2018年1月11日木曜日
■43歳の元教育関係者が考える「大学に行くべきか」論の決定版。
あまりおおっぴらには言っていませんが、吉家は「教育関係」の仕事を少ししていたことがあって、いわゆる大きな意味で
「ガッコウ」
と名のつくところで仕事をしていたことがあります。
なので、教育の重要性とか、大学の大事さなどはある程度理解しているつもりですが、その上で改めて考えてみたいことがあるのです。
それが「大学へ行くべきか」という大問題。
奇しくも先日、河相我聞さんが、年間700万円近くもの学費を投資するのは、ありなのかなしなのかについて、とても大切な問題提起をなさってくださいました。
この話題はニュース等でも議論になっているようです。
■ 42歳が大学受験を考えてブチ当たった2つの問題。
http://www.otousan-diary.com/entry/2018/01/11/113903
この記事の骨子は、ひとつは「大学には多大な学費を投資する価値があるのか」ということ、そして、もう一つは難関な大学からFラン大学まで幅広い大学が存在する中で「価値に見合う大学に入るには、どれだけの時間(等)コストがかかるか」ということでした。
ましてや河相さんは一般の受験生ではなく、42歳のおっさんであるため、その労力・コストとリターンについて真剣に考えるにふさわしい状況にある、とも言えるでしょう。
さて、同じような問題提起は、ネット界隈では有名なイケダハヤトさんよってもなされています。
■ え?この時代に「大学に入る意味」があると、本気で思ってるの……?
http://blogos.com/article/270110/
BLOGOSさんの記事のほうは、イケハヤ氏ならではの煽り口調で、好き嫌いがあると思うので、比較的穏やかに同じ話をしている
■ 今、大学に行く理由
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/5809
のほうが読みやすいかも。
==========
大学に行くということは、実は2つの意味を内包します。ひとつめは、
1)「大卒」という資格 学士という学業的身分を得ること
です。そして、もうひとつは、
2)より高等(であると思われる)教育内容を享受すること
という意味もあります。 この2つは本来別件なのですが、よく混同されるし、似た意味をもつことが多々あります。
そのため、この2つを巡っていろんな議論が起こることは、まず念頭に置いておいて損はないと思います。
たとえば、「大卒じゃないとダメな仕事や資格がある」なんて話は1に関することです。あるいは、「偏差値の高い大学が就職で優遇される」なんてのは2に関することです。
はたまた、「大卒のほうが給与が高い」なんてのは、1のようでもあり、その理由付けは2に相当する混在した話になります。
しかし、高卒でも稼ぐ人はいるし、技術が高い人はたくさんいるわけですから、2の内容は覆すことができます。ところが、技術が高くても、稼いでいても1は覆せない、という面もあるわけです。
だから話がごっちゃになってきます。
==========
さて、吉家が大学について感じていることがいくつかあります。これは個人的な視点です。
<1> 大学の教育内容は、ウィキペディアレベルで十分代替できる。
ウィキペディアの内容が正確かどうかはあまり問題ではありません。大学の教授の論説だって同等程度には正確でないこともありますから。
問題はそこではなく、すでに大学で学べる内容と同等のコンテンツは、ネット上にテキストや動画、画像などの形で溢れるほど提供されていることは事実です。
いわゆる学術論文も、ネット上で対価なく読めますから、大学に通う意味はほとんどありません。
<2> 知識は、すでにグーグル先生のほうが勝っている。なので知識量ではなく、運用法を学ぶべき。
知識をどれだけ覚えているかという視点では、もはや個人の脳よりもはるかに多くの出来事がネットワーク上に収容されていますから、自由自在に引き出しさえすれば、大学教育として個人個人の脳に収容させることは無意味です。
となると、大学でもし学べることがあるとすれば、「情報の組み立て方」「組み合わせ方」、そして「それらから新しいものを生み出す訓練」以外にありません。つまりは、人類の英知の運用法を学ぶことにだけ、高等教育の意味が生まれてくると言うことです。
<3> 大学の教育内容はプッシュ型であり、自ら学ぶのはデマンド型
しかし、自分で物事を学ぶには、ネット環境はまだまだ散逸的です。大学教育は、テーマごとに「パッケージ化」して情報をプッシュ型で提案してくれる、という意味では有益です。
自分でこのパッケージを組み立て、そして自律的に学ぶのはなかなか難しいことかもしれません。
逆に、有志が大学教育パッケージにまとめたネット上の情報をカテゴライズして与えてくれるなら、大学は本当に不用になるでしょう。
<4> 大学で学べる大きな素養は、リアルな人間関係における身のこなし方。
とすれば、大学で学ぶことができるのは、仮想的でない現実の課題ばかりです。肉体を動かすスポーツや音楽、友達づきあいや組織での動き方、異性との関わりなど、その期間に身につけるべき素養はたくさんあります。
しかし、大学へ行っても部活もせず、友達も恋人もできないままで卒業するなら、全くの無意味でしょう。知識オンリーではほぼ、社会では役立てることができないからです。学位だけが手元に残ります。
<5> 日本の大学は、すでに知恵ではなく「身分」を買いに行く場所。
つまり、大学は「なにがしかの身分」を得に行くためにあります。大卒の資格や、東大卒、早稲田卒といったラベリングによる「学歴身分」の場合もあるでしょう。
