2018年1月11日木曜日
■43歳の元教育関係者が考える「大学に行くべきか」論の決定版。
あまりおおっぴらには言っていませんが、吉家は「教育関係」の仕事を少ししていたことがあって、いわゆる大きな意味で
「ガッコウ」
と名のつくところで仕事をしていたことがあります。
なので、教育の重要性とか、大学の大事さなどはある程度理解しているつもりですが、その上で改めて考えてみたいことがあるのです。
それが「大学へ行くべきか」という大問題。
奇しくも先日、河相我聞さんが、年間700万円近くもの学費を投資するのは、ありなのかなしなのかについて、とても大切な問題提起をなさってくださいました。
この話題はニュース等でも議論になっているようです。
■ 42歳が大学受験を考えてブチ当たった2つの問題。
http://www.otousan-diary.com/entry/2018/01/11/113903
この記事の骨子は、ひとつは「大学には多大な学費を投資する価値があるのか」ということ、そして、もう一つは難関な大学からFラン大学まで幅広い大学が存在する中で「価値に見合う大学に入るには、どれだけの時間(等)コストがかかるか」ということでした。
ましてや河相さんは一般の受験生ではなく、42歳のおっさんであるため、その労力・コストとリターンについて真剣に考えるにふさわしい状況にある、とも言えるでしょう。
さて、同じような問題提起は、ネット界隈では有名なイケダハヤトさんよってもなされています。
■ え?この時代に「大学に入る意味」があると、本気で思ってるの……?
http://blogos.com/article/270110/
BLOGOSさんの記事のほうは、イケハヤ氏ならではの煽り口調で、好き嫌いがあると思うので、比較的穏やかに同じ話をしている
■ 今、大学に行く理由
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/5809
のほうが読みやすいかも。
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大学に行くということは、実は2つの意味を内包します。ひとつめは、
1)「大卒」という資格 学士という学業的身分を得ること
です。そして、もうひとつは、
2)より高等(であると思われる)教育内容を享受すること
という意味もあります。 この2つは本来別件なのですが、よく混同されるし、似た意味をもつことが多々あります。
そのため、この2つを巡っていろんな議論が起こることは、まず念頭に置いておいて損はないと思います。
たとえば、「大卒じゃないとダメな仕事や資格がある」なんて話は1に関することです。あるいは、「偏差値の高い大学が就職で優遇される」なんてのは2に関することです。
はたまた、「大卒のほうが給与が高い」なんてのは、1のようでもあり、その理由付けは2に相当する混在した話になります。
しかし、高卒でも稼ぐ人はいるし、技術が高い人はたくさんいるわけですから、2の内容は覆すことができます。ところが、技術が高くても、稼いでいても1は覆せない、という面もあるわけです。
だから話がごっちゃになってきます。
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さて、吉家が大学について感じていることがいくつかあります。これは個人的な視点です。
<1> 大学の教育内容は、ウィキペディアレベルで十分代替できる。
ウィキペディアの内容が正確かどうかはあまり問題ではありません。大学の教授の論説だって同等程度には正確でないこともありますから。
問題はそこではなく、すでに大学で学べる内容と同等のコンテンツは、ネット上にテキストや動画、画像などの形で溢れるほど提供されていることは事実です。
いわゆる学術論文も、ネット上で対価なく読めますから、大学に通う意味はほとんどありません。
<2> 知識は、すでにグーグル先生のほうが勝っている。なので知識量ではなく、運用法を学ぶべき。
知識をどれだけ覚えているかという視点では、もはや個人の脳よりもはるかに多くの出来事がネットワーク上に収容されていますから、自由自在に引き出しさえすれば、大学教育として個人個人の脳に収容させることは無意味です。
となると、大学でもし学べることがあるとすれば、「情報の組み立て方」「組み合わせ方」、そして「それらから新しいものを生み出す訓練」以外にありません。つまりは、人類の英知の運用法を学ぶことにだけ、高等教育の意味が生まれてくると言うことです。
<3> 大学の教育内容はプッシュ型であり、自ら学ぶのはデマンド型
しかし、自分で物事を学ぶには、ネット環境はまだまだ散逸的です。大学教育は、テーマごとに「パッケージ化」して情報をプッシュ型で提案してくれる、という意味では有益です。
自分でこのパッケージを組み立て、そして自律的に学ぶのはなかなか難しいことかもしれません。
