2014年6月23日月曜日

拝啓 全ての働く女性のみなさんへ

 東洋経済オンラインに連載されている「ワーキングマザー・サバイバル」の中で、直近の3記事がとても面白かったので、ご紹介しておきます。


 ”面白かった”というのは、ある意味男性の私ですから女性にとって失礼に感じられるかもしれませんが、現代の日本における


 働く女性


がいかなる状況なのか、という意味において、誠に的を射た記事だと思っています。



 いや、もっと言い方を変えれば、現代日本における「女性」とは何か、ということを端的に示した記事かもしれません。



<1>上野千鶴子先生、東大女子は幸せですか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40336



<2>「女嫌いの女」は、幸せになれますか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40488



<3>人生の優先順位、どうつければいいですか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40686
 


 この3回の記事で、ほとんどすべてのことが言い尽くされているようにも思えます。


 以下骨子をまとめます。

 

 <現代前夜>

 妻は家庭に入って当たり前の時代から、「男女雇用機会均等法」によって、女性も働くことが当然に変化してゆく。


 しかし、その影には「夫が高収入だから働かなくても良かった妻」像や、「夫も経済的に厳しくなったので働き始めた妻」像が見え隠れしていることも忘れてはならない。



<働く女性の実態>

 優秀な女性は、総合職となって(男とおなじように)バリバリ働くことになったが、実はバリバリ働かされることで、心も体も疲れ果てて辞めざるを得なくなっていった。

 一般職も楽ではなく、そもそも一般職としての女性採用が減り、非正規雇用の形へと変化していったため、そのルートへ行く女性は「低賃金の貧困」予備軍となっていった。


 給与の面での上下の格差、そのどちらにおいても「女性は幸せなのか?」という問いかけが生まれている。


 結婚出産のために高い賃金ややりがいを諦めるのか、はたまた低賃金の仕事から入ったため、結婚出産をあきらめるのか。


 経済的な自立も、女性の幸せもどちらも成立し得ない社会がやってきている。



<女の敵は女という現実>

 女性同士の格差が、女同士をいっそう敵対視させる事態が起きている。

どんな仕事に就職できたかという格差。
結婚できたかできないかという格差。
どんなレベルの夫をゲットしたかという格差。
子供ができたかできないかという格差。
子供がどんなレベルに進学したかという格差。

 このすべてで敵対視が起きている。手に入れない側の者は、手に入れた側の者を妬み、手に入れた側の者も、自分が犠牲にしたものをまだ持っている側の者を妬む。


 しかし、現実はそのすべての女性が迷ったり悩んだり彷徨ったりしているということ。



<女性は何を喜びとして生きてゆけばいいのか>

 仕事、結婚、出産、育児の全てで「ある種の恐ろしい現実」が立ちはだかる中で、女性は「何をモチベーションにして生きればいいのか」という問い。

 自分が幸せになる、というのはどういうことか。


 しかし、大事なこと。人生にはすべて賞味期限がある。ということ。

 
 その中で、何を優先し、かつ「自分の道を極めることができるのか」という根源的な問いかけへ。



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 話の流れをまとめると、こういうことです。上野さんは、これは私もまったく同意見なのですが、最終的には


自分が死ぬときに「ああ、面白かった」と思えること。「私の人生悪くなかった」と思えたらいい。


という結論を挙げておられます。


 私も、いつもこれを念頭におきながら生きています。


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 ただ、この結論は脇に置いておくとしても、これらの記事の冒頭で上野さんが謝罪なさっていることが現実だと思います。


”私なりに、こんな世の中では女性が安心して子どもを産めないと、闘ってはきました。でも、あまりに微力で力が及ばず、世の中が困った方向に進むのを止められませんでした。

ですから、みなさんに、ごめんなさいと謝りたい。”


 この敗北宣言、簡単に言えばこうです。


 女性が幸せに社会参加できるようにいろいろ運動をしてきたが、結果として起きたのは「女性らしく働ける社会」ではなく「男と同様に全てを捨てて働かされる階層と貧困に貶められる階層しかいない社会」だった。

 この社会においては、安心して子供が生める社会は、成立しえない。


という現実直視の姿勢です。


 これを「何をやっても無駄なのよ」と捉えることは、ある意味必要かもしれません。戦う女性のみなさんに怒られるかもしれませんが、こうした制度設計は意図的なものです。


 男たちの意図、なのか、女たちも含めた意図なのかは別にして、大きな意図がそこにあります。


 だったら、残念ながら、「今現実に生きている女性たちが若い間は、真の意味での女性社会は到来しない」という覚悟も必要かもしれません。


 来るかどうかわからない「未来の希望に向かって」まい進し、確実に出産育児の年齢を超えてしまうことが、あなたにとって幸せでしょうか。

 未来の希望なんて捨ててしまって、「今の出産と育児を得る」女性たちと、そうでない女性たちとどちらが幸せかを考えると、悩ましいです。


 私は現実主義者ですから、

「おろかなフリをして、正義の戦いを放棄した女性のほうが、夫に付き従って妻と母としての経済的・女性的安定(出産や育児も含めて)を得ることができる」というのが今現在の

真実

に近いような気がしてなりません。いやいや、けしてこれを薦めているのではなく。


 最終的には、何が幸せかはその人が決めることですから。



 

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