2014年4月24日木曜日

「先進文化国」をめざすとき その2 先進文化とは「落としどころ」である

 前回のお話で、いわゆる「民度」(文化の成熟度)について書きました。その中で、それらを総括していうところの「文化」とは


 自己中心的な考えが横行していると文化が未発達である。

 他者や全体のことを考えていると文化が先進化している。


のではないか、というところまで、到達したと思います。


 これは、実は人類全体のテーマであり、全ての国家は、こうした意味において「文化的に成熟」することを目指してこれまでの歴史を歩んできました。


 少しだけ、この辺りのことを歴史的に振り返ります。


■ 狩猟採集の生活において「今日、今なにか食べ物を見つける」という行動から「1年間のサイクルを通じて何かを栽培する」という文化的進歩を遂げた。


■ 個々の生存よりも、集団・全体・組織を形成することで、全体としての生存率を高める方向に進むことで人類は文化的進歩を遂げた。


■ 上位の身分の者だけが安泰なシステムから、より数量的に多くの人がより安泰な生活を送れるように、身分制度から平等な社会を目指した。


■ 身分だけでなく経済的にも平等な社会を目指して、所得の再配分制度としての福祉の制度が作られてきた。



などなど。

 
 そうした流れの中で、「国家制度」「社会制度」においては、

「君主政治」から「民主政治」

へと変わり、さらに

「それぞれが自己の利益の最大化を目指す国家」(資本主義)から、アンチテーゼとしての「集団利益の最大化を目指す国家(共産主義)が発生

し、今に至るわけです。


 ちょっと余談ですが、こうした「我から他へ」「個から集団へ」という流れで文化は進化してきましたので、共産主義は資本主義より「上の」「発展形」の進化した考えだと一部では思われていました。


(なので、当時の進歩人や文化人・知識層は、共産主義・社会主義的理念にハマったわけです)



 ところが、ご存知の通り、実は「資本主義」も「共産主義」もどちらもうまくいっていません。


 アメリカもヨーロッパも日本も、とりあえず資本主義でなんとかやっていますが、その実は「ただ単に借金や債務を先送りして、今いい生活をしているように見えるだけ」であり、また、共産主義は言わずもがな「うまくいっているところは無い」のです。


 誤解がないように言っておきますが、「資本主義」も「共産主義」も、いろいろな問題点や欠点を抱えたままで運用されています。


 翻って言えば「個の利益追求だけを求める」のもうまくいかないし、「集団の利益追求だけを求める」のもうまくいかないのです。


 それはなぜか。


 さっき振り返った歴史を見ればわかるように、人類は「そもそも死ぬ。そもそも低い生存率のところを文化の発展によって、なんとか生きる確率を増やしている」ということに過ぎないので、



 個の利益追求だけを目指せば、個の生存率が最大値になる。(ただし、集団は危険にさらされる)


 集団の利益追求だけを目指せば、集団の生存率が最大になる。(ただし、個は危険にさらされる)



わけではないからです。そうです。そもそも集団とは個の集合体であり、個の利益と集団の利益は相反する部分がある以上、それらがピタッとハマって最大化することはないのですから。


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 ということは、先進文化の目指すところは、究極的には「個の利益の最大化」「集団の利益の最大化」ではなく、「個と集団の利益のバランスが良い状態」「個と集団の利益のつりあい」「相反する利益の落としどころ」ということになるでしょう。


 そういう意味では、セカイが帝国主義から資本主義になり、共産主義との中で確執を生んだり、あるいは資本主義の中において、アメリカの健康保険法案ではないですが「社会保障のあり方」で迷ったり、いろいろしながら現在もまだ「落としどころ」を探っているといえるでしょう。



 個人主義とナショナリズムが、交互に持ち上がることなどもその一例だと思います。



 この問題には実は正解がありません。


 マイケル・サンデルの提唱している論「白熱教室・これからの正義の話をしよう」がこの分野にかなり近いのですが、「どこに、何に落としどころを見つけるか」は、その時代や文化的背景によっても変動するものなので、まさに今もその正解を求めて世界は悩んでいると言えます。



 ただ、ひとつだけ言えるのは、そのバランス・釣り合いがとれる箇所がどこかはわからないにしても、「個の利益と集団の利益・他者の利益がそれぞれ異なり、そのことは理解した上で、かつそれぞれがある一定程度は尊重されるべきである」という事前の認識があることは、文化的成熟の大前提だということです。


 なので、「全体のために個は死ね」という論調は確実に誤っているし、「自分だけよければよい」という論調も、これまた確実に誤っているといえるわけです。


 (誤っている=文化的に遅れている)



 これから、世界や日本がどこまでこの問題を落としこめるかはわかりません。できれば、なるべく公平で公正な、誰もが「ああ、それなら納得であり、なんとか仕方ないから我慢できるわ」という位置でバランスを取ってほしいものですが、僕が生きている間には無理でしょう。


 その位置を見つけるまでに、何度もの事件や事故や争いや戦争を経ないと無理だと思います。

 なぜなら、その程度までに人類は、基本的に低レベルだからです(苦笑)




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