前回、前々回とまったく新しい切り口でいじめ根絶を可能にする方法論について説明しましたが、そもそも、昨今の学校教育がなぜうまく行っていないのかについて、
根本的な理解の錯誤
があるので、そこに切り込んでおきたいと思います。
「いじめ」「学級崩壊」「学力低下」「モンスターペアレンツ」「指導力不足教師」などの問題が、特に最近取りざたされており、学校が機能不全に陥っているのではないかという疑惑が生まれています。
なので、国としては、
「教師の指導力を上げるために、免許や採用のあり方を再検討する」
とか
「諸問題に対応するために、専門家(カウンセラーなど)を増やす」
とか
「学力を取り戻すために、授業時間を増やしたり外部講師を投入したりする」
とか
そうした方策で、学校システムの底上げを図ろうとしていますが、ぶっちゃけ無理です。
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また一方では、
「昔に比べて保護者の学歴も上がっているので、教師が尊敬されなくなった」
とか
「教師のモラルが欠如している」
とか、そんなことも言われていますが、ぶっちゃけ的外れです。
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では、なぜ学校というシステムにほころびが生じているのか。それは端的に言えば、学校というシステムそのものの元来のあり方を誰もが忘れてしまっている、ことにあるのです。
学校というのは、基本的には「パノプティコン」の論理でこれまで設計されてきました。
ウィキペディアよりパノプティコン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
パノプティコンとは「全展望監視システム」と訳されますが、簡単に言えば、少人数で大きな人数を効率よくコントロールするシステム、のことです。
もともとの設計者ベンサムの発想は「刑務所」そのものです。
「犯罪者を恒常的な監視下におけば、彼らを労働者として育て上げられる」
というのが元来の発想です。これを教育におきかえれば
「未熟で未発達なこどもたちを少ない人数で効率的に教育し、立派な青年へと育て上げる」
ことがパノプティコンの理念である、ということに他なりません。
そのために、「集団で少人数の教師へ向いて授業を受けること」や「学校生活のきまり」や「試験と昇級」といった数々の制約システムを用いてこどもを縛り付け強制することで、この学校というパノプティコンを効率よく運営することが望ましいとされていたわけです。
小さなことから言えば、学級委員長というわけのわからない存在や、日直日番・給食当番・掃除当番、部活動でなぜスポーツをするのかに至るまで、すべてのシステムはパノプティコンと
「ハリーポッターでおなじみのイギリス式パブリックスクール等のシステム」
によって制度化されている、と言っても過言ではありません。
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ということは、明治5年の学制以降、日本の教育システムは「多くの人数をおなじ方向へ振り向かせることで、かつおなじ行動を取らせることで一定の教育内容を浸透させる」ことを基本的な形として持っている、ということがわかると思います。
そして、もっと面白いことに、上で説明したような教育の本質的システムについては、すべての教師になる者や教育領域の学問を学んだ者は、かならず理解しているし把握している、ということも忘れてはいけません。
もっとくだいて言えば、すべての学校関係者と教師は、学校が「パノプティコンという刑務所」であることは承知しているし、そのシステムが効率的であることもわかっている、のです。
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では、そこまでわかっていて、なぜ学校が機能不全に陥っているのか。その答えはかなり単純化することができるでしょう。
まず、ひとつには、「パノプティコン」は、均質化された労働者を生産するためのシステムですから、出口と理想的な大人像がある程度一定であったはずです。
日本では、識字率はほぼ100%という高い水準にあり、こうしたことはパノプティコンの利点だといえます。
そして、ついこの間までは、「大多数の企業労働者(サラリーマン)」を製造するという意味において、パノプティコンはまさにトップクラスの効率化で日本人を押し上げたことになります。
ところが、その均質化された大人像(つまり、金の卵にはじまる企業労働者集団からサラリーマン正社員までの労働者像)は、現在では崩壊しつつあります。
いわゆる大企業ですら心もとない昨今ですから、時代が求めているのは、
ベンチャーなどの牽引者
これまでどおりの企業人正社員
単純労働サービスの提供者
海外労働者を含めた階層
など多様な労働者像であることは、誰もがすぐに気付きますね。
こうした階層化した集団に対しては、パノプティコンは大変に弱いのです。なんせ均質化集団を効率的に生むためのシステムですから、
指導者から下僕まで
を同じシステムで生成することは大変に苦手なわけです。
指導者になるか下僕になるかは、結果論ですから、スタートラインではみな平等だとしましょう。仮に。しかし、現実問題としては
「そのこどもたちが所属する集団層に差が生じている状態で、均質化パノプティコンにほうりこむことは現実的に難しい」
という問題がおき始めているのです。
だから、学校というシステムがたちゆかない。L型大学とG型大学、あるいは学歴フィルターじゃないけれども、大学という「ひとつの名称ではすでにカテゴライズできない」ことが起きているのです。
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では新時代に対応した学校を作り出すために「パノプティコン」を捨ててどうにかするにはどうしたらいいのでしょうか?
少人数で多人数を教えるという効率化されたシステムを捨てるということは、
お金がかかる
ということに他なりません。
ということは、お金持ちのこどもだけがより有利になってゆく傾向になります。
この問題点を避けるために、
アメリカ式
フランス式
ドイツ式
イギリス式
などの各国の教育体系をもう一度総研究し、早急にシステムを組み直す必要があるのですが、どの国も実は問題があって
「完璧な教育システム」
なんてものは存在しません。
しかし、旧来のパノプティコンは、出口戦略で崩壊しているのです。これだけは疑いようがありません。
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私が個人的に考えているのは、
学校教育を政府が多くの部分面倒を見る代わりに、小・中・高・大へ進むにつれ、徹底的なふるいわけを行う、というものです。
希望で進路を選ぶのではなく、適性と実力で進路を選ぶ方法です。
たとえば、小中高のうちにリーダー性や学力を発揮できない者や単純労働にしか向かない者は、職業学校に進むのであれば無償、大学へ進学したければ有償、という具合。
リーダー性・学力を伴うものは、大学まで無償という具合。
芸術・文化に関わる適性があるものは、芸術系統の大学であれば無償、それ以外の進路は有償という風に、
段階ごと、セクションごとに振り分けをしてゆく
ということが重要になると考えられます。
その振り分けに沿うならば、無償。自分の道を行きたければ有償。というスタンスで、すべてのこどもたちの高等教育校までの進路を
「総じて無償化し、その費用を財界から拠出させる」
ということであれば、文句はないでしょう。
ズバリ、
「自由を得るには、金がかかるが、君の能力に応じてその才能は最後まで国が面倒を見てやる」
というシステムです。
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