逆に言えば、大卒資格が必要な仕事に就かないFラン大学なら、行く意味はありません。
また、大学で買えるのは「身分」だけなので、身分に関係なく起業や投資で食べていける人材にも大学は不要です。
つまり、大学とは「そこで得られる大卒資格や、○○大卒というラベルを使って、会社員や公務員になろう」と思っている人にのみ有効な場所、とうことです。
逆説的ですが、こうしたことを望んでいる人は、たくさんいるため、そのたくさんの人には大学への進学は有効である、とも言えます。
☆例外ながら海外の大学へ行く場合はその意味付けがいろいろ異なります。
==========
こうした事実が、現実社会で何を引き起こしているかの論考がバズフィードにありました。
■ 「学歴」という最大の分断 ~大卒と高卒で違う世界が見えている~
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/gakureki-bundan?utm_term=.sqVdyvvA1#.ge4XJddxa
今の日本社会の様子がわかりやすくまとめられていますが、「なぜ階層の固定化」が起こるのか、「なぜ学歴の再生産」が起こるのか、はとても簡単なことなのです。
つまり、「大卒はお金で買える身分」だからです。そして、「大卒という身分が、給与や(経済的身分)を引き上げる」からに他なりません。
~~~~~~~~~~
さて、これだけ前提条件が出てきた上で、話をまとめます。
700万円(と4年の歳月)もの投資をして、そのリターンが得られるかという大バクチですが、「大卒とは身分である」という話を起点にすれば、おのずと答えは出るでしょう。
これは、「奨学金を借りてまで大学へ行くべきか」という投資課題とも同じテーマです。
河相我聞さんの場合は、その経歴からして、今後「大卒身分」が必要な仕事に就く確率はとても小さいと言えます。
「大卒でなくてもいい仕事」には転職する可能性はあるかもしれませんが、「大卒あるいは有名大ラベル」を使わなくても、生きていけるような気がします。
もし、投資効率を最大にしたいなら「通信制大学へ行って大卒身分だけを得る」のがお勧めです。
逆に「河相我聞があの○○大を出た!」という仕事上のネタとして使いたい意識を持つなら、せめてMARCHクラスの大学を卒業する必要があるでしょう。
(京大を出てロザン宇治原さんになることは、カブリますから不要です)
奨学金問題も同じです。500万円近い奨学金を借りて大学へ行くわけですから、それなりのリターンのある大学を選ぶべきです。どこでもいいというわけではありません。
どこでもいいのなら、数十万円で通信制大学を選ぶべきだからです。
2018年1月8日月曜日
マンガ家アシスタント残業問題の本質 ~師弟モデルの崩壊が示すもの~
マンガ家のアシスタントが「残業代を請求する」というお話があちこちで炎上、盛り上がりを見せているようで。
【炎上】人気漫画家うすた京介先生が炎上 / アシスタント残業代未払い騒動で飛び火「嫌なら就職しなさい」発言
http://buzz-plus.com/article/2018/01/08/usuta-kyosuke-ashi/
アシスタント側や、マンガ家側、それぞれの意見がけっこうガチンコ本音で飛び出していて、大変興味深いなあと思いながら見ています。
もちろん、私は漫画業界に詳しいわけではないので、「どうあるべきか」「どうあるのが正解か」については、その業界の人たちのこれからの議論にある程度お任せになってしまうのですが、この話と本質的には同じようなことが、いま日本中で起きている件にかなり関心を持っています。
たとえば、学校の先生と生徒の立場がずいぶん変容してきたり、教師の部活動(これも残業がらみ)が問題になったり、あるいは、企業で新人の扱い方に悩みが増えたり、とすべてこれらは関連して同じ事象を指し示しているのです。
それは、日本人を長年支配してきた
「師弟モデル」
が、いよいよ崩壊したのだ、という点です。
マンガ家のアシスタントが、薄給もしくはブラックな条件で雇用されてきたのには、マンガ家という「師匠」とアシスタントという「弟子」の関係というニュアンス・側面があったため
■ 経験を積ませてもらえるのだから、多少の恩返し分が労働に上乗せされても仕方がない
という感覚が双方に残っていたと言えるでしょう。
学校現場には、いまだに、教師と生徒の双方に少しだけ「師弟関係モデル」が存在していて、それがうまく機能していると「よき経験、よき体験」として持ち上げられるものの、逆に一旦こじれると「強権的、支配的、あるいは体罰」などの形でネガティブに問題が噴出するということが起きています。
企業における先輩と新入社員、あるいは上司と部下の関係もずいぶんと変容してきました。昔であればある程度「上のものに服従し、従属する」ことが双方の合意でしたが、現代は新人さんが入ってくれば入ってくるほど「個人が成長するためのサポートとして上のものはふるまうべき」な感覚が増えているように思います。
つまり、「上のものが、下のものを教え導き、下のものが上のものに従属する」という師弟モデルは、いよいよ崩壊したということです。
==========
師弟モデルが無くなった今、存在しているのはどんなモデルなのでしょう。それは、「個人モデル」とも言うべき形態です。
しかし、ただ個人がぽつんとそこにいるだけでは、関係性も生まれず、仕事も遂行できないので、より正確には、
「個人・活動(労働)モデル」
のような言い方のほうがわかりやすいかもしれません。
これまでの「師と弟」「先生と生徒」「上司と部下」「先輩と後輩」を因数分解すると、これらの関係性は、
