現代ビジネスさんに
AO入試組はやっぱりアホだった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/452
という笑撃な記事がのっていて思わず笑ってしまいました。
年間5万人、有名大学を出ていても「就職試験に合格できない」とか「企業に入っても適応できない」とかボロカスに書かれているわけですが、そりゃそうでしょう。
選抜という壁を乗り越えていない人材
なわけですから。
誰がどう考えてもわかることです。学力試験を伴わず、面接と志望動機だけで大学に入ってしまうというAO入試は、元々は「学力一辺倒ではない多様な人材がほしい」という意気込みでスタートしましたが、結果論は
「学力が全くない、口先だけで実力が伴わない人材」
がそろってしまった、ということに他なりません。
記事の中では、こうなってしまった原因についていくつか挙げていますが、基本的には
「大学が質ではなく数を重視してたくさん入学させないと経営が維持できないため、全体として学生の質が下がった」
という点を挙げておられます。
実際には、これだけではありません。AO入試が流行しはじめたころは、日本中が「学力だけでなく個性を重視しよう」とか「机の上の勉強だけでなく、体験的な学びも深めよう」とかそういうことを盛んに言っていました。
そう、それが「ゆとり教育」というやつです。
ゆとり教育というのは、主に小中高という「初等・中等教育」の分野で言われており、大学は「高等教育機関なので、わしは関係ないもんね」というフリをしていたのですが、いやいや
大学は「ゆとり入試」をしていただけのことです。
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私が大学生の時に、すでに気付いていたことがあります。
(おまえはなんぼのもんやねんと言われたら、はいそうですね、たいしたことはないですと秒速で平謝りをするところですが。京大ではない京都の私大に行ってました)
おなじ大学1回生の同級生と話をしていて、どうも勉強の上で話がかみ合わないことに気付いたのは、入学してしばらくのことでした。
友人はみな、真面目で明るくいい子ばかりだったのですが、そう「基礎基本的な部分で、学力知識がちょっと小足りない」人が何人かいるのです。
よくよく後から調べてみると、彼や彼女たちは「指定校推薦」で入学してきた子ばかりでした。
私は一般入試組だったので、どちらかといえば学業にはとても意欲的に励んでいたのですが、彼・彼女らはとても穏やかで、にこやかで、なんだかとってもキラキラしているのにアホでした。
恐ろしいことに、大学4回生になってから、そのアホの恐怖がさらに彼・彼女たちに襲い掛かることになります。
Aくんという私の友人の男の子は、「大学院に行きたいんだ」と進路について私に悩みを打ち明けてくれました。
「でも、成績が全然ついていけないので、合格できるかどうかまったくわからない」
とも言ってくれました。
Bさんという女の子は、廻りの学生がみな公務員試験に次々に合格する中、一人だけ不合格で就職浪人すべく他大学で科目履修して別の資格を取るようになりました。
2年後、彼女は非正規のままとある公的施設に就職というか「臨時雇用」され、そこの上司と不倫することになりました。
(彼女は、結局最後まで合格しませんでした)
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そう、一般入試を経ない学生は、最後までアホだという傾向が、当時からあったのです。
AO入試なんて、高校時代の積み上げた成績すら問われませんので、基礎学力すらあやしいわけです。
さて、人はなんのために勉強するのか。
旧来言われていたように、「いい学校へいって、いい会社へ就職する」という価値観は既に失われてしまいました。
S○NYですらあやういわけで、「いい会社」がいつまでいい会社なのかもわからなくなりました。
大学院まで行くと飢える時代になりました。いい学校というラベルすら怪しいものです。
私は、実は学生時代から「作家になりたい」ということを夢見ていましたので、勉強に対する姿勢は他の人とはまったく違っていました。
知識を得たり、体験をすることはすべて「いつか書く作品のためのネタである」という考え方をしていたので、学んだことは全て脳みそにインプットして、じっくり熟成させるのが趣味だったのです。
今、それがとても役立っています。
私にとって、学生時代に学んだ知識と知恵は、すべて「生きることの糧」として身になっています。
そして、恐らく、この先何かトラブルや失敗があったとしても、かならず乗り越える自信のようなものがあります。
それらはすべて、これまで得た「勉強」に感謝するところです。
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