2017年5月31日水曜日

<実国学を考える20> 幸せなる人生というやつが、だいたいわかった件。 ~まだ東京で絶滅してるの?~






 人生とは一体何なのか。


 この疑問は人類共通の問いだと思いますが、残念ながら「おおむね答えが出てしまい」ました。


 そんな悟りを開いたようなヨシイエのヨタ話に、しばしお付き合いくださいませ。


 哀しいかな、今日のお話は、あまりに救いがないので、万人に読まれるべきものではないと思いますが、ヨシイエの数少ないファンの方には、お話してみようと思う次第です。




 さて、吉家は自称「実国学者」を名乗っています。国学というのは「日本のあり方、ありよう」をじっくり検討する学問ですが、


 万葉集の時代が良かったなあ!
 (荷田春満)


という考え方から国学を構築した先輩もいれば、


 やっぱり神道の精神だよねえ!
 (平田篤胤)


という考え方から国学を立てた先輩もいます。


 国学の流れについては

https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/01/blog-post_23.html

にまとめてあるのでそっちから読んでくださいね。





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 さて、そんな国学の流れを念頭に置きながら、「この日本はどのように生きながらえ続けてきたのか」を実際の実像に迫りながら考えるのが実国学なる視点なのですが、今日はなんと



”実国学的に考える、日本人の幸せな人生”


について、あらかた答えが出てしまった、という恐ろしい話です。





 その前に、以前このブログで取り上げた、


『若い女性が貧困で風俗嬢になるしかないのと、妾・側室になるのとどっちが良いか』
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html


を予習がてら読んでおいてください。


 ここで何を頭の片隅において欲しいか、というと。


”江戸時代から明治頃までの女の人は、どういう暮らし方をしたのか”

”上流階級数パーセントの人はどうだったか。中流の数十パーセントの人はどうか。庶貧民の数十パーセントはどうだったか”


の2つの問いです。



 そして、このことを覚えておきながら、次の文章を読んでくださいね。





 THE PAGE より

商人は華やかだが、つらい仕事 明治期の彩色写真に記録された呉服屋の実態」
https://thepage.jp/detail/20170529-00000006-wordleaf 





 社会思想と哲学をやっておられる森田先生という方の文章です。簡単に言えば、江戸時代の男はどのように生きたか。というお話。


 たとえば、どこそこの藩主の話や「武士の家計簿」などで、なんとなくですが「上流~中流」の江戸の男子の生き方は想像がつくようになっている昨今ですが、


「中流~下流(つまり当時の日本の数十パーセントの人たち)の男子の暮らし」


というのが、この記事からわかるようになっています。



 先に女の子バージョンの「奉公人から家事手伝いまでの暮らし」について考えたのと、対になっています。





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 上の記事には、実は重要な「答え」が書いてあって、そこがまさに実国学的にはツボだったりします。



 それはどんなことかといえば、



「長男は、子供を産んで育てることができるが、そこからいかに子供が増えようとも、その長男以外は子孫を残していない。なので、日本の総人口は変わっていない」


ということです。江戸時代末(そしておそらく明治頃)まではね。


 それを目に見える生活レベルで描いて下さっているわけですが、一言でいえば


「都市生活者は男女とも子孫を残せないだろう」


ということです。年であれば商家の主人クラスか、地方であれば土地持ち地主クラス以外は、子孫を残すことができず、残せたとしても長男の直系(養子など含む)だけが続いてゆく感じ、なのです。


(もっと恐ろしいことに、記事によると独身で人生を終わるどころか「途中で死ぬ」と書いてある)



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 ここで、恐ろしい話の核となる人口推計を挙げておきます。



 すごく荒っぽいので、詳しい数字が知りたい人はググッてください。

 簡単に言えば、こういうことです。

 鎌倉時代の日本の人口は700万。室町で800万。江戸幕府が出来た1600年で1200万。

 日露戦争で4700万。1900年ごろのお話。


 そこから2000年にかけて100年で日本の人口は1億2千~3千近くまで行くわけです。


 単純に約2.7倍に増えるわけですが、この間


「お父さんとお母さんから子供が3人~5にんぐらい出来て、みんな成人してそれぞれ孫を作って、孫が5人~15人ぐらいになったよね」

 というおじいちゃんおばあちゃんが存在したということです。


 ところが少子高齢化にすでになっており、このままいくと人口推計は、次の100年~で元に戻るとされています。

 2100年時点で、推計は6500万~8000万くらい。


 この時のおじいちゃんおばあちゃんは、


「お父さんとお母さんから子供が2人くらい出来て、子供のうち一人は結婚したけど一人は独身のままで、一人だけ孫が一人出来て、 その孫一人きりだねえ」


という人が大半だということです。


 これが、江戸時代に起きていた「長男の家系だけが存続する」というやつです。



 となると、単純計算で、日露戦争ごろに存在していた家系は、今3倍くらいに膨れ上がっているけれど、元にもどるわけだから、3分の2の今の人たちの子孫は、100年後にはいない、ということになります。


 荒っぽいけど、今存在している日本人のうち、6割7割は、「自分は絶滅しないけど、子孫はかならず絶滅する」ということになります。



 現存している日本人のうち、100年後も子孫が続くのは4割以下だと思われます。


 あなたがどんなに頑張って人生を送っても、3人に2人はどこかで絶滅がやってくるというわけです。


 スーパーマリオの2面で終わるか3面で終わるかぐらいのことで、ほとんどの人はそこら辺で終わってしまうのです。


 あなたがすっごい頑張っていい人生を送っても、息子や娘が「クソみたいな人生を送るのを見る」可能性のほうが高いかもしれないという恐ろしい話です。






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 とすれば、逆にこの4割はどういう人たちが生き残るというのか。