「知識技能を販売する者と知識技能を買い取る者」
という形に変化させることができるかもしれません。
たとえば、教師は知識技能を販売し、対価として給与を得ます。生徒は知識技能を買い取り、対価として授業料を払います。
漫画家であれば、「アシスタントが技能の一部を販売する」わけですから、漫画家はそれを買い取るわけですね。これなら、アシスタントたちは文句を言わないでしょう。
ところが、このモデルを立案すると、困ったことがいくつか起きてきます。勘のするどい方ならこの矛盾というか、問題点はすぐに気付くと思います。
問題点1は、「そうなると、誰かが未熟な者を育成するという視点が消えてしまう」ということです。
問題点2は、「直接雇用関係がある者どうしはよいが、間接的な関係ではあやふやになる」ということです。
師弟関係というのは、そもそもが「未熟なものの育成」が目的ですから、 知識や技能を販売し、買い取るには「すでに技能に習熟している」ことが必須です。すると、未熟なものは、いつまで経っても買い取れないわけで、今まではそこにつけこんで
「未熟であるからブラックな条件や安価で買い叩くことができた」
とも言えるわけですね。
これを解決するために生まれてきたのが、たとえばマンガであれば「漫画家を育成する各種学校やマンガ学科のある大学など」です。
こうした機関を介在させれば、未熟であることは金銭による教育で解決できることになる、という仕組みです。
マンガ学校の教師はたしかに師ではありますが、その学生はお金を払って学んでいるため、従属する必要はありません。そこでどんな活動をしても、マンガ教師のために労働するということは、基本的には起きないようにすることが可能です。
しかし、もし全ての未熟マンガ家志望者が、学校を通して「ある程度完成された状態で市場に放出される」とすれば、何が起きるでしょうか。マンガ家アシスタントは、基本的には「プロとしての傭兵」であるわけですが、技量は論理的にはマンガ家と同等ですから、
「ライバルを一時的に雇用している」
という状態になることは予想されます。
==========
この「ライバル状態」を内在しているのが、問題点2の「雇用者と被雇用者以外の関係性」についてです。
上司と部下、先輩と後輩は、たしかに企業において「仕事の指南役と新人」という関係を生み出します。あるいは、部下を育成するのは上司の務めであるとも一般的には思われているでしょう。
しかし、それらは「上司や先輩の立場が安全であれば、成立するが、もしのちにライバルになるのであれば、成立しない」という問題をはらんでいるのです。
年功序列で、雇用が守られている場合、上司は部下に仕事を教えることで自分の仕事が楽になるため利益を得ますが、雇用がフリーに近づけば近づくほど、「上司や先輩が部下に仕事を教えることで自分の利益になることが減少する」ので、この関係性は成立しなくなります。下手すると、同じ仕事ができるなら「取って代わられる」可能性もあるのですから。
==========
こうしたことから、師弟モデルが崩れると、何が起きるかは明白です。
まず、未熟なものが「学ぶ」ということについては、
非金銭的見返りによって、それを対価に指導を請うことができなくなり、金銭的対価を払って知識や技能を得る
ということになります。そして、ある程度技量を持ってから、市場に出て行くということが生じるでしょう。
そして、市場では常にイス取りゲームのように技量を持つもの同士が仕事を奪い合うので、さながら戦国時代のような事態が増えることになります。
これは個人事業においても、企業の内外においてもそうなります。
とすれば、各人はさながら、戦国武将のように、時には仲間になったり、時には家臣となったり、あるいは時に裏切ったりしながら、自己の生き残りを遂行するわけですから、「個人・活動モデル」とは、つまり
「戦国武将モデル」
であるということになるわけです。
ところが、戦国時代と違うのは、戦国時代であれば、自分が戦功を上げていく過程で「非金銭的見返り」を用いて主君に見立てたものに従うことが出来た
(秀吉は草履を温め、三成は絶妙にお茶を出した、など)
のに対して、現代ではそれが忌み嫌われるのですから
「そもそも金銭的に有利なものが有利」
になってゆきます。経済的弱者が、非金銭的見返りというウラワザを使わないで、この戦いに望むのが、以下に不利な展開か、想像に難くありません。
おそらくもうすでにそうした社会が構築されつつあるわけですが、そうなると、その社会で一番被害をこうむるのは、
「未熟で一人立ちできない、金銭的にも仕事も持っていない者たち」
ということになるでしょう。残念で冷酷ですが、マンガ家のアシスタントで食べており、自分でデビューできない者は、おそらく滅びてゆくことになります。
一方で、金銭的余裕がある者同士は、一定の技量を切り売りすることもできるようになるかもしれません。
すでにプロ同士のマンガ家が、高い給与を融通しあって、傭兵として技術だけを売りあうことが起きる可能性もあります。
戦国武将、藤堂高虎なんかは、まさにそういう傭兵的な生き方もしていたわけですが、参考になる部分が多いことでしょう。
2017年12月26日火曜日
ビットコインはなぜ儲かるのか ~ギャンブルで勝つ秘密を解明する~
バブルだバブルだといわれ続けているビットコイン界隈ですが、つい直近大きく値を下げたり(あるいはまた戻したり)して、一喜一憂の狂乱状態をかもし出している今日この頃です(^^
日銀の黒田総裁が、「ビットコインは投機的」なんて発言をして、そのせいもあって
なんだ、結局はギャンブルなんじゃないか!
