東京の会社に提供している人がいます。
彼なんかは、いちおう同じジャンルで活動しているほうですが、別にジャンルが違っていても全然かまわないわけです。
私は今このブログなど、文筆を中心にこの名前では活動していますが、別の名前では音楽家でもあります。
3年間という長いようで短い期間に、ぜひあなたの進路のその先で「食べてゆく方法」を考えてみてください。時間はたっぷりありますが、あっという間にその日はやってきます。
追伸:女性のみなさんへ
女性の場合は、以前にもお話しましたが20代から30代の約10年~15年の間という短い期間に、妊娠と出産をどうするのか、ということが大きく関わります。
ですので、あなたの進路のその先に、「結婚はしてもしなくてもいいけれど、妊娠と出産はどうスケジュールに組み込むか」をずっと頭の片隅に置いておくことが重要です。
こどもの世話をするのは、男性にもできますが、妊娠と出産は女性にしかできません。ですから子育てのことはパートナーと協力するにしても、安全で健康的に妊娠できる期間については、忘れてはいけないことです。
ですから重ねて言いますが、女性のみなさんにとっても「なりたい職業」も大切ですが、「自分がどう生きて、妊娠出産の期間の前にどんな仕事に就くのか、そして子育て後にどんな仕事をするのか」という長いスパンの目線が必要なのです。
現代を生きている女性で、「どんな仕事に就くのか、どんな仕事をするのか」だけを見て職業選択をしてしまい、妊娠と出産の適齢期を逃して後悔している方がたくさんいます。
彼女たちは、当時このブログを見られなかったし、誰もそんなアドバイスをしてくれなかったので、そうなってしまいました。
みなさんには、事前に警告することができます。妊娠と出産をどうしたいか、はとても大切なテーマです。
後で後悔するくらいなら、今のうちに考えておくと良いと思います。
2014年10月22日水曜日
【高校生のための”人生”の教科書16】自由とは何か
みなさんは、今の家庭や学校での生活を「息苦しい」と感じているでしょうか?それとも、「気楽でいい」と感じているでしょうか?
古い話で恐縮ですが、私が中学生や高校生のころは、学校における制服の既定などがしっかり定められていて、いわゆる「校則」が厳しく運用されていました。
もっと古い話をすれば、私が住んでいたとある地域では、「中学生男子は全員丸刈り」が強制されていて、私のひとつ年上の先輩までは、全員丸刈りでした。私の代から「長髪が解禁」された、なんてことがあったのです。
他にも女の子であれば、スカートは膝頭から何センチの範囲に収まってなくてはいけない、とかそんなルールもありました。持ってよいカバンの種類まで決められていたように思います。
そうした規則やルールを「厳しい・堅苦しい」と思うのは自然なことです。誰もが、そうしたがんじがらめのルールに対して「息苦しい」と思うことでしょう。
自由とは何か。これは若者が人生で一度は考える悩みの一つです。学校だけでなく、家庭の中でや、親に対しても「自由が欲しい」と感じる場面がたくさんあることでしょう。
というわけで、今回は「そもそも自由ってなんだ?」というお話です。
歴史的な「自由の定義」はともかく、現代における自由とは、ひとことで言えば「自分の意思で何かを決定し、行動できること」とされています。
ということは、あなたは自由ではありませんね(苦笑)。今日のお昼のお弁当は、お母さんの作ってくれたお弁当の中身に束縛されていますから、自由ではありません。今日の授業の時間割が決まっていますから自由ではありません。放課後には部活動が待っています。自由ではないのです。
会社員である私は、会社にいかなくてはいけないので、自由ではないし、電気ガス水道代を払わなくてはいけないので、自由ではありません。
現代社会に暮らしている以上、真の意味で自由な人がいるとしたら、「野山にあるものを勝手に食べたい時に採集して食べ、寝たいときに大地に寝て、誰がなんと言おうとそこらへんで用を足し、お金をまったく使用せずに暮らすことが出来る人」ということになります。
もう、なんか、ホームレスとかそういうのを飛び越えて「野人」いや、もういっそ「野獣」な人だといわざるを得ません(笑)
というわけで、私たちが普段考えている「自由」ということの大半は、ある部分だけを自分にとって都合よく考えた「自由」だということになります。
人生を自由に生きたい、というのは、お金は支払わなくてはいけないけれど、できればたくさんお金を持っていることでそれを感じなくしたい、とか、今日のお昼ご飯は、自分で決めたい、とかそういうことです。
お昼ごはんくらいは、かなり自由ですよ。お母さんが持たせてくれたお弁当を野山に投げ捨ててしまいましょう。「お弁当からの束縛から脱出」するのです。あなたの昼食のメニューは、なんと自由なことでしょう!