逆に、有志が大学教育パッケージにまとめたネット上の情報をカテゴライズして与えてくれるなら、大学は本当に不用になるでしょう。
<4> 大学で学べる大きな素養は、リアルな人間関係における身のこなし方。
とすれば、大学で学ぶことができるのは、仮想的でない現実の課題ばかりです。肉体を動かすスポーツや音楽、友達づきあいや組織での動き方、異性との関わりなど、その期間に身につけるべき素養はたくさんあります。
しかし、大学へ行っても部活もせず、友達も恋人もできないままで卒業するなら、全くの無意味でしょう。知識オンリーではほぼ、社会では役立てることができないからです。学位だけが手元に残ります。
<5> 日本の大学は、すでに知恵ではなく「身分」を買いに行く場所。
つまり、大学は「なにがしかの身分」を得に行くためにあります。大卒の資格や、東大卒、早稲田卒といったラベリングによる「学歴身分」の場合もあるでしょう。
逆に言えば、大卒資格が必要な仕事に就かないFラン大学なら、行く意味はありません。
また、大学で買えるのは「身分」だけなので、身分に関係なく起業や投資で食べていける人材にも大学は不要です。
つまり、大学とは「そこで得られる大卒資格や、○○大卒というラベルを使って、会社員や公務員になろう」と思っている人にのみ有効な場所、とうことです。
逆説的ですが、こうしたことを望んでいる人は、たくさんいるため、そのたくさんの人には大学への進学は有効である、とも言えます。
☆例外ながら海外の大学へ行く場合はその意味付けがいろいろ異なります。
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こうした事実が、現実社会で何を引き起こしているかの論考がバズフィードにありました。
■ 「学歴」という最大の分断 ~大卒と高卒で違う世界が見えている~
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/gakureki-bundan?utm_term=.sqVdyvvA1#.ge4XJddxa
今の日本社会の様子がわかりやすくまとめられていますが、「なぜ階層の固定化」が起こるのか、「なぜ学歴の再生産」が起こるのか、はとても簡単なことなのです。
つまり、「大卒はお金で買える身分」だからです。そして、「大卒という身分が、給与や(経済的身分)を引き上げる」からに他なりません。
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さて、これだけ前提条件が出てきた上で、話をまとめます。
700万円(と4年の歳月)もの投資をして、そのリターンが得られるかという大バクチですが、「大卒とは身分である」という話を起点にすれば、おのずと答えは出るでしょう。
これは、「奨学金を借りてまで大学へ行くべきか」という投資課題とも同じテーマです。
河相我聞さんの場合は、その経歴からして、今後「大卒身分」が必要な仕事に就く確率はとても小さいと言えます。
「大卒でなくてもいい仕事」には転職する可能性はあるかもしれませんが、「大卒あるいは有名大ラベル」を使わなくても、生きていけるような気がします。
もし、投資効率を最大にしたいなら「通信制大学へ行って大卒身分だけを得る」のがお勧めです。
逆に「河相我聞があの○○大を出た!」という仕事上のネタとして使いたい意識を持つなら、せめてMARCHクラスの大学を卒業する必要があるでしょう。
(京大を出てロザン宇治原さんになることは、カブリますから不要です)
奨学金問題も同じです。500万円近い奨学金を借りて大学へ行くわけですから、それなりのリターンのある大学を選ぶべきです。どこでもいいというわけではありません。
どこでもいいのなら、数十万円で通信制大学を選ぶべきだからです。
2015年6月20日土曜日
大学から文系学部をなくしたら ~団塊Jrの回顧録 ボクらの時代の大学感~
はじめは冗談かと思っていましたが、どうやら事態はかなり本気で進んでいるようですね。
L型大学とG型大学だとか、「文系学部をなくす」だとか、新卒採用の学歴フィルターだとか、根っこは全部関係しているのですが、お国のみなさんは真剣に
国立大学の文系縮小策について
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150614-00000004-pseven-bus_all
優秀なる一部の大学を残して、あとは職業学校にしちまえばいいんだぜベイベと思っておられるようです。
さて、ヨシイエの個人的感覚からお話をするならば、基本的には国や財界が言っていることを否定するつもりはありません。
しかし、そこには前提となる条件のようなものが存在するとは思うのです。
そのことをきちんと理解するには、私たち団塊Jr世代が受けた教育システムや、むしろそれ以前の人たちが受けたシステムというものを思い出しておく必要があろうと思います。
==========
どういうことか?