と思う人もいるでしょうし、あるいは
そんなに儲かるから、俺もやってみようかな?
なんて下心を出す人もいることでしょう。
さて、そんな多くの人の思惑を乗せて乱高下しているビットコインですが、吉家さんから言わせると、
「ギャンブルで何が悪いんじゃい!大当たりもすれば大はずれもするかもしれないが、それがどうしたんじゃい!」
という気持ちもあります。 私個人は、素人さんにはオススメしないものの、このビットコインバブルには、
”儲かる要素、それがギャンブルであったとしても勝てる要素”
が詰まっていると考えるからです。
というわけで、今日は、BITCOINでなぜ儲かるのか、という論理的な説明をしてみたいと思います。
==========
まず、ギャンブルというのは、「偶発的な確率によって、もたらされる利益(結果)が投資額よりも上がったり下がったりするもの」です。
そして、そこにはいくつかの公式が存在していて、最も重要な第一の公式は、
1)「開かれる賭場の総和(総合計)は閉じている」
ということが挙げられます。簡単に言い直せば、みんなが100円ずつ出し合ってギャンブルをする場合、10人いれば総合計は100×10で1000円であり、もたらされる結果は、「1000円を超えることはない=閉じている」ということを意味します。
総和が1000円の賭場があって、誰かがボロ勝ちしても1200円もらえたりはしない、ということが基本中の基本です。
そして、閉じた場における第二の法則は、
2)掛け金と掛け率の因果は数学的に決まっている
ということが挙げられるでしょう。
この場合の確率論は、「2倍の掛け金がもらえる場合の勝率は2分の1である」と明確に決まってきます。「4倍の掛け金がもらえる勝率は4分の1」でもいいし、わかりやすいのはルーレットの目ですが、
「勝率と配当金の因果関係は常に一定の法則の下にある」
と言い換えることができます。
さて、賭場の場合は3つめの法則があって、それは
3)元締めはかならず手数料・ショバ代を最初に差っぴく
というものです。 なので、博打プレーヤーたちの掛け金の総和からは、あらかじめ胴元の手数料が引かれるため、リターンは100%にならないのです。
==========
多くのギャンブルはこの「総和-{ショバ代+(プレイヤーたちの勝率&リターン)}」という公式に基づいていますので、FXもパチンコもカジノも、宝くじですら、最終的には「拠出したお金たちの総和」の内部にあると言ってよいでしょう。
ところが、ビットコインも、「現金などをビットコインに変えた参加者たちの拠出金の総和」で成立していることは同じなのですが、通常のギャンブルとは違って、そこには
もしかすると儲かるかもしれない要素
が隠れています。
というのも、少し前から「必ず競馬で利益を上げるAさん」の掛け金が経費になるかどうかというネタが最高裁までいくほど議論されていましたが、
競馬は論理的に必ず儲けることができる
ことがわかってきたわけです。
それはなぜか?