 まずは、ベタですが、


「子供がいる人」


です。この際、結婚してなくてもいい。子供がいれば子孫はつながる可能性があります。


それから、子供ができてもそこで潰えてしまってはどうしようもないので、


「子供の代でも、その次の子供が作れる家庭を持てる人」


が、さらなる条件になります。


そのためには、


「ひ孫くらいまで、なんらかの形で資産を継承できる人」



が、重要ポイントになります。港区にタワーマンションを持っていてもダメです。孫の代に関東大震災が来て倒壊していたり、タワマンブームが終わっていたりしたらダメだし、孫がアホで定職につけなくてもダメです。


 そうすると、日本全体を見回すと、はるか昔からこれに該当しそうで、これからもこれに該当しそうな人種がいることに気付きます。




① 田舎や地方都市で、昔は庄屋さんだったのよなんて言われながら、

② なんだかんだいって田んぼやら畑を持っていて、それがいま不動産賃貸とかになってて

③ 駐車場とかアパートとか、ちょびっとだけある感じの。

④ お父さんは役場の人で、おかあさんが地域のケアマネージャーとかやってる。

⑤ 大学は都会へ出してもらったけど先祖代々の土地とかあるから、帰ってきて役場に入った息子がいる。

⑥ そんな家柄の長男とか。



なら、あと3代くらい今の暮らしを継承してゆけば持ちそうですね。



 大都会へ出て、大企業へ入り、「全国・海外を飛び回るぜー」とか行ってた人は、これからの100年で激減しますから、それが「勝ち組」になるかどうかはわかりません。


 そういう人は、みな中国人とかインド人になってしまい、日本人ではなくなる可能性が大で、日本人は

「海外じゃなくて内需だぜ」

とかその頃言い出してます。


 地方の役場は、なかなか無くなりません。無くなっても合併で生き残りますから、イスは徐々にしか減りません。




 日本の人口が、江戸時代やら戦国時代に戻るということは、「江戸時代やら戦国時代に領主層として生きていた人たちのスタイル」を実践するものが生き残るということです。


 それ以外は、都市へ出ても独身のまま途絶えるということです。



 ならば、日本人にとっての100年後の幸せは、もはやはっきりしています。


 地方の領主になること。イケダハヤトさんではないですが



 まだ東京で絶滅してるの?



です(苦笑)



 それも、江戸時代に「藩」があった中心地域などに根ざしてゆくことが大事です。そういう場所は、経済や政治においても、なかなか「削減」の対象にならないからです。


 間違っても「ど田舎村の僻地」へ行ったりしてはいけませんよ!





































2017年5月7日日曜日

「非正規雇用者のサイレント革命」(byニャート氏)を読んで



 以前に、このブログでも少し紹介したニャートさんのブログに興味深い記事が載っていたのでその感想を書こうと思います。




 非正規雇用者のサイレント革命
 http://nyaaat.hatenablog.com/entry/silent-revolution-01




 吉家は、常々このブログでも公言している通り「実国学者」なので、現代日本の様相も「国学」的視点で読み解こうとしてしまうのだけれど、簡単に言えば



 歴史を通観しながら考えるとどうなるか



という視点は、忘れないようにしようと思っています。




 さて、ニャートさんの論は、2つの軸があり、その軸が微妙に交差しているので、まずはそこを切り分けてみたいと思います。






 ひとつめの軸は、「就職氷河期世代」という限定的な世代の軸です。 これは、現代日本における30代から40代の世代のことで、いわゆる失われた二十年の間に、それまでの新卒正規雇用の枠組みを適用してもらうことが困難だった世代を指します。


 この軸において、偶然であり、かつ残念なことに非正規のループに落ちてしまった若者が一定数いるとして、彼らがどのように生きれば


「多少楽に生きられるか」


という課題は、軸として大事な視点だと思います。



 しかし、国学的視点で見れば、この軸については、たとえば


「戦国時代に名のある武将となれずに、たくさんの雑兵の若者が戦で何万人、何千万人と死んだが、彼らはいかに生きれば幸せだったのか」


という論を立てるのに似ています。



 武将として正規雇用された者は、生きがいやら死にがいやら、あるいは相応の領地やら石高やらをもらって、あるいは結婚して側室を貰ってなんとしても跡継ぎを生んで、家族は幸せに暮らしましたとさ。たまに、お父さんは戦で死ぬけど子孫は安泰だもんね。



という正規武将の話と、非正規足軽の話を比較した時、そもそも



「非正規足軽の話は、歴史書にもほとんど残っていないし子孫がどうなったとかわからないし、独身で死んでいったんじゃない?」


ということになってしまうわけですね。



 そうすると、非正規足軽の話は、いくら社会的に取り上げようとしても、「可哀想だった農民」とか「戦でなんぼでも死んだ雑兵」の話になってしまい、



 ほとんど無視



されることになります。悲しいかな。 教科書に載っても、一行です。一行。


 ましてや、ニャートさんの言うように、その後の世代が人手不足によって再び正規雇用される確率が上がるのであれば、


 彼らは偶然に不運だった人たちで、可哀想だけれど仕方ないし、ちょっとした時代のボタンのかけちがいだったよね


で処理されてしまうのです。





 そうすると、後に残るのは、非正規の足軽雑兵たちが、個人として「いかに、せめて充実して生きたか」がポイントになります。彼らは社会的にはほぼ抹殺されるのだから、社会的に取り上げてよ!という運動は徒労です。