カンタンに言えば、私たちが学生だった頃は、
① 旧帝大を全身とする優秀なる国立大学と、
② 歴史と実力のある上位私立大学と
③ とりあえず公立である堅実路線のその他国立・公立大学と
④ あまり優秀ではない私立大学と
⑤ 実業教育に力を入れる専門学校
という序列がしっかりはっきりくっきり偏差値で分かれていました。
そして、そこへ入学する手段として
A) 試験による選考
B) 指定校推薦などの選考
C) 一般推薦などの選考(一芸含む)
D) 出願=合格という応募
があったわけです。
①から⑤の学校別ランクは、いまでもある程度現状に引き継がれているので、わかりやすいと思います。
試験の方は、Cがわかりにくいかもしれませんが、評定平均3.8以上なら誰でも受験資格がある、みたいな「自己推薦」に近い制度がありました。
==========
さて、こうした学校種別と選考種別があったわけですが、いわゆる優秀でランクの高い大学では、純粋な試験と指定校くらいしか設定されておらず、学力で選別されるというのが当たり前だったように思います。
なので、これらの学校の序列はそのまま社会に出てもほぼ維持されていたし、少なくとも①~③までの大学と称するところでは、文系理系問わず
教養としての学問
はきちんと尊重されていたわけです。
ところが、少子化によってこの序列は大きく変動します。
まず、それぞれの学校が少子化で経営難に陥り、「男女をなんとか一緒にしてしまおう」と考えるところが激増しました。
また、経営改革の一環として、いわゆる職業教育に近い分野の領域までが「大学」と名乗るよう、システムを改めるようになったわけです。
観光学部とか、映像学部とか、どう考えても旧来であれば職業教育であった分野までが、カリキュラム的にかさ上げされて「学部教育」のように見せかけられてしまったのは、大問題だと思います。
結果、専門学校の大半は、男女共学のよくわからん大学へと変貌を遂げ、医学部でもないのに「なんとか医療大」とか、英語もしゃべれないのに「なんとか国際大」とか、そういう意味不明なダイガクが増えるということになってしまったわけです。
==========
なので、「大学を職業教育機関に改める」とか、「文系学部を減らす」とか、 そういう話は、
④と⑤の大学をターゲットにしている
というのであれば問題ないのですが、
①~③もそうだ、とか、③はどうしようか、②はどうしようか
なんてひと括りにされた上での議論だと、話が変わってくるのです。
だから難しい!!
そもそも、旧帝大卒者からすれば、「大学とは旧帝大のみでいいんじゃ!」くらいに思っているでしょうし、そういう人から見ると
「早稲田も慶応もなんぼのもんじゃい!徳島大?高知大?島根大?琉球大?それ国立なの私立なの?」
という感覚でしょうから、果たしてそれらからも教養主義を引っこ抜いていいものかと悩むわけですよ。
団塊Jr的には、このあたりの線引きはやっぱり①~③とそれ以外になりそうですが、団塊世代だと①とそれ以外になるでしょう。
それにもましてややこしいのが、あえて選考の話を載せたのですが、現代では
AO入試
という、一芸入試以下の「ネタ入試」があるので、大学名と学力が果たして合致するのかどうかもわけわからない状態になっているのです。
一芸入試なら、スポーツや資格や何かの分野で「結果を出した人」なので使い勝手があるのですが、AO入試は、
「ボクってこんなヤツなんだけど、どうだい?」
という入試なので、 現実的には高校生活3年間における学力不足者の敗者復活ゲームと化している節があります。
そして、定員割れ大学の最後の金づるとして機能しているので、お金さえ払えば誰でもOKな状況が生まれているといっても過言ではないわけで・・・。
いっそ、youtubeのアクセス数とかで競ったほうが、論理的かもしれません。
==========
もちろん、ヨシイエ的には、学校教育というのは究極の「教養主義」でないといけない、と考えています。
文系・理系の教養があるからこそ、時代が変わっても、仕事が変わっても、嫁はんと別れても、会社がつぶれても生きていけると考えているのですがどうでしょう。
実業教育は、たしかにその瞬間は高度な力を発揮しますが、80年という人生を支えるには短い間の出来事しか対応できません。
私はぶっちゃけ、文学部の卒業なので、文系教養教育のど真ん中を歩んできましたが、今の仕事も前の仕事も、そしてこの国での生き方もすべて
純粋学問があったからこそ、生きる軸足を持てた
と感じています。
そういう意味では、学問をないがしろにしていくら実学を身につけさせても、
算数を教えないでレジの使い方を教えるようなもの
とか
力学を学ばずにクレーンを使わせるようなもの
とか
走れメロスを読まずにFBで友達を増やすようなもの
とか
「ゼロ戦かっこええ!」と言いながら「戦争反対です」と言い出すようなもの
とか、そんなことになりそうで恐ろしいのです。
L型大学とG型大学だとか、「文系学部をなくす」だとか、新卒採用の学歴フィルターだとか、根っこは全部関係しているのですが、お国のみなさんは真剣に
国立大学の文系縮小策について
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150614-00000004-pseven-bus_all
優秀なる一部の大学を残して、あとは職業学校にしちまえばいいんだぜベイベと思っておられるようです。
さて、ヨシイエの個人的感覚からお話をするならば、基本的には国や財界が言っていることを否定するつもりはありません。
しかし、そこには前提となる条件のようなものが存在するとは思うのです。
そのことをきちんと理解するには、私たち団塊Jr世代が受けた教育システムや、むしろそれ以前の人たちが受けたシステムというものを思い出しておく必要があろうと思います。
==========
どういうことか?