盗んだバイクで走り出す必要もなく、「自由になれた気がした、15の昼」です。
よく、一般的には「自由の権利を主張したい場合には義務を果たさなくてはならない」みたいな堅苦しいことを言う人がいますが、私はそんなしょーもないことは言いません。
なんてったって自由なのですから、義務なんて果たしません。義務からも自由でありたいわけです。人は。
だから、お弁当から自由になるために、もうお弁当は食べないのです。お金から自由なので、お金は持っていないのです。ただ、おなかをすかせた、自由な私がそこにたたずんでいます。お腹をすかせながら(笑)
現実社会をよく見ると、「自由の権利と義務」がセットになっているというのは、ちょっとウソで、実は「自由と保護」が一体になっているということがわかってきます。
お弁当が決まっているということは、お弁当が与えられているという保護があなたには与えられている、と考えてください。
お弁当が自由だということは、お弁当をそもそも持たせてもらっていない、(ほっとかれている)ということだと、気付くのがポイントです。
制服が決まっているということは、あなたには「制服が与えられている」ということです。着るものがまったくない貧しい状態ではない、ということがわかります。
親によって進路が決められているということは、親がその道を選ぶことを保証してくれているということになります。「好きにすれば?どうでもいいし」と言われるより、よっぽど愛されています。
自由ではない、ということの裏には「かならず保護」が隠れているのが、この世界です。
もう少し、社会的な例を考えてみましょう。
信号のルールが定まっておらず、自由に通行してよいとすれば、車にぶつかってはねられたら、「はねたヤツが悪い」か「はねられたヤツが悪い」かのどちらかに自然に決定されます。
はねられたヤツがもし死んでしまったら、生きてる方がどう頑張っても勝ちですね。死に損です。
これが自由な社会で、自由なゆえに誰もあなたを守ってくれません。
ところが、信号というルールがあることで、(制限があることで)、信号無視したほうが悪いんだという決まりができ、それに従って結果が判定されるようになります。
悪いほうが相手をしなせた場合は、刑罰という報いを受けることになります。自由だったら、刑罰もありません。だって自由なんだもの!イエイ!
人は職業選択の自由も持っているし、居住の自由も持っています。なので、今日家に帰ったら、山田があなたの部屋に居座っていて、そこから動かない自由を発揮しているかもしれません。
それはたいへん困ると思います。
なので、国家は「住居侵入罪」という制限をわざわざ作って、山田がどこに住んでもいい自由をあえて制限しているのです。
あなたは自由でないことの見返りに、安心して自分の部屋で過ごせるという保護を受けています。
こうしたことから言えるのは、あなたが何か「保護して欲しい」「権利を守ってほしい」と思うことがあれば、多少「自由が制限される」ということと抱き合わせであることを納得しなければなりません。
それを納得できない人は、この世界では排除されることになっています。だから、他人の部屋の真ん中で放尿する人は自由を制限されるし、他人の夕食を勝手に食べる人は自由を制限されるのです。
もちろん、こういう例え話をしていると、「でも、他人に迷惑かけなきゃいいじゃん」と言う人がかならず出てきますね。
「靴のかかとを踏んでいたり、シャツの裾が出ていたり、腰パンでもだれにも迷惑かけてないじゃん」
と主張する人がいるでしょう。なんてったって自由なんですから。
というわけで、明日から、校長先生は黒塗りのベンツで学校に来て、毛皮のコートを身にまとったミニスカの保健の先生といちゃつきながら朝礼を行うことにします。自由だし。
教科の先生は、東進ハイスクールの映像授業をテレビで流して、自分は静かに50分間黙っていることにします。
生徒指導の先生は、タバコを販売してくれることになりました。
音楽の先生は、XJapanのドラムを実演してくれます。毎時間。
・・・誰にも迷惑をかけていないかもしれませんが、どうもこれではマズイらしいことは想像がつきますね。
そう、学校の先生がそれらをしないのは、みなさんの学力が一定程度になるように、国から指令を受けて「これこれ、こういう内容のことを授業でやりなさい」とか「こういうことは、してはいけない」と制限されることで、みなさんの学力を保護しているのです。
皆さんを保護するという意味では、「シャツ出し腰パン禁止」も同じです。
「あそこの学校の子、やあねえ、あんな格好して」
と周囲の人たちから後ろゆびさされないように、保護されるためには必要なことのようです(笑)
なので、どうしても腰パン・シャツ出し、茶髪にしたい人は、学校を辞めたら自由になれます。実際にそうして高校を中退する人は山ほどいます。仲間ですね。
しかし、その時は自由になれたかもしれませんが、その後は自由であるかどうかはわかりません。なんといっても「高校生」という保護された環境からほったらかしにされるわけですから、もしかしたらかなり不自由な生活が待っているかもしれません。
タバコを吸えるのは大人になってからですが、大人になったら犯罪時に名前を出されてしまいます。
お酒を飲めるのは20歳になってからですが、20歳になったら少年法で守られません。
ね?自由と保護は、ちょっと関係あるでしょう?