本来であれば、ギャンブルというのは完璧に数学的な確率論ですから、第二の法則によりどの馬が勝ち馬になっても「胴元は必ず儲けるし、総掛け金は閉じているし、参加者たちの間で分配する」ことには変わりないのだけれども、その分配の方式が、ルーレットや機械・電子式パチンコと比較して、人間の考えるオッズと、数学的確率の間にズレが生じていることは意外に気づかれていません。
↑ここが、めちゃくちゃミソなのです。
一体どういうことでしょう。
馬たちが走ってどの確率で順位が決まるかは、数学的に計算することが可能です。仮に6頭が同時に走るとして、Aの馬が一位になる確率は、単純には6分の一です。
しかし、人間同士が走っても「一般人とボルトが競争したら、まあほとんどボルトが勝つだろう」と推測できるように、単純確率とはズレるパラメータが存在することもすぐにわかるでしょう。
ですが、「カールルイスとウサインボルトならどうか」「ベンジョンソンとボルトならどうか」となると、だんだん話が怪しくなってきますね。
これらも、本来ならそれぞれの体力や、筋力やその日の調子をパラメータとして設定して、数学的な勝利の計算する事ができるでしょう。
ところが、実際に人間が「ルイスとボルトとジョンソンの誰に賭けるかというオッズは、数学的パラメータがはじき出した、より理想的な確率オッズとはズレる」のです。
ここにズレが生じるので、このズレこそが、
「数学的に掛け金と賭ける相手を分配したのなら、勝率は常に一定で胴元に取られる分だけ儲からない」事態に対して「胴元が差っぴいた分を勘案しても、数学的勝率と人間のオッズとの間にズレがあるので、その分だけ儲かるチャンスがある」
ということになるわけです。
競馬で儲けていた人は、このズレとスキマを、多くの馬券を分散して計算どおりに買うことによって、「ズレの部分を際立たせる」ことに成功していた、ということなのです。
==========
さて、ビットコインには「信用に裏打ちされた基準となる価格が存在しない」と言うことができます。
金本位制では金の価格という基準があって、通貨はそれに対して価値を上下させていたわけですが、現在の国家が運営する通貨も
「いきなり明日国が破綻したり、10分後に国が生まれたりはしない」
という安定性を基準にしながら価値を上下させています。株式も、「いきなり社長が株価の半分を博打に突っ込んだりしない」という信用によって、安定的に運用されているわけでもあります。
☆時たま、自分の所有する金の大半を博打に突っ込む経営者がいますが、それはまた別のお話。
ということは、通貨や株の上下は、そのデータを詳細に取ってゆくと、最終的には数学的勝率へと近づいてゆく可能性が高いということでもあるでしょう。
数学的勝率が存在するなら、そのギャンブルは「ギャンブル必勝法」といわれる「マーチンゲール法」に近くなるということかもしれません。
マーチンゲール法とは、「勝つまで倍賭けする」ということです。マーチンゲール法は、最後に勝つ、というところが強調されるので必勝法のように見えますが、これは実は、
「負けても数学的に値戻しができる」
ということでもあり、どのように確率が元の値(フラット)に戻るかをシュミレートしているとも言えるでしょう。
しかし、ビットコインの場合は、
1)数学的勝率を算出する基準というものがそもそもない。
2)つまり、人間の印象だけで価値が変わるという「ズレ」そのもので出来ている。
3)胴元が存在しない。手数料は無視できるほど小さい。
という特徴があるので、
爆発的に理由なく儲けることができる
ということになるのです。 だから、仮にギャンブル投機であったとしても、理論的に正確なギャンブルよりも儲けられる率が高いと言えるでしょう。
ですが、最後に言っておきますが、ビットコインの価値は
「もっとも数学的に信用ならない人間の印象のズレの集積体」
であるため、 その価値が、最終的に
ぜんぶすっきりすっかり夢のようなものであった
ということは起こりえます。
理由なくすべてを失う可能性もあるビットコイン、これぞまさにギャンブルの中のギャンブルと言ってよいかもしれません(苦笑)
2017年12月7日木曜日
【学校をめぐる諸問題08】 子供たちからのSOSをどう受け止めるべきか
高校生の頭髪をめぐる議論に対して、いろんな感想を抱いている人がいます。
今日、ネットで上がっていたのは教育ジャーナリストを仕事にしておられるとある方の記事でした。
大変興味深いので紹介したいと思います。
高校生の頭髪をめぐる議論 ~過度な自己アピールはSOSかもしれない~
https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20171207-00079011/
詳しいことはリンク先を読んでください。私はこの方の意見に100%賛同し、そして彼の意見に100%賛同しないのですが、そのあたりの意味不明さはおいおい判明してくることでしょう(笑)
ちなみに、結論はともかく全体のテイストとしては「大事なポイント」を意外にしっかり押さえた記事なので、理解しやすいと思います。
いつものように骨子をまとめます。
