2016年1月21日木曜日

【学校をめぐる諸問題05】 実録!こうして我が校は県内最低の「教育困難校」に成り下がった!! ~学校を荒れさせたのは、管理職のしわざ~

 今回は、ヨシイエが把握している中での最悪のケースを紹介して、「学校がいかに荒れてゆくのか」をレポートしたいと思います。

 残念ながら、これは実際にあったお話なので、私もその学校に関係していた人を知っているものですから、どこがその学校かと特定されるような書き方はできません。

 なので、事実として起きた問題点のポイントを整理しながら、うまくまろやかにボカしつつ記述してゆくよう、気をつけてゆくつもりです。


 この事例を読めば、「学校がどうして荒れてゆくのか」のひとつのヒントを得ることができると思います。




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【1】


 A高校は、某県においては中核になるような都市部の学校であり、造成団地や新都市の成立によって、配置が決定された「最後の新設校」であった。


 すでに、その県においても少子化傾向は如実になっており、いずれ高校の学級減は必須になることは予想されたが、それにも増して、該当地域での中学生の増加が顕著であり、新設やむなしという結論になった学校なのである。


 県中核部の都市に、高校が新設されるということは、校長会において「都市部の赴任ポジションが一つ増える」というイス取りゲームのイスが増えることを意味する。


 その内部でどのようなかけひきがあったかは定かではないが、結果として「外国語学習に重点をおいた特徴ある学校づくり」の拠点校となるべき前段階として、赴任経験が中堅校2校目となる英語科出身校長「B」氏が、該当校に着任することになった。


 同時に、該当校の開設準備室長を務めていた隣接校の教頭「C」氏が、そのままスライドで、該当新設校の教頭として赴任する体制が取られた。


 
 
 某県都市部には、いわゆる進学校からはじまり、二番手校、三番手校など複数の進学を中心とする高校が存在し、さらに工業高校や商業高校も一通り揃っている。もちろん、あまり学習意欲の高くない高校生たちもいるため、高校序列においては、下位にランクするような学校もその都市に存在するのだが、本当に最下位といえるような低学力の生徒は、その都市から離れた隣の市にある某高校に進学することが多いため、いちおうタテマエ上は、教育困難に相当するような高校はその都市にはない形になっていた。


 教育委員会の当初の設定としては、このA高校をその都市における標準的な学力設定に置かざるを得ず、つまりは「普通の学校」として開設することになった。


 しかし、それでは面白くない、と考えたのが赴任するB氏やC氏であり、彼らは「A高校を特徴ある学校づくりを通して、特に外国語教育に力を入れた新世代の高校に育てたい」という熱意をもってスタートさせるつもりだった。

 そのためには、最終的な目標として、一定の進学成果を挙げ、ひいては外国語に関する文部省や県の研究指定を受け、都市部ないで願わくば3番手か4番手くらいの上位校に育てたい、と考えたのである。



 A高校の校舎は、緑溢れる中庭を中心とした構成と、無垢の板材をふんだんに使った美しい仕上げであり、新入生が着る制服も、有名デザイナーであるM氏に依頼した現代らしい端正なものであった。


 そのため、該当学区の中学生から、「新しい学校は、綺麗で制服も可愛い」ということがあっと言う間にうわさになり、入試前からすでに倍率は定員オーバーが確実な状勢であった。


 そこで、B氏やC氏、あるいは開設準備室のメンバーは、当初の設定よりも高い内申点で「足切り」をすることを決め、教育委員会もそれを了承した。


 足切り、とはあまりふさわしい表現ではないが、簡単に言えば、中学校から上がってくる生徒の成績から算出された内申点のうち、基準に到達しないものを不合格にするということである。


 当然、入学試験があるため、入試点も同時に結果が挙がってくるのだが、入試点に重点をおけば、学校での生活・勉強ぶりが悪くても一発逆転することがあるため、内申重視の足切りをすれば、「比較的いい子たち」が入学することになる。


 こうして、A高校のスタートのお膳立ては、準備万端整ったのである。




【2】

 A高校をいわゆる進学校に育てたい思惑をもつ現場サイドと、新設校の高い人気が相まって、最初の新入生はかなり高いレベルの生徒たちが入学することになった。

 校長のB氏、教頭のC氏をはじめ、まずは1年生だけを担当することになった担任団は、意欲的にこの学校運営をはじめようとしていた。


 さて、いわゆる一般教師団を呼び集めるに当たっては、B氏やC氏の意向を踏まえて某県の各地から、実績のあるベテラン教員が配置された。

 新卒や若手はおらず、全員が40代という最も脂がのった世代を集めて、磐石の態勢をしいたのである。
 それぞれ、教科においては、研究会や事例発表で一定の評価を得るような有能な教師たちが集まり、「新しい学校を作りあげてゆく」という気概に満ちていた。



