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2015年4月14日火曜日

<実国学を考える 8> なぜ日本はダメになったのか

 高度成長を終えて、現代の日本はいろいろな意味で「ダメになって」いるのはご承知の通りです。

 経済的にも今ひとつで、人口は減少。子どもも減り、地方は疲弊しています。都会だって、安定した職や身分はすでになくなり、もうぶっちゃけざっくりと言って


「私たちは何をよりどころや軸足にして生きていいかわからない」


時代に突入していると言っていいでしょう。


 重ねていいますが、日本中がダメになったような感じがして、



「いったいぜんたいどうしていいかわからない」


という気持ちになるわけです。


 特に、戦後の日本人というのは、イデオロギーというイデオロギーに多様な意味で否定的になっており、自分を見失うことにかけては天才的に得意になっています(笑)


 たとえば、戦前の「お国のために」世界観は、敗戦により否定されました。

 それから安保闘争は、ぐだぐだになって崩れました。

 まじめに、社会主義に向き合った人にとっても、ソ連や中国があんな風になってしまえば、資本主義を認めざるを得ません。

 その資本主義ですら、「バブル崩壊や失われた20年」など、もろさや問題点をたくさん抱えていることが判明しているわけです。



 いったい全体、どうしていいか、マジでわからないのが現代人なのです。



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 そうした状況の中で、これまで通説になっていた


「いい学校を出て、いい会社に入る」


も上手く行かないし、グローバルだの起業だのいろいろ言ってるけど、


「実は国外のほうがいろいろ危険だし、9割以上の起業が失敗する」


現実を見せられたら、生きてゆく上での「お手本・見本」すらないことに気付かされるのです。



 とまあ、ここまで書いてきて、じゃあこれまで日本が「なぜ上手く行っていたのか」ということを振り返ってみれば、何かわかるんじゃないかとも思いますが、賢いみなさんはもうすべて気付いているはずですね。


 今の中国を見ていれば、一目瞭然。



 ・・・別に、必死で努力したとか、知恵を絞ったりしなくても、一定の時流と潮流に乗れば、経済的に貧しかった国は、ある程度伸びる(もともと伸び代がある)



ということが証明されちゃったわけです。


 経済成長とは、うちのおとんの初任給3万が、僕らの初任給18万(6倍)になることであるが、それは初任給がたったの3万だったから成立したのであって、未来の子孫の初任給は108万(6倍)には絶対にならず、むしろ永遠に18万維持できてたらいんじゃね?


ということが、資本主義と国際社会と経済国家の真髄なのですから!



 だから、先進国になってしまった国が、「それでもまだ先進国として突っ走れる方法」とか、「生活レベルを落とさず世界と仲良くやる方法」とか、「成熟国らしく生きる方法」なんて、ヨーロッパもアメリカもきちんと実現できているわけではないことにも気付いてしまいます。




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 そういう意味では、「こりゃもう、どうしようもないね」というのが結論でもあるわけですが、そうも言ってられないのであがいてみせなくてはなりません。それがこれからの日本人に必要な資質です。


 EUというヨーロッパ共同体ができたときに、「じゃあ、究極的に言って、イギリスとフランスとドイツの違いってなんなんだ」ということを問うとしたら、そこには経済と人種の交流がうずまいているわけですから、ひとつは


「土地だ」


ということと、もう一つは


「文化だ(言語もふくめて)」


ということしかないわけです。少なくとも、これだけグローバルになってくると「人種だ」は使えません。

 ドイツはそれを大上段に使って、やからしてしまいましたので、人種を持ってアイデンティティを宣言することは、もはやタブーの領域になってしまってもいるわけです。




 ということは、わが国においても「日本が日本である」ということのアイデンティティは、やはり



「土地と文化」


を持って定義することがベースになるでしょう。だから、わたくし吉家孝太郎は、現代の吉田松陰を目指す、と言っているわけです。


「もう、なんせ土地だよ、土地からスタートしなくちゃだめだよ!それは、墾田永年私財法からはじまる、公の土地から僕らの土地への大転換、つまり日本人の自主自立の問題なんだよ」