■ 地毛指導や、黒髪に染めろという指導は人権侵害の要素がある。
■ 強制やおしつけの指導はナンセンスと感じる大人が多く、「効果がない」とする教育者もいる。
■ 一方、服装やルールの指導は、社会に出るうえでも必須であると考える人も多数いる。
まあ、このあたりまではわかりやすい話です。このまとめは、いろんなところでもよく出てきます。
さて、彼の記事で面白かったのは、この問題を「内発的変容」と「外圧的指導」の側面から見ようとしたところです。
つまり
A 自分の力で変わろう、正そうとする生徒が存在します
B 教師の強制力で変わらせようとする学校が存在します
という2つの視座を提案したところですね。たいへん興味深い。
そこで彼はひとつの例を提示して、
「進学校の生徒は、自由にさせてもむやみに茶髪にしたりせず、まあ節度を持っている」
という事実を立てて来ます。これも一般的によく知られている事実です。
そして、
「進学校でない生徒がわざと茶髪にしてくるのは、自己肯定感が低くて、押さえつけられていることへの反発やSOSを発しているからだ」
と、論を進めるわけです。
============
最初の時点で、ワタクシ吉家は、このおおたさんの論を100%肯定すると言いました。
はい、そうです。
「子供たちはSOSを発しているから茶髪にしたり、服装を乱すのだ」
それは100%その通り。まさしくそうです。その昔、尾崎豊が自分で言っているように、大人たちに歯向かって盗んだバイクで走り出すんです。けしてもともと窃盗が好きなわけではない。そこよ。
そして、なおかつ、そうしたSOSを発し、問題を抱えている生徒が
「内発的、自発的な力によって自分を正すことができるのが理想的である」
とおおたさんは考えているようなので、それも100%激しく同意します。
==========
と、ここまではとりあえずOKとしましょう。
そのあと記事はこういう展開を迎えます。
「できうるならば、彼らのSOSに耳を傾け、現実的にはリソースが少ない学校でそれを実現するのは難しいけれど、学校の中くらいは理想を語り、こどもたちに寄り添うべきだ」
というお話になるわけです。
これはちなみに、
国家の運営がうまくいかず、SOSをたくさん発射して日本海に落としている某国家があったりするけど、理想は国家の運営がそれぞれの民族で自立的、内発的になされるべきなので、理想の国家像を先進国は語りつづけようね
と言っていることとほぼ一緒なので、 (先進国は、他国の経済的排他水域にモノを発射して落としたりはしないぐらい、自律的です) 私は100%賛同しかねるのですが、それはまた別のお話。
==========
この記事でいう理想論が実効的でないのは、仮に学校の中で理想論を立てて接したとしても、すでに子供たちの父親や母親が文化的にであったり経済的に「理想的生活を送れていないから、子供たちにもそうした影響が及んでいる」のに、何を持って理想とするのか、という点が抜け落ちているからです。
SOSを発している。それは100%その通り。
しかしそのSOSの元になっているトラブルの原因がなにかということを問えば、それは、実は学校の中の問題ではなく、生徒たちが置かれている社会状況と家庭状況の中に原因があるのに、その解決に関わることができない学校の教員が、何をもって理想を語ろうというのか!ということになるわけです。
「じゃあ、あんた、うちのお父さんがリストラされて貧しい今の状況を理想的にどう変えてくれんの」
「じゃあ、あんた、うちのおかんが男つくって出て行って姉妹二人で生活してるの、どう理想的な生活にしてくれんの」
ということに答えられない者が、理想を語ってはいけない、っちゅうことです。
学校の教師は、SOSの原因が自分についてのことであれば、なんぼでも対応できます。
しかし、現実に何が起きているかというと「教師が解決できない問題を生徒が抱えていて、それをSOSとして発している」事態が毎日毎分毎秒、日本中で起きているということなのです。
では、教師が生徒の家庭環境や貧困や、親の無理解や社会情勢などに解決策をもてないのだとすれば、何を提供することができるのでしょうか?
それは、そうした現実社会の中で、「それでもあなたに不利益がなるべく少ない方法を伝授して、自力で渡っていく技術」を伝達すること以外ありません。
それが
「他人はみかけで人を判断するから、適切な服装や態度を有することが、逆境のあなたでも大きな助けになるんだよ」
「どこの組織に属しても、挨拶をしっかりできる人間は重宝されるから、そうしたことを大事にしたほうが損をしないよ」
「ルールを逸脱するものは排除されることが多いので、ルールに従ったほうが結果的に生きやすいよ」
という、生きる技術を教えるということなのです。
けして「学校のいうことを聞け。俺の指導に従え」ではありません。
もちろん、上記の内容をきちんと伝達している教師もいれば、うまくそれが伝わっていない教師もいるでしょう。
そして、「そんな大人の世界がいやなら、選挙へいけ!」と教えるべきなのです。
「そんな大人を変えたいなら、『踊る大走査線』を見て室井さんになれ!」と!
