2019年7月31日水曜日
「言ってはいけない」橘玲さんの指摘は正しい。
「言ってはいけない」シリーズなどで、驚愕の事実をぶちかまし続けている橘玲さんですが、ヨシイエは基本的に彼の言っていることを
体感
で肌で感じており、事実としてのファクトだけでなく、臨床の上でも、彼の言説は基本的に正しいと思っています。
週プレさんに、橘さんのインタビューが現在連載されていて、興味深いのでぜひお読みください。
なぜ「言ってはいけないこと」を書き続けるのか
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/07/25/109380/
社会は偏差値60以上に向けて作られている
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/07/28/109413/
リベラルな社会は究極の自己責任
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/07/31/109436/
まだ、インタビューの連載の途中ですが、ここまでだけでもかなり恐ろしいことが書かれています。
~~~~~~~~
■ 日本人の3分の1はアホ
■ パソコンを使って仕事ができるのは1割
■ 教育は万能ではない
ヨシイエさんは、前職は高等学校に勤めていて、その中で多くの生徒をつまびらかに観察してきたわけですが、結果的には橘さんの言うとおりのことが学校で起きています。
おなじ高卒資格を持っていても、偏差値の高い大学に進学する者と、教育困難校を卒業しただけだったり、Fランク大学に進学する者とでは、その知能レベルは大きく異なります。
また身体能力や、そのほかの把握能力、コミュ力なども大きく異なり、そして、たいへん興味深いことに、その能力は16歳時点から大人になるまで、ほとんど変化しません。
そうすると、橘さんが言っているとおり、高校生の3分の1は日本語能力が怪しく、小学生程度の算数でつまづき、パソコンは使えない、ということが起きています。
これは別に不思議なことでもなんでもなくて、みなさんの住んでいる地域の
「一番優秀な高校」から「ヤンキーのいる高校」
まで人数で並べてみると、だいたいそれくらいの幅にちゃんと収まっていることがわかると思います。
そして、学校現場にいると「昔は悪かったけれど、今はあの学校は良くなった」というような私立高校がいくつか存在することに気づきますが、その内情は
「悪い生徒を教育してよくした」
のではなく、
「早く悪い生徒は卒業させて、もともとレベルの高い新入生を集めた」
だけに過ぎないことがわかります。
そう!これは実は、「なにも教育していない」のと同じなのです。
だから、教育でできる変化の範囲というのはごくごくわずかであって、学校全体の雰囲気やレベルを変えるには、生来の能力が異なる人間を集めてくるしかない、ということだったのです。
~~~~~~~~
■ 行政は偏差値60以上の人が理解できるように作られている
それから、ヨシイエさんは現在の会社で、裁判実務に携わったり、いろいろな行政的仕事に携わったりしたのですが、そうした公的な文書の作成に関わっていると
「なるほど、ものごとをきちんと手続きを踏んで進めるということは、結局『文字と文章がきちんと書けるということなのだ』な」
ということに気づきました。
共産主義国などで「書記長」という偉いポストがありますが、なんで「ものを書く、書きとめるだけのポストが偉いのか」と疑問に思っていました。
ところが、公文書のセカイでは「この当たり前のことを当たり前に書く」ということのレベルがものすごく高い、難しいことなのだと気づきます。
私達からみると「裁判の文書なんてとても難しい!」と感じると思いますが、実は書いてあることそのものは何も難しいことはありません。
しかし、それを「正しく、間違いがなく、文意が誤られることなく、公正に書く」ということは、大変に煩雑でややこしい作業なのです。
幸いなことに、ヨシイエは偏差値60以上の大学を出ていたので、それほど苦もなく
裁判文書を自分で作成し、裁判そのものにも臨むことができたのですが、おなじことは、日本人の多くにとってはかなり難しいことであろうとわかります。
こうしたことはブログ一つとってみてもそうで、現在ブロガーとして活躍しているネット上の人たちの学歴を調査すると、ほぼ全員が早稲田慶応、国立大、関関同立 などの偏差値60以上の大学を卒業していることがわかります。
つまり、ブログを書く、という作業すら、偏差値60以上でないと「一発当てられない」のです。
アフィリエイトやアドセンスで稼ぐことができる人たちも、結局は偏差値60以上ということですから、彼らはもともと普通に就職していても学歴フィルターで落とされないレベルであるといえるのです。
~~~~~~~~
■ 自由で平等(リベラル)とは、能力のあるものが好き勝手する世界
「人種差別はいけない。男女は平等である。出自や身分で左右されない。」ということが簡単に言えばリベラルの思想ですが、私達の周りはどんどんこの方向に進んでいて、これは世界的な潮流です。
しかし、このことは社会主義、共産主義のような「結果的な平等」と勘違いしてはいけない、というのがミソです。
リベラルの思想は、「スタート時点で差がつかないのであれば、結果としてお金持ちになったり貧乏になったりしたのは、途中経過がうまくいった人と、失敗した人の差による自己責任だ」ということにも直結するため、そうした結果的弱者は救われない世界になるということなのです。
すごく簡単に言えば、「好きにしろ」ということなのですが、これを勘違いする人が続出しているのが現代の日本ということになるでしょう。
これまでの日本の会社では、終身雇用であるがゆえに社員をがんじがらめに縛り、副業なども禁止して、そして高いノルマを課して「働かせて」きました。
それゆえにそれなりの高い結果が出て、その給料が社員に還元されていたふしもあります。
ところが
「副業してもいいよ、ノルマも課さないし無理やり働かせもしないよ、ワークとライフのバランスも好きにしていいよ」
ということになると、(事実、企業はそうなりつつあります)
「その代わり、雇用も守らないし、君達が売り上げた分だけ分配するだけだし、(会社からみて)コスパが悪ければ創業家一族の利益だけ確定したら廃業するよ」
「その代わり、45歳になって給料が上がりそうな人はリストラするよ」
という裏面がにわかにあぶりだされてくるわけですね。
あるいはフリーランスや起業が注目を浴びるのも、一見「かっこよさそうでスマートな働き方」に見えますが、
「能力の無い者たちの多数の屍を、一握りの有能なフリーランスが踏んでゆく社会」
がやってくるだけです。 一人握りの芸人が当たったり、一握りの芸能人が注目されたり、一握りの選手がプロになれるようなそういう世界観が、ふつうの仕事にも当てはめられてゆく、ということが真のリベラルだということです。
========
こうして全体をみてゆくと、これからの社会はどんな場面でも戦国時代の様相を呈します。
どの会社や組織に入っても「安心」「安定」ということがなくなってくるのが、これからの社会だということです。
そして、ここに最も恐ろしいエビデンスが隠れているのですが、この世界観の中において戦国時代のように下克上して
「じゃあ、這い上がったら勝てるんだな」
という考え方をついしてしまいがちですが、そうではなく、
「最初から遺伝や環境、能力的に勝てるメンバーは決まっていて、努力でそれを追い抜くことはできなくて、3分の1は貧困化し、能力(学力ではない)の上位偏差値60以上のみが生き残れる熾烈なセカイがやってくるのだ」
ということがこれから起きる真実だ、というわけです。
これはなかなか衝撃の未来ですね。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