という考え方は、そこにあるのです。



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 実国学(じつこくがく)という名前を使いながら、このことをじっくり考えている最中なのですが、吉田松陰がもし現在に生きていたら、


「国学の考え方」と「現代から未来への日本のあり方」


をどう合致させ、発展させてゆくかに心血を注いだことでしょう。



 さて、この連載の中のどこかで、きちんと「実国学的に考える、わが国の捉えなおし方」についてえは説明してゆきますが、今回は、


「そりゃ日本はダメになるよね」という理由


を実国学的視点で説明したいと思います。



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 まず、戦国時代から江戸時代・明治時代・昭和初期までの通史として、日本の土地をベースにした「あり方」はずっと変わっていません。

 昭和初期といえば、僕ら団塊Jrにとっては「おじいちゃんたちの時代」です。

 戦国時代からおじいちゃんの時代まで、日本という国の国のあり方は驚くほど変わっていないのです。


 (この話は長くなるので別に説明しますが、家父長制度で、一族が土地を持ち、その土地を相続しながら実行支配していた流れは戦国時代から敗戦時までほぼ繋がっています。

 GHQによる財閥解体、農地改革で土地を持っていた者は、小作者に土地を分割せざるを得なくなり、そこではじめて戦国時代から続く土地支配のあり方は大きく分断されます。小作者にも土地が行き渡るという面白い現象が起きたせいで、ある意味昭和20年の敗戦時には、国のあり方はリセットされ、一定の平等なチャンスが訪れたといっても過言ではありません)


 さて、「おじいちゃんたちの時代」に何があったのか。このときに、地主も小作者も一定の土地を所有することができ、「ある程度みんなが土地を持っている」というベースが出来上がったのですが、家父長的な因習は残っていましたので、


それらの土地はすべて長男が相続する


ということが起きました。


 長男が生まれています。そう「お父さんたちの時代」です。


 我々の父の世代は「団塊の世代」です。団塊とはその名の通り、戦後社会の名実共に平和の象徴として「子供達がたくさん生まれ、育った」ということを意味します。


 しかし、彼らのうち、次男以降は土地を相続することができません。だから、都会に出て就職したのです。そこから、都市人口が明確に多くなり、都市がより都市化するようになります。

 人が多いので、物理的に仕事のある場所は、都市に集約されてゆくことにもなるわけです。



 ですが、この団塊ではまだ日本はダメになっていません。長男はしっかりとその土地・地元に根付いて家父長制度こそなくなったものの、本家としてその土地で仕事につき経済活動を回していったからです。


 ところが、さらに都市に仕事が集約されるようになり、異変が起きました。経済的にも技能的にも、すべてが高度化してゆくなかで、「専門的・発展的な教育を受けるためには都市に出なくてはいけない」ということが起きてきたのです。


 これはある意味当然でもあります。人口が多いところ、より工業化が進んだところに高度な教育が生まれ、学校が設立されてゆきます。大学だけでなく、高専や専門学校はどうしても、地域の中でも人口が多い主要都市に設立されてゆきます。



 ここから、日本がダメになる要因がスタートするのです。


 これまで、長男が継承してきた地元の土地でしたが、一族の長である長男には



「これからの一家をしっかり担ってもらうために、進学してほしい」


ということを願うようになります。つまり、長男に学費を出して、都市へ移動させるということが大々的に始まったのです。



 これが事件のはじまりでした。



 この都市へ出された長男は、しっかり勉強したことはしましたが、それを持ち帰って地元で生かすということよりも、「都市でさらなる貢献をして、高い給与を得る」ということにインセンティブが働くようになったのです。



 地元では何が起こったか。地方の土地を継承するのは、高等教育を受けなかった次男以降に役目が回ってきました。


 次男がバカだと言うのではありません。次男はバカなのではなく、かわいそうなことに「高等教育を受けるチャンスをもらえなかった」人たちなのです。そうした人たちが地元に残り、地元の政治と経済を動かすことになったわけです。


