2018年11月27日火曜日
<実国学を考える 27> ユートピアは幻想なのか? ~共同体の本質を暴く~
よろしく~、ねっ!
というのはかの有名な「ゆーとぴあ」のネタですが、今日は真面目なほうの
ユートピア(理想郷)
について考えてみたいと思います。
この話へ至るには、いろいろな複線があるのですが、
■ ひきこもりと労働
https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2018/11/blog-post_9.html
というネタを数回前に書いたり、あるいは
■ 新しき村が100年続いた理由
https://withnews.jp/article/f0181127000qq000000000000000W0ae10101qq000018362A
(WithNewsさんから)
などを読んだりして、人の生活はどうあれば幸せなのかについて、いろいろと考えているからです。
今回のwithnewsさんの記事では「武者小路実篤」の「新しき村」が取り上げられています。
まあ、一種の理想郷ですね。
この手の話だと、「ヤマギシズムはどうなんだ?」という話も出てくるでしょう。
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ただし、この連載は「実国学」という視点、つまり日本の歴史における日本人のありように焦点をあてて考えているので、理想郷のあり方においても
「日本と日本人という国家システム」
を念頭に置いた考え方をしようと思っています。
そうすると、「新しき村」というのは、実国学の目線で見ると、かなり面白い点がいくつかあることがわかります。
その面白さは以下のような感じ↓
■ 自給自足が理念ではない。太陽光発電もするし、実篤のコンテンツもお金にする。3億の売上を上げたっていい。
■ 人数が増えることが目的ではない。どれだけの人間がどれだけ食えるか、ということを意外にシビアに計算している。
■ 村の内部だけでなく、外部からもお金や労働力を得る手段を考えている。賛助会員など。
■ 私有財産OK
■ 来るものを拒んだりもする
この、なんていうかお金に対してストイックで真面目な感じが、ヤマギシとはやや違うかな、という気もします。
もちろん、村落共同体という面では、どのような問題や課題が生じるかについても言及があります。
■ 男と女の問題は、こじれる
■ 怠け者は意外と排除される
■ 何か言う前に自分でやれ
要するに、ニャートさんなどがアイデアとして考えるような「弱者のための共同体」とはまた、ちょっと違うんですね。
実は、「新しき村」を知れば知るほど、この集団スタイルは
「高度な自律と自立が要求される」
ということが見えてくるのです。
ぶっちゃけて言えば、新しき村では「仕事ができなくなった者を抱えておくための集団ではない」ということだと思います。
むしろ、「自ら自律して活動できる人たちが、共同体というメリットを享受するために集団でいる」というほうが近いかもしれません。
なので、自ら文化的なコンテンツを起こしたり、事業的なものをやったり、実篤の遺産を「活用」してお金に換えてゆくことができているのでしょう。
いわば、生活そのものを主題とした「トキワ荘」かもしれません。
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実国学の視点で見ると、「自分達が食べるために、集団というスケールメリットを生かしてゆく」というポイントは大変興味深いです。
事実、新しき村の重要な関心事は
「この人数が食えるか、食えないのか」
というサイズ感をしっかり見ていることです。
日本の歴史は、実はこの繰り返しで、
天皇家から子供達が臣籍降下して源氏や平氏が生まれて、全国各地へ散らばっていって「自活」しなくてはならなくなった
とか、 あるいは、国内では
農地が足りなくなったから北海道や樺太や満州やブラジルへ出て行って土地を必要とした
とか、
田舎の次男や三男が、都市へ出てきて、サラリーマンという新しい形態が成立した
とか、ぜんぶおんなじ話なんですね。
つまり、ある定まった範囲範疇の中で、「食えるだけのサイズ感」が残念ながら存在したり、「食えないから外へ出たり、新しいことを始めたり」という動きからは逃れられないんです。
ということは、ユートピアは無限に広がったり、増殖できるものではない、ということでもあるでしょう。
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これまた興味深いことに「新しき村は、自給自足が主ではない」という点もヒントになりそうです。
つまり、
1) 農地農村で作物を育てるだけでは「食える人数が限られる」
のです。ですから、現金化するには
2) 農作物だけでなく、文化的コンテンツをマネタイズする
ということが必ず必要になります。
日本が第一次産業から第二次産業・第三次産業へ移っていって「そのおかげで次男や三男も食えるようになった」のと同じです。
実は、この産業構造の変容と推移も、ユートピアの作り方と密接な関係があります。
なぜなら、「個人個人ではできることが限られているが、集団になればなるほど、総体としてできることが複雑で大きくなる」からです。
だから、個人で理想郷を作るよりは、ある程度「食える集団」でスケールメリットのあるシステムを作ったほうが、
「結果としてより多くの人が食える収益が上がる」
といえるでしょう。
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そうすると、この理念にかなった共同体が実は既に存在していて、
「トヨタに入って、トヨタの車をみんなで作って、トヨタの社宅に住む」
というのは、ある種の「新しき村」だったのだなということがわかります。
なので、高度成長期の日本ではこぞってこの「会社ムラ」がどこにもかしこにも誕生し、うまく回っていたことに気付かされます。
ああ!ぼくらはユートピアに住んでいたのね!
それがうまくいかなくなったのは、どうしてでしょうか?
これまでの流れを読み解けば、すぐにわかりますね。
要するに「食える人数が飽和した」のです。
農地が足りなくなったのと同じように、少なくとも「モノづくり」においては、日本における産業の生産分と、その分け前を分け合う人数とのバランスが崩れてきたということかもしれません。
かつて、繊維製造産業は、女工哀史の時代をふくめて日本が世界のトップメーカーでしたが、現在ではモノづくりの主役はアジアの別の国になっています。
都市部では第二次産業ではなく、「第三次産業」が働くことの主流になっていますが、第三次産業の特徴は、もともと物的交換が少ないので、「それがいくらの価値なら妥当かわかりにくい」ため、いくらでも収益が下がってしまう傾向にあります。
感情労働の正当な貨幣価値
なんてのは、誰にも正しく評価しにくいのは、わかりやすい例でしょう。
コールセンターで顧客から嫌味を言われ続けることは、はて、いくらの給料なら妥当なのでしょうか?
誰かに罵倒されることのコストをきちんと積算できる人は、いるのでしょうか?
話がずれてきましたが、そういう意味では、日本の人口が減少に転じることはもしかすると
「食える人数の適正化」
という意味では本来は、とてもよい傾向だと思います。
(なので、吉家は移民政策には、実国学の視点からみて大反対です)
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話がやたら長くなってきたのでまとめです。
<ユートピア・理想郷とは>
1) 自主自立した個人が、なんらかのコンテンツを製造し、提供し、頒布することで、食えること。
2) あるていどのまとまりのあるサイズ、スケールによって、食えることの中身が物理的に増えたり、充実したりすること。 また、そのために集合すること。
3) 社会の変容に合わせて、その提供物を変化させられる智恵と行動力を持つこと。
4) その成果を、互いに快く分け合えること
2と4は関係あるし、大事なポイント。
社会やムラは、当初2の目的のために集合してゆくのだけれど、成果をどうしても「限られた人間が独占するようになる」と嫌な社会が生まれてしまうわけで。
逆に、この4つの意識がない人には、「来て欲しくない」となるのもわかります。
それがユートピアというものが、「宗教的で、時に外部から見て恐ろしく感じられる理由」なのかもしれません。
ムラ社会が閉鎖的なのは、そのほうが理想的だからかもしれませんね。
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