 おそらく、ここまでは何の問題もなく、A高校の船出は輝かしいものとなるはずであった。ところが、それから、A高校には思いもよらない落とし穴が待ち受けていたのである。



 それは、当時の「学習指導要領」によって示された「教育相談的思考」と「個性の伸長」といった、いわゆる「ゆとり的発想」による指導方針を、B校長とC教頭が具現化するための方法にあった。


 「こどもたちを頭ごなしに枠にはめないこと」「まず、受容し、傾聴し、話を聞いて指導すること」「カウンセリング的手法を用いて伸ばすこと」「個性を尊重すること」


 こうした内容が、全職員に訓示され、「このやり方こそがA高校の新しい教育なのだ」と振り上げられたわけである。
 C氏は、これらを端的に表す用語として「説得と納得」という言葉を多用した。生徒を説得し、納得させる指導をせよ。それは、教科においても生活指導においてもそうである。というのだ。


 ところが、実際にA高校の運用が始まってゆくと、思わぬ事態が起きるようになっていったのである。


 基本的には、A高校の入学生は平均レベルの層を形成する生徒たちであることは否めない。いやむしろ、足切りによって、それより幾分レベルの高い生徒たちが集まっていたことは事実である。
 しかし、40人×10クラスという都市部大規模校にあっては、下位層には生活が苦しい者、保護者との関係が良好でないものなども一定数は存在したことを忘れてはならない。


 そして、その頃にはまだ一般名称として広まっていなかった「メンヘラ」と呼ばれるような、心身になんらかのトラブルや課題を抱えた生徒も、その中には含まれていた。




【3】

 最初の事件は、学校中のすべての電灯スイッチのカバーが外される、という事態であった。それがいつ起きているのか、誰がやっているのかわからないまま時間だけが過ぎてゆく。最終的には、それは心に不調を抱えた生徒の犯行であったらしいが、生徒の中には得体の知れない動揺が広がっていった。

 なにせ、学年はひとつしかない。そのフロアで次々に起こる怪事件。そして、その不安感は、1人のちょっとイキがった生徒の暴力で爆発した。


 ある時、生徒同士のケンカがあり、その場は仲裁されたものの、該当生徒の1人が怒りに任せて便器を破壊する、という行動に出たのである。くしくも同じ器物破損であったが、真新しい校舎が、複数の人物によって破壊されてゆく様は、異様ともいえる様相を呈していた。


 もちろん、教師は都度、該当生徒を指導している。しかし、「説得と納得」が題目であるため、担任団は大声で叱ったり怒鳴ったり、実力で彼らを制止することは管理職によって禁じられていた。
 あくまでも、別室で話を聞き、「受容」するのみである。必要な指導は、カウンセリングが終わってから、納得していただく、ということなのだ。



 担任団の中には、「もう少し厳しい口調など、指導方針を変えたい」と考える者も当然いた。ある教師は、腰パンで廊下に寝転がっていた生徒を一喝した。しかし、その日のうちに教頭に呼び出され、あろうことかその教師が指導を受けたのだ。


 当時抜擢され、生徒指導部長を務めていた人物は、のちに述懐する。「説得と納得を実行しなければ、自分たちが管理職に怒られる。おかしな方針だとは思ったが、それが新しい教育だと言われれば黙るしかなかった。そして、中にはその方針を信奉するように、子供達に傾聴し、傾倒してゆく教師もいた。ある種の宗教のようなものだった」と。


 そうした方針は、生徒たちから見れば「どうしてあの生徒は指導されないの?どうして叱られないの?」という不満へと繋がっていく。たしかに生徒は指導されてはいるのだが、「納得するまでは説得の時間」であり、懲戒は受けないのである。別室にいれば、彼らが指導されている姿すら、一般生徒には見えないのだ。
 そうして、次第に「これはしてはいけないレベル」や「ここからはヤバイ行動」という生徒の行動の善悪に関する下限が下がっていったのである。


 2年目に入り、新しい学年の担任団が赴任したとき、その違和感はすぐに判明した。彼ら余所者から見て、「指導とはこうあるべきだ」という基準がまったく異なるため、2学年担任団と、1学年担任団の行動パターンが合致しないのである。

