シン・エヴァンゲリオン劇場版が公開されてずいぶん経ったので、ネットにもいろんな感想がアップされるようになりました。
その中で「保守」と「エヴァ」について論じたものがあったので、「シン・ウヨク」である吉家さんは、これに触れておかねばならないだろう、ということでご紹介がてらお話しようと思います。
元ネタは↓こちら。
https://blog.tinect.jp/?p=69649
記事主は、お医者さんの高須賀さんという方ですが、ざっくり骨子をまとめてみると
■ シン・エヴァンゲリオン劇場版をつまらないと感じた。
■ そのつまらなさの正体は「物語の保守化」である。
■ 旧エヴァは保守を破壊するような、強烈なメッセージ性があった
■ シンエヴァ最終譚は、「社会的常識・挨拶・労働・礼儀」に帰着した
■ 見ている人間もおっさんになり保守化したかもしれない
■ けれど、「普通の幸せ」に落ち着くのは良いことなのだろうか?
という流れです。
エヴァが「大人になれ」というオチで締めくくられたことは、すでに多数の論考、感想もあるので、この方がおっしゃっている流れも理解しやすいと思いますが、シン・エヴァの感想としては、大きく分けて2つの流派に分かれるように感じます。
それは
◇ 「大人になれ」もしくは「保守化した現実」を肯定する派
と
◇ 「反保守」で「とんがった」ままの「なにかよくわからないけれどスゴい」エヴァのままでいてほしかったと、オチを否定する派
です。
特に後者の中には、かなり辛辣な感想もあって、それは「庵野監督の身の回りが平凡な幸せで落ち着いたからといって、それを作品に投影して他者に見せるものではない」という意見もありました。
私は、庵野氏が監督として何をどう描く「べき」なのかまではおこがましくて何も言えません。むしろ、そんなものは万人が自由に好き勝手に描けばよいし、同時に万人が好き勝手に感想を抱けばよいものである、と考えています。
ですから、シン・エヴァが保守化しようが、しまいがどっちゃでもいいことかな、と感じていますが、
「それでも、セカイのすべての最終結論は右傾化かつ保守に再構築される」
と思っています。
わたしは普段から「シン・ウヨク」であると公言していますが、なぜセカイが保守化せざるを得ないのかというと、
「人類の再生産ができないから」
です。
基本的には世界はリベラルの方向へ向かっているという考え方もありますが、それと同じくらい「保守」の方向は保たれるのではないかと考えます。
世界がリベラル化すればするほど、おなじくらいの力で「保守」化に戻ろうとする力が働きます。それは表裏一体となっているくらいに。
実は高度にリベラル化して、反保守化した社会では個人の個人的な幸せが追求されますから、「子供たちを産み育てる」というコストよりも、今存在する自分自身にコストをかけたほうがリターンが大きくなるのです。
1000万円のお金を、自分だけが使うか、子供のために使うかで考えてもすぐわかりますが、子供のために使えば「自分が使える分」は確実に減少します。
さらに、その子供たちが平穏に安心して暮らせるためには、そのための制度やシステムを整えておかねばなりません。互いに個人の利益を最大限に尊重しあう「戦国時代」に子供を放り出したいとは思いませんから、大人は「社会制度の構築」にも一部のコストを割かねばならなくなるのですね。
となると、「個人の幸せを最大限に追求したい」というリベラル化が進むことは構わないのだけれど、それを実現するためには「個人の幸せから社会や世界や子孫のために、コストを取り分けねばならない」ということになるのです。
だから、常に「リベラルと保守」は基本的には拮抗し合うことになるわけです。
エヴァンゲリオンはセカイ系の物語ですから、
「チルドレンたちの個人的な感覚や希望」
が補完されることが期待されるわけですが、それを実現するためには、初期にはネルフ、後期にはヴィレの人たちなど「多くの組織的力」が必要であることも示されます。
それはゲンドウさんにおいてもおなじで、ゲンドウさんの「個人的な願い=ユイとの再会」を実現するために世界的結社であるゼーレを利用したのもそうです。
実はシン・エヴァの最後では、ゲンドウさんが「対峙すべき大人」であったのではなく、「ゲンドウもただのこども」であったことがわかるようになっているわけですが、そうすると
「こどもであるゲンドウ」と「こどもであるシンジ」が、自分のこどもっぽい目線で好き勝手をしてセカイを引っ掻き回していた
という話が「エヴァンゲリオン」であることがわかってきます。
(こどもがこどもを産み育てようとしても破綻するわけです。まあ、なのでゲンドウさんはこどもを拒絶したわけですが。)
このことは、他の登場人物においても同じで、「ミサト」「リツコ」といった一見大人っぽい人たちでさえ、「こども」の論理で行動しがちであったことは、たくさん描写されているわけです。
初期において、エヴァンゲリオンの世界がなぜ「エキセントリック」なものに「見えた」のかは、こうした理屈で解き明かすとよくわかります。
それは「こどもたちが、こどもの感性で、保守的協調性を除外して行動すると、それはおのずとエキセントリックになる」
ということなのでしょう。
まるで「チルドレンたちは、全員クレヨンしんちゃんである」という世界観です。奇しくもおなじ「しんちゃん」なのですが、複数のクレヨンしんちゃんたちが、大人の論理を無視して行動すると、それはもうものすごいことになる!というのは想像がつくでしょう。
(そういえば母がわりの”ミサト”に対して、しんちゃんの母は”みさえ”でしたね。サービスサービス。)
おまけに巨大ロボットに乗って戦うわけですから、クレヨンしんちゃんなら、世界のひとつやふたつはぶっつぶしても不思議ではありません。
けれど、クレヨンしんちゃんにおいても、最終的にそのテーマは、
「平凡的春日部のサラリーマンである野原ひろしとその家族」
に帰着します。家族、親子、地方、平均的な暮らしが「善」であると保守化せざるを得ないわけですね。
だからシン・エヴァンゲリオンでも
「平均的山口県宇部のサラリーマンである碇シンジとその未来の妻」
へと帰着せざるを得ないのです。
旧エヴァンゲリオンが持っていた「破壊的衝動」のようなものは、こども・チルドレンの感性であることは認めざるをえないでしょう。
それが同時代のこどもたちにとっては「魅力」であることもわかります。
なぜなら、現実の彼らには実現できなさそうな「こどもたちの秘めたる力」の表出だからです。
クレヨンしんちゃんを幼稚園児が真似するのも同じかもしれません。
けれど、その「こども・チルドレン」を再生産して、次の世代を作ってゆくには、こどもの感性や理論ではうまくいかないことも明らかです。
「ヤマアラシのジレンマ」
と同じで、「個々の理想の追求し合い」は早期に破綻し、全員が自分のコストを差し出さなければ、社会は維持できないからです。これを一般的には「すり合わせ」と言いますが、すり合わせができるようになるのが、「大人」ということなのでしょう。
ということは、これからどんなトリッキーでエキセントリックな物語が登場しても、どんなに「凄そうな」「何かを変えてくれそうな」ものが登場しても、その世界の登場人物が次の世代も生きてゆくためには、すべての物語や理念は「保守化」せざるを得ないということも、今の段階で証明できることになるかもしれません。
もちろん、そうした保守の中にあっても「個々の幸せをもうちょっとだけ、増やしたい」という方向性はあってしかるべきだと思います。それを人は「リベラル」と呼びますが、完全なリベラルは破綻し、途中で「保守」という調整弁が必ず働くことが予想されます。
そうしないと、人類は滅びてしまうからです。
まるで、エヴァの世界のインパクトのように・・・。
(おしまい)
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