今日も、仕事でバリバリ車を走らせている間に、ふと思いついたことがあります。
タイトルにすると「終末論」なんて書いてしまったのですが、より正確には「終末学」とでもいったほうがいいかもしれません。
終末論、なんていうとキリスト教でいうところの「最後の審判がやってくるぞ!アルマゲドーン!」みたいな話とか、学校の歴史の時間に勉強した仏教的な「末法思想」とか、そんなのをつい思い出してしまいますが、ちょっとニュアンスが違いますね。
うーん。しっくりくる言葉がありません。それもそのはず、こういったことをこれまできちんと扱ってきた学問がないからですね。
言いたいのはつまり、こういうことです。「物事の終わりについて真面目に考える学問」をそろそろヒトは立ち上げないといけないのではないかな、と。
それを「終了学」と呼んだらいいのか「終末学」がいいのか、「後始末学」でもいいし、「終学」でもいいけれど。
どんな学問かというと、たとえば原子力発電について考えてみましょう。
これまで原発の立ち上げと運用については真面目に考えてきたけれど、そのオシリの部分、つまり「ケツの拭き方と廃炉の方法」については、やっぱり人類は目を背けてきました。
どこか遠い国のはるか地面の下に、「最終的に出る核廃棄物を埋めとく」ということをたったひとつの国でやっていますが、これほど科学技術の発展したG8以外の国がそれを受け入れてるというか、実施しているわけですから、いわゆる先進国は
核のケツの拭き方
について、まともに学問していないことになりますね。
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もちろん、私は原発反対論者でも、核廃止論者でもありません。そういうイデオロギーの問題ではなく、それ以前に「終わり方、仕舞い方」の学問がないことに驚いたわけです。
他にもいろいろあります。「日本の膨大な借金のツケが最後にどうなる・どうするのか」とか、「共産主義の最後がどうなるのか」とか「民主主義の終わりの形は?」とか、ハイレベルなお話だと難問だらけです。
もっと低レベルの話だと、最近になってようやく「終活」なんて言って「死に方・命の終わり方」について注目が集まるようになりました。そんなのも「終末学」の領域ですね。
もっとも、終わりと始まりは密接にリンクしています。
幕末と明治維新はセットです。帝国主義の終わりと民主主義の始まりは繋がっています。
日本の借金がぶちかまされた最後には、新しい時代がやってくるし、アメリカが世界の警察を辞めたら、その後はどの国が覇権を持つのでしょうか。
あるいは、戦後の「平和な時代」の終わり、がいよいよやってきて、次の戦乱の時代がはじまる予感もあります。
こんなとき、「はじまり学」「スタートアップ」ばかりに目がいくと、戦争が近づいている機運の中で、「それいけ!やれいけ!」という雰囲気を生み出していくのでしょう。かつての日本のように。
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実は私が所属している業界も、建築業界の中ではどちらかというと終息に向かっているベクトルな領域だと思っています。
そんな流れの中で、製品を作っているメーカーは
①にっちもさっちもいかなくなり、借金を抱えてコケる。
という状況にいずれ追い込まれます。
ところが、メーカーの中には
②うまく借金だけは返して、従業員は自然減で、最後はソフトランディング
を狙っているところだって実はあるのです。もっとやらしい話をすれば、
③製造はOEMに任せて、創業者一族の食い扶持だけ残して営業部門だけ生き残る
なんてことを絵に描いているところもあります。
このあたりは、まさに「終末学」っぽいなあ、と思いますね。終わり、幕引きを「悪」と捉えるのではなく、もっと肯定してもいいのかな、と思います。
右肩上がりの経済成長神話とは逆行するものですが、「終わりの美学」を追及するのも、実は大事なことかもしれません。
(今回はまとまりのない随想みたいになりましたが、またしっかりこのネタで議論します)
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