 それよりも、個人の幸せを考えた方がいい。



Aという足軽雑兵は、独身で城攻めの時に、堀に落ちて死んだ。

Bという足軽雑兵は、 故郷の村に好いたおなごはいたが、籠城して飢え死にした。

Cという足軽雑兵は、妻子を残して戦に参加し、名のある武将の左足を刺したが切られて死んだ。



 さあ、どれがいい?というのと同じです。


 そりゃ、なんかよくわからんけど、仕事らしい仕事をしたのはCかなあ。で、子供もいるし、未来につながるだけいいじゃんね。



と誰もが思うでしょう。実際、戦国時代から江戸時代にかけては「武功書」というのが盛んに作られます。

 これは、一般の足軽側からも作るし、藩の偉い人側からも作るのですが、


「うちの先祖はどこそこの戦いの時にこんな武功を挙げたので、なので子孫である私にいい地位をください」


とか


「うちは殿様を守るためにこれだけ頑張った先祖がいるので、なので今の地位は正当なのです」


とか、そういうことをお互いに主張したり確認したりするわけですね。



 そして恐ろしいことに、江戸時代には戦が無くなったので、ある藩に属する人物の位は、この時に決まった評価がベースで260年間その子孫に対して有効に作用するのです。

 だって、それが封建社会だから!!!





 現代は封建社会ではないので、子孫まで影響力が続くわけではないですが、これが歴史からみた個人の事実なのだとしたら、就職氷河期の人たちは、


「世代の不遇は仕方ないとして、あとは個人としていかに幸せになるかを考えろ!」

「今は足軽雑兵かもしれないけれど、秀吉みたいにちょっとでもなり上がればチャンスはあるのだから、個人として頑張れ!どうせ死ぬのだから死ぬ気で行け!」


というオチになってしまうのですが、いかがでしょう(^^;






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  さて、もうひとつの軸について考えます。それは世代関係なく


「会社組織に属さずに、非正規として生きる」


という生き方そのものについてです。あるいは、田舎などの「経済のみに依拠しない地域」を利用しながら、


「お金と地位をベースにしない生き方を選択する」


というスタイルの軸です。



 ニャートさんは、「自給自足」や「小さな経済」「物々交換」などのしくみを用いながら、そうした経済圏を回すことができれば、



 強者の論理で回っている日本経済に対してのアンチテーゼ



になるのではないか?と考えておられます。



 これは大変におもしろいし、言いたいことはわかります。 ただ、一点だけ懸念がある。


 国学者としての吉家が声を大にして言いたいのは、次のことです。



 もし、ニャートさんの考えるような小さな経済や小さな社会が成立したとして、


「この生き方をチョイスする人が、子供を生み育て、その子供たちがおなじ循環で生きられないのだとすれば、その世界はすぐに消えて、存在を否定されるよ」



ということです。



 国学視点では、今30歳の人が60なり70までのみ成立する経済圏があったとして、その次の世代がまったく成立しないのであれば、


 それは単なる何かの食いつぶしであって、破綻する。


と考えます。



 つまり、その経済圏は、歴史教科書に「失敗例として1行載るだけだよ」ということです。


 共産主義がいいんじゃないか?とか、ソフホーズやコルホーズがいいのでは?とか、文化大革命をやってみようかとか、それと同じレベルで、


「ミニマム経済圏みたいなのはどう?」


というのであれば、そのオチはたいへんに酷いことになってしまう。


 だから国学的には、「その社会は、どのように何世代も持続し続けるか」を第一義的に見ようとするのです。






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 批判的言説のように聞こえては申し訳ないので、実例を挙げて説明をします。



 私は大阪から約一時間の某所に住んでいて、自分の家は1000万円でオール電化一戸建て庭付き二階建て築20年を買いました。駅まで歩けて、特急も止まるので実際に大阪に通勤している人が千人以上もいるような地域です。


 住宅ローン返済額は、15年返済で月6万円。アパートを借りてもまったく同じくらいです。


 それで50歳には完済できるようになっています。


 うちの会社はいくつかの小さな会社が集まっていますが、オーナーは地元の中小企業のボスです。

 分社しているAのトップの年収は1000万あります。従業員は10人程度。

 私は分社しているBのトップですが、役員ではなく従業員扱いなので、年収は△00万円です。従業員は4人です。


 一般従業員は正規職員なので、年収は300万円台の子もいますが、福利厚生は全部あり、中小企業向け退職金制度にも加盟しています。



 ちょっとだけ地方に目をむければ、こんな条件の会社や、いわゆる『一昔前に、みんなそうだった家族のスタイル』を実現できる職場は山ほどあります。


 ただ、ひとつだけポイントがあって、


「そうした会社のイスは、何万人もの潜在的希望者に対して、地方ごとに細分化して、数席しかない」


ということです。


 うちの会社で言えば、3社中、オーナー親族ではない者が座れる上席はたった2席しかない、ということです。



 しかし、その2席は、日本中に山ほどあって、東京にいる人はその席が存在していることをまったく見ていない、ということです。


(ちなみにうちの会社の前任者は女性だったので、男女はたまたまうちの会社では関係ありませんでした)