そこであなたが茶髪にしていても、大人たちは変わりません。変えるなら、トップを取らねばならないのです。
2017年12月1日金曜日
【学校をめぐる諸問題07】 なぜこの世界は生きづらいのか ~黒髪と校則とリクルートスーツから~
現代ビジネスの記事に面白いものがあったので紹介します。
日本人の「心情」はすでに大震災前に戻ったのかもしれない
~なぜこの社会は生きづらいのか~
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53629
精神科医の堀さんという方の記事なのですが、やや話が難解な書き方なのでわかりにくいと感じられるかもしれませんが大変に興味深い話をしておられます。
簡単に骨子を書くとこんな感じ。
■ 日本人は、ルールを作って運用する人間関係は苦手。
■ 日本人は、身分や上下を明確にしたがり、それが明らかだと意外と従順に従う。
■ 一般には封建的な考え方や、身分的な考え方は悪で、民主主義や平等は善だと考えられている。
■ しかし、日本人は、建前上(オモテ)は民主主義や平等を口にするが、本音(ウラ)では権威主義で封建的な生き方をしている。
■ 一般論から離れて考えると、権威や身分は単純な悪ではない。メリットもある。
■ 一般論から離れて考えると、民主主義や平等にもデメリットがある。
いわゆる「本音と建前」のように、物事にはオモテウラがあるので、よけいに日本人として生きる中ではわかりにくい、ややこしいものとなっているのですが、それが日本的生きづらさの原因となっているのではないか、という話でした。
==========
堀さんが例として挙げているのは、
『 平等的な思想を主眼とした取り組みをしたら、一見すると結果が上がった。しかし、平等を重んずるあまりに権威や身分を否定し始めると、チームや組織が崩壊した』
という医療現場の実態がありました。
彼の言い方を借りれば、「権威的なもの」が旧来からあったけれど、近年は「反権威的なもの」も力を伸ばしてきて、それらが矛盾するから生きづらさが生まれている、というわけです。
特に、今の若者はその2つの間で板ばさみになっているから、「立ち去るか引きこもるかしかない」というわけで。
==========
この堀さん的視点で、たとえば校則や黒髪強要について考えると、現代の日本人が抱えている問題点がわかりやすくなってきます。
とある高校生が地毛なのに黒髪を強要された、という訴えから先日「校則とはどうあるべきか」という議論が沸きましたが、結論から言えばとても簡単な図式です。
「表向きは、個性は大事であるとか、人権が大事であるということになっているが、実際にはその学校の周辺の住民や、企業の採用者は、『個性的な茶髪はいらない』とか『服装の乱れたものは見下そう』と考えているから、それを知っている学校・教師としては校則や規則でしめつけなくてはいけない」
ということが起きているわけです。いわば学校は、世間に対して忖度しているわけですが、これを強制するから権威主義的であり、封建的に見えてしまうということが起きるわけです。
ところが、まったく同じことを大学3年生~4年生になると、今度は生徒自身が、世間に忖度して「茶髪でも黒髪に戻したり、みんなが没個性的なリクルートスーツを選ぶ」ことをやりはじめます。
結果としてはおなじ行為を行うのだけれど、この文章の最初のほうに述べたように
権威主義的で封建的なものは悪だよね
ということになっているので、学校は悪者にしやすいわけですね。
もちろん、学校からすれば、それならほったらかしにして好きにすればいい、と思っているわけですが、実態は「服装や髪を自律的に忖度して世間さまに合わせられる能力がある」生徒と「そんな器用なことはできない」生徒がいるわけで、そのために
偏差値の高い高校の生徒は制服も校則も比較的自由(忖度できるから)
偏差値の低い高校の生徒ほど、世間の目を代弁する教師によって締め上げられる
ことが現実に起きているわけです。
==========
これらは日本的社会のある意味最大の特徴なので、治りません。だから、そのしくみを理解して世渡りするものだけが最終的に得をします。
学校の教師たちは、基本的には生徒に損をさせたくないので、最大公約数的に没個性で従順な人間を育てようとするわけです。
もちろん、中には突然変異的に、個性的かつ高能力な者がいるかもしれませんが、学校側からすればそうした能力の高い人間は、偏差値教育の中で上位に選別されてそういう学校に行っている確率が高いので、これまた最大公約数的に、没個性な指導をすれば結果的に数学的には正解になるわけです。
もし、本当に民主的で平等なルールを制定したいなら
20歳までは法的に責任を持たされるべき
「PTA(保護者)に校則を作らせる」
のが一番です。
まあ、そうすると、子供たちが損をしないように、という意味では最も強力で制限的な校則が出来上がることになるわけですが(笑)
あるいは、仮に自由な校則が出来て、生徒達が将来損をしても、それは保護者の責任ということでいいのではないでしょうか。
可哀想なのは、何にも知らずに「自由と平等は正しい」と思いながら世間へ出てゆく子供たちですね。
2017年11月25日土曜日
■「仕事ができない人をみんなクビにしたら会社はどうなるか」がめちゃくちゃ納得できる件
自分自身が「仕事ができるタイプ」なのか、それとも「仕事ができないタイプ」なのかは、自分では意外にわからなかったりするものですが、客観的に業界を眺めていると、
「ああ、まあこれくらいなら標準よりはできているのではないか」
と、なんとなく思う今日この頃です。ええ、今期から取締役に昇格するそうです。
取締役とは言っても、いわゆる「失業保険がもらえないほうの取締役」ではなく、「失業保険がもらえるほうの取締役」なので、まあ従業員であることには変わりませんが。
さて、そんな個人的なことはどうでもいいのですが、かなり面白い記事があったのでご紹介。
「仕事ができない人を全員クビにした会社で起きた驚きの結果
https://www.sinkan.jp/news/8176
記事は、新刊JPさんからですが、これはテレビでもけっこうCMやってたりしておなじみの Netflix 社で実際にあったことなのだそうです。
仕事ができない人を解雇して、できるヤツだけにしたら業績はどうなるのか
という疑問は、なかなか興味深いものがありますが、たとえば働きアリさんなんかでは、
「何割かはいつもぜったいサボっている」
なんて観察結果もあるそうなので、ちょっと斜めから捉えると
「えー、絶対にそんなの会社としてはうまく行かないんじゃない?」
という予想になりますね。
さて、そんな予想に反して
「仕事ができないやつをクビにしたら、業績は伸びた」
のが正解なのだとか!!!
