2016年1月20日水曜日

【学校をめぐる諸問題04】 荒れた学校を建て直す方法。



 ツイッターで、学校の「荒れ」について話題が出ていたので、ヨシイエなりに「荒れた学校を建て直すにはどうしたらいいか」をつぶやいてみたところ、面白い反響がありました。




吉家

 荒れた学校を正す唯一の方法がある。それは管理職が陣頭指揮を取って正すことだ。「荒れた生徒と戦う」のではない。「荒れた生徒と向き合う」ことでもない。ただ、正すのだ。おかしいことはおかしいと言い、正しいことをさせるのだ。 

 https://twitter.com/yoshiiekoutarou/status/689070666679627776




 このオハナシに「それはきれい事だ」とつっこんで下さった方がおられたので、「なるほど、それはそういう風に思われても仕方ないな」と吉家も反省した次第。


 というわけで、もう少し具体的に、実話としてどういう手法で荒れた学校を正すことができたのか、あるいはできるのかを解説しようと思い立ったのです。


 ただまあ、わたくし吉家は、学校の先生が頑張ってるだの、生徒と向き合うだの、そういう美談めいた話は大っきらいなので、


 システムとして学校はどのように機能しているのか


を理解した上でお読みいただけば幸いなのです(にこにこ)



 というわけで、予習として、



【学校をめぐる諸問題01】なぜ学校教師は部活動をやめられないのか?!
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/01.html



【学校をめぐる諸問題02】いじめや学級崩壊が起きるのは全て職員室のせいである!
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/02.html



【学校をめぐる諸問題03】 教師である前に親である、親である前に教師である。
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/03.html



を軽-く読んでおいてください。



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 さて、学校を立て直す、と一口に言うけれども、実はその中身はいくつかのパターンがあります。


 これをしっかり理解しておかないと、美談もゲスい話もいっしょくたになりますので、要注意です。

 実際には世の中に出ているニュースではこれらを全部混ぜこぜにして「学校改革でよくなった」というイイ話になって広まっていることが多いので、信じてはいけません。



 では、モデルケースを。





① 卒業させて違う学校にする。

 私学などで学校法人の母体が変わるとか、経営者が変わるとか、どこかの付属になるとか、そういう組織変化が大きい学校の時によく使う手法で、ゲスいやつです(^^

 たとえば、その学校がずっと荒れていて、ヤンキーばっかりだったのを


「新年度から新しい学校名になって、制服も変わって、学科も変わったり新しいカリキュラムになったりするので、生まれ変わるからね!」


とPRしまくって募集の段階から異なる入試選抜を行います。

 そうして、新しい入学生からは純粋培養をして、「ヤンキーの三年生とは目を合わせてはいけません。友達になってもいけませんよ。あの人たちとあなたたちは違うのです!」とがっつり洗脳するのです。

 3年生とは制服も違い、腫れ物に触るように追い出されるヤンキー3年生は、グレますが、元々グレているので評判はそれ以上下がりません。


 そうして、1年後にヤンキーたちが卒業すると、あら不思議「あんなに荒れていたのに、いい学校になったわね」と地元のおばさんたちに褒められるようになるわけです。


 これも立派な「荒れた学校を建て直す」でありまして、よくあるパターンですね。ゲスいけど。






② 特徴ある学校づくりをして、入学生の質を変化させる。

 「なんとか科」を新設したり、「スポーツ推薦」を取り入れて特定の部活に力をいれたり、あるいは文科省の「ほにゃららスクール」に応募したりして、


 新入生の質を変える


ということもよくやります。これも実は、①のゲスいのと発想は同じです。しかし、こちらは、ヤンキー3年生をあからさまに差別するようなゲスさがないので、まろやかに変化が起きます。


 でも、本質的には何にも変わりません。なので、今度は、特別な選抜で入ってきた子や、スポーツ推薦の子や、新入生が


「うちらは先輩たちとは違うもんね」


と勝手に威張りはじめます(笑)。






③ 現在の生徒を立て直す。


 小中学校や、公立高校において、やっぱり求められているのはこの王道ですが、体制を変えるとか、募集枠を変えるとか、目に見える変化が少ないので苦労なさる先生たちは多そうですね。


 そこで、実用的なのは「今度来た校長はヤバイらしい」といううわさに代表されるような、「教員の人事」でこの変化を立ち上げるパターンです。


「今度来た学年主任は怖いらしい」

とか

「今度来た生徒指導部長は、ヤバイ学校から引き抜かれたらしいぜ」

とか、


そういう「変化のキャッチコピー」や「変化の物語」を背景に作ってやるとうまくいきます。


 だから、基本的には「管理職の陣頭指揮」が必要なのです。


 よく読んでくださいね。①も②も③も、「学校体制と人事をいじって、学校を改革する」というものです。


 これらは全部、ヒラの教師の職分ではなく、管理職の権限によって発動するのです。




 よく考えてみてください。

『荒れている学級や、学校が、今日から明日から担任や学年団の気持ちや行動ひとつで良くなることなんてない』

ことは、学校関係者であればすぐに気付くはずです。


 先生が何かひとこと言って良くなるとか、児童生徒が何かに出会って良くなるとか、そんなのこそ夢物語です。

 それで変われるなら、学級崩壊や学校崩壊は起きません! 