 なぜ私が国学目線を繰り返して言っているかと言えば、うちの会社のオーナーもそうですが、



彼らは、戦国武将の末裔であり、名主や庄屋の子孫として、長年地場での人間関係や農地支配を掌握していて、現代でもその名残りは続いている



ことがわかってきたからです。





 これから、日本社会は「座れるイスがどんどん縮小する」ことは間違いありません。


 
  これまでの生き方論の有りようでは、


「優秀たるものは、都会へ出て、大きな会社に寄って、そこで世界的な働きをするべきだ」


というものでしたが、これからは、日本が世界で果たすべき役割の意味も変わってくるし、何より人口が減り、優秀たる者が座れる椅子の数が減ってくるわけですから、



「優秀たるものは、いち早く地方の領主や主君と出会いながら、地域地方において独自の働きをせよ」


というスタイルへと変わっていくのが理想なのかもしれません。



 では逆に弱者はどうすればいいのか。


 現状では弱者は都市へいけば何か仕事にありつけるのではないか?と都市への流入を続けていますが、果たしてそれがいつまで成立するのでしょうか?


 大阪にはあいりん地区という日雇いの町がありますが、高度成長期には、日雇いの仕事はものすごくたくさんあって、


「数週間働いてたんまり稼いで、残り半分はだらだらする」


という生活を実践する労働者もたくさんいました。特に鳶職などは手当てがいいので、建設労働が盛んなりし頃は、それでも充分生きていけたわけです。



 ところが、日雇い仕事が減少し始めると、日雇いの町は当初は無縁だった「貧困」の影がチラつきはじめます。


 これからの東京や都市も同じで、かつてのイメージで「仕事を求めて流入は続く」ものの、実際には「いい仕事や安定した仕事のイス取りゲームのイスは減っている」わけですから、残った仕事はもはや言うまでもない、ということになりつつあろうと思います。


 とすれば弱者にできることは


「イスがたくさんありそうなところに、人数以上に群がる」


ことではなく、


「空いているイスを、周囲に惑わされずに、地道に探す」


ことなのかもしれないとも思います。





 私は、今後、イス取りゲームの悪化と戦国時代化はいっそう進むと考えています。


















  
  





















 














2017年3月28日火曜日

”Fランク大学の学生を採用したらこうなった”が面白かった件



 今日のヤホーで配信されていた「Fランク大学の学生を採用したらこうなった」がめちゃくちゃ面白かったので、ついついコメントしてしまいそうです。



 やほー版 「Fランク大学の学生を採用したらこうなった」
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170327-00010000-storys-life



 元ネタ STORYS版 「学歴フェイルターを無視してFラン大学の学生に内定を出した話」
 http://storys.jp/story/7242



 簡単に言えば、人事担当者が、上司の「一定の学力がある大学の学生以外は取るな」という指示に逆らいながら、それでも偶然下の大学から上ってきたA君を採用する、というお話です。



 オチまでぜひ読んでほしいのですが、結果「A君は5日で辞めた」のだとか!(苦笑)





 「学力と能力は比例するのか」とか「それでも中にはレベルの低い大学にも良き人材がいるのではないか」とか、その手の話はもはや巷に出回りすぎていて、


「学歴フィルターなるもの」も、一種の都市伝説で、逆に「Fラン大学から出てきた逸材」も一種の都市伝説なのではないか、みたいな話になってきているように思います。





 ヨシイエから見ると、ヨシイエは一応教育の専門家でしたので、



「えーっと、みなさん『できる人材がいるのではないか』とか、『意欲や能力が高い人材が、Fランク大学に紛れているはず』とか、どちらかというと



 個人の事象を焦点に当てた話しぶり


をしてはりますけど、この内容は、実はズバリ



 確率論



だったりするのよ」


と断言できます。



 そうなんです。これはズバリ、確率論のお話で、


「良いとされている大学には、良いとされる人材が確率的に多い」


「悪いとされている大学には、良いとされる人材が確率的に少ない」

 
ということなのです。







 だから学力と能力の「相関関係」についても、実際にどのように関係が結ばれており、どのような関係が発現するのかをちまちま論じているよりも、


「結果として、確率的にはどうなん?」


ということのほうが、オチが早くなってしまうというわけなのです。



 ”良い大学を出たものは、良い能力があると推定される”という永遠のテーマは、教育かいわいでも「ラベリング理論」として、すでに有名です。


 また、それに反論するならば、「ある一定の能力(学力)と別の能力(たとえば体力)は、脳の領域固有性により、連動するとは限らない」ということも、脳科学のかいわいではすでに有名です。



 しかし、それも個別のお話で、それらの人材を「層」「かたまり」「群」でみてゆくと、



「確率的に、よい大学にはよいとされる人材が多い」


ということは言えるでしょう。なぜなら、よい大学に入るためには「いくつかの選別作業が行われている」からです。



 日常的に、勤勉に学習すること。日常的に基本的な生活習慣があること。逆に、一発勝負の試験にもあるていど強いこと。他者との競争において、結果を出せること。


などなど。


 良いとされる大学の学生は、上記のような選別を受けていますので、当然「確率的に良く」なります。



 逆にFランク大学生は、必要な選別作業を受けていません。なので、確率的には、その中に良いと推定される人材が存在する確率が低いのです。




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 話は簡単です。これはみかんなのです。



 MサイズとLサイズに選別されたみかんが箱に100個入っているとして、もう片方には完全無選別のみかんが箱に100個入っているとしましょう。


 無選別の箱にも、かならずLサイズのみかんは入っています。


 そこで、どちらの箱からも「1分間だけ手探りでみかんを手で面接してなでまわすことができるとして、ひとつだけ取り出してみなさい」という作業を面接官に与えます。


 この場合、Lサイズのみかんを採用できる確率はどちらが高いですか?


