前回の記事で、
「お金というものを生きる軸にするのであれば、それは流民にならざるを得ない」
ということを説明しました。そして、その逆説的真実として
「土地を持たない流民が、この世界を生き延びていく手段としてお金を用いるようになる」
ということも書きました。
その実例としてのユダヤ資本や華僑などの活躍についても、触れたところです。
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この実国学の視点をもって、孫正義さんのインタビューを読んでいただくと、何かがビビビと繋がって理解が深まると思います。
日経ビジネスオンラインより 孫正義インタビュー
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/book/15/284212/071600006/?P=1
上記記事では、孫正義さんが在日韓国人として差別を受けた体験や、通名としての「安本正義」という名称をあえて捨てた経緯について語られていますが、まさにここに
経済人としての孫正義の軸足のようなもの
が見えていることがわかると思うのです。
在日韓国人である、本来外国人である、ということは、実国学で言うところの
「本貫地から離れたアウェイ状態にある」
ということに他なりません。そして、その土地は
「あなたが永遠にその土地にいてよい、と言う土地ではない」
ことが重要です。本領復帰も、本領発揮もできない状態にあって、彼らが信じることができる唯一公平な機軸たるものは(世界を又にかけた)経済活動において他はないのです。
本領にあるものや、土地を持つものは、すべてを失っても「地縁血縁」だけはその土地に残ります。仮に政府や制度が崩壊しても、互いに身を寄せ合い、食料を分け合いながらその地で小さくうずくまることができるのです。
また、彼が名字を選択する際に「安本」ではなく「孫」を選んだ点も、実国学者にはよくよくわかります。
安本の名は、異国の地で与えられた妥協点に甘んずることであり、「孫」を選ぶことで彼は彼なりに「本姓」を見つめなおすことに成功した、と言えるのです。
つまり、実国学の視点で見ると、孫正義という人の「生きるベース」になっているのは
① 本来の氏族としてのあり方(血縁上の本貫)を立てて
② 地縁上はアウェィに身をおくことで、背水の陣を敷いた
ということなのかもしれません。
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しかし、実国学者ヨシイエは、孫正義の生き方を日本人にマネしてほしいとは考えていません。
朝鮮・韓国の人たちと言うのは「恨」の文化が根付いているとおり、本質的に流浪の民族だからです。
歴史的に常に中国の属国であり、「いつまでも永遠にその土地を君たちの好きにしていい」とは全く言われていない国民ですから、朝鮮半島にありながら、その実
「本拠地・本貫地」
のが不明瞭であり、朝鮮半島という土地そのものに確信がもてない民族でもあるからです。
反日パルチザンとしての、抗日運動の活躍は実は金将軍の方に一理あり、アメリカの傀儡としてただ反共産政策の上で設立させられた韓国人にとっては、政府も首都も自分たちのものではありません。
そう!朝鮮半島の首都はやっぱりピョンヤンなのです。悲しいかな。
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それに対比するように、わが国の氏族のあり方を思い出してみましょう。
私たちは源平藤橘という本姓を持っていますが、孫正義のように「本姓に立ち返る」ことは全くしていません。
むしろ、本来の姓を持っていたはずの氏族はみな、「自分たちが未来永劫そこにいていい本貫地・本拠地・本領を手にいれる」やいなや、みな
その土地の名前を苗字として名乗りはじめた
のです。
日本人の考え方の根底は、「氏族の血縁上の本貫」よりも、「土地に根ざした本貫」のほうを重視する傾向にあります。
したがって、流民の悲しみを経験した孫正義さんとは、基本的に真逆の思考になっているわけです。
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だから日本人は経済的に成功できない、なんて表層的なことを言うつもりはまったくありませんが、ヨシイエ的には、
「日本人はやはり、土地(本領・本貫・本拠地)を軸足に持って生きるほうが向いている」
と考えています。
この、本領・本貫の軸足をきちんと意識した瞬間、あなたやわたしの生き方はしっかりと地に足がついたものになります。
実国学が目指すのは、こうした「軸足のしっかりした」生き方に他なりません。
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