 都市へ出てゆくものは、より高度な教育を受け、富むことができました。地方に残ったものは、高度な教育の還流を受けずに、旧来のやり方だけで戦っていかざるを得なかったのです。



 するとさらに悲劇的なことに「次男以降も都市へ行こうとして、本来の土地には両親のみが残る」という動きが加速することになりました。


 団塊jr世代になると、もう「本来の土地を継承すること」に意味はなくなり、より高い給与を得られる「いい学校といい会社」を求めてみんな都市へ出る、ということが一般化するようになったのです。



 そして、地方にはよりいっそう教育を受ける機会のない人たちが残るようになりました。だから地方は再生されずに、どんどん疲弊するのです。


 そもそも、地方がよくなるための知恵や知識は、そこには存在しないのですから!!!




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 しかしです。ここで宣言しておきますが、もう都市には「高給を生み出す教育も、それにふさわしい仕事」もあまりありません。一部の大きな仕事は残りますが、どんどん都市の仕事も収縮してゆきます。


 大企業がダメになったり、大規模なリストラが起こったりするのはその証明です。大学全入で教育にも価値がなくなってきつつあります。



 じゃあ、どうすればいいのか。いつまでも都市幻想を引きずってないで、今ならまだ間に合う!


 知恵と知識を地方に還流させるべきなのです。私たち自身の手で。



 すでに、二束三文になった戦国時代以来の土地を売り払う動きが加速していますが、それはいよいよ、僕らの子ども世代の漂流のはじまりです。


 土地も金も持たず都市を貧困でさまよう人々が、すでに増えています。


 ちがうのです、そうじゃない!


 今ならギリギリ間に合います。内需を地方地方で起こし、そもそも足りなかった知恵と知識を地方に戻し、あなた方本来の「戦国時代以来の本貫地」を取り戻すことができる最後のチャンスが、そこにあるのです!



 これが、実国学が提唱する、21世紀の吉田松陰理論です。















2015年1月30日金曜日

<実国学を考える 4> 国とは何か、なんなのか。国家とは、そして日本とは。

 国とは何か。いやあ、のっけから壮大なテーマですが、ここはゆるーく平たく考えてみたいと思います。


 すっごくゆるく考えた場合、中国という国は、名前からみると


「世界の中心(中)で、いちばん(華)なんだもんね」


という国です。そういう主張をしている国だということになります。



 日本という国は「日のもと」ですから、「太陽の昇る国」でしょうか。まあ、聖徳太子が誰かがそんな手紙を中国の皇帝に送っただのなんだのという話を昔学校でならったかもしれません。

 日本の神道の中心である、アマテラスオオミカミは、太陽神ですから、太陽を祭る国、という意味でも合っています。また、皇室はアマテラスの子孫とされていますので、国家の成り立ちという意味においても太陽を国の名前に掲げることは、まあ合っていますね。




 とまあ、国の名前で考えましたが、他にも国を定義するものはいろいろあります。




 イスラエルという国は、もともと住んでいた土地を異民族に奪われたりいろいろあったので、「もとの地に帰ろう」ということで、神殿のあったエルサレムを中心にユダヤ人が戻ってきた国です。

 ところが、うん千年もの間に、もといた場所は違う民族が既に住んでいたりして、そこからアラブの人を追い出したので問題になっています。


 しかし、聖書には、「ユダヤの民にこの地を与える」なんて書いてあるもんですから、ユダヤ人は

「神様がこの土地をくれたのだ!」と主張しているわけで。


 まあ、中東はそんな感じで紀元前から何千年も戦いやら戦争やら紛争を起こし続けています。

 その基本的な原因は、その地が「砂漠・荒野」だからであり、「砂漠の民」なので、水と緑を求めてさまよい歩いたり、紛争がおきる、というのが根っこの原因だったりします。


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 こんな風に、国というのはそれぞれいろんな事情を抱えており、そうした風土や成り立ちが現在の政治や情勢に大きく影響を与えているのですが、