ということなのです。


 MLサイズの箱から、Mサイズのみかんを選んでしまうことはあるかもしれません。しかし、もう一つは無選別ですから、Lサイズのみかんをチョイスするのは至難のワザです。



 この時に、面接官Aが「自分なら無選別の中からLを見極められるぜ」と豪語したとします。


 そこにもう一人の面接官Bが「じゃあ、MLサイズの箱から僕はなんにも考えずに一個取り出しますね」と言ったとします。


 その時に、面接官Aが優秀なLサイズを探り当てるのか、それとも面接官BがLサイズを探り当てるのかどちらだと思いますか?


 賢明なるみなさんは、もうお分かりですね。


 「それは実は単なる確率論やな」


と。そういうことなのです。




 採用現場もそうなのでしょうが、実は送り出す側の学校の人間も、実は若者たちを「個人個人」では捉えていません。もちろん、個別の指導はしますが、ベースになるのはあくまでも



層・群


です。


 高校の段階ですら、「これくらいの層は、こういう上級学校へ進学する」とか「こういう層は、就職に強いだの弱いだの」ということは、確率的にデータを持っているのです。



 そのことを知っている者たちからすれば、今回のような議論は不毛です。もう答えは出ているのですから。



 確率論だということは



「面接官である君が、一生懸命一人の人材を選んだとしても、確率的に高い箱から引けるのであれば、わたしが無作為に抽出した人材のほうが、結果的に能力は高いことになる」


ということがオチなのです。くわばらくわばら。










2017年1月24日火曜日

<吉家流儲かる起業塾16>クラウドワークスやランサーズの活用法 ~儲からない秘密教えます~




 儲かる起業塾のはずが「儲からない」話をするとは本末転倒ですが、 まあ、今流行の「クラウドソーシング」がどうなっているのかを知っておくのは勉強になると思うのでそんな話を。



 日々、「儲けるためにはどうすればいいのか」を模索しているヨシイエですが、クラウドソーシングに潜入して、そこで夜な夜なあんなことやこんなことが行われているのか、探っている最中です。




 先日もブログで報告しましたが、さらに別のサイトも追加したので、現在 4社 のクラウドソーシング会社の潜入捜査を実施中。



 クラウドワークス
 https://crowdworks.jp/


 ランサーズ
 http://www.lancers.jp/


 クラウディア
 https://www.craudia.com/


 シュフティ
 https://www.shufti.jp/


 なんだかみんな似たようなロゴの色使いばっかりですが、基本的なシステムが似たり寄ったりなので、そこは目をつぶりましょう。



 WELQやDeNAのキュレーションメディア騒動以降、あからさまなコピペライター養成仕事は減っていますが、それでもまだあります。
 

 ”コピペはダメだけど、オリジナル記事を安価でたくさん書いて欲しい”


という業務の依頼だって、もちろんナンボでもあります。ブログメディアの記事代筆とかも。


  ただ、陰に隠れたのかどうかはわかりませんが、依頼主が大手から個人や小さい会社に変わっている感じはします。雰囲気的には。




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 さて、こうしたクラウドソーシング業界、



■ クラウドソーシング運営会社

■ 仕事の依頼主

■ 仕事の受注者



 3者とも、「たいして儲からんだろうなあ」とヨシイエ的には思います。



 クラウドワークスで言えば、月収20万円稼いでいるユーザーが111人しかいなかった件が盛り上がりましたが、実際に各社で案件をずっとリストで見ていると


「これは本格的で高単価な仕事だな」


と思われるものは少なく、


「まあ、ちょっとお金出して比較的難易度の低い仕事を依頼しているな」


というものが多く、


「これ、とりあえずたくさんデータが欲しいだけなんだな」


というものがめちゃくちゃ多いわけです。ということは、運営会社にとっては、


「手数料収入は、それほどおいしくないだろう」


ということが予想されるわけです。おまけに、依頼主からの案件報酬は「できるだけ低いいほうへ、ベクトルが向かう」わけなので、 運営会社から見れば、未来へいけば行くほど



「ちっこい手数料収入がたくさん増えるだけで、大きなプロジェクトは、値下がり傾向」



になるはずです。これはシステムとしては、”欠陥”といってよいかもしれません。






 一方、仕事の依頼主から見ると、すでに各所で指摘されているとおり、


「本当にいい仕事をする人は、直接取引に移行してたりするので、クラウドソーシングにいる安価なワーカーは、つまり使えない人材しか残っていない」


ことになります。これでは、まともな高単価案件を依頼しなくなります。





 そして最後にワーカーからすると、WELQ騒動以降顕著になったように、「コピペ等なしのオリジナルをこれまでと同じ値でやってくれ」なわけですから、「仕事の単価は下がり、求められる内容は高度になる」ということです。




 こりゃ、三者とも儲からない方向へまっしぐらですね。




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 実は私もやっているココナラでさえ、運営会社は赤字のようなので、



 「単価が安い案件をなんぼ山ほどかき集めて手数料取っても、たかがしれとるんじゃ!」


ということなのです。オチは。



 そうなると、運営サイトとしては体力・資本力勝負であり、依頼主からすれば


「まともなアウトソーシングシステムとしては、相手にしちゃいかん。せいぜいネーミングの募集とか、意見調査・アンケートぐらい」


の立ち位置で見るべきであり、最後にワーカーからすれば、


「企業勤めの代替にはけしてならない、せいぜいお小遣い稼ぎのサイト」


ということになってしまうというわけ。



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 しかし、小遣いサイトとしてはなかなか強力で、これはまた別にお話しましょう。