 面白いことに、管理職は新学年担任団にも「説得と納得」の方針を伝達しようとしたが、残念なことに新学年担任団には、それは受け入れられることはなかった。

 のちに新学年担任団は「あれは説得と納得じゃなくて、『言っとくとほっとく』だろう」と上の学年団を揶揄するようになってゆくのである。



【4】

 都市部における標準的な学力の高校である、ということは何によって担保されるか理解しているだろうか。

 それは、「定員割れを起こさないこと」である。
 
 どの学校においてもそうだが、入試選抜があるということは定員を割った瞬間に「お互いに不本意な入学をする生徒を追加で入れる」ことに他ならない。


 お互い、とは学校サイドから見ても、生徒サイドから見ても、ということだ。つまり、彼らは入学した学校を最後まで愛することはなく、いやいやながら登校することになるのである。


 A高校では、なまじっか本来の実力よりも足きりでハードルを上げた結果、「あそこは入れないだろう」という悪い意味での予想が広まり、数年目に定員割れを起こした。


 本来であれば、一過性の定員割れは解消できるものだが、前述のように「指導されない個性溢れる生徒たち」を量産していることは、暗に広まっていたため、その定員割れが常態化するのに、それほどの年月はかからなかった。


 そして、開校から3年で、当初の管理職であるB氏もC氏も、次の学校へと異動することになるのである。残されたのは、「説得納得」の怨霊と化した学年団と、それに反駁する下位学年団、そして新学年の担任団である。


 もちろん、B氏も、手をこまねいていたわけではない。新学年の担任団については、県内の各地から「生活指導部長」を全員呼び寄せて任に当てた。

 これもある種強烈な布陣である。屈強な担任団が、新1年生をガッチリ指導しよう、というわけである。


 しかし、実態としては時すでに遅し、各学年では進級を迎えるごとに十数名ずつの脱落者を生み、「あそこは中退者が多い学校」のレッテルは瞬く間に広がった。




【5】

 教育委員会は、A高校の苦境を理解していた。せっかく華々しいデビューを飾ったA高校であったが、実際には最初にボタンをどこかでかけ違えてしまったのである。


 校長会は、興味深い結論を出した。最初に述べたように、新しい高校はイス取りゲームのイスであるから、そこに誰が座るかは重要な問題となる。

 そこで、A高校の新校長は「体育科」の校長が赴任することになった。教頭もおなじく「体育科」から赴任することになった。これは単純な話である。

 都市部の大規模校、という当たりの学校のイスを、体育科派閥は、英語科派閥から2つも頂いたのだ。


 新体制では、校長、教頭とも体育という布陣となった。しかし、A高校の下落を、体育教師が二人配置されたくらいではすでに止めることはできなかった。



 現在、A高校は県下でも一二を争う教育困難校となっている。あれからしばらく時間は過ぎているが、その間にはいじめで新聞沙汰を起こしたりもしている。最悪の時期には、毎年入学者の4分の1が退学し、学校を去っている。


 教育委員会がとった最終手段は、ひとつである。A高校の学級数減と、閉校への準備。小子化の進行により、大手を振ってそれを断行できることは、ある意味幸せなのかもしれない。


 これが、A高校の悲しい物語なのである。




==========


 この話の元主は、興味深いことを話していた。


「荒れている、トラブルを起こしている生徒がその集団で5%を超えると、その枠ではコントロールできなくなる。クラスで言えば、40人学級なら2人までなら不良がいても制御できるが、3人になると不可能だ」


と。


 彼がA高校の元教師たちから聞いた話だと、「教師たちはまったく意欲を失っておらず、常に全力で生徒と向き合っているつもりだったが、人数で歯が立たなかった」という。


 クラスの1人目が、言うことを聞かないなら担任が外へ連れ出して指導する。2人目は副担任でも学年主任でも連れてくればいい。でも、3人目がその脇をすり抜けていったら、あとはカオスだ。というのだ。


 そして、学校がそうなるには、そこまで至るには確固たる理由があるという。それは


「指導するのは悪さをしている本人に、ではないのです。本当に必要なのは、ギャラリーになっているその他大勢の生徒に指導することです。間違っている生徒は、正されている、叱られているという姿は見せ付けなくてはいけない。それがパフォーマンスであってもです。それをしなければ、その他大勢の生徒は教師を信頼できなくなる。両手を広げて悪い生徒とぶつかっている教師の姿を見て、彼らは『この先生の言うことは聞こう』と思うのです」

ということである。


 教師が指導する姿勢を捨てたとき、生徒もまた、気力を失うのだから。



 
 
 
 



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