 実国学から見た、「日本」という国は、かなり世界でも変わった国


だと言えるかもしれません。



 まず、国境は海によって隔たれていますから、隣の国と直接的に「土地の紛争」をあまり起こしていません。

 現代では尖閣諸島とか、竹島とか「はしっこのほうの小さな島」レベルでは紛争がありますが、他の国のように国境線が地面にだーっと引かれたりしていないので、基本的には


「ここからは日本、ここからは外」


という感覚がお互いに(外国からみても、そうってこと)染み付いています。このおかげで、これまでの歴史の中で、「異民族と戦争しまくる」ということがかなり少ないということは特筆すべきだと思います。




 次に、山と海があり、火山活動もあることで、基本的に大地の恵みが豊かだといえます。海の幸があり、山の幸があり、温泉が出たり、土地の変化があったりと、


 多様な自然のダイナミズムに囲まれている


といえます。地球上の地理的に言っても、四季があることで、かなり豊かな自然の恩恵に預かることができているわけです。


 これは、常夏の民とか常冬の民とか砂漠の民から見れば、かなり恵まれている当たりだと思います。





 なので、宗教においても、日本人はかなりまったりと穏やかです。


 たとえば砂漠の民が信仰するのは「正しい神を信じなさい。それ以外は滅びます」とか「異教徒は滅ぼして、あなた方にこの地を与える」とか、かなりハードです。これは、砂漠ですから元々のパイが少なく、そのパイを奪い合うのでこういう神様になるわけです。


 で、現世でいい思いができない可能性がある宗教だと「なので、来世とか天国では幸せになろうね」という宗教観ができます。だって、現世は砂漠だからです。



 日本の場合は、四季があり、自然が豊かですから、単純に「すべてのものに神様が宿っている」というアニミズムになり、かつ、基本的には飢えたり渇望していないので、


「五穀豊穣・子孫繁栄」


が願いの中心になります。全部、現世の話、今の話、現在の話です。あんまり神社に行って、

「天国にいけますように」とか「来世は幸せになれますように」

とかあっちの世界の願い事をする人はいません。


 そう、神社では「試験に受かりますように」とか「家族が幸せであるように」とか、「病気が治りますように」といった、


 ズバリ、現世で、今で、なう!


のことしか願わないようにできています。そうです。日本人には、基本来世の概念がなく、仏教が入ってきたことで「輪廻とか来世とか天国とか地獄」が生まれたわけです。(これは、もともとヒンズー教の考え方です)



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 こうしてみると、日本という国は、キリスト教やイスラム教の国のように、「あっちの世界で(天国で)神様にどう判断されるか」といった考え方はあんまりしない国だとわかります。

 単純に、


「今日もごはんがおいしくて、できれば災害がなくて、子供達が笑顔だったらよいね」


ということを繰り返している民族であり、国家観なのですね。


 実際、政治を今は司っていない天皇家は、毎日何をしているかというと、神道の儀式をして、「国民の幸せ」をいつも願っているのが仕事です。

 「ほにゃららの祭り」とか「はにゃらら祭」とか、いろんな儀式をしていますが、先ほど話したとおり、日本の国は現世のことしか考えないので、結局は


「五穀豊穣・子孫繁栄」


を祈るまじないをしている、ということなわけです。天皇家は神主さんの家系ですから、日本全体に対して、毎日幸せを祈っているのが仕事なのです。


 まあ、こんな感じで、「国学」的視点から見ても、日本国民がなぜ穏やかで平和な暮らしを好むのか、ということがなんとなくわかると思います。


 本居宣長たち国学者が言ったように、万葉集がすべてで原典であるかどうかは別にしても、基本的に私たちの国は


 自然に囲まれたどちらかと言えば豊かで恵まれた土地に由来した国


であると言えるでしょう。