2017年1月23日月曜日

子育てママが、新型シエンタではなく新型フリードを買うべき3つの理由



 

 現在、トヨタの新型シエンタと絶賛大一騎打ちをしている真っ最中のホンダ「新型フリード」ですが、販売台数の軍配は、トヨタさんのほうがやや上回っているようです。


 ところが、現在現役の子育て中ママである私の妻の界隈では、



 ミニバンの使い勝手



について、あれやこれやいろんな文句や要望が出ているようで(^^;



 たとえば、



「カッコつけて旦那がエルグランドやら、アルファードを買ったけど、あんなもん大きすぎてスーパーへ行きたくない!」



とか、


「結局アタシ用には、ピンクのパッソを新しく買った」



とか、そんな話ばかり。 子育て世代にとって、子供やおじいちゃん・おばあちゃんを含めた多人数乗りとサイズの問題は、シビアに難しいようです。




 さて、そんなこんなで 日経ビジネスオンライン さんの人気コーナー



「フェルディナント・ヤマグチの走りながら考える」にフリードの話
 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/194452/012000098/



が出ましたので、 ぜひミニバン検討中の方は、ご一読を。




 今回すごくためになったのは、ホンダの開発者の田辺さんとの対談。



「そこよ!そこがツボなのよ!」



と思わず膝を打つ、シエンタVSフリードのちょっといい話が聞けたので、ご紹介します。







【子育てママが新型シエンタではなく、新型フリードを買うべき1つ目の理由】



 ミニバンを選びたいなら、断然フリード!


 お話にも出てきますが、新型シエンタは「コンパクトカーに、3列目が加えられたもの」というイメージが当たっているのですが、新型フリードは


「最初からミニバン3列目をふだん使いする前提で作られている」


というところがミソです。


 なんと言っても、私のブログでもリサーチしているとおり、(そして開発者さんも推しているとおり!)


★詳しくは以前の記事

 もう悩まない! フリードVS新型シエンタ ~キャプテンシートとベンチシート徹底比較~

 http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/12/vs.html

を見てね!



「新型フリードのキャプテンシートなら、どこへでも移動できる」


ということがミソなのです。


 新型シエンタの3列目を使うには、一度車からおりてシートを倒さなければならない!これが、新型フリードとの大きな差です。








 【子育てママが新型シエンタではなく、新型フリードを買うべき2つ目の理由】


 チャイルドシートを使うなら、断然フリード!


 新型シエンタでチャイルドシートを使う場合、実はとんでもないことが判明したのです。



 それは、チャイルドシートがある状態で3列目をたたもうとすると、チャイルドシートを外さなくてはならない!


ということ。シエンタの3列目は、2列目の下ににダイブして隠れるようになっているので、3列目をしまうには、チャイルドシートを外さなくてはならないのです。


 その点、新型フリードは、左右跳ね上げ式なので、2列目がどうなっていようとまったく関係なく、3列目だけ片付けることができます。


 子育てママの場合「きょう、買い物が多いから3列目を倒したい!」と思うことが多いと思いますが、フリードならそれがすぐに可能だというわけです。






  【子育てママが新型シエンタではなく、新型フリードを買うべき3つ目の理由】


 子供が2人産まれたら、シエンタではダメ!


 これも開発者さんが指摘しておられますが、チャイルドシートを2つ設置する場合には、


「2列目に左右一つずつチャイルドシートをつけて、運転席におとうさん、助手席におかあさんが座る」


可能性が大きい場合、



3列目には、乗り込むことができない



ということが起きてしまうのです!


 なぜか!それは、3列目にアクセスする場合は、2列目の一部の席が倒れて後ろへいくスペースを空けるわけなので、チャイルドシートが2つついていると、2列目を倒せないのです。