うわー、世知辛いなあとか、つい思ってしまいますが、よくよく考えてもう一周回って考え直したら、
これって、至極当たり前のことなのでは?
と管理職のヨシイエは思うわけで。
感情論としての「クビ論」としてみるから「うわーきっつう!たまらんなあ」と感じたり、「ふっ、できないヤツは蹴落とせばいいのだ」とかいろいろ感じるわけで、実は誠実かつ論理的に言い換えれば、以下のような話になるだけなのですね。
<言い換え例>
「成果のいいメンバー(レギュラー)だけを集めて、一軍を作ったら、試合に勝った」
「成績のいい社員の成績を集めたら、結果はめっちゃ良かった」
「成績のいい学生が、偏差値の高い大学に入ったら、成績の悪い生徒はそこにはいなかった」
・・・・・・あたりまえ♪ あたりまえ♪ 当たり前体操。
==========
ということは、クビだの仕事ができないだの、人格否定を想起させる文言や仕打ちと連動するから、話がいやな感じになるだけで、これは明確な事実なんだと思います。
その会社のミッションやビジョンが明確で、求められている動きもはっきりしているのなら、こりゃもう1軍選抜、偏差値選抜をすれば、明白に結果もそうなるというだけです。
そりゃあ、その会社が、社会奉仕活動的側面が強い業務内容をしているのなら、仕事ができないけれど笑顔が優しい人がいてもいいでしょうが、一寸の狂いもない部品を最速で作ることがミッションな会社には、へらへら笑っているだけの人は「不要」なのは、どうにも仕方がない。
ましてや、それが人命に関わるようなシビアな部品だったりしたら、そこで求められる成果は、「人間性ではなく精度」だと言われてもぐうの音もでないわけで。
まあ、そんなこんなで当たりまえのことなので、私もなおいっそう一生懸命成果のある仕事をせねばならんなあ、と感じましたとさ。まる。
2017年11月20日月曜日
<吉家流儲かる起業塾19> 相変わらず攻めの姿勢のココナラが凄い ~バナー広告の威力で儲かる?!~
不肖ヨシイエがココナラでの売上を晒すコーナーを不定期に開催しているわけですが、2017年秋現在でどれくらいかというと
どん! 累計金額が約13万というところまで来ました。
これだけで食べていけるほどではありませんが、金利利子よりかははるかに高い副収入なので、まあよしとしましょう。
儲かってるかって?
もともと元手も在庫も要らないので、純粋にもらえるものはいただいておきましょうということで(^^
さて、このココナラさん。
https://coconala.com/ (公式)
わたしはこの会社の回し者ではないですが、なかなか攻めの姿勢がすごくて毎回驚いています。
前回も、ココナラがバナー広告代行をやってくれてる件でそのオドロキを書いたわけですが、
<吉家流儲かる起業塾11> ココナラのバナー広告がすごい! 無料であなたをCMしてくれる方法
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2016/07/blog-post.htmlなんかもう、どこかのページにバナーが出るよ、という話ではなく。
わかります? ココって書いてある箇所。
この写真は、ヤフーのページなんですが、ニュースページのアクセスランキングの下部とか、いわゆるトップページ相当の箇所に、ズバズバCMが入り込んでくるというしかけなのです。
(該当部分は、モザイク処理しています)
こうなると、誰か第三者のブログにバナーCMとして広告が入るよりも、はるかに高確率で目に留まる場所になるので、サービス出品者としては
「通常、ここに自分の広告出したら、ナンボ払わなあかんねん!」
ということを考えたら驚愕!なのですね。
ココナラサービスの利用者は、自腹を切らずにあんなとこに広告を挿入してもらえるわけですから、これはオトク以外の何ものでもありません。
coconala ココナラが起業のトレーニングに最適な10の理由
https://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/04/coconala.htmlというのも昔書きましたが、ほんとにココナラは起業の練習にピッタリなので、やってみ?
登録:
投稿 (Atom)