カンタンに言えば、私たちが学生だった頃は、
① 旧帝大を全身とする優秀なる国立大学と、
② 歴史と実力のある上位私立大学と
③ とりあえず公立である堅実路線のその他国立・公立大学と
④ あまり優秀ではない私立大学と
⑤ 実業教育に力を入れる専門学校
という序列がしっかりはっきりくっきり偏差値で分かれていました。
そして、そこへ入学する手段として
A) 試験による選考
B) 指定校推薦などの選考
C) 一般推薦などの選考(一芸含む)
D) 出願=合格という応募
があったわけです。
①から⑤の学校別ランクは、いまでもある程度現状に引き継がれているので、わかりやすいと思います。
試験の方は、Cがわかりにくいかもしれませんが、評定平均3.8以上なら誰でも受験資格がある、みたいな「自己推薦」に近い制度がありました。
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さて、こうした学校種別と選考種別があったわけですが、いわゆる優秀でランクの高い大学では、純粋な試験と指定校くらいしか設定されておらず、学力で選別されるというのが当たり前だったように思います。
なので、これらの学校の序列はそのまま社会に出てもほぼ維持されていたし、少なくとも①~③までの大学と称するところでは、文系理系問わず
教養としての学問
はきちんと尊重されていたわけです。
ところが、少子化によってこの序列は大きく変動します。
まず、それぞれの学校が少子化で経営難に陥り、「男女をなんとか一緒にしてしまおう」と考えるところが激増しました。
また、経営改革の一環として、いわゆる職業教育に近い分野の領域までが「大学」と名乗るよう、システムを改めるようになったわけです。
観光学部とか、映像学部とか、どう考えても旧来であれば職業教育であった分野までが、カリキュラム的にかさ上げされて「学部教育」のように見せかけられてしまったのは、大問題だと思います。
結果、専門学校の大半は、男女共学のよくわからん大学へと変貌を遂げ、医学部でもないのに「なんとか医療大」とか、英語もしゃべれないのに「なんとか国際大」とか、そういう意味不明なダイガクが増えるということになってしまったわけです。
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なので、「大学を職業教育機関に改める」とか、「文系学部を減らす」とか、 そういう話は、
④と⑤の大学をターゲットにしている
というのであれば問題ないのですが、
①~③もそうだ、とか、③はどうしようか、②はどうしようか
なんてひと括りにされた上での議論だと、話が変わってくるのです。
だから難しい!!
そもそも、旧帝大卒者からすれば、「大学とは旧帝大のみでいいんじゃ!」くらいに思っているでしょうし、そういう人から見ると
「早稲田も慶応もなんぼのもんじゃい!徳島大?高知大?島根大?琉球大?それ国立なの私立なの?」
という感覚でしょうから、果たしてそれらからも教養主義を引っこ抜いていいものかと悩むわけですよ。
団塊Jr的には、このあたりの線引きはやっぱり①~③とそれ以外になりそうですが、団塊世代だと①とそれ以外になるでしょう。
それにもましてややこしいのが、あえて選考の話を載せたのですが、現代では
AO入試
という、一芸入試以下の「ネタ入試」があるので、大学名と学力が果たして合致するのかどうかもわけわからない状態になっているのです。
一芸入試なら、スポーツや資格や何かの分野で「結果を出した人」なので使い勝手があるのですが、AO入試は、
「ボクってこんなヤツなんだけど、どうだい?」
という入試なので、 現実的には高校生活3年間における学力不足者の敗者復活ゲームと化している節があります。
そして、定員割れ大学の最後の金づるとして機能しているので、お金さえ払えば誰でもOKな状況が生まれているといっても過言ではないわけで・・・。
いっそ、youtubeのアクセス数とかで競ったほうが、論理的かもしれません。
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もちろん、ヨシイエ的には、学校教育というのは究極の「教養主義」でないといけない、と考えています。
文系・理系の教養があるからこそ、時代が変わっても、仕事が変わっても、嫁はんと別れても、会社がつぶれても生きていけると考えているのですがどうでしょう。
実業教育は、たしかにその瞬間は高度な力を発揮しますが、80年という人生を支えるには短い間の出来事しか対応できません。
私はぶっちゃけ、文学部の卒業なので、文系教養教育のど真ん中を歩んできましたが、今の仕事も前の仕事も、そしてこの国での生き方もすべて
純粋学問があったからこそ、生きる軸足を持てた
と感じています。
そういう意味では、学問をないがしろにしていくら実学を身につけさせても、
算数を教えないでレジの使い方を教えるようなもの
とか
力学を学ばずにクレーンを使わせるようなもの
とか
走れメロスを読まずにFBで友達を増やすようなもの
とか
「ゼロ戦かっこええ!」と言いながら「戦争反対です」と言い出すようなもの
とか、そんなことになりそうで恐ろしいのです。
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