 それが、新型フリードのキャプテンシート仕様なら、2列目に2つチャイルドシートがついていても、真ん中に通路があるので、どこからでも3列目へ移動できる、というしくみ。





~~~~~~~~~~ 



 というわけで、ヨシイエ的には、だんぜん「フリードキャプテンシートモデル」を推しています。


 ご参考になさってください!


2016年12月22日木曜日

ランサーズとクラウドワークスに潜入してみた件 ~1円ライターって、高単価だったのね!~



 前回の記事

ライターの哲学 ~1円ライターは組織的窃盗団の片棒を担がされたのか~

http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/12/blog-post_13.html

で、



 ライターとは何ぞや



とか



 1円ライターとパクリメディアについて



とか、いろいろ書いたので、クラウドソーシングの実態について知りたくなって、




今さらながら




クラウドワークスとランサーズにどんな案件が出ているのか



について潜入捜査してみました(^^




 そしたら、「聞いて驚け見て笑え」な状態で、



1文字1円どころか、(初心者向けライティングでいえば)1文字0.1円


が相場だというから、ビックリくりくりタマゲッゲーでございます。





 そして当然のごとく、先日からキュレーションパクリ問題の余波として、



 1文字0.1円以下なのに、コピペ・パクリは許しません!



な条件がバンバンついており、貧者はますます追い詰められてゆくのでありました。




 これも前のブログで書いたとおりになってるだけですね。



ライター業の終焉 〜ライターという仕事、肩書きが無力化される!〜
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/12/blog-post_7.html



 まさに「悪貨は良貨を駆逐する」であり、かつ「水は低きに流れる」感じです。





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 ヨシイエは、職業的に言えばモノ書きではありませんが、モノを書いてお金を貰うことは多々あるわけで、そういう意味では右足の指先くらいは、ライター業に突っ込んでいる気もします。


 しかし、基本的には「お金を貰わない」こういったブログもそうだし、あるいはお金を貰う案件であっても



 自分の書きたいことしか書かない



というのが基本的スタンスです。



 そんな「どこそこの観光地についてデートプランを書け」とか、「借金の体験について書け」とか言われても、デートするキラキラ女子を先に紹介してほしいし借金取りまがいの債務者を追いかけた話しか書けません。



 ええ、百歩譲って「作家として、見てきた風に実際と違うことを書け」と言われたら、書ける事は書けるけれども、



 あんたのプロットより、わしのプロットのほうが絶対に面白いから、そんなもん書けるか~!



となってしまうのがオチです。



 結局のところ、私にとっては



「文字は道具」である


ので、あくまでも主体はこちらにあって、


「文字の奴隷」になる


ことは嫌だなあ、と思うわけで。




 ただ、青少年の頃から、「溢れんばかりの自己表現」に満ち満ちていたヨシイエ少年の過去を振り返ると一つだけいえることがあります。


 ヨシイエは小説も書くし、論文も書くし、雑誌記事だって書いたことあるし、音楽もやるし映像も作るし、モノづくりもしますが、



 そりゃ、一番自分の表現したいことを如実に表すことができるのは映像



だと思っています。 これは間違いない。思ったとおりのものを「目で見てわかる」モノに仕上げるのは、とてつもない快楽です。表現者からすればね。




 しかし、「一番金がかかり、自分では思い通りにいかないのも映像」だったりするのです。演者や対象物や対象者が必要なので、それは自分ではないため


「けして思い通りにならない存在を相手にする」


ことになるからです。




 その点、文章はすごいです。


 なんせ金がかからず、自分の身ひとつで完結することができるからです。



 もちろん、金をかけて取材するなどもできますが、金をかけずに済ます方法がなんぼでもある、というのは魅力です。


 だからこそ、ライターの報酬もダダ下がりになりつつあるのでしょうが、 それなら



 好き放題ブログでも書いて、アドセンス貼っとくほうがマシ



なのかもしれません。



 いろいろご意見あるとは思いますが、ヨシイエ的にはこの問題は難しいです。それぞれの立場もあるしね。













2016年12月13日火曜日

ライターの哲学 ~1円ライターは組織的窃盗団の片棒を担がされたのか~




 毎度おなじみ、ネットの片隅で何かを叫ぶヨシイエ孝太郎です。



 WELQをはじめとした一連のキュレーション騒動で、「激安ライターを使って、パクリ記事を大量量産するビジネスモデルはどうやねん」という問題が燃え上がったわけですが、ここにきて、テーマが少し移動してきたように思います。


 それは、そもそもの定義に関わるところの



 ライター



とは何か問題、についてということになるでしょうか。



 キュレーションが、本来たくさんの情報をある一定の表現のために「まとめたり寄せたり編集して見せたり」するような作業であるのに対して、


 パクる


ことが実態になっているという件と同じように、”ライター”によるライティングが本来は「取材して整理して中身を編集して書く」作業であるのに対して、



 ただ文字を書く



ことが実態になっているのが、どうやねん!ということです。「それをライターと呼んでいいのか問題」ですね。



 この問題については、ここ1日2日で、専業の方から1円ライターの方まで、いろいろな意見を述べておられるので、少しだけ拝読してみましょう。




1円ライター問題、「現場の声」から見るキュレーションサイトが生まれた問題
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinoharashuji/20161212-00065323/

(篠原修司さん)


はてな匿名ダイアリー
http://anond.hatelabo.jp/20161210001409

(おそらく本業の?ライターさん)


1円ライターから見た、キュレーションサイト「炎上」の現場
http://magazine-k.jp/2016/12/08/writing-for-curation-media/

(コグチスミカさん)




 これらの意見をさらりとまとめてみると、



■ 本業(高級)ライターから言いたいのは、「パクるな!コピるな」ということ

■ コピる作業は、ライターとは定義できない。


■ ライターとは、自力でネタを集めてきて処理して出力するまでの仕事である。

■ 書くという作業が介在しているだけで、コピペ・キュレーションとは定義が異なる。


■ 子育て一円ライターという職業の場によって救われている人たちもいるのではないか。

■ パクリメディアがあるから食いつなげている人もいる。



ということになるでしょうか。




 上の6行を読んだだけで、勘のいい人はすぐわかることがあると思いますが、それは、