 そういう内在化された要素では「変化はおきない」からこそ、「外部からの刺激」が必要になるわけで、


 学校において、外部から何かをもたらす業務は、常に管理職の職分である


ということを考えると、管理職が「何かを持ち込まない限り、荒れた学校は変わらない」のです。



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 しかし、新しい学校体制をつくるいいネタもないし、そんな要素もない。現有勢力で何かを変革しなければ、荒れをおさめることができない。


 リソースが限られている


という場合に、管理職は何ができるでしょうか?


 それは、「総枠を変えずに、変化を起こす」ということになります。


 私が管理職なら、


「学級担任を総入れ替えする」「違う学年団の教員を、半数以上ぶつけて入れ替える」


ぐらいは平気でやるでしょう。


「1年A組の担任が、2学期から3年A組の先生になるらしい」

「B組も3年の先生がくるらしい。やべえよ」

「いったいなんで?・・・ていうか、だいたい理由は予想つくけどな」


という状況にもってゆくのです。


 この時点で、児童生徒には不安が生まれます。相手が不安でひるんでいるときこそ、荒れた学校を正すチャンスになるのです。


 しかし、これをぶち挙げると、かならず職員室内部で反対が噴出します。


 いいですか?またゲスい話をしますが、


「うまく行っている学級の担任や教員は、うまく行っていない誰かの問題をかぶりたくはない」


のです!!!



「俺は、わたしはうまくやっているのに、荒れている学級や学年があれば、それはその担当者や担当者たちの問題でしょ?私たちは、難を逃れているのに!!」


というのが全ての教師の本音です。


 ですから、あえて言います。そこを押して全校体制で改善するには、やはり強力な管理職の力が必要になるのです。



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 従って、荒れている学級や学校が、「個人の資質の問題」で片付けられている間は、その荒れはいつになっても終息しません。


 しかし、一番最初の手法でも述べたように、その学年が卒業して自然終息することはありえます。

 でも、それは教育の成果とは呼べませんよね?



 あなたの周りに、荒れた学校や学級があるなら、この記事をよく思い出してください。




 管理職は「話を聞いたり、相談に乗ったり」しているだけで、結局のところ、担当教師の力量の問題に話を帰結させていませんか?


 管理職は、荒れに対して、生徒指導部門や学年団に、結局のところ話をゆだねていませんか?


 管理職は、荒れに対して、有効なシステムの変化を提案できていますか?


 


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 吉家はよく、「学校はパノプティコンである」という話をします。




学校は「ブラック職場」なのではなく「オワコン」なのである
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/06/blog-post_5968.html


なぜ学校は機能しなくなったのか ~いじめ問題から考えるパノプティコン~
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/07/blog-post_16.html



 パノプティコンの意味がよくわからない人は、「網走監獄」へ一度見学に行ってみてください。


 網走監獄には、「五翼放射状平屋舎房」という収容施設があり、この建物は、中央に見張り台があり、5つに分かれた収容房の全体を、1人ですべて見渡せるように設計されています。


 そして、見張り台からはすべての囚人の部屋が見渡せるのだけれど、囚人からは見張り台はまったく見えない、という作りになっています。



 これが、ベンサムの設計した、学校教育の真髄なのです!!


 本来、学校の教育システムはパノプティコンと同じですから、教師が教壇に立ち、それが教師なのだと認識されれば、その人物に力量があろうがなかろうが、教育伝達システムとして機能するように設計されていました。


 ちょうど、見張り台で看守が居眠りをしていても、囚人たちは「自分は常に監視されている」と思いこまされたように、教室では


「教師と生徒の立ち位置、ポジションとはこうである」


と思い込まされていたことで、機能してきたのです。



 ところが、現代になるとパノプティコンは瓦解をはじめています。


「教師の言うことは聞くべきだ。ただし、その教師に力量がある場合にのみ」

「教師は生徒の力を伸ばすべきだ。むしろ、しかってはならない」

「教師は、生徒が学校に来ないという選択も受け入れるべきだ」



 これを監獄に置き換えるとわかります。


「看守が起きているときは、じっとしていよう。看守が寝ているのが見えるから、好きにできる」

「看守は囚人の自由を認めるべきで、施設内での移動は認めてもいいのではないか」

「看守は、もはや房に入ることも強制せずともよい」



 こんな刑務所は、荒れて当然でしょう?



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 個人的には、パノプティコン学校はもう限界だと思っています。だとしたら、新しいシステムを作って、学校を立て直さなければならないのですが、そのシステムはまだ生まれてもいません。


 すべての教師と、学校管理職は、「新しい時代の学校像」を真剣に考えなくてはいけないのかもしれません。



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