この自由と保護のお話は、もっと本格的なことや重たい話がいろいろあるのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。より詳しいことが知りたい場合は「新自由主義」とか「規制緩和」といったことばをググってみてください。
政治や経済の社会の中で「自由と保護」がどのように関わっているかの重たい事例がたくさん見つかると思います。
古い話で恐縮ですが、私が中学生や高校生のころは、学校における制服の既定などがしっかり定められていて、いわゆる「校則」が厳しく運用されていました。
もっと古い話をすれば、私が住んでいたとある地域では、「中学生男子は全員丸刈り」が強制されていて、私のひとつ年上の先輩までは、全員丸刈りでした。私の代から「長髪が解禁」された、なんてことがあったのです。
他にも女の子であれば、スカートは膝頭から何センチの範囲に収まってなくてはいけない、とかそんなルールもありました。持ってよいカバンの種類まで決められていたように思います。
そうした規則やルールを「厳しい・堅苦しい」と思うのは自然なことです。誰もが、そうしたがんじがらめのルールに対して「息苦しい」と思うことでしょう。
自由とは何か。これは若者が人生で一度は考える悩みの一つです。学校だけでなく、家庭の中でや、親に対しても「自由が欲しい」と感じる場面がたくさんあることでしょう。
というわけで、今回は「そもそも自由ってなんだ?」というお話です。
歴史的な「自由の定義」はともかく、現代における自由とは、ひとことで言えば「自分の意思で何かを決定し、行動できること」とされています。
ということは、あなたは自由ではありませんね(苦笑)。今日のお昼のお弁当は、お母さんの作ってくれたお弁当の中身に束縛されていますから、自由ではありません。今日の授業の時間割が決まっていますから自由ではありません。放課後には部活動が待っています。自由ではないのです。
会社員である私は、会社にいかなくてはいけないので、自由ではないし、電気ガス水道代を払わなくてはいけないので、自由ではありません。
現代社会に暮らしている以上、真の意味で自由な人がいるとしたら、「野山にあるものを勝手に食べたい時に採集して食べ、寝たいときに大地に寝て、誰がなんと言おうとそこらへんで用を足し、お金をまったく使用せずに暮らすことが出来る人」ということになります。
もう、なんか、ホームレスとかそういうのを飛び越えて「野人」いや、もういっそ「野獣」な人だといわざるを得ません(笑)
というわけで、私たちが普段考えている「自由」ということの大半は、ある部分だけを自分にとって都合よく考えた「自由」だということになります。
人生を自由に生きたい、というのは、お金は支払わなくてはいけないけれど、できればたくさんお金を持っていることでそれを感じなくしたい、とか、今日のお昼ご飯は、自分で決めたい、とかそういうことです。
お昼ごはんくらいは、かなり自由ですよ。お母さんが持たせてくれたお弁当を野山に投げ捨ててしまいましょう。「お弁当からの束縛から脱出」するのです。あなたの昼食のメニューは、なんと自由なことでしょう!
盗んだバイクで走り出す必要もなく、「自由になれた気がした、15の昼」です。
よく、一般的には「自由の権利を主張したい場合には義務を果たさなくてはならない」みたいな堅苦しいことを言う人がいますが、私はそんなしょーもないことは言いません。
なんてったって自由なのですから、義務なんて果たしません。義務からも自由でありたいわけです。人は。
だから、お弁当から自由になるために、もうお弁当は食べないのです。お金から自由なので、お金は持っていないのです。ただ、おなかをすかせた、自由な私がそこにたたずんでいます。お腹をすかせながら(笑)
現実社会をよく見ると、「自由の権利と義務」がセットになっているというのは、ちょっとウソで、実は「自由と保護」が一体になっているということがわかってきます。
お弁当が決まっているということは、お弁当が与えられているという保護があなたには与えられている、と考えてください。
お弁当が自由だということは、お弁当をそもそも持たせてもらっていない、(ほっとかれている)ということだと、気付くのがポイントです。
制服が決まっているということは、あなたには「制服が与えられている」ということです。着るものがまったくない貧しい状態ではない、ということがわかります。
親によって進路が決められているということは、親がその道を選ぶことを保証してくれているということになります。「好きにすれば?どうでもいいし」と言われるより、よっぽど愛されています。
自由ではない、ということの裏には「かならず保護」が隠れているのが、この世界です。
もう少し、社会的な例を考えてみましょう。
信号のルールが定まっておらず、自由に通行してよいとすれば、車にぶつかってはねられたら、「はねたヤツが悪い」か「はねられたヤツが悪い」かのどちらかに自然に決定されます。
はねられたヤツがもし死んでしまったら、生きてる方がどう頑張っても勝ちですね。死に損です。
これが自由な社会で、自由なゆえに誰もあなたを守ってくれません。
ところが、信号というルールがあることで、(制限があることで)、信号無視したほうが悪いんだという決まりができ、それに従って結果が判定されるようになります。
悪いほうが相手をしなせた場合は、刑罰という報いを受けることになります。自由だったら、刑罰もありません。だって自由なんだもの!イエイ!
人は職業選択の自由も持っているし、居住の自由も持っています。なので、今日家に帰ったら、山田があなたの部屋に居座っていて、そこから動かない自由を発揮しているかもしれません。
それはたいへん困ると思います。
なので、国家は「住居侵入罪」という制限をわざわざ作って、山田がどこに住んでもいい自由をあえて制限しているのです。
あなたは自由でないことの見返りに、安心して自分の部屋で過ごせるという保護を受けています。
こうしたことから言えるのは、あなたが何か「保護して欲しい」「権利を守ってほしい」と思うことがあれば、多少「自由が制限される」ということと抱き合わせであることを納得しなければなりません。
それを納得できない人は、この世界では排除されることになっています。だから、他人の部屋の真ん中で放尿する人は自由を制限されるし、他人の夕食を勝手に食べる人は自由を制限されるのです。
もちろん、こういう例え話をしていると、「でも、他人に迷惑かけなきゃいいじゃん」と言う人がかならず出てきますね。
「靴のかかとを踏んでいたり、シャツの裾が出ていたり、腰パンでもだれにも迷惑かけてないじゃん」
と主張する人がいるでしょう。なんてったって自由なんですから。
というわけで、明日から、校長先生は黒塗りのベンツで学校に来て、毛皮のコートを身にまとったミニスカの保健の先生といちゃつきながら朝礼を行うことにします。自由だし。
教科の先生は、東進ハイスクールの映像授業をテレビで流して、自分は静かに50分間黙っていることにします。
生徒指導の先生は、タバコを販売してくれることになりました。
音楽の先生は、XJapanのドラムを実演してくれます。毎時間。
・・・誰にも迷惑をかけていないかもしれませんが、どうもこれではマズイらしいことは想像がつきますね。
そう、学校の先生がそれらをしないのは、みなさんの学力が一定程度になるように、国から指令を受けて「これこれ、こういう内容のことを授業でやりなさい」とか「こういうことは、してはいけない」と制限されることで、みなさんの学力を保護しているのです。
皆さんを保護するという意味では、「シャツ出し腰パン禁止」も同じです。
「あそこの学校の子、やあねえ、あんな格好して」
と周囲の人たちから後ろゆびさされないように、保護されるためには必要なことのようです(笑)
なので、どうしても腰パン・シャツ出し、茶髪にしたい人は、学校を辞めたら自由になれます。実際にそうして高校を中退する人は山ほどいます。仲間ですね。
しかし、その時は自由になれたかもしれませんが、その後は自由であるかどうかはわかりません。なんといっても「高校生」という保護された環境からほったらかしにされるわけですから、もしかしたらかなり不自由な生活が待っているかもしれません。
タバコを吸えるのは大人になってからですが、大人になったら犯罪時に名前を出されてしまいます。
お酒を飲めるのは20歳になってからですが、20歳になったら少年法で守られません。
ね?自由と保護は、ちょっと関係あるでしょう?
この自由と保護のお話は、もっと本格的なことや重たい話がいろいろあるのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。より詳しいことが知りたい場合は「新自由主義」とか「規制緩和」といったことばをググってみてください。
政治や経済の社会の中で「自由と保護」がどのように関わっているかの重たい事例がたくさん見つかると思います。
2014年10月21日火曜日
【高校生のための”人生”の教科書15】学校はRPGである
今回は、いわゆる机に座ってするような「お勉強」とはちがう話をしたいと思います。
みなさんは高校生で、これから大学まで進学するかもしれませんが、「学校」という枠組みの中で、一番身に着けておかなくてはいけないことは、知識のほかにたくさんあると思うので、その話をします。
私は学校というのは「RPG(ロールプレイングゲーム)」のようなものだと思っています。
特に、集団における人間関係やコミュニケーションにおいて、「学校生活」で、あなたは経験値を増やさなくてはいけません。学校はそれを身に着ける、よき修行の場です。
現代の学校には、いろいろな問題が渦巻いています。「スクールカースト」という”立ち位置”の問題や、「いじめ」、「便所飯」のような1人ぼっち問題など、人間関係に関するありとあらゆる悩みが、そこに現れています。
いいですか?大事なことなので書いておきますが、これらのあなたをとりまく問題を解決できなかったり、こじらせたりすると、それはあなたの人生を一生悪い方向に引きずることになります。
いくら勉強ができても、スポーツができても、人間関係をマスターしなければ、就職してもダメです。何をしてもダメなんです。
こんな恐ろしいことを話していると、すでにガクブルかもしれませんが、幸せなことにあなたにはチャンスがいくつかあります。
小学校・中学校・高校・大学などの最低4回のストーリーをプレイすることができるので、あなたには3回分のリセットボタンが与えられていると思ってください。
学校を変わるごとに、うまく行けば学校生活というRPGをやり直せるチャンスがあるのも事実です。ですから、失敗してもその回数まではなんとかなります。
では、学校生活のRPGの中で、「何を」身に着ければいいのでしょう。学校生活における「経験値」とは、何が大切だというのでしょうか。
まず、大切なのは「明るく他者とコミュニケーションがとれること」です。これは基本中の基本です。
宝塚歌劇の「清く正しく美しく」ではありませんが「明るく元気でさわやか」であることは、人生における必須経験値です。
これが学生生活の間に身に付いていないと、社会に出たときに苦労します。ほんとうに苦労します。繰り返しますが、死にそうです。
アホでもいいし、ダメ人間でも「明るく元気でさわやか」であれば、許されることがたくさんあります。ちょっとずるい感じもしますが、それくらいに「明るく元気でさわやか」なことは、魔法のアイテムなのです。
では「暗くてひ弱でいじけている」人は、どうしたらいいのでしょう。一刻も早く、その真逆になるよう努力すべきです。学力の勉強なんてしなくていいです。そんなのなくても、「明るく元気でさわやか」であればなんとかなるからです。
正直にお話しますが、これまで「暗くてひ弱でいじけている人」は、もしかしたらあなたもそうかもしれませんが、それを修正するのが嫌で、
「楽な方に逃げている、つまり勉強をすればいい、勉強ができればそれでも許されるだろう」
と「明るく元気でさわやかになることから逃げていた」ことでしょう。
それはいけません。それは逃げているだけです。勉強はたしかに、孤独でネガティブで一人ぼっちでもできます。そして、これまでの日本社会はそれでもなんとかなりましたが、もうそれもおしまいです。残念。
「引きこもり」であるとか「ニート」であるとか、そうした人たちが社会問題になっていますが、彼らのうち多くの人は、学力も学歴もあり、そして保護者がお金を持っています。
いろいろ「もってる」ものがたくさんあるのに、彼らは社会に適合できません。それは、人間関係・コミュニケーションの訓練をおろそかにしてきたからに他なりません。いや、おろそかにしてきたというよりも、その苦しい修行から「逃げてきた」からに他ならないのです。
親がお金を持っているせいで、「逃げていてもなんとかなった」側面もあります。
しかし、その親たちは、いよいよ本人たちが死んでしまったり、お金が尽きたりするような状況になってきました。大変です。引きこもりやニートは「自分でお金を稼ぐ力」がありません。
・・・とまあ、少し強い口調で書きましたが、私は「引きこもりやニート」を馬鹿にしているわけでも、敵視しているわけでもありません。とても可哀想だと思うし、「ああ、リセットボタンを使い果たしてしまったんだな」と悲しいキモチになることも事実です。
だからこそ、これを読んでいるみなさんには、できればその生き方を避けてほしいと思っています。
どうして人間関係・コミュニケーションが重要なのでしょうか?それは、人が生きていく上で、あなたが何かサービスを受ける上でも、とても避けては通れないものだからです。
「美女と野獣」の物語のように、あなたが人を避ければ、人もあなたを避けます。あなたが笑わなければ、誰があなたに微笑んでくれるでしょうか?