「ライターとは何ぞや」という問題と、「貧者が食べていく」問題はまったく無関係の話である



ということでしょう。



 このことについてはヨシイエも完全に同意します。


 たとえば、古本屋さんという業種があって、そこで大量の中古物品が買い取りされたり販売されたりしているわけですが、街のゴミ捨て場から古本を拾ってきて売っている個人がいるとして、「わしこれで食べとりまんねん」と言われても、



 いや、ゴミ捨て場からまず勝手に取ってくるのはあかんやろ



という次元の話なので、貧者であったり子育てママであったりすることは言い訳にはなりません。





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 ヨシイエは、ふだんは世を忍ぶ仮の姿で会社員をしています。しかし、このブログをずっと読んでいる人にはもうバレていると思うので書きますが、


  その昔、高校で国語を教えていたプロだったりする


わけです。おまけに、「情報」という科目も教えていたので、コンピュータ業界にも一応は精通しています。


 あるいは、いちおうは小説家として、ほんの片足だけ生足を外にちらりと覗かせたこともあるので、


モノを書くとはどういうことか


については、それなりに理解している”はず”だったりします。


 
 そうした背景がある中で「ライターとはなんぞや」という原点に戻るならば、それはやはり



「ライターとは、自分の心のうちを表現する存在である」



ということが根幹になってくるのではないかと思います。



 それが純粋に創作的な心のうちであれば、作家という職業に寄ってゆくでしょうし、外界のありようを通じて「自分のそれに対する思い」を表出するのであればルポライターなどに寄ってゆくのだと思いますが、



「誰かに何かを伝えようとする、書き手の外に溢れる意思」



がなければ、ライターとは呼べないように感じます。(個人の感想です)





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 とすれば、 書くという作業を介在させたとしても、「自分の思いではない何かを書き写し、あるいは右から左へ受け流す作業」というのは、自分の意思のない



文字の奴隷



に他なりません。文字の奴隷になっているから、物理的にも報酬が少なく、こきつかわれることになるわけです。






 とまあ、ここまでは哲学であり、理想論です。



 しかしながら、この話には続きがあって、「いや、だが、まてよ。本来であればライターとはそうであるべきだが、


 食べていく
 

となると、話は別だ」


という第二ラウンドが待っているのです。



 職業としてモノを書くという作業は、自分の思いの表出とは異なる仕事です。 お金を貰って書くというのは、


「自分の思いを持っているクライアントの依頼で、アウトプットの作業を代行する」


という側面が出てきます。


 だから宣伝記事を書いたり、コピーを考えたりするわけですが、いくら代行作業とは言え


「思いを持っているクライアントの意図を汲み取り、聞き出し、変換し、確認して書き起こす」


という任務が待っていることを忘れてはいけません。



 出発点が「自分の思い」では無いだけで、やることは本質的には同じなのです。





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 ここまでくると、職業ライターとは何か、という定義までなんとか辿りつけたように思いますが、最後に今回のキュレーション炎上問題の本質をあぶり出してみたいと思います。



■ 1円ライターの方々は、職業ライターとしても実は用件を充たしていない任務をしていた。それは、「クライアントから、テーマにあった文章を書けとは言われたが、クライアントの”思い”の代行どころか、その”思い”なんてものが最初から存在しない案件であった」ということである。


 これが、第一段階です。


 1円ライターさんは、「依頼主の要望に答えよう」とはしています。ところが、普通であれば、クライアントは「こういう思いを代行してね」と頼むのが普通なのに、そこには最初から”思い”なんてものが無い依頼だったのです。






■ キュレーションメディアがさせようとしていたのは、「いいか君たち、ゴミ捨て場でもどこでもいいから、落ちている古本をとにかくたくさん拾ってきて、それを綺麗にして持ってくるんだ」という任務だった。


・・・わかりやすいようにたとえ話にしていますので、 「コピペされたネタ元記事をゴミ扱いしている」わけではないです。そこは誤解なきよう。あくまでもたとえ話です。


 ヨシイエの意図はそこではありませんので、あしからず。


 さて、第二段階です。1円ライターがさせられていた仕事は、古本集めです。それも集め方の指示があり、おまけに、どうすれば集めてきた古本が綺麗に出来るかまで指導していました。






■ キュレーションメディアは、大きな店舗で集めてきた古本を綺麗な体裁にして大々的に売り出した。外から見ると、「なんとかオフ」みたいに立派な店ではあったが、そこに並んでいた古本が入手された経緯は、すでに述べたようなものであった。



 これが最終形態です。このように出来上がった立派な店舗が、キュレーションサイトそのものだったというわけです。



 これで、全体像がわかりましたね。



 こういうのを見て、みなさんはすべてが腑に落ちたことと思います。



 ええ、これは「組織的窃盗団」以外の何モノでもありません。





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 さて、ここで1円ライター食べてゆく問題へと話を戻しましょう。キュレーションメディアという依頼者・クライアントが1円ライターにさせていた仕事は、


 ライティングでもなんでもなく、窃盗作業


だったことが、今明らかになったわけです。





 ヨシイエは上のたとえ話で、「書店から新しい本を盗んでこい」と言われた話ではなく、あえて「落ちている古本」「ゴミ捨て場の古本」という表現を使いました。


 重ねていいますが、コピペされた記事主さんの表現物を「ゴミ」とたとえているわけではなく、本当の意図はそこではありません。


「新書を本屋さんでパクってこい」


と言われれば、すべての1円ライターはさすがに「それはまずいやろ」とすぐに気付きます。



 ところが、「ゴミとして捨てられているものを拾ってきて」と指示されたのです。


 それが「引用」という作業です。



 「ゴミ捨て場から不要なものをもってゆくのなら、まあいいのかな」と思わせるのがミソなのです。

 「引用だから、まあいいのかな」と思わせるのがミソなのです。


  この微妙なラインをついてきた窃盗団の、いやらしさがわかるというものです。





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 1円ライターがやらされたことは、組織的窃盗団の巧妙な罠にかかっての仕事でした。


 貧者は往々にして、こうした話に知らず知らずのうちに乗せられ、ただのバイトだと思っていたらいつのまにか犯罪の片棒を担がされていた、ということが起きるのです。


 この記事をもしコグチスミカさんが読んだとしたら、何か感情が変化するかもしれません。


  
 みなさんは、どう思われたでしょうか?