お金がある間は、あなたにサービスをしてくれる人がいるでしょう。しかし、お金がなくなっても、誰かがあなたを気にかけてくれるとすれば、それはあなたが気にかけてきた相手だけなのです。
もうひとつ、あなたにとっては嫌な話をします。人間関係が苦手で、コミュニケーションが苦手な人は、一見「自分はネガティブでダメだ」と思っていますが、その心の奥底で「自尊心・プライド」がとても高く、「他人はアホで馬鹿だ」と思っていることがかなりの高確率で多いです。
自分のプライドや自尊心が高いあまりに、「他人に対してへりくだったり、下に見られたり、道化を演じることができない」のです。
もし、あなたがコミュニケーションができずに苦しい人生を送ることになるのならば、それは、あなたが捨てられなかった「自尊心やプライド」の仕返しだと思ってください。
なぜ、これほどまでに私が強く言うのか。それは、すべての「明るく元気でさわやかな」大人たちは、苦しいこと、自尊心をつぶされる事、プライドを引き裂かれるようなことがあっても、それを隠したり乗り越えたりしながら
「顔で笑って心で泣いて」
いるから「明るく元気でさわやか」に見えるというのが真実だからです。
大人になる。社会で生きていくというのはそういう側面もあります。
みなさんは高校生で、これから大学まで進学するかもしれませんが、「学校」という枠組みの中で、一番身に着けておかなくてはいけないことは、知識のほかにたくさんあると思うので、その話をします。
私は学校というのは「RPG(ロールプレイングゲーム)」のようなものだと思っています。
特に、集団における人間関係やコミュニケーションにおいて、「学校生活」で、あなたは経験値を増やさなくてはいけません。学校はそれを身に着ける、よき修行の場です。
現代の学校には、いろいろな問題が渦巻いています。「スクールカースト」という”立ち位置”の問題や、「いじめ」、「便所飯」のような1人ぼっち問題など、人間関係に関するありとあらゆる悩みが、そこに現れています。
いいですか?大事なことなので書いておきますが、これらのあなたをとりまく問題を解決できなかったり、こじらせたりすると、それはあなたの人生を一生悪い方向に引きずることになります。
いくら勉強ができても、スポーツができても、人間関係をマスターしなければ、就職してもダメです。何をしてもダメなんです。
こんな恐ろしいことを話していると、すでにガクブルかもしれませんが、幸せなことにあなたにはチャンスがいくつかあります。
小学校・中学校・高校・大学などの最低4回のストーリーをプレイすることができるので、あなたには3回分のリセットボタンが与えられていると思ってください。
学校を変わるごとに、うまく行けば学校生活というRPGをやり直せるチャンスがあるのも事実です。ですから、失敗してもその回数まではなんとかなります。
では、学校生活のRPGの中で、「何を」身に着ければいいのでしょう。学校生活における「経験値」とは、何が大切だというのでしょうか。
まず、大切なのは「明るく他者とコミュニケーションがとれること」です。これは基本中の基本です。
宝塚歌劇の「清く正しく美しく」ではありませんが「明るく元気でさわやか」であることは、人生における必須経験値です。
これが学生生活の間に身に付いていないと、社会に出たときに苦労します。ほんとうに苦労します。繰り返しますが、死にそうです。
アホでもいいし、ダメ人間でも「明るく元気でさわやか」であれば、許されることがたくさんあります。ちょっとずるい感じもしますが、それくらいに「明るく元気でさわやか」なことは、魔法のアイテムなのです。
では「暗くてひ弱でいじけている」人は、どうしたらいいのでしょう。一刻も早く、その真逆になるよう努力すべきです。学力の勉強なんてしなくていいです。そんなのなくても、「明るく元気でさわやか」であればなんとかなるからです。
正直にお話しますが、これまで「暗くてひ弱でいじけている人」は、もしかしたらあなたもそうかもしれませんが、それを修正するのが嫌で、
「楽な方に逃げている、つまり勉強をすればいい、勉強ができればそれでも許されるだろう」
と「明るく元気でさわやかになることから逃げていた」ことでしょう。
それはいけません。それは逃げているだけです。勉強はたしかに、孤独でネガティブで一人ぼっちでもできます。そして、これまでの日本社会はそれでもなんとかなりましたが、もうそれもおしまいです。残念。
「引きこもり」であるとか「ニート」であるとか、そうした人たちが社会問題になっていますが、彼らのうち多くの人は、学力も学歴もあり、そして保護者がお金を持っています。
いろいろ「もってる」ものがたくさんあるのに、彼らは社会に適合できません。それは、人間関係・コミュニケーションの訓練をおろそかにしてきたからに他なりません。いや、おろそかにしてきたというよりも、その苦しい修行から「逃げてきた」からに他ならないのです。
親がお金を持っているせいで、「逃げていてもなんとかなった」側面もあります。
しかし、その親たちは、いよいよ本人たちが死んでしまったり、お金が尽きたりするような状況になってきました。大変です。引きこもりやニートは「自分でお金を稼ぐ力」がありません。
・・・とまあ、少し強い口調で書きましたが、私は「引きこもりやニート」を馬鹿にしているわけでも、敵視しているわけでもありません。とても可哀想だと思うし、「ああ、リセットボタンを使い果たしてしまったんだな」と悲しいキモチになることも事実です。
だからこそ、これを読んでいるみなさんには、できればその生き方を避けてほしいと思っています。
どうして人間関係・コミュニケーションが重要なのでしょうか?それは、人が生きていく上で、あなたが何かサービスを受ける上でも、とても避けては通れないものだからです。
「美女と野獣」の物語のように、あなたが人を避ければ、人もあなたを避けます。あなたが笑わなければ、誰があなたに微笑んでくれるでしょうか?
お金がある間は、あなたにサービスをしてくれる人がいるでしょう。しかし、お金がなくなっても、誰かがあなたを気にかけてくれるとすれば、それはあなたが気にかけてきた相手だけなのです。
もうひとつ、あなたにとっては嫌な話をします。人間関係が苦手で、コミュニケーションが苦手な人は、一見「自分はネガティブでダメだ」と思っていますが、その心の奥底で「自尊心・プライド」がとても高く、「他人はアホで馬鹿だ」と思っていることがかなりの高確率で多いです。
自分のプライドや自尊心が高いあまりに、「他人に対してへりくだったり、下に見られたり、道化を演じることができない」のです。
もし、あなたがコミュニケーションができずに苦しい人生を送ることになるのならば、それは、あなたが捨てられなかった「自尊心やプライド」の仕返しだと思ってください。
なぜ、これほどまでに私が強く言うのか。それは、すべての「明るく元気でさわやかな」大人たちは、苦しいこと、自尊心をつぶされる事、プライドを引き裂かれるようなことがあっても、それを隠したり乗り越えたりしながら
「顔で笑って心で泣いて」
いるから「明るく元気でさわやか」に見えるというのが真実だからです。
大人になる。社会で生きていくというのはそういう側面もあります。
2014年10月20日月曜日
【高校生のための”人生”の教科書14】高校で何を学ぶか、大学で何を学ぶか
前回は、勉強=学ぶことの基本的な意味についてお話しました。
それはまず、
「勉強というのは、最終的に楽をするためのものだ」
ということが第一段階で、
「勉強で得た知識を、どう生かすか」
ということが第二段階であることを確認したと思います。
この、一見あたりまえなことが、意外とうまくいかないのが多くの人の人生です。
勉強がよく出来て、知識がしっかりあって、偏差値の高い大学を出ても、社会において
「つかえねえな、こいつ」
と思われてしまう人材は山ほどいます。それは、第一段階だけで、第二段階を見過ごしているからですね。
逆に、学生時代の勉強はいまいちでも、人生を過ごすうちに「どうこの世界を生き延びてゆくか」に力を発揮する人たちもいます。その人たちは、学歴は遡ることはできませんが、その時々に応じて「新しい知識を自ら学ぶこと」で乗り越えてゆきます。
(結局、勉強は続けているというわけです)
ちなみに、知識というのは単なる物量なので、いくらでも後から増やせます。しかし、それを使いこなす能力は技量(テクニック)なので、得意な人と不得意な人がいます。
そこが、ちょっとしたポイントだったりします。
さて、みなさんはこれから、高校3年間、大学4年間でいろいろな知識を学習しますが、それらは全て第一段階ですから、何を勉強しようと実は「生かせるかどうかは」わかりません。
たとえ司法試験に合格しても同じです。弁護士になれる資格があっても、「仕事がこない」人は山ほどいます。
ここがポイントですが、
「発展途上国の場合は、知識を持っている人の数が少ないので、知識を持っているだけで重宝される」
が
「先進国になると、知識を持っている人の数はたくさんいるので、知識だけでなくそれを使う力が試される」
というわけです。
みなさんのおじいちゃんの時代、そしてお父さんの時代までは、まだ「大学卒業者」が重宝されましたが、今は違います。知識を持っている人は、いくらでもいるのです。
さて、ここからは少し見方を変えて、違う視点でお話しようと思います。ではなぜ、今でも私たちの周りでは「偏差値がどうの」とか「いい学校が」とか「いい会社が」といった話がまだ残っているのでしょうか?
それは、学校というシステムがもっている、ある機能に社会が期待しているからです。その秘密をお話しようと思います。
まず、いい学校とは何か。みなさんが思い浮かべる「いい学校・お勉強ができる学校」の名前を想像してみてください。その学校は、おそらく中学校からすごく勉強ができる生徒が通う学校で、最終的には東京大学に進学する生徒がたくさんいるような高校ももっているかもしれません。
その学校の名前を仮に「難高」としましょう。良く似た名前の学校がありますが、気のせいです。
「難高」はいい高校とされています。「難高」からは、東大進学者がたくさん出るくらい、優秀だとされていると仮定してください。
ここで、ちょっと考えます。「難高」は授業内容が高度で、しっかり教えてくれるから、生徒は東大へいけるのでしょうか?それとも「もともと東大へいけるような生徒が集まる」のでしょうか?
これは、実は誰も恐ろしくて実験したことがありませんが、答えは「後者」です。
そう、「難高」から東大入学者がたくさん出るのは、「難高」が教える力がすごいのではなく、もともと入学する生徒の力がすごいからなのです。
もし「難高」に大量のヤンキーが押し寄せてきたら、「難高」は大学どころか、高校卒業すらあやうい生徒の溜まり場となることでしょう。
(もちろん、能力の高い生徒が集まることで、より内容が高度な授業ができる、という面はあると思います。生徒の力と授業の力が掛け合わさって、より相乗効果を生んでいる面もありますが、ここではその点は考慮しません)
さて、それでは「いい学校」というのは、そもそも「いい生徒が集まる」ことで「いい学校」になっているのだ、ということがわかりましたね。
これは、学校には「選抜機能がある」と一般的に言われます。日本社会には、たくさんの「地域一番の学校、二番の学校、三番の学校」があり、中学や高校に進学する時点で、多くの生徒が振り分けられるようになっています。
そして、次に大学入学時点で、さらに振り分けられるのです。
この
「振り分け機能」
が、実は日本社会にとって、めっちゃ便利なのです。
そう!とてもとても、ある人たちからすれば便利なので、やめられないのです。
あなたが、どこかの会社の社長をしていて、優秀な社員を欲しいなあ、と思っているとき、5人の人間が現れたとしましょう。
その5人の人間が、どれだけ知識を持っているか調べるには、5人に対して学力試験をしなくてはいけませんが、さてどれくらいの問題数とか、どれくらいの難易度で、誰が問題を作ればいいでしょうか?
・・・うーん、考えるだけでメンドくさい感じがしますね。実際に、その試験を作って、試験を実行するには、手間もかかります。採点もしなくてはいけません。
しかし、Aくんは中卒、Bくんは高卒、Cくんは名もなき大学卒業、Dくんは東京大学、Eくんはハーバード大卒だとします。
すると、別に学力試験をしなくても「ああ、Aくんは中学校レベルの知識、Bくんは高校レベルの知識、Cくんはふつうの大学レベルの知識・・・を持っているんだな」
とすぐに分別できます。
こういう便利さを「ラベル」といいます。誰それが何々大学卒業であるということは、その人が、そこを卒業できるくらいの力があったんだな、とおでこに「ラベル」が貼られていて、すぐに分かるのと同じだというわけです。
私たちの身の回りの商品には、「特上」とか「並」とか、「上選」とか「ピュアセレクト」とか「純生」とか、いろいろなラベルが貼られた商品があって、「どノーマルな普通の商品とは違いますよ~」ということをPRしています。
学歴もそれとおなじで、「何か、普通より上っぽいラベル」が貼られていたほうが、より買ってもらいやすくなります。
しかし、逆の言い方をすれば
「新米・農家が選んだ特選ほしのゆめ」
と
「ふつうのコシヒカリ」
とどちらがおいしいかは、食べる人の好みですよね?
「やっぱりコシヒカリがいいわ~」という人もいるし「さすが新米」という人もいます。なので、どの大学を出た人物が、どれだけ「使えるか=おいしいか」は食べてみないとわからなかったりもするわけです。
ただ、だからといって「なんのラベルも貼っていない、わけのわからないお米」を指名してくれる人は、あまりいません。なので、そういうお米は
「金額を安くしないと売れない」
わけです。
だから、学歴がない人は実力があるかもしれないけれど、安い給料でスタートせざるを得ないのです。
高校・大学で何を学ぶかは、あなたの好きにしたらいいことです。しかし、その結果、あなたのおでこにどんなラベルが貼られるのかを知っておくことは、悪いことではありません。
それはまず、
「勉強というのは、最終的に楽をするためのものだ」
ということが第一段階で、
「勉強で得た知識を、どう生かすか」
ということが第二段階であることを確認したと思います。
この、一見あたりまえなことが、意外とうまくいかないのが多くの人の人生です。
勉強がよく出来て、知識がしっかりあって、偏差値の高い大学を出ても、社会において
「つかえねえな、こいつ」
と思われてしまう人材は山ほどいます。それは、第一段階だけで、第二段階を見過ごしているからですね。
逆に、学生時代の勉強はいまいちでも、人生を過ごすうちに「どうこの世界を生き延びてゆくか」に力を発揮する人たちもいます。その人たちは、学歴は遡ることはできませんが、その時々に応じて「新しい知識を自ら学ぶこと」で乗り越えてゆきます。
(結局、勉強は続けているというわけです)
ちなみに、知識というのは単なる物量なので、いくらでも後から増やせます。しかし、それを使いこなす能力は技量(テクニック)なので、得意な人と不得意な人がいます。
そこが、ちょっとしたポイントだったりします。
さて、みなさんはこれから、高校3年間、大学4年間でいろいろな知識を学習しますが、それらは全て第一段階ですから、何を勉強しようと実は「生かせるかどうかは」わかりません。
たとえ司法試験に合格しても同じです。弁護士になれる資格があっても、「仕事がこない」人は山ほどいます。
ここがポイントですが、
「発展途上国の場合は、知識を持っている人の数が少ないので、知識を持っているだけで重宝される」
が
「先進国になると、知識を持っている人の数はたくさんいるので、知識だけでなくそれを使う力が試される」
というわけです。
みなさんのおじいちゃんの時代、そしてお父さんの時代までは、まだ「大学卒業者」が重宝されましたが、今は違います。知識を持っている人は、いくらでもいるのです。
さて、ここからは少し見方を変えて、違う視点でお話しようと思います。ではなぜ、今でも私たちの周りでは「偏差値がどうの」とか「いい学校が」とか「いい会社が」といった話がまだ残っているのでしょうか?
それは、学校というシステムがもっている、ある機能に社会が期待しているからです。その秘密をお話しようと思います。
まず、いい学校とは何か。みなさんが思い浮かべる「いい学校・お勉強ができる学校」の名前を想像してみてください。その学校は、おそらく中学校からすごく勉強ができる生徒が通う学校で、最終的には東京大学に進学する生徒がたくさんいるような高校ももっているかもしれません。
その学校の名前を仮に「難高」としましょう。良く似た名前の学校がありますが、気のせいです。
「難高」はいい高校とされています。「難高」からは、東大進学者がたくさん出るくらい、優秀だとされていると仮定してください。
ここで、ちょっと考えます。「難高」は授業内容が高度で、しっかり教えてくれるから、生徒は東大へいけるのでしょうか?それとも「もともと東大へいけるような生徒が集まる」のでしょうか?
これは、実は誰も恐ろしくて実験したことがありませんが、答えは「後者」です。
そう、「難高」から東大入学者がたくさん出るのは、「難高」が教える力がすごいのではなく、もともと入学する生徒の力がすごいからなのです。
もし「難高」に大量のヤンキーが押し寄せてきたら、「難高」は大学どころか、高校卒業すらあやうい生徒の溜まり場となることでしょう。
(もちろん、能力の高い生徒が集まることで、より内容が高度な授業ができる、という面はあると思います。生徒の力と授業の力が掛け合わさって、より相乗効果を生んでいる面もありますが、ここではその点は考慮しません)
さて、それでは「いい学校」というのは、そもそも「いい生徒が集まる」ことで「いい学校」になっているのだ、ということがわかりましたね。
これは、学校には「選抜機能がある」と一般的に言われます。日本社会には、たくさんの「地域一番の学校、二番の学校、三番の学校」があり、中学や高校に進学する時点で、多くの生徒が振り分けられるようになっています。
そして、次に大学入学時点で、さらに振り分けられるのです。
この
「振り分け機能」
が、実は日本社会にとって、めっちゃ便利なのです。
そう!とてもとても、ある人たちからすれば便利なので、やめられないのです。
あなたが、どこかの会社の社長をしていて、優秀な社員を欲しいなあ、と思っているとき、5人の人間が現れたとしましょう。
その5人の人間が、どれだけ知識を持っているか調べるには、5人に対して学力試験をしなくてはいけませんが、さてどれくらいの問題数とか、どれくらいの難易度で、誰が問題を作ればいいでしょうか?
・・・うーん、考えるだけでメンドくさい感じがしますね。実際に、その試験を作って、試験を実行するには、手間もかかります。採点もしなくてはいけません。
しかし、Aくんは中卒、Bくんは高卒、Cくんは名もなき大学卒業、Dくんは東京大学、Eくんはハーバード大卒だとします。
すると、別に学力試験をしなくても「ああ、Aくんは中学校レベルの知識、Bくんは高校レベルの知識、Cくんはふつうの大学レベルの知識・・・を持っているんだな」
とすぐに分別できます。
こういう便利さを「ラベル」といいます。誰それが何々大学卒業であるということは、その人が、そこを卒業できるくらいの力があったんだな、とおでこに「ラベル」が貼られていて、すぐに分かるのと同じだというわけです。
私たちの身の回りの商品には、「特上」とか「並」とか、「上選」とか「ピュアセレクト」とか「純生」とか、いろいろなラベルが貼られた商品があって、「どノーマルな普通の商品とは違いますよ~」ということをPRしています。
学歴もそれとおなじで、「何か、普通より上っぽいラベル」が貼られていたほうが、より買ってもらいやすくなります。
しかし、逆の言い方をすれば
「新米・農家が選んだ特選ほしのゆめ」
と
「ふつうのコシヒカリ」
とどちらがおいしいかは、食べる人の好みですよね?
「やっぱりコシヒカリがいいわ~」という人もいるし「さすが新米」という人もいます。なので、どの大学を出た人物が、どれだけ「使えるか=おいしいか」は食べてみないとわからなかったりもするわけです。
ただ、だからといって「なんのラベルも貼っていない、わけのわからないお米」を指名してくれる人は、あまりいません。なので、そういうお米は
「金額を安くしないと売れない」
わけです。
だから、学歴がない人は実力があるかもしれないけれど、安い給料でスタートせざるを得ないのです。
高校・大学で何を学ぶかは、あなたの好きにしたらいいことです。しかし、その結果、あなたのおでこにどんなラベルが貼られるのかを知っておくことは、